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タイトル “お前たちは生きて帰れ” 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 劉 維添さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年4月28日、29日、30日

チャプター

[1] チャプター1 志願兵としてフィリピンへ  04:11
[2] チャプター2 海軍巡査隊の一員として  01:53
[3] チャプター3 米軍によるマニラ奪回の幕開け  04:07
[4] チャプター4 米軍のマニラ上陸  04:51
[5] チャプター5 無差別砲撃  04:33
[6] チャプター6 戦場はマニラ市街  04:06
[7] チャプター7 命じられた斬り込み(きりこみ)  12:51
[8] チャプター8 こなかった援軍  02:23
[9] チャプター9 要さい陥落  02:41
[10] チャプター10 投降  04:19

提供写真

再生テキスト

昭和18年の11月に、このフィリピン派遣の巡査の募集があったんですよ。それで当時わたしはね、適齢期でもあったし、どうせ遅かれ早かれこれは政府に取られるんだからどこかへ派遣されるだろうと、そういうような思いもあったので、やはりこのフィリピンの巡査だから悪くないだろうと思って、そこへ志願してフィリピンに行ったんです。

それで12月8日に台湾を出て、10日にフィリピンに着いたんです。マニラに。その間、航海中、敵の潜水艦に会ったんです。敵の潜水艦に会ってその護衛艦が、駆逐艦ですよ、駆逐艦が攻撃されて、ごう沈されたんです。それからというのは、わたしは船団を組んで行ったんですけどね、15隻の船団で、それで行ったもんだから、攻撃されてからは、その後はジグザグ航路でみんなちりちりバラバラになったんです。その護衛艦がないものだから自分で、自活しなければならない、人に頼らないといけない、というようにその航路で、10日の朝に入港するはずでしたが、こういう潜水艦に会ったものだから、その夕方に入港したんです。だから、かれこれ時間にして6時間ぐらいその、遅れたんですね。

初めて、潜水艦の魚雷の航跡を見たのもそれだったけど、あのときはゾッとしたですね。船の両側には、フカが群れをなしてついてくるんですよ。これで撃沈されたら、それこそ魚の餌食になるんです。怖いでした。

マニラに着いて、現地教育を受けてですね。現地教育を1か月間、陸戦の、陸上戦闘の陸戦隊に配属されて、陸戦の教育を1か月間受けたんですよ。

名前は巡査です。そして職務はフィリピンの治安維持です。それなんです。警備、それなんです。だから、警備隊は陸戦隊に属しているものだから、だから警備隊に配属されたら陸戦隊に配属されたのと同様なんです。司令官は同じ人ですから。

Q:そのときのマニラの様子はどのようでしたか?

あのときのマニラはやはり良かったですね。

Q:どういう風にですか?

さっきもこの言うたように華やかな街でした。

Q:街並みとかはどうでしたか?

立派ですね。近代建築で、マニラの街はきれいでしたよ。

Q:じゃあ建物が立派にあって、町はきれいで、そういう感じでした?

昔はスペイン領だったですから、スペイン風の建物が多いですね。
まあ前線というてはいますがね、全然戦地という感じはないです。

それから(米軍が)航空母艦でマニラ沖に来て、あそこから飛行機を飛ばして空襲に来たんです。その初空襲が9月21日です。続いて3日間、マニラの街は損害はなかったけど、軍事施設がさんざんにやられました。それからというのは日本が再起不能と言ってもいいぐらいやられたです。それで、空襲に来たときは、空襲警報というのがあるんですが、爆弾が落とされてから空襲警報が鳴ったというような平和な時代です。それは敵襲があるという思いが全然なかった時代です。それを航空母艦から飛行機が飛んできて、空襲をしたんです。その9月21日から、そのあとですよ、だんだん情勢が悪くなってきましたのは。だんだんとフィリピンも引き締まってから、本当に戦地らしくまた戦場らしくなってきたんです。

1月の初旬に米軍がリンガエンから上陸したんですよ。リンガエンは日本軍がマニラを攻撃したあの時分に上陸した、あの地点なんですよ。同じ地点から上陸してそれから南下して2月の3日の夕方にアメリカの先の部隊がマニラ市の一角に入ったんです。

Q:その3日のあたりのときは、劉さんはどの辺にいたんですか?

わたしはちょうどアメリカ軍が入った、最初に入ったところのすぐ近くにいたんです。500メートルも離れていないと思います。そこのガス会社の警備についていたときです。だからアスチリン会社だったかな?だから非常に近いところにおったです。

Q:その後、入って行ってどうなったんですか?

その後、入ってきたその翌日にわたしたちが警備の場所から撤退したんですね。撤退して大回りをして艦隊司令部へ行ったんです。ほんとうは、わたしの警備隊の艦隊司令部まで、平常なら15~20分で行けたものを、遠回りして約2時間ぐらいかかってですね、それで艦隊司令部に着いたんですがね。

マニラはですね。米軍が2月の3日に入ってから2月の10日近くになってから陸軍が撤退するときに、マニラに火をつけたんです。市街にです。エスコンタからリザールまであの繁華街を、火をつけて、それが燃え広がって、マニラ市内が全部燃えたんです。あの大きな火事を見たのは初めてです。15日間。昼も夜も燃え続けるんです。

Q:あと、橋も結構燃えましたか?

ええ、橋は爆破させて、ケソン橋とかリンタクロース橋とかああいうのも全部破壊されました。

もう、完全に燃えてですね。もう役に立つ建物というのは1軒もなかったです。マニラ市は。リザール街やスコルダ街とかああいういちばん繁華な町が、それが燃え広がって。かわいそうに戦争孤児ですよ、今思うと涙が出ます。

Q:フィリピン人のですか?

ええ、フィリピン人の。親に取り残されて、そして、取り残されたものが、わたしたちが交戦中に弾の飛んでくる間を出てきて、物ごいに来るんです。だいたい食事の時間にあちらこちらから、出てくるんです。

Q:親はどうしたんですか?

もう親は逃げている。親はもうどこに行ったのかわからない。だからサンオークスティン教会に、わたしたちはサンオークスティン教会のすぐそばに、陣地があったんです。城門があるでしょ。わたしたちはその城門のすぐ近くにおったですよ。

Q:じゃあ本当に市の真ん中ですね?

そうですよ。だから今ああいう子どもたちを思うと実に気の毒でならないです。ああいう危ないところを弾が飛んでくる所をひもじいがために、物ごいに、その際にはだいたいわたしはにぎり飯を、戦時中は2個配給があるんですよ。配られるんですよ。この2つの1つを子どもにやるんですよ。これをやるからお前たちは早く逃げろと、わたしが食べるのは1つです。ああいう状態だったのはやっぱり半月ぐらいは続いたですね。

もう逃げ遅れたものは、サンオクスティン教会とその隣にまた教会があるんです。ああいう所にぎっしり入ってるんです。避難民が。どこの教会にも。教会はだいたい砲撃はしないのだから。だからあそこには避難民がいっぱいいるんですよ。

Q:その2月上旬の農務省ビルの雰囲気というはどうような感じでしたか?

雰囲気は、砲弾で爆撃されてね、砲撃されて、農商務省は壁が厚いんです。砲弾の10発や20発ではビクともせんからね。相当砲弾を浴びせかけられてですね、それで中にいた人間は身を隠す所がないくらい右往左往していたんです。

Q:その右往左往っていうのはどういう様子でしたか?

逃げ場を探すためですよ。隠れ場所を探すためです。砲撃されるんだから。わたしも迫撃砲の砲弾の破片を受けてこの小指に負傷したんですけどね。もうこの傷は治ったんですけどね。ここにあるかな、軽い傷あとがね。

そのそばに砲弾が落下して砲弾がさく裂してわたしが軽いケガをしました。そしてわたしの分隊員が4人死んじゃったんですよ。 その砲弾で。

この迫撃砲弾の破片で、この歯を全部取られたりとか、背中から貫通された者とか、頭をやられたとか、太ももがさく裂したりとか、こういう重症患者です。それが死んだんです。

あのとき、わたしと廣枝隊長とは、少し距離があって100メートルぐらいあって、廣枝警部の隠れ場所とわたしたちの距離が100メートルぐらいあって、わたしがそこから駆け出して、廣枝隊長に報告に行ったですよ。どこどこでどういう事が起こったと報告したら、廣枝警部も真っ先に飛び出して、この4人をこの4人を抱えてですね。この4人を抱えて、そして自分で護送して病院へ行ったんです。でも病院に行ってもだめでした。助からなかったんです。もう即死ではなかったけど、とにかくものすごい出血でしたね。あの光景が目に浮かびますよ。

それからというのは、艦隊司令部付けで、2月の中旬までいたんですが、2月の中旬から、アメリカがだんだんこの市街戦であちこち要さいを占領されたものだから、いよいよ艦隊司令部も危なくなったんです。

それで2月の中旬のある晩に、艦隊司令部から脱出したんです。艦隊司令部から脱出する場合には、艦隊司令部の隣にルネタ公園というのがあるんです。大きな公園です。フィリピンの、大きな公園です。あの公園を横断しないといけない。あそこを横断するのが命がけなんです。もう、機銃がね、わたしたちはほふく前進で行ったんですが、相手の、敵の機銃の弾がヒューヒュー飛んでくるんです。頭の上を。だから命がけで脱出してイントラムロスという所に、イントラムロスというのはスペイン時代の大城(おおじろ)です。

頭の中は真っ白になって、とにかく進むだけですよ。イントラムロスはね、あそこに皆が集結するようになってますのでね、あそこばかり考えてるんです。だから、イントラムロスに行って、行ったあとはそれから本格的な市街戦が始まったですね。米軍と。その2月3日から中旬までは敵の迫撃砲弾で毎日ソワソワしてるんです。初めて砲弾の音を聞いたのもそれでした。だから砲弾がヒューヒューと、飛んでくるとみんながビクビクして右往左往するんですよ。そのときがいちばん危ないんですよ。この砲弾がどこに落ちるかわからないし、あのときの死傷者がいちばん多く出るのが、あの時分です。それで1週間もたつと「今の弾着はどこらへんだ」と大体慣れてくるんです。

この武器もですね、イントラムロスに行ってからはね、今度は司令部に取り返されました。取り返されて、その代わり渡されたものは、特攻隊です。わたしたちは、イントラムロスに行ってからは特攻隊にまわされたんです。特攻隊として敵の戦車に体当たりしろと。渡されたものは棒地雷で、棒地雷というのは1メートルぐらいの長さで、こういう楕円形の地雷を抱えて敵に当たれと、それで円すい弾、円すい形の棒の付いたものを、それを持って敵に当たれとそういう任務を与えられました。

そしてあそこで、廣枝隊長のことになるんですが、もうこれ以上突撃に行って帰ってきたものは1人もいないんだから。

Q:ではみんなもう行ったら帰って来ませんでしたか?

行ったら絶対もう帰ってこれない。死を覚悟して行けと、それで行かないといけないんです。

Q:じゃあ、お仲間はみんなそれを持って行ったんですか?

ええ、それを持って行ったんですよ。持って行ったけれど使ってないはなかったんですよ。というのも廣枝隊長がね、これ以上犠牲者を出しては、犬死にも等しいからという思いだったんです。だから突撃命令は出なかったんです。最後まで出さなかったんです。だからこの隊長のおかげでわたしたちが助けられたわけなんです。

忘れませんね。あの光景は。マニラが燃えてるあの光景は特に印象深い。ルネタ公園を横断するとき、投降するあの時分。わたしは、わたしらが、円すい弾、棒地雷を渡されて特攻隊に編入されたんです。あれからその後、投降する前に、あれを全部本部に返したかな。棒地雷と円すい弾をです。

ほかの日本兵の方はおそらく持っていったでしょうね。マニラ市の街角で、十字路でこの円すい弾棒地雷がね、直角に行かないと効果がないんです。真っ正面から行くと敵の銃弾で皆倒される。だから直角で飛び込まないと効果がないんです。戦車の車輪があるでしょ、そこへ目がけて、中に入れて爆発させると、そうしたら、戦車がひっくり返るんです。ああいう大きな戦車がです。こういう状況がマニラ市内で各所で見られるから他の日本人もおそらく渡されているだろうと思います。

Q:それは渡された人は、亡くなってしまうんですか?

もちろんです。でなければ特攻隊と言わないです。

Q:劉さんは、それを渡されたんですか?

渡されました。

Q:そのとき、ルネタ公園は日本兵の死体が?

死体が転がっていました。転がってましたね、膨れ上がったものとか。

Q:膨れ上がったというのは?

もう収容する、収容するいとまがないんですよ。昼間全然活動できないんですよ。昼間出て行ったら敵に発見される。夜は夜で手のつけようがないんです。もう夜はアメリカのサーチライトがね、ルネタ公園を照射してですね、わたしらは見つけられないように行くんです。

Q:ルネタ公園にかなり日本兵は斬り込みに行ったんですか?

斬り込みですか。斬り込みは、イントラムロスで相当やりましたね。

Q:劉さんもですか?

わたしは、やってなかった、周りの日本人の方がやってですね。サンオークスティン教会の近くにおったとき、あそこから斬り込み隊が出るんです、毎晩一個小隊。一個小隊は大体30~40名ですからね、毎晩行くんですよ。それで帰ってくるのは1人だけです。

Q:あとはどうなるんですか?

斬り込みで成功したものないんですよ。もう敵の地に入る前に、みんな敵の機銃掃射でみんなやられています。別のところでは斬り込みに成功したのもあるんですけど、斬り込みで敵の地に入ればこっちのものですね。アメリカ兵はみんな逃げだすんです。やっぱり西洋人に迷信があるんですね。日本刀で切られた者は、成仏しないという迷信があるらしいです。これで、もし敵の地に入ったらアメリカ兵が逃げ出すんですよ。そしたらもうこっのものです。だから斬り込みで成功したのもありますよ。

Q:その毎晩斬り込みに行く様子というのは見えていたんですか?どういう感じなんですか?

大体真夜中に斬り込みの命令が出るんです。そしたらどの小隊と指名があるわけですね。こういう指名されたその小隊が出て行くんですよ。足袋を履いて、音が出ないように。というような出で立ちで、小銃は持たない。日本刀、竹やりで、竹やりですよ。それで行ってくるんです。戦友が、毎晩出て行くのを見送っていました。

Q:行ったらほとんど帰ってこないんですよね?

ええ、一人も帰って来ないです。昼間のこの特攻を目の前で見ていましたよ。昼間にですね、お昼の時間に、10何名が拳銃、日本刀を引っさげて敵の戦車に向かって行ったのが、わたしは見たことがあります。目の前で、銃弾で倒れている。サンオークスティンの前の通り、その先に、アメリカの歩兵というのは先頭に立たないんです、戦車を先頭にしてですね。さんざん戦車砲で攻撃して、機銃を持って帰るんです。また戦車が来るんです。また砲撃をして、機銃を鳴らして帰って。3回目には歩兵がついてくるんです。戦車の後ろに歩兵が来るんです。

だから戦争というのは話しにならないですね、敵の装備と日本の装備と天地の差ですよ。日本では、小銃を1発1発、アメリカは違う。アメリカは、連発でバーっとやるんだから装備からしてもう天地の差があったんです。だからこれは戦争にはならないんです。

斬り込みは結局、これはもう石に卵というような状態だから、全然歯が立たない。

間髪を入れないということばがありますが、本当にひっきりなしですね。それで、日本軍では2月11日に、紀元節に、それを期して総攻撃があると、マニラ近くの、マッキンレーであると、そこへ日本軍の部隊が集結していました。それと日本から、本島から、台湾から飛行機が2000台飛んでくる、フィリピンに来ると、マニラを空襲するというような色んな話がありましたが、待てど暮らせど、来ないんです。それで2月16~17日かな、また総攻撃があるといううわさがでていましたが。

これは友軍が来る、そしたら我々がここから脱出できると、そういうことを願っていたですね。ただ、実際は空に帰したわけです。

わたしにはこれくらいは、結局途中で敵軍に遮られているだろうとそれでこられないだろうと、そういうことを考えていたんです。

当時、長いとか短いとか考えていなかったですね。今日も1日過ぎた、今日も1日過ぎたとこれしかないです。

イントラムロスが完全に落ちたのは23日ですね。23日にイントラムロスが完全に占領されました。

もう隠れる場所がないぐらい、ハチの巣というかな、砲弾が激しかったです。わたしは壕(ごう)の中におったけど、皆壕の中に隠れていたけど、さく裂する砲弾の音がすごかったですね。

わたしがさっき言ったように、卵に石というような状態です。それでこれは相手にならない。相手になれたら、まだいいですけど。相手にならないんです。同等の武器であったならば、勝負は、これは知らないよ。戦争に負けたのは物資欠乏。装備の不十分、それで負けたんです。戦闘力においては、これはおそらく負けてはいないです。だからアメリカ兵を見てもわかるんですよ。わたしたちが交戦したときに、戦車についたアメリカ兵はズボンのポケットに手を入れてチョコレートを出してかみながら銃を扱っている。こういう戦争のしかたなんです。本当に人をなめたもんですよ。だから装備の違いというのはこの戦闘に大きな影響を与えますね

それでずーとアメリカと23日まで2月の23日まで、交戦をして。それで23日まで混戦状態でね、もう入り乱れてから、もう混戦状態で敵か味方か見分けがつかないといった状態です。

Q:それはどういう状態なんですか?

もう、みんな日本軍はみんな物陰に隠れてるんです。あるいは防空壕(ごう)に隠れてるんです。敵軍を見たら突撃をする。ああいう体制をとっているんです。まだアメリカ軍もアメリカ軍で建物の破壊された建物の影に身を潜めてるんです。だからもう話し声が聞こえるんです。あそこで何かしゃべってると。そしてわたしのいちばん近いとき、わたしがいちばん近くに居たときは、30メートルと離れていなかったです。敵さんとですね。

Q:もう近くに居たんですか?

もう近くにいました。だから話し声が聞こえるんです。ああいう近距離だったんです。それでああいう近距離の時間が3時間ぐらいあったかな。3時間ぐらい待機してました。敵も前進できないし、こっちも飛び出せないしこういう状態です。

廣枝警部が言うには、「お前たちは台湾から来た者だ、連れて帰れないのが残念だ、そしてお前たちはどこまでも生きて帰れ、そして家には妻子、父母が待っているだろう、兄弟が待ってるだろう、生きて帰れ。」という話があったんです。それで「おれは日本人だから責任は隊長が持つ」と、こうおっしゃられて、自決されたんです。この事もあってわたしたちが、こういうことばは、おそらく隊長が、「お前たちは降参しても良い」という暗示のおことばではないかなと思い降参したわけです。

それから1年、2月23日から1年、この捕虜生活なったんです。マニラが完全に落ちたのが2月の27日でした。だからわたしらが投降したのは、マニラが完全に陥落する4日前に、アメリカに降参したということになる。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1923年
台湾苗栗県東分街にて生まれる。
1943年
海軍巡査隊に入隊。初めての戦地マニラを経て、各地派遣隊に配属。
1945年
海軍巡査隊は、マニラ海軍防衛隊の配下に置かれ、市街戦に参加する。終戦当時、24歳、海軍巡査。
1946年
台湾に戻る。

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