ホーム » 証言 » 中 國義さん

チャプター

[1] チャプター1 夜中の出発  03:06
[2] チャプター2 上陸作戦開始  08:04
[3] チャプター3 ビルマでの進撃  01:20
[4] チャプター4 連合軍の反撃  01:52
[5] チャプター5 尽きていく物資  01:11
[6] チャプター6 決死の退却  03:13
[7] チャプター7 敗退の道  03:54
[8] チャプター8 退却の道は険しく、自決する兵士もいた。  02:12
[9] チャプター9 夜のシッタン河  04:31
[10] チャプター10 終戦  01:30

再生テキスト

内地を出発したのが、11月。戦争前ですわ。海軍が真珠湾爆撃するの12月8日でしょう。と、我々はもう11月にもう内地を出発したんです。夜ね、こっそりと皆が寝静まった後、蔵本から。後で聞いたんですけどね、面会に来てくれた人は知事さんと市長さんと2人だけです。あと面会も全然、見送りも全然なしでね。それで、佐古じゃない、蔵本から乗ってね、それで善通寺いて、それで詫間港から出発したんです。それで、詫間港から出発してね、どこ行くやら、全然我々はもうわからんのですわ。多分まあ、中国と戦争しとるきに、中国行くんじゃなと思っとったら、だんだん暑うなってきてね、船倉が。

船の中はもう、下は馬です。馬がおるんです。船倉は馬。もう暑うて、馬ふんのにおいでね、我々はもうその貨物のとこ、段階分けしてね、そこで寝泊りしとるんですけど、1枚下の馬のふんでね、臭くて臭くてね。それでもう台湾の近くなったらもう暑うなってきて、「これは中国と違うぞ、南方へ行きよるぞ」というんでね、そのうち夏の服を支給になって、「ああ、これはもう南方行きじゃ」いうわけで。それでもう、な、どんどんどんどん南方行って、仏印で3日間ぐらい、2、3日休憩したんですよ。船。船も、馬も下ろしてね。馬の足もこんなにもう腫れてね。1カ月も歩いとらんきにね。馬も運動させんいかんいうんで。そこで2、3日休憩したと思うんです。

もう汽車の中もね、昔はよろい戸いうてね、あの、切りこしやったこう何があるんです。カーテンやないんです。

ええ。雨戸のような。もう中からは外見られん。外からも中見られんです。もう全然もうそのまま列車で行ったんです。ええ。もう極秘で行きよるけんね。向こうへ、詫間港行ってももう憲兵がずうっと、ぐるぐるぐるぐる回ってね。

どういう心境って、そんなもう、毎日訓練しとるきにね、まあ中国、戦争に行くんじゃなぐらいのつもりでね。ええ。まさか英米と戦争するのは全然知らなかったです。

我々が上陸して、英米と戦争になったということは飛行機でビラまいたからね、タイ国のほうへ。我々のとこも飛行機が来て、ビラまきました。「英米と戦争状態になった」言うて。それで、タイ国が大体平和進駐になるかもわからんちゅうんだよね。

もう撃つなつうんで上がっとる。撃ってきたら撃たないかんけど、撃つなっていうんで。で、ピブーン首相(当時のタイの首相・ルワン・ピブーンソンクラーム元帥)との交渉行くと、向こう逃げておらんのですわ。交渉にならんのです。で、もうしゃあないきに、上陸せえ言うたけどね。

もう行きよったらね、もう弾がもう海の中パラパラッとこう来よるんですよ。わかっとるね。わかっとるけど、あの、隠れるとこがないんです。後ろ見たら船はもう次の部隊積んでこなきゃいかんけん、すうっともう退却してね、もう前へ行くよりしゃあない。弾がもう海の中バラバラバラバラ来るんじゃけど、行かにゃしゃあない。もう皆、大体200メートルぐらいの砲台で皆上がりよるきんね。ここがやられても、ここが上陸に成功すると。1回、もう上陸に成功したらね、もうそれはもう日本軍のもんですわ。ちょうどわたしらんとこも機関銃を据えて、向こうも待っとったでしょう。もうバリバリバリや撃たれてね。ええ。弾がもう目の前落ちよんですよ。でも行かにゃしゃあないんです。ええ。もう皆行きよるから。後ろはだれもおらん。船もおらん。で、車輪のこんな大きいの持って行きよるき、もう僕は背は高いし、それで撃たれたんじゃないかなと思ってね。こう。

こう、左上はく部。まだ、これは、こういうの。左腕の上はく部とね、手首の貫通銃創。ええ。ここが貫通銃創。それと胸が破片創。3か所やられたんです。いまだに破片があるんですよ。

野球のバットで頭ガンと殴られたようなね。もう気の弱いもんじゃったら震とうして気絶するやろな。ほたら、これ車輪は下へ落ちたからね。海の中に。もう部隊は全部皆上がりよるし。これ兵器を放ってわたしは上がったらね、もう軍法会議ですよ。うん。兵隊は葉書1本で招集できるけど、この兵器はね、なかなかできんきにね、これはその車輪を足で踏んで、ええ、それで首だけ出してもう死んだふりしてじっとおったんです。まだ50メートルぐらいあるんですわ。海の中で。ほたら、わたしの分隊長、のモリさんという人がね、迎えに来てくれたんですわ。車輪とりにね。結局まあ、車輪が1つあれ来とらんということが向こうわかったもんで。「ああ、中が持っとる」って、「中は負傷しとる」ってわけで。それでわしゃ足を、で、車輪をこう踏んだままで海の中でじっとおった。うん。

で、車輪を持って上がって、ほれで皆は戦闘に入ったけどね。手りゅう弾でもう向こうの中、ほうり込みよったけどね。ほれでわしはもう岸、岸でもうずうっと1日じゅうもう死んだふりしてこう寝おった。海辺で。ほれで波がばあっと来たらね、体のここまで水が来るんですよ。ええ。そこでもう1日寝よったの。首まで、ちょうどこれ、景観図がね、飛行場なんですよ。だけどもう、滑走路のとこへ上がっとるんです。ほれで首あれして上上げたらもう滑走路です。滑走路やったら撃たれるです。ね、もう集団で皆攻撃しよんの。ええ。

Q:でも、いきなりそういう激しい戦闘があった

ええ。ここでね、ほれで1日半の戦闘でね、わたしのとこだけでも80人余り戦死したです。

Q:1日で80人というのは

80人、多いですよ。この3、だって4か所、3か所かな。3か所、4か所か。こういう上陸やなんかで一番多い犠牲者が出たの。それと、我々はもう、あの、そこね、あの、警察を押さえたのと、航空隊の無線機を全部、ぶち壊したんですよ。そだけど、バンコックからの停戦の命令が受けられんのですわ。だけん、戦闘ばっかしよった。そしたらよそはそういう連絡があったっけもう2時間ぐらいで戦闘やまったんだ。タイ国と。わたしのとこだけ1日半戦争した。結局もう、無線機は全部もうぶち壊したきね、敵の飛行場の。ええ。飛行機は2機飛び上がったけど、あれ、2機、1機は飛びほうって1機はもう撃ち落したんです。

それはもう激戦ですわ。そんな弾がね、海の中へ弾が飛んできよる、目の前飛んできよるのに、前行かないかんでしょう。死ぬや、当たって死ぬや、そんなことなかったです。そんなこと考えてなかったね。ただもう前へ行かないかんちゅうわけで。まあやられた瞬間、もうもうバットで頭ガーンと殴られた、脳震盪起こすよ。いまでも覚えとるのよ。小便はトロトロ出るしね。その瞬間に。ええ。でもまあしゃあない、もう足で車輪を踏ん張って、首だけ出してもう、何ぼぐらい、時間で言うたら10分か20分ぐらいかね。海の中でおった。

それだからもう死んだふりして、じっと。それでもう岸辺で死んだふりして、まる1日ですわ。もう寝ておったです。で、夜になって、ようやく収容してもらったんです。そしたらもうウジ虫がわいてね。1日で。

Q:傷口からウジ虫がわいてくる?

ええ。1日で。「もう中と一緒にご飯食べたら食べられん」と言って、皆逃げ回りよった。で、病院へ入ったんが、ちょうどそれから、そうやね、1週間ぐらいしてですかね。病院入ったのが。そしたら病院入ったら、軍医さんが2人おってね、ひとりは「ここから切断する」言いよった。そしたらもうひとりの軍医さんは、「切断はいつでもできるきにね、治療せんか」言うて。それで治療したら、まあ残ったんです。

ほんならもう毎日うまいもん食べては治療して。重たいもんはもう持ったことないんです。御飯食べるだけやからね。それで、「これはもう治ったきに、部隊追及せえ」で、「もう全然内地帰るのやめて部隊追及します」言うて、それで部隊追及したの。

いや、もう負傷して、もう、寝とったきにね。べつに怖いあれは、戦死かなと、死んで「天皇陛下万歳」言うて手上げて死ぬ者もおったけどね。80人も死んだきにね。おれらはそんなに、戦死、死ぬもんやいうことはあんま思ってなかったね。20歳で。ええ。ただもう「死んだらみんな靖国神社行くんじゃ」言うて、張り切っとったきね。そういう教育受けてきたから。

夜行軍していて朝になったら向こうに着いたらね、それでちょっとバリバリやったらね、大体向こう、大体逃げてくれたんですわ。ええ。それでたった半年、1年足らずでこれまで来たんでしょ。徳島から盛岡の距離を半年余りで進んだんですから。歩いてですよ。向こうはなんで逃げよるんか。自動車で逃げるか、それはわからんけど、我々はまあ歩いてこっち来た。

Q:そのときは、じゃ、敵はそんなに強いとは思わなかったですか。

そんな思わなかったね。ええ。大体もう、いたら大体向こうが逃げてくれよったもん、もんじゃね。もうただ要所要所で、戦闘になったけどね。

進撃進撃でね、もう夜昼なしに歩いたときもありますわ。

必ず逃げ道を置いて、置いておく、あけとけって言ったわけです。いままで逃げてくれたきんね、もう全然ずっと包囲はせんと、逃げ道ちゃんとあけとけって言っても、なかなか逃げんのです。向こうはもう、食糧はもう空中、飛行機から食糧をどんどん輸送するでしょ。我々はもうもってもね、1週間の糧まつですわ。米をね。

それ以上はもう全然食糧ないんです。ほな、向こうは飛行機からどんどん。ほな、向こうもう円筒形陣地いうてね、内側もうぐるりっと戦車で囲ってね、その中で大砲や歩兵やおるんですわ。だけん、日本軍はもう突撃して、夜なんかもう攻撃してももう機関銃でみんなやられてしまうの。もう。それでもう食糧がなしになったきん、最後はもう、このときもね、何も、飛行機は何十機から北へ爆撃したってことを書いてあるけどね、わたしも見たけどね、ほら飛行機は来たけど、まあ高射砲でドンドンドンドン撃たれてね。ええ。それが最後です。飛行機がに、日本軍の飛行機が来たもんは。ビルマ作戦で。後はもう飛行機は全然来んのです。

Q:で、その、どんどん食糧、弾薬が向こうには来るわけですね。

来るで。だから、我々はもう、戦死者はど、どんどん出るし、糧秣は、食べるもんはなしになるし。結局はもう退却せなしゃあない。

Q:そのときこう、物量の差っていうのは感じたんですか。

感じたねえ。日本人はもう、何、弾からの、兵器でも取ったら、それでまたやるきにね。だめだ、弾も少ないし、補給はなし。食糧も補給はなし。必ず現地徴発です。ええ。ビルマはあの、米の産地やきにね、だから米はようけあったんですよ。だけども、ビルマの反乱軍が起こる前まではね、部落行ったら米あったけんね、皆とってきて、「盗んできたわ」って行きよったんです。

戦争、内地でももう、練習いうたらもう攻撃一本ばっかりでね、退却の何や全然ないで。ほんだけん、惨めなもんじゃ、退却するときは。

それでもうペグー山系入ったっきにね。ええ。これからもう、マンダレー街道突破して、シッタン河渡ってタイ国へ逃げるっつうわけだね。

もう後方部隊っていうのは、もうみんなこの山から、みんなもうどんどんどんどん退却しよるでね。ええ。もう我々最後尾です。

もう前線がもうどんどんどん、もうこれ皆命令で逃げ、あのう、ペグー山系に入っていきよるきにね。うん。我々もこれ、我々の部隊だけですよ。この辺だったの。後方も前も、全然もうおらんですよ。みんなペグー山系に。

もう、タイ国のほうへもう逃げて、雨の中をもう、雨季じゃきん、もうこんなんですわ。ここまで水来るの。道も田んぼも何もないんです。もう皆、湖っていうぐらいやった。みんな。そん中を歩いてくの。そしたら向こうのほうにちょいちょいヘリコプターが上へ上がるんですよ。飛んでは来いへんの。向こう上がって、見よんじゃね。日本が来やへんかってわけで。それが下りたら、たーっと逃げるの。上へ上がったら木の下。ジャングルの中でハシヤの木。カエルの中でね、じっと座って。とりあえずもう向こうへ、このマンダレー街道突破してシッタン河を渡らないかんつうわけで。ただもうそれだけですわ。

結局雨季になる、雨季になるともう、向こうもある程度戦闘やまっとるきにね。普通の激戦のときでも、もう日本軍も雨季になったら戦闘停止。向こうもほれ、停止や。両方とも対峙するだけだったの。それで乾季になったら、バリバリやるわけ。それでちょうどペグー山系のときはもう雨季でもう雨の中でしょ。向こうもあんま、そんな撃ってこん。撃ってきたとこもあるけどね。部隊と衝突したら撃たなしゃあないで。わたしときはもう、おらんとこ逃げたきんね。ええ。ほんだけ、撃たれんずく逃げたです。

夜昼ないですよ。もう。たえず、もう逃げて逃げてじゃ。もう。そんなに途中で休んだってことないねえ。とりあえず、もう逃げまくったわけや。とりあえず逃げな、敵がそこまで来とんだからね。おったら殺されるちゅうわけで。

どんどんラングーンは落ちるし、もう敵がどんどんどん来るけん、もうしゃあないな。ペグー山系へ逃げたんです。それでそのときまではね、人員70名ぐらいはおったんですよ。うん。それがもうシッタン川で流れる、部隊中、最後までおったときには、17名。もうわたしの目の前で自爆したのもね、2人おります。目の前で。1人は行軍中にね、わたしの前歩いてたの、ぱって横へ入るんですよ。「ああ、小便でもしに行くんじゃな」と思ってね、見よって、10メートルぐらい歩いたとこで後ろでボカーンって手りゅう弾で爆発したの。

多分、腹持ってってうつ伏せで爆発したんに。それでわたしらけがなかったんじゃと思うね。皆、手榴弾で皆爆破して死ぬんです。目の前でも。もう皆、結局疲労困ぱいですよ。もうこのペグー山系、まあ1か月余り逃げ回ったでしょ。うん。飯も食わんで、もう山の中やきにね、タケノコとバナナの木が、皮をむいたらね、あの芯が内地のずいきのようなんだ。バナナの木の幹をね、あれ皮むくんですよ。それと、タケノコと、それが食糧じゃ。ほんだらもう、山を、ペグー山系1か月下りてね、部落着いたんですよ。「ああ、もう皆、糧まつ収集に行け」っちゅうわけで、行ったら何もないの。ほれでこんな大きいソラマメがあるの。日本のソラマメと同じじゃ。大きい、お多福豆のような大きいの。「これはおいしいわ」っていうんで持って帰って皆で食べたの。そしたらビルマ人はそれを食べさそうと思って、それだけ置いてあったわけ。日本人に食べさそう思って。何かの薬になるんじゃけど、多く食べたらそれは毒になるの。だからひとり愛媛県の男はそれで死んだです。

反撃。反乱軍になっとるの。ええ。もう部落から、日本軍が来るっていうんで、もう糧まつみんな提出してね、何も置いてくれんし、取り行ったら弾撃ってくるけんね。

それはいままで友好であったのにね、ビルマ人が反乱、反乱したっていうことは前もって聞いておったです。それはね。うん。寝返ったいうことで。初めは日本にお茶、あの、水くれたりね、親切だと。今度は反対じゃ。日本が負けだしたらもう、今度は向こうへついてね、結局日本にだって撃ってくるきに。

1か所、1か所、あれはシッタン河を渡ってから。渡ってないわ。山から下りてきてからだ。部落をその後ろに下りよった、そこの部落からたまにパーン、パーンって、我々をねらい撃ちしよるのや。そしたら大隊長が、「あそこの家ぶち壊せ」言うてな、「大隊砲を撃て」言うて。それでそこで1発か2発、その民家へ撃ち込んだんじゃ。それぎりで、それでは全然撃てへん。それももう何百メートル離れとるですよ。それみんな河の向こうからは撃ってくるんじゃから。ポーン、ポーンて、たまに撃ってくる。

Q:手りゅう弾渡して、ご本人は「はい」と言うんですか。

それはもうしゃあないもん。「連れてってくれ」言うたっても連れていけんもん。もう山の中もジャングルの中でしょ。ようやくひとりが歩くのがせいぜいいっぱいで、それ4人で担ぐいうたらもう大変ですわ。それでもう皆、歩けんもんはもう自分で自爆するしね。「もう中君、もう歩けん」言うて。もうこれジャングルの中へ入っていくの。とめるわけにいかない。それだけん、ジャングルでバンと爆破しちゃうから、遺品でもとってやろうと思ったって、自分がもう弱っとるきにね、そんな元気はないんですよ。もう自分が歩きかねとるんだから。何か形見のものを持って帰ってやったらいいんだけど、そんなのとる元気はない。皆もう食べず食わずでもうずっと歩いとんのやからね。それはしゃあない、もう。もうみんなあっちのほうバーン、こっちのほうバーンってもう、みな自爆するの。

自分ひとりでも弱っとるのに、その砲担いどるきんね、後で大隊長に、大隊長、内地帰ってからわしゃ文句言うたんじゃ。「なんであげな重たいの持たして、最後まで持たしたんだ。皆、機関銃から以上、みんなほうってなくしてやな、ほうっとんのに、うちの隊だけなんで持たした」なんてわしもう。大隊長は徳島におったんです。内地帰ったときに。わし言うたんじゃ。「あれ砲持っとるから、おまえ団結して、おまえ生き残ったんじゃないか」って言われて。ほれで70名おった人間が、結局まあ負傷も自爆もしてな、結局たどり着いたときは17名。内地に帰ったのが17名。皆死んだ。

大体あのう、1か月ぐらいですね。逃げるのに、山の中、ジャングルの中を逃げたのがね。ちょうど雨季になってね、もう雨季いうたら、向こうは乾季と雨季と2季ですわ。春やな、あの、秋はないんです。もう雨が降ると毎日雨なると。ほだけんもう一面もう、田んぼも道もない。もう湖ですよ。平地は。だけんわたしらペグー山系、山の中やきにね、もうどんどんどんどんできて、退却で、できたんですよ。ほたら今度は平地になったらもう、山、ここまでもう水が来るんですよ。足は水ぶくれでふくれてね、靴は脱いだらね、絶対はけんの。腫れて。水の中ばっか。だから結局ペグー山系を突破したの、大体1か月余りです。

Q:で、河で多くの方が亡くなったんですね。

そうです。もう、渡る、こっちのもうあれ、何や、船もあったらしいけどね、わたしらのときはそんな全然ない。渡るっていったって、あのう、いかだがないきにね。大体ビルマの民家、全部竹のいかだですわ。家が。竹の家ですわ。だけん、家をぶち壊してね、た、向こうの民家を。その竹でいかだこしらえたんです。うん。それでちょ、ちょうど、うちの、わたしらは1分隊ですけどね。2分隊はそこで全滅したんですよ。よう岸に着かなかったんですね。それでまあ、後ろへ後ろへ流れてくんです。ちょうどわたしの分隊にね、千葉県から2人、漁師が来とって、あのう、それを、まあ力強いし、泳ぎも達者やきんね、それだけん、それを先頭に縄で引っ張らしてね、それで我々は横について、それで泳げる者は後ろについて、竹のいかだいうても、もう砲からみな積んどるきにね、もう河から沈むんですよ。だけどそれを引っ張っていったんです。ほたら2分隊はもう、大体、わたしのとこは大体元気で若いもんがおったきにね、うまく行けたんかなあと思うけど、2分隊は招集兵が多かったきんね、まあそんなんで、泳げなかったんですよ。だけどひとりだけね、2分隊の、ひとりだけは、もうこれはいかんというんで、ロープを切って、自分だけ岸へ上がってきたの、判断でね。もういまは亡くなっておらんけどね。それひとりですわ。あとは皆、全部、シッタン河へ流れたの。

Q:泳いでる間、銃撃されるっていうことはなかったですか。

もうほら、それは敵との間に逃げよるきんね。それはもう初めに、歩兵なんかが初め斥候が出て、偵察しておるきん。敵がこことこことおる、この間行くっていうわけで。うん。土民に変装してね、必ず道案内も皆、そんな皆、道案内も皆、斥候に先出とんですよ。土民の服来て土民の服着てね、それでもうこっちの敵、あそこも敵って、その、その間行こうっていうわけで。

何とかしてもう日本へ帰ってね、畳の上で死にたいっていうその一念やねえ。気力やねえ。生きたんが。もう皆、精神的に参っとんのや。歩けんようになって。足ははれとるし。食べ物はなし。ソラマメ食べて下痢はするし。トイレへちょっと入ったときに、もう部隊は100メートルぐらい向こう行きよんで。で、ついたなと思ったらまたトイレ行きたいんで。アメーバ赤痢いうてね、下痢起こしちゃった。その豆食べたおかげで。それでも部隊を追及したんじゃ。もう何とか内地帰って、ただ畳の上で死にたいっちゅう、その一念じゃ。それで頑張ったんだ。

それで、大分歩いたところで、向こうの軍使が来たんだよね。「日本が負けて、停戦になった」言うて。

1回目は追い返したらしいね。うん。何、日本、そんな日本人は負けたいうことは思ってないで。それでもまだ。

どう思ったかねえ。べつにそんなに、感じなかったけどね。ただ負けたんで、「軍旗を焼く」言うて、ただそれだけ覚えとるね。ジャングルの中で。

そのときです。そのとき。軍旗焼くときです。2回目の停戦命令が向こうから軍使が来てね。「負けた」と。だから、本部のほうへも無線で、本部のほうへも電話が、あの、無線が入ったしね。それでもうそんな、「軍旗焼かんか」言うて迎えた。

まあ、まあ、爆撃もなし、砲撃もなしね。「ああ、よかったなあ」と思った。

出来事の背景

【ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争の開戦から間もない昭和17年1月、日本軍は英領ビルマに侵攻し、わずか半年余りでビルマ全土を制圧した。

しかし、昭和18年になると、連合軍が反撃に転じる。対する日本軍は連合軍の拠点インド東部のインパールへ進攻し、連合軍の反撃を防ごうというインパール作戦を計画する。
作戦を成功に導くため、第143連隊は、ビルマ西南部で攻撃をしかけ、連合軍の主力を引き付ける陽動作戦が命じられた。

航空機を使った空からの補給によって、連合軍は最新兵器で途絶えることなく攻撃を仕掛けてくる。一方、十分な補給がない日本軍は追い込まれていく。

昭和20年4月、連合軍は日本軍のビルマ方面軍司令部が置かれていた首都ラングーンに迫る。危機を感じた司令部はラングーンを放棄し、前線で戦う部隊に対して何の命令も与えぬまま、タイ国境近いモールメンまで退却。前線の部隊は敵中に置き去りにされてしまった。

歩兵第143連隊が属する第28師団の師団長司令官は、決死の退却戦を決意。バラバラに戦っていた部隊を集結させ、シッタン河を渡って別の味方部隊と合流するという計画だった。

深い密林に阻まれ、飢えと病に苦しみながらも、7月20日、ペグー山系で部隊の集結は完了。敵の目をかいくぐりながら、シッタン河をめざした。しかし、シッタン河突破作戦を事前に察知していた連合軍は、いたるところで待ち構え、攻撃してきた。

敵の包囲網をくぐり抜け、ようやくシッタン河にたどり着いた兵士たちは、雨季で増水した濁流に飛び込み懸命に渡るが、連合軍やゲリラに狙撃され、また、シッタン河の濁流に飲み込まれ、作戦に参加した3万4千人の兵士のうち、味方に合流できたのは1万5千人であった。そして8月、生き残った兵士たちは、シッタン河のほとりで終戦を知った。

証言者プロフィール

1920年
徳島県美馬郡美馬町にて生まれる。
1941年
現役兵として徳島歩兵第143連隊に入隊。その後、太平洋戦争開戦と同時にタイ上陸。このときの戦闘で被弾負傷。近衛師団バンコク第一野戦病院に入院。
1942年
ビルマ戦線に復帰
1945年
シッタン河渡河作戦後、タイへ転進中に終戦を迎える。連合軍の指揮下、ビルマで労役に従事。
1947年
復員(広島・宇品)。

関連する地図

ビルマ (シンゼイワ盆地、ラングーン、モールメン、シッタン河)

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