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タイトル 「日本軍同士で奪いあう食糧」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~
氏名 稲石 義雄さん(第15師団 戦地 インド(インパール)  収録年月日 2009年6月8日

チャプター

[1] チャプター1 40キロを背負っての行軍  01:57
[2] チャプター2 あてにした「チャーチル給与」  01:57
[3] チャプター3 装備・物量の差  03:21
[4] チャプター4 日本軍同士で奪い合った食糧  04:23
[5] チャプター5 住民から奪った食糧  01:47
[6] チャプター6 31師団の撤退  02:59
[7] チャプター7 戦友に渡した自決用の手りゅう弾  03:11
[8] チャプター8 焼き討ちにあった野戦病院  02:05
[9] チャプター9 武器も仲間も見捨てるしかなかった  02:28
[10] チャプター10 白骨街道  03:59
[11] チャプター11 霧の中の焼いた軍旗  02:32
[12] チャプター12 背のうに入れていた遺骨  03:47

再生テキスト

大体40キロはゆうにあったと思います。

こうして、まず四つんばいですね。四つんばいになって、右左別ですけれども、片ひざ上げて、そして何か岩なり何なりに手を添えて、で、次上げて、それからウーッと、スッと、立ち上がれない。立ち上がったって、こうしたら後ろへ引く、重みが。こうなっちゃう。だからみなあの年寄りじゃないけど、こんな格好で歩く。で、まあ2、30メートルね、歩きますと、姿勢も本来の何が、足も慣れてくるんですね。

ただし一つのあの敵陣をね、攻撃するときはそんなもん持ってられませんから。これから攻撃するぞいうときは、みな外しちゃう。背のうはほっぽり出して。それで弾はそのまま。そのままで攻撃して。で、その陣地をね、奪取できたら、占領できたら戻ってその背のう取りに。それが4、500メートルの場合もありますわ。同じように「やっこらさ」として。で、3日後か5日経つと糧まつが減ってくるから、それだけ軽くなりますけど。

敵の陣地まで、そら道路の下が見えないぐらいのトラックが並んできよる。で、そこで下ろすのは弾薬、糧まつ、水だとかそんなんでしょ。で、またその陣地についてるときなんかでも、いわゆる何たっけな、輸送機ってやつですか、あれに同じように弾薬、水やら糧まつ入ってる。で、頭の上、日本軍飛行機ないし、で、こっちは1発撃ったら10発お返しくるから、大事な弾でもあるし、そうむちゃくちゃに撃てん。

で、夜分なっとどちらも静かになってきますよね。いやしいもんですわ、こっちは食べるもんほとんどないから、あすこへその糧まつのパラシュート落ちるの、見えてたやろ、向こうへ行こうか。夜中山から下って谷あいへ落ちて、で、糧まつの袋に入ってる、「よいしょ、よいしょ」と持って帰って。これ「チャーチル給与」(チャーチルは当時の英国首相)いう。そら豪華なものですわ。このぐらいのね、アルミ缶、ちょうどこのマーケットで売ってるパックね、あのぐらいの大きさにね、たばこは、ネイビーキャットやらね、ウエストミンスター、英国のね、たばこ。で、乾パンで。まずチーズがおいしかったです。豪州のチーズで。拾って帰って。そんなもん毎日はないですけどね、たまたま日本軍のほうの陣地に近いとこへ落ちたやつ、それ「チャーチル給与」なんて言うたりしてましたけどね。

何もない国が金いっぱい持っとる国と戦争して、負けんの当たり前や言うて、その時分言うて。で、1発撃って10発返され、爆弾が、まず大砲ですわ。

言うたら明治時代の大砲ですよ。ボンと撃ったら後ろへバックしよりながらね。あんな大砲しか持っていけない。で、われわれ歩兵だって、小銃は1発カチャン、1発カチャンでしょう。軽機にしたって15発入れた弾倉いっぱいです。15発で。向こうなんかこういう、弓、お月さん型の弾倉ですわ。30発入れる。それをみな4、5個持っとるんです、軽機の何は。で、カチッと押さえたら15発、30発、連続に撃てますやん。こっちは15発撃ったらまた5発ずつ組んだり、あとカチャン、カチャン、カチャン入れて。そういうところにね、新旧の兵器、それから、物量の差ですね、感じましたね。

そらね、今それこそ言うた物量の差っていうのはね、日本軍の兵器にしろ小銃にしろ、曳光(えいこう)弾ってご存じでしょ。小銃弾のお尻からね、青い火、赤い火がある程度の時間帯ね吹いて、そして敵の、こっちから撃った弾がどこに飛んで行ってるかわかるようにした曳光弾。こっちは5発に1発ですわな。それはもう夜間攻撃しか使わん。もう敵さんのその何、これこそスコールみたいに。花火、スコールというより花火ですな。

あした、翌日撃つ弾薬、そんなもんトラックでダーッと。それこそ何百台言うても過言じゃないぐらいや。で、陣地の前で降ろして、兵隊がやっこさやっこさと各陣地に分配しとる。目の前で。ばからしいて、大人と子どもの戦争みたいですな。

まず兵器がなくなる。大砲はない、機関銃はない。われわれ小銃班が持ってる軽機関銃、これもなくなって。まず弾がなかったら撃てない。敵からくるやつは逃げざるをえないです、隠れるのに。戦闘意欲があっても戦闘する、いわゆる材料がない。安物でも材料があったらそれで抵抗できますわ。

後ろから追及してくる兵隊が米袋、靴下に1本、あるいは小銃弾をね、2、30発、自分のもん以上にそれを肩に背負って持ってきよる。だから、車両隊がおったんだけどね、それも第1回目わずかの期間しか、その山越え野を越えしてね、ビルマのほうから運んできよる。で、今度まして雨季になったり、制空権を取られてしまった。

で、糧まつて第二なんですよ、軍隊では。ね。第二になってまんね。兵器が一です。いわゆる兵器より人間の兵隊の命のほうが軽いんですわ。いわゆる小銃一つに勝手に傷つけますわな。そうすっと銃殺されたってしょうがない。そういうのが規則っていうかね、あったんですな。

僕はその食べ物のことで将校とけんかした。

そしたら、ある所に壕(ごう)の中首突っ込んでる人がおって。そして「何してんねん」て言うた。で、顔上げよったら、さっき「気をつけろよ」言われた将校や。で、赤いたすき手に持っとんねん。よそから見えるとこへ。どないしとる。兵隊の飯ごうの中のお米を、ご飯を食べて。窃盗や。というのは、戦線行くとき、常日ごろにわずかなお米を与えられな、3日4日炊く。食い延ばしせな。それでもスプーンに一箸でも二箸でも残していくのが常道でして、全然飯ごうの中にお米がない、ご飯がない。半分腐りかけてます。汗かいてます。それでお米は腐ったっておなかにはどうもないんですな。そういう習慣ついてる。わずかずつ残してるわけですわ。飯ごうの底に。それをその将校が食べよったでしょう。で、反対。貴様が貴様、反対や。貴様何やってんねん。将校か何か知らんけど、わしは下士官やけど、これは何だい。戦線、第一戦の戦闘中やないか。帰ってきてくたびれて、戦闘して帰ってきよって、どうする? 食べ物なかったらどないすんのや。

したら3日目や、大隊長からいない日、「おれの部屋こい」て言われて。部屋行くと・・「おまえ、どうして何々将校に食ってかかったやないか。そういう連絡あった」って言うて。僕は銃殺なってもかまへん。兵隊の残して行ってる、第一戦の兵隊が残してる飯ごうの米、飯を、しからない立場のその将校が食っておったから、「えい」と思って、わしはけんかしましたんや、言うたって。「そうか、ほな了解した」で、そのままなったわけで。

だから言いますわ。弾は前から飛んでこないぞと。昔から軍隊で言われまんねんね。前からと、後ろから飛んで。だから将校でも下士官でも兵隊でも、お互いにけんかし、憎み合いしたらどこから弾飛んでくるかわからない。

インパールの市内が眼下に見下ろす第一線のほうへ来たときには、ほとんど糧まつはなかった。で、われわれみたいな古い兵隊はね、中支のことが頭にあります。中支戦争に行った、同じように軍装検査まで規定されてるものは持って行って。で、これはもう敵さんいたら、こういうのは米だけですね。米だけでも敵さんの分が取れる、占領されるていうんで、米なんかほとんど持って行かない。

住民みな逃げてます、家空っぽにして。大事なもんはそういう米やらのとこへ隠しとっちょる。金属類やらね。たまに(住民が)見つかると、脅かしながら米のある場所教えてもらう。

一応OKさして、ごり押しにOK。命は大切やから、それでもうてちゅうような格好ですな。そういうあつれきっていうかね、暴行っていうんか、そういうことをしましたね。

もう泥棒が泥棒やなくなる。観念がなくなっちゃうんじゃないかな思いますね。人間的に言ったらどん底ですわな。戦争いうものは悪らつ無道な行為ですわな。してはならない。

烈兵団(31師団)がコヒマを撤退したという命令が流れた、我々に。コヒマはもう敵にとられたというようなニュースが入ったんです。

「このやろう」てなもんですよ、お互いに。「はよ逃げやがって」って。お互いにね、どういうのか、連隊は違うても、師団は違うても、隣接した部隊同士はお互いに連絡し合って情報交換やね、いわゆる。その情報をこっちへ伝えんと、「先行くさ」ってコヒマから。

息のある兵隊置いて、置いたまま、歩ける者はこの道、すぐ山ですから、「山で逃げろ」と。で、ある程度元気な兵隊どもはね、逃げたいうとこで、初めて僕らの部隊、連隊がね。それが夜中ですわ、(撤退)命令があった。

それはもう慌てた。何も、とるもんもとりあえず逃げた。それが、この先頭が敵が戦車で来よる。こられたらもう逃げようがないんですね。こちらから敵は北へ来よる、コヒマからは南へ来て、はさみ撃ち。

人のこと、かもうてられんちゅうやっちゃね。いわゆるカニが逃げ出したの、海岸ぶち歩いて、カニの群れをサーッと足音で逃げよるわな。あれと一緒みたいなもんで。逃げるわね。もう敵が後ろにおるの見えてるちゅうのはね。いわゆる生には強い、強いですな、やっぱり人間は。生きるいうことには強いですね、精神的には。もうそれは初めて勉強になりました。ほうてはる(這っている)、立って歩けへんから、ほうて僕らのほうに退却する後追っかけて。もうここら血ですわ。包帯だの何だの器用なものできへん。ほうてはるわ。いわゆる帰りたい、内地へ帰りたいって、生きて帰りたいんですね。内地へ帰りたい、生きて帰りたいって気持ちが旺盛ですね。だからほんまに人間の生っていうのは強いもんや思いましたな。

ミッション(インパールの北)の野戦病院があるわな。野戦病院はわれわれ命令くらうまでですが、撤去作業に入っとった。歩ける、独歩ですね、独歩は勝手に逃げろ。つえつくもんも一緒に逃げろと。担架兵はやむをえず置いとくいうような命令だった。で、ほとんどの兵隊はもう、坂上っていきよるの夜明けでわかった。ところが中には横になってる兵隊がおるがね。

みんなが「連れて帰ってくれ、連れて帰ってくれ」と言う。「助けてくれ」と。で、もう「これだ」と。「これだ」と手りゅう弾を渡した。常日ごろに言い渡してますから、(耳に)タコになるほど。「動けなくなったら自分で自爆せえ」いうことですね。

「手りゅう弾あるか」「ありません」「なら、おれのやるわ。自爆せい」ですよ。それ僕4名やな。「手りゅう弾持ってるか」「持ってます」言う。「おお、持っとるわ」つって、「了解」言うて。「それで自爆してください」「自爆せい」って。「もうおまえどうしようもない。もう1、2時間したら、ここへ敵が来よるから、敵の捕虜なるまでに自爆せい」と。そら捕虜なるいうことは、全く厳しくとめられてる、日本軍にはね。

まともに向かって「これ、これで死ね」なんて、いくら厚かましい人間でも言えんわ。「はい、これ渡すぞ」と。「これで自爆せいよ。捕まるなよ」って言うて。横向いて、横向いて半分しゃべってた。

こういうふうなもんで、信管を外さんことには爆発せえへん。外しますと、こうこずいたときに、下に矢みたいに出て、棒が出て、こずいてそれが上の爆薬のところを押しよる。それで爆発する。それを抜く力のない兵隊もいますわな。しょうがない。こっちは1人、1人だったかな。抜いて渡して、こっち、後ろを向いて逃げた。10メートルほど行ったらボーンと爆発した。もう体はない。上手にお腹のほうへ持っていって自爆した兵隊は形何もない。もうバラバラに飛んでいくから。下手な人は、手だけ残ったりね、いろいろありますけど。それは悲惨なもの、人を殺すというのと一緒ですわ。人殺ししました、そないして。

敵は、すぐ黒煙が上がったいうことは、油を注いで、死体に。死体というかね、患者に。燃やしよったいうことは、これは確実に言えるわけです。

Q:見たんですか。

見られるわけですわ。(なんで)火の手が上がるか。いわゆる油が燃えたんで黒い煙、黒い煙ですよ。普通の乾燥した木には、普通の煙は白い煙。油ほど真っ黒の煙がもくもくと上がります。それが上がったから、「ああ、焼きはらいよったな」言うてお互いに言うてたんやけどね。で、この頂上まで来るまでに2~3名、戦車砲でやられてまんのや。これはわからない。バラバラで上がってるから。僕の先ほども言うた部隊、分隊やねんけど、自分の教えた下士官だけの分隊にして、6名ほど。それを、「後ろを皆ついてこい」と。残ったらそのままで、どこで死んだかわからんような状態になるから、「その場合は自分で自爆せい」と。おれは助けられへんから。そうならんように、尻について、我々の後ろ姿が見える段階の距離、50メートルしか曲がってるから見えなんだら「50メートルあけたっていいよ」と。あるいは30メートルあけて。「ここで死んだら骨も何もかもどないなるかわからへんぞ」と。進んでいくんじゃなし、「おまえの後ろ、だれもいんひんから」というようなことで逃げたわけですよね。

ある谷底行ったら、早うにけがしてね、先逃げさしてる曹長がおった。僕らの上司やね、上官。こっちは知らんそんな人ばっかりですからね、片手拝みで。したら名前呼ぶんです、その倒れてるのが。それでふっと見たら、上官、曹長ですわ。「連れて帰れ、おぶって帰れ」って。むちゃ言うなって。こっちは食うもん食わんと、腹減って、自分自身が動くのがやっとこさで逃げてるのに。バーッと拝んでって、それで納得したんです。

銃なんかどこへほっぽっとったかわからん。重いから皆捨てて。何も言わなくなった、上官も。ね。兵器には、あんた、我々小銃隊の小銃にはご紋章が打っておすのやで。だから、陛下と見て動いてるわけやね。そんな兵器をね、ほっぽっとった。もう上官も何も言われないような軍隊になってしまってたわけです。ね。全く厳しい軍律の日本軍だったんが、最後はそうですわな。

昔から言います、「天皇陛下万歳、日本万歳」と言って戦死したお話聞きます。われわれらはね、そんな・・・。ただ一人、これは僕の隣りの分隊員だったな。気丈な男でね、というのは浮世の仕事が、牛ね、車で牛引っ張って荷物を運んでたんですな。ああいう仕事をしてた人で、気丈だったな。それはね、何ね、砲弾の破片でおなかやられて。この辺がバッとね、おなかの、おなかがはみ出てますな。それ自分でグーッと押し、おなか押し詰めて、ただ一言「おっかあ」言うて亡くなった。その一声で終わりでした。

「においがするなあ」。初め何のにおいやわからん。そしたら仏さんのにおいや。天気やったらそうでもない。雨季でもう、このへんの要するににわか雨どころの騒ぎやないですね、どしゃ降りですわ。もう下帯までぞっくり濡れてまうわな。においがしてきますと、一人二人、仏さんいやはります。それからものの10分か20分歩かんうち、またいやはります。それがずーっと。

仏は仏を呼ぶって昔から言われてるとおりね、ここに1人がもう最期の状態でいはりますわな。そこへふらつきながら逃げてきて。そうすると、自分の先がわかってるのか、その横へ座らはる。そういう状態が、次の人、次の人。大概5~6名が一かたまりになって行き倒れになってる。妙なもんです。やっぱりこれだな。これは兵隊から帰ってからですよ。除隊してから。仏が仏を呼ぶとか、ほんとだなと思うたんは。最初の半分はしゃれこうべだ。軍服は着てはんのですよ。あるいは、カッパを着てはって、その隙間から骨だけが見えてる。まして、いちばん早いのは目ですね。眼窟といいますやろ。目の洞窟(どうくつ)の窟で眼窟。あれだけがポッコリあいてる。そういうところはウジ虫。それから、鼻から、口から。ほかのとこはウジ虫は出てきよらん。出入りしよらん。まず目から、いちばん柔らかいとこからですな。ウジ虫でも柔らかいとこから食べていきよるんじゃないかと思いますな。そうせな入れませんわ。口から、口開いてたら口から、まずまず鼻、目ですよな。それがずっと並んではります。また20~30メートルほど行くとまた並んではる。

まだ息のある人はそうしてね、「連れて帰れ、連れて帰れ」言うて。ああ、これはまだ顔が白いなあ。したらまだ亡くなって間がある。またある兵隊さんなんか、雨で頭巾(ずきん)かぶってますわな。ま、この軍服そのものは破れかぶれです。肌みな見えて。肌から骨だけが見えてる。目だけぎょろっとしてはる。そうかと思うと、全然肉がなくなって。いわゆるウジが食べちゃう、腐ってきて。ウジが。ハエどころやないです、ウジ。もう太い、こんな太いウジがビェーッとついてます。小指ぐらいなの。そらもう悲惨ていうかね、どう言うの、こんなんを阿鼻叫喚と言うのかどうなのか知らんけども。どうしてあげることもできない。

8月15日が終戦、その前の1週間前後やな。土民がね、僕ら、今のノーンプラードックで駐屯してる間、その1週間前後で騒がしくなってくる。土民たちが。その騒がし方もおつき合いみな、こっちの盆踊りみたいににぎやかに遊びよるんです。それじゃなく何か殺気立った。騒がしい。竹、棒を持ったりして。それから石でわれわれの、われわれの兵舎で投げかけよった。中には片言で「日本負けた、日本負けた」言いやった。

で、翌日軍旗焼却。連隊旗ね。これにはやっぱり涙出ましたわ。ちょうどね、お膳立てがいいんか知らんけどね、濃霧。一面見てる間に霧深く、ここ川の辺りがぼやっとしか見えん。そうするとね、軍旗焼却。あのとき初めて涙出た。初めて負けたっていう感じ受けましたな。

そういう人たち終戦なってね、今の言うノーンプラドックで内地へ帰るまでの間駐屯してて、英軍が「女出せ」言いに来た。それはわれわれの部隊と一緒にね、野戦病院の中にかくまってたんです。そういう人たちも包帯の交換ぐらい勉強さして、あるいは薬飲ますぐらいなんや、トイレへついて行くぐらい、そこにおったわ。おるから「出せ」つってた。で、病院長怒ったわ。戦闘が終わって降伏して、そういうことやってる。戦闘さ中ならまた別。戦利品みたいな格好でね。そういうこともありましたね。行く人なかったけどね。そうやって病院長が強硬に断ったから。

いまだに憤慨してる。ひどいですやんか。わかってんねん。そのう、荷物ね、いわゆる船に乗るとき、僕はバンコックから船に乗った。ふ頭に整列されて船に乗り込む。今のDDTで消毒されて、で、荷物なんかもすっかりほうり出されて、これは何やいうて。ちゃんと英文で兵隊の指だと、内地まで持っていく遺骨だと書いてあるにもかかわらず、渡してくれよらへん。何のために米のかわりに、背のうに入れてた、そんな大事なものを解釈してくれへんだ、憤慨しました。

それだけでも持って帰れたら、遺族の方に、わかってんのや、1個1個名札つけてあるんですからね。持って帰らしてくれよったら遺族にもわびようがある。

人づてに、稲石さんとこへ行きゃあ、息子の、夫の、兄の、戦死状況がわかるんじゃないかということで尋ねに来てはったんよ。

両親、「おまえがな、殺して、ほっといて帰ってきたんと言われてるやんけ」て、反対、親たちが反対の見方をしましたな。それは初めは、「詳しゅう、あのう、知ってる戦死の模様を言うてあげたらええわ」。それが毎日のように1組ならええけど、3組も4組も夜遅くまで来はったらさ、親も並大抵やなかった。だんだん怒りに変わってきよったから。「いつまでぞ」と。中には頭から怒ってかかる遺族もいはったし。

「ちょっと聞きたいんだけど、おまえ、何で早う帰った」、こういう言葉ですよ。あいさつもろくにありません。「おまえだけ帰って、うちのやつはどないしよってん」。ね、あいさつもなしに、ご両親が。それはわからんことはない。親としてのナニはね、情愛からいったって、それは当然ですよ。言葉もありませんわな。

まあ、幸い、こうして生きて帰れて、結構というか、ありがたいというかね、こういうインタビューを受けるということは。どう言ったら、ね、言えんうれしさがあります。それで、「おまえらのことをこのようにな、皆さんにわかるようにテープ、フィルムに撮ってもらったぞ」いうてあの世へ行ったって言えますわ、戦友どもに。ね、そう思うてまんねん。「この年でなお、おまえはやるべき仕事があるぞ」と。どこの仏さん、うちの仏さんか、外の仏さんかね、「そういう感覚で僕を生きらしてはるのかな。生き延ばしてるのかな」こう思ってます。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~】

出来事の背景 写真陸軍第15師団は、京都府と滋賀県出身者を中心に編成され、総兵力は2万。
昭和19年(1944年)3月に始まった「インパール作戦」に投入された三つの師団のうちの一つである。
「インパール作戦」は、ビルマ方面第15軍司令官牟田口廉也司令官が、戦況を一気に打開しようと考えついた作戦で、連合軍の補給拠点、インド東部のインパールを攻略しようというものだった。
31師団が、インパール北方の拠点「コヒマ」を攻略、33師団は、南のう回路からインパールへ、そして、15師団は北側からインパール攻略を命じられた。大本営をはじめ、陸軍内部は補給を軽視したこの作戦の成功を危ぶんだが、牟田口司令官は強硬に主張し、作戦開始が決まった。

3月、インドとの国境を流れるチンドウィン河を越えて、作戦が始まる。将兵は重い荷物を担いで、3000メートル級のアラカン山脈を越え、作戦開始から10日目に、サンジャックで連合軍を退け、コヒマ-インパール間を遮断した。
しかし、インパールを取り巻く高地に近づいたところで、最新の兵器で反撃を受ける。「セングマイ高地」では、連合軍の最新の戦車に蹂躙され、肉弾攻撃に踏み切らざるを得なくなり、多くの兵士が命を落とした。
6月に入ると、コヒマを攻略していた31師団も苦境に立たされ、ついに佐藤師団長が独断で撤退を開始、31師団からの援軍を当てにしていた15師団は大混乱に陥る。

15師団にも、7月には退却命令が出されたが、その撤退は悲惨を極めた。飢えと病気で兵士たちは次々に倒れ、その撤退路は「白骨街道」とまで言われるようになった。

19年末、連合軍とのイラワジ会戦を戦いさらに大きな損害を受け、タイまで後退して終戦を迎えた。師団将兵2万人のうち、1万5000人が亡くなった。

証言者プロフィール

1919年
京都府宇治郡宇治村に生まれる。
1940年
現役兵として深草の第16連隊入営。中国・蕪湖へ。その後、第60連隊第8中隊として、せんよう作戦、せっとう作戦、せっかん作戦などに参加。
1944年
インパール作戦に参加。
1945年
ビルマ、マンダレー、ラングーンなどでの戦闘に参加。アンダマン諸島にて終戦。
1946年
復員。復員後は、西村貿易店に定年まで勤める。

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インド(インパール)

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