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タイトルタイトル: 「次々に陥落する陣地」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
名前名前: 木下 昌巳さん(第56師団 戦地戦地: 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日収録年月日: 2008年11月3日

チャプター

[1]1 チャプター1 陣地構築  04:17
[2]2 チャプター2 中国軍の反攻始まる  07:38
[3]3 チャプター3 まん延していたマラリア  04:04
[4]4 チャプター4 すぐに尽きた弾薬  05:24
[5]5 チャプター5 豪雨のなかのこう着状態  01:14
[6]6 チャプター6 ようやくやってきた補給  03:42
[7]7 チャプター7 断作戦の立案  04:40
[8]8 チャプター8 本道陣地の玉砕  07:03
[9]9 チャプター9 死んでも捕りょになるな  01:54
[10]10 チャプター10 最後のときを見届けた  07:22
[11]11 チャプター11 玉砕の報告  03:32
[12]12 チャプター12 終戦の知らせ  03:39
[13]13 チャプター13 戦争の傷あと  02:08

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
収録年月日収録年月日: 2008年11月3日

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大きな目的は、龍兵団(陸軍第56師団の通称)としましては援蒋ルート、結局ビルマから、そのビルマルートを通りまして、首都昆明までですね、軍事物資を運んでおりましたね、英国の方から。そこのまあ渡河点である拉孟という所でそこを遮断するということで、補給をさせないという目的がいちばん大事な目的だったと思います。

で、その当時は、作戦をそのビルマルートを通りまして、中国の中まで侵攻するような予定だったらしゅうございますけれども、その恵通橋を爆破されて、それから向こうには侵攻できなかったんで、この拉孟を中心にして今度は守備陣地を構築したというところでございます。

拉孟の陣地というのはほとんど松の木の、松の木とドラム缶でできてるような陣地でございまして、上にはまあ、芒子から最初運んだ鉄板が若干屋根に敷きまして、その上に、材木と土、松と土でございますね、それを重ねて、で、陣地をつくってございましたね、みんな。ですからコンクリートとか何とかは全然使ってないと。みんな、いいところでドラム缶を防壁にしたりして、で、上に鉄板を1枚敷いてその上に土をかぶせたり、松の木で屋根をつくったりして、陣地をつくってありました。

陣地の強度としましてはね、15センチの口径の榴(りゅう)弾砲が当たっても突き抜けないような陣地と、まあ自称してたわけなんですね。で、それもまあ1発2発じゃなくて、雨あられと降ってきたらとても長持ちしませんしね。

だから陣地としてはそう言われておりますけども、ペトンで固めたような陣地じゃないし、材木と土でございますからね、非常にまあ、近代兵器から見ましたら、ぜい弱なものだったと思いますね。

ビルマルートはね、昭和13年ごろから、蒋介石が、つくったルートでございましてね、だから舗装を、わたしたちが行きましたときにはずっとしてありました、龍陵までは。で、龍陵から、拉孟に至る間は舗装はしてなかったと思いますね。砂利道で、だったと思います。

道路の幅は、自動貨車がやっとすれ違える程度で、まあ自動貨車1台がゆうに通れる程度の道路でございました。

それは昭和13年から、14年にかけて、蒋介石が現地の苦力を雇って、何万人か雇ってつくらせた道路でございます、テン緬公路といいますのは。なので、龍陵までは比較的舗装してありまして、幅は大したことございませんけどもね、自動貨車が自由に通れるような道路で、龍陵から先は、前線のほうは舗装はしてございませんで、砂利道でございましたね。

拉孟の陣地からは、山のはざまで点々としか見ませんけれども、やっぱり、友軍の偵察機なんかもたまには通りますんで、そういう情報が入ってまいりまして、テン緬公路、ビルマルートを補修を始めてるということは聞こえてまいりました。ですから我々も、目に見えなくても、そういう感じはひしひしと胸に伝わってきたわけでございます。

で、実際に、侵攻することが見えましたのは、6月の1日からでございます。それまではまあ情報によってね、侵攻が近いなということは想像できましたけれども、わたしが直接見たのは、6月の1日からでございます。


拉孟には大体もともとは松井歩兵連隊が1個連隊の、1個大隊欠でございますけど、2,000人ぐらい駐屯してまして、それで騰越の北方のほうに、5月の初めごろから敵がどんどんどんどん入ってきたという状況を聞きましたので、マツイ連隊長が、その拉孟の守備隊の主力を引き連れまして、各中隊から中隊長、あるいは、1個中隊のうち2個軍隊、2個小隊、3個小隊を連れたりして出撃に出て行かれまして、それで、残った兵力が歩兵が700名あまりしかおりませんで、で、その出撃した兵隊さんたちがけがをしたりして、6月の初めに連隊副官のマナベさんて方が引率されて拉孟の陣地に帰ってこられまして、それでまあ700名から800名ぐらいの兵力になりまして、そのうちの300名ぐらいは戦傷患者でした。ですから実際に戦闘できる人はその300名を除いた人しか、当初は戦闘には参加できなかったんです。
 

最初に6月の1日でございましたね。ビルマルートを工事をして、車両が通れるようにもう5月からやってまして、そこをけん引車が何台か、対岸の鉢巻山という山が、名前をつけた山がございまして、そこの陰に1日の日に入りまして、ああ、これはいよいよ何か大砲でも持ってきたんだなというような気がしてましたら、その日のうちに今度鉢巻山の上に白い作業服を着た兵隊が上がって何か始めたんです。たぶん、遠くてわかりませんけども観測所、砲兵の観測所ですね、を造ってるんじゃないかと、まあ想像してたわけです。

それでその日の1日は日が暮れまして、2日の日になったら早速もう砲弾を撃ち込み始めました。で、それはまあ砲兵のことばで、試しに撃つ「試射」と言いますけども、主な陣地に対して、右のほうから西山陣地、音部山陣地、関山陣地、それから本道陣地、そういう要点に対して試し撃ちをね、始めました。で、まあ距離は何、幾らあるって、どういう、あれで撃てばいいかっていうようなことを2日の日に、一日じゅうそれで試射をやっておりました。それで3日の日から本格的に15センチの榴弾砲、日本にはそのときは拉孟にはなかったんですけど、口径15センチの、日本軍より数倍の能力のある、5月の1日に引っ張り込んだんだろうと思うんですが、大砲で射撃を始めました。

で、主に最初はいちばん敵に近い関山っていう陣地がございますが、関山陣地、それから西山陣地に対して、6月の3日から射撃を始めたわけでございますが、こちらの金光部隊長はなかなかそれに応戦しろという命令が出ませんでね、弾が限りがあるもんですから、3日、4日の日になってから初めて、鉢巻山の敵の砲兵を、砲撃を始めたんですけども、山の陰ですからわからないんですね。

ですからまあ、砲兵のことばで言えば、(ホウコウコウカイホウ)とかいろんな射撃の方法がありますけど、それによりまして大体の見当をつけまして、鉢巻山の裏のほうの敵の砲兵に対して、3日、4日の日から応戦を始めました。主として本道陣地の、本道陣地に火砲が2門ありまして、西山陣地に3門と、横股陣地に2門と、裏山に1門と、いちばん大きなまあ10センチの、さきほど申し上げました榴弾砲が8門ありまして、そのほとんどを向けまして鉢巻山の砲兵に応戦したわけでございます。

それで、5日、6日の日までで、その敵の砲兵のうちの1門か2門は命中して撃たなくなりました。けれどもまたどんどんどんどん補充しまして、だんだん日増しに敵の砲兵が多くなりまして、最後には怒江の川を守るために高射砲がありまして、その高射砲まで水平射撃をして友軍に撃ち込んでくるというふうな、1日にまあその当時で1,000発か2,000発でございますかね、撃ち込んでまいりましたね。

最後に激戦状態になって、7月8月にはまあ6,000発、7,000発という砲弾を撃ち込まれたと記録にございますけど、数えたわけではございませんけど、それほどまあ砲撃、敵の砲撃がひどかったということで、最初の1週間の間から、敵の勢力が全然友軍のあれと、火力にしても何にしても比較にならないぐらい優秀だなということを実感させられました。

で、まだ地上部隊はね、上松林っていちばん前線にあります所に、攻撃を6日ごろから始めました。それからまあ裏のほうに松山、それから横股のほうには、それから10日ぐらい遅れてから、北のほうから攻撃を始めましたけど、当初はそんなふうな状況でございました。

ほとんどもうマラリアは経験者でございますからね、戦傷者が主で、負傷兵です。拉孟から北のほうに討伐に行ったときのケガをした人たちです。はい。

もう全員かかってました。マラリアにかかってない人はいなかったですね。ですから、常備薬としてキニーネとね、いう予防薬がありましたけど、それ皆さん兵隊さん持って、それを飲んでましたね。

Q:木下さんも?

わたしもご多聞に漏れませんで、マラリアで。まああれは、三日熱とか何日熱とかいろんな種類があるらしいんですけどもね、わたしももう行って早速さ、最初からかかってたようですね、マラリアには。で、特に脱出をするときがいちばん重症でございましたね、わたしの場合。だからマラリアはもう病気のうちに入らないというようなあれでございます。それと下痢ですね。アメーバ赤痢にほとんどかかっておりましたね。だから健康状態は最善の状態じゃ全然ありませんでしたね。

マラリアはね、三日熱とか三日おきに出るのとあるし、二日熱とか、間欠的に出る種類があるんですね。だからそのときにはもう熱が37、8度から40度超しましてね、ひどい人はもううわごとを言ったりするようになります。で、人事不省になったりしますけども。それがまあ一日二日過ぎますと、また熱が引いて平常な状態になるんですね。それが二日置きとか三日置きに出ると。そんな症状がマラリアでした。

それからアメーバ赤痢というのはもうほとんどね、かかって血便をみんなしてましたね。で、薬品もほとんどなくて、全部もう最初のうちに使ってしまって、6月の末には空輸してもらわないとないというような状況で、もう全員そのアメーバ赤痢とマラリアは病気のうちに入らないというように普遍、普遍しておりましたね。

拉孟はみんなね、乾燥野菜です。野菜を作ってましたけども、それはもう当然もうろう城になったら無くなりますし、作れませんし、野菜の乾燥野菜っていうのがね、送ってきて貯蔵してありまして、それの何ていいますか、それのみそ汁とか何とかですけども、口に入る、入れるような、平時だったら、ものじゃございませんね。ちょっと今これを再現してみろといわれたら、ちょっとおわかりになるようにはちょっと表現できないような。

でも米は一応集積してありましたからあったんですが、副食が、ジャガイモと、生ものというのはジャガイモ、それから水耕栽培等でモヤシですね、小豆から。で、モヤシとジャガイモは最初の間は食べられました。それに乾燥野菜を入れて。そういうような食事の状況でございました。缶詰等もだいぶ集積してありましたけど、そういうぜいたく品に近いものは、最後まで取っておいて、食べさせてもらえませんでしたね。

まあわたし、拉孟に入りますまでに、1個中隊でまあ十榴(りゅう)の弾を携行して行きます。それでそれを陣地に降ろしまして、それから拉孟に集積をしてあった砲弾を補給してもらった記憶がないんです。で、拉孟の音部山の陰のほうに弾薬庫がありますけど、そこの弾薬は各中隊の砲兵では8中隊、9中隊というのがありましたけど、そこには集積はしてございますけども、あとでわたしのほうの7中隊が4月に入りましたときから、持ってきた弾薬だけで、あと補充を受けた記憶ないんですよ。

ですからね、1個中隊で2門に対して、さあいくらありましたか、200発もあったでしょうか、うちの中隊に。ほかの本道陣地とか西山陣地の砲兵はまあ500発ぐらいの弾は(倉庫)に置いてあって、持っておったようでございますがね。ですから盛んに応戦は8中隊、9中隊はしますけど、7中隊はあんまりできませんで、それで山の西山の陰でございましたから、横、いちばん低い所で。ですから撃つ方向というのがある程度制限されまして、本道陣地のほうに対して、主として防戦をするというような態勢を取っておりましたので、この怒江の対岸との砲兵戦にはあんまり参加しておりません。比較的砲弾も少なかった関係もあると思いますけれども。

ですから7中隊に対しては、なかなか射撃の命令が出ませんでした。8中隊、9中隊が最初に砲撃始めまして、7中隊は一日二日遅れてからしか撃たせてくれませんでした。弾がなかったのと、撃つ方向がね、限定されるというような両方の理由だと思いますけれども。そんな状況でございました。

Q:そうすると砲兵隊のですね、戦力だけでも相当な差があったんですね。

全然もう問題になりませんね。拉孟の正面に来ましたのが第11集団軍という、大体5個師団なんです。で、まあ1個師団といいましても、日本の1個師団が、1万5,000ぐらいいるとしたら、向こうは8,000名ぐらいで、1個師というのは、日本の3分の1か半分ぐらいの兵力でございます。ただし、まあ火砲というのは十分潤沢に持っておりまして、だから地上の兵力に倍して火砲はたくさん持っておりましたね。

ですから、大砲の火砲の比率にしましても、まあ15対1とかいろんな話がありますけれどもね、5対1ぐらいでしょうかね、最初の間はね。そのぐらいしか、こちらの戦力はありませんでしたね。

まず日本軍のほうですけども、さきほど申し上げたように、もう6月の末になったらほとんど弾を撃ち尽くしてました。大砲の弾。それであとは制限されまして、ほとんど撃ってないというような状況でございましたけど、敵はもう6月の末ごろになったら、ますます倍増してきましてね、どんどんどんどん一日6,000発、7,000発撃ち込むという記録も、撃ち込んだという記録もありますけれども、比較になりません。

1発撃ったら10発ぐらいきますよね。だからもうほんとに、ここはというときでないと、最後にはもう使えなくなりましてね。わたしは7中隊でも最後に撃ったのが、本道陣地が攻撃されるときに機関銃を撃ったのが最後でございまして、で、あとは自分の火砲の爆破用にね、1発だけ残すということで。

その原因というのは、結局補給する資材がなかったんじゃないですか。それ、ビルマまで来てないんじゃないですか。でも各戦線とも、弾薬なんかの欠乏というのはもう常識的にね、当然のようなあれで。ですから敵の火砲を分捕ってそれで撃てとか、そんなことを、わたしの中隊でも、自動小銃とったりしてまして、それで応戦したこともありますけどもね。

物が、砲弾にしても、内地からもこないし、ビルマに来てるのも補給ができないというような状況だったと思います。だからわたしとしても、わたしの、拉孟にしても、補給を受けたという記憶はほとんどございません。

雲南の雨と申しますと、大体6月から、6、7、8、9、10月の初めまでは大体雨季でございますね。で、ひどくなるのがまあ7月から9月、10月まででございますね。ま、そんな状況で、雨季が非常に、1年のうちの半分が雨でございますから、拉孟の陣地をつくりましても、ペトンで固めてないので、みんな泥と、ま、いいところは鉄板を多少使ってあると。それとあとは松とか材木だというんで、陣地をつくりましても、塹壕(ざんごう)がだんだんだんだん浅くなってくると。雨でですね。敵の、それと敵の砲弾でね。

最初は、首がやっと出るぐらいの深い塹壕をつくってても、最後になったらもうこのぐらいしかない、おなかまでしかないというような浅い塹壕になってしまって、防御の能力も非常に低下してまいりました。

弾も尽き果てると言いますけど、いちばん最初に空輸を受けたのは、確かに6月の28日だったと思います。で、敵が攻撃を始めたのが6月の2日3日からですから、ひと月のうちにもうほとんど手りゅう弾も投げ尽くしてる、小銃弾もなくなった、それから医療品がなくなったということで、6月の28日に空輸をしてくれました。

飛行隊50戦隊だったと思うんです、思うんですが、コバヤシさんという人が中心になりましてね、補給をしてくれたんですが、コバヤシ中尉というかたですけどもね。で、敵に包囲されてる中で空輸されましたんで、どこに落としていいかわからないんですね。ですから陣地の横股陣地に対空布板という白い布を張りまして、そこに落としてもらうことにしたんです。

ところがその空輸も、地上からバリバリバリバリ撃たれながらの空輸ですから、なかなか思う所に落ちないと。で、横股陣地は100メーター四方ぐらいしかありませんので、手前に落ちたり飛びすぎたりということで、なかなかね、陣地にうまく落ちないんですよね。ですからせっかく空輸していただいたのが、半分くらいは敵の手に渡ってしまうと。あるいはこちらのほうに、ま、半分も手に入ってないんじゃないかと思いますけれども、その中にキャラメルなんかを入れてあったらしゅうございます。わたしはそれ頂いておりませんけど、非常にありがたい、友軍のね、お気持ちを察して、みんな涙とともに頂いたらしゅうございますね。そのときには手りゅう弾、小銃弾、それから医薬品、それが主でございました。大きなものは全然落とせなかったようでございますね。

空輸につきましては、それから全部で5回ぐらいあったんですけども、あとになるとますます難しくなります。それで7月の何日かには、友軍の飛行機も1機撃墜されましてね。

いちばん最後には、8月の12日ごろに最後の空輸があったと思うんですが、もうそのときはもう友軍の陣地にはほとんどね、落ちてないと。もう空輸していただいたかたには申し訳ないんですけどもね。非常に気持ち的には士気を鼓舞されるし、壕(ごう)から飛び出してね、みんな旗を振ってね、けがをした兵隊もだいぶいました。6月の28日には。その後はやっぱり警戒して、塹壕の中で潜んでるというような状況でしたので、まあ空輸されたかたもその状況は見ておられると思いますけれどもね。空輸についてはそんな状況でございました。


あれは8月でございますかね、18年(実際は昭和19年)のね。7月に計画をしたんですかね。計画はそれ、で、実際に発令したのは8月だったと思うんですが。まずろう城してる拉孟を救うと。それには仙台の第2師団、それからうちの56師団と、それから大阪の安兵団(53師団の通称号)というのも一部加わっておりましてね。それでまず拉孟の包囲を、解囲して、拉孟を救出して、今度は返す刀で騰越を救うと。そして最後に百何十キロ下流の平戞を救出するという作戦、三段構えの作戦を断作戦と称して辻(政信)参謀が計画されて。

で、拉孟としましては、断作戦が発令されたから、9月の上旬まで持久せよと、持ちこたろという命令が来たらしいです、本部のほうに。それでまあ9月の末まで何とか頑張ろうと思ってましたけれど、なかなかその間の戦闘の推移を見てますと、とてもじゃ無理だと、気もしましたけれども、それはあとの話になりまして、断作戦のときには、今申し上げたような計画で始めたようでございますね。

で、これは拉孟におっても、作戦をするということを聞きまして、で、それにまあ非常に期待を持っていたわけです。

マツイ連隊長が出てってしまって、で、あとに残ってるのがだんだんだんだん兵力が減ってしまって、最初負傷者も入れて1,300名いたのが、もう6月の末、7月になったら、もう4~500名しか戦闘できる人はなくなりましたから、とにかくまあ何とか友軍が助けに来てほしいというものは全部、全員が願ってましたね。だから断作戦で、が発令されたっていうのを聞いて、非常にま、希望を持って待ってたわけです。

それでまあ龍陵の方向に、道路がずっと援蒋ルートが延びてますけども、龍陵の方向、夜になるともう敵が全部入ってますからね、自動車が行ったり来たりして。友軍、友軍のトラックを占領して、敵が使ってるわけですね。で、その光ぼうを見ながら、何か小銃の音でもすると、あ、友軍が来たんじゃないかなと、あっと喜んでね、待ち構てても、そのあとシーンとして何の音もないと。やっぱりあれ、友軍の救援じゃなかったんだなと。何回かありましたね、それが8月の末になりますと。

それで9月の上旬まで持久せよということでしたから、もう8月の1日にはもう本道陣地も、いちばん高いとこも取られて、次々に取られましたんで、とても救援に間に合うように、こちら持久できないということはみんな感じてたようですね、守備兵は。ただしまあ、希望だけは一緒に持ってたというのは事実でございますね。わたし自身そうでした。

しかし最後の、もうあと二日三日になったら全然ね、これだめだということはもう。9月の初めまではなんとか来てほしいということを願っておりましたけども、9月になったら、もう西山陣地が落ちましたら、とてもとてもそういう希望ももうなくしましたね。

本道陣地はいちばん拉孟の守備、兵力の中ではいちばん高いとこでした。本道陣地の次が関山、それから音部山と、それから西山、松山と、だんだん下がりますから、いちばん最高の要点でしたけども、もともと雲南の防御のためには、怒江の正面に対して防御をするというのが主体でございましたんで、怒江の正面から見ると、西山とか音部山はずっと後ろにあるんですよね。こちらの本道陣地のほうは龍陵に近いほうにありますからね。300、500、600メーター手前のほうですから。

しかしまあ、後方の陣地ですけど、結果的には両側から入ってきた敵が攻めて、本道陣地がいちばん先に主攻撃の目標になって落とされたわけなんですね。それから本道陣地から今度は前のほうに、逆に裏山、関山、そちらのほうに攻撃してまいりましたから。日本軍はもう本道陣地は最後だろうと思ってたら、いちばん最初にやられましたから、全然。だから防御の方向も全部敵のほうを向いて、裏のほうなんか全然防御の態勢を取っておりませんでしたからね、本道陣地は。そんなふうな、いちばん最後の要点として本道陣地を守ってるのが目的じゃなかったでしょうかね。

本道陣地を取られたらね、もういちばん最高要点を取られてしまいますしね、で、もう退路はもちろん遮断されて、引くに引かれないと。あとはもう袋のねずみと同じで逃げ道がないわけですよね、日本軍で退却する方法が。だからもう死命を制せられたの同じですね、本道陣地が落ちましたのは。

わたしそれは、本道陣地にはおりませんでしたので、横股陣地から見ておりまして、約200、2,000メーター離れてますけど、そこから眼鏡で見てますと、砲撃をされて、で、敵が占領したぞということで、本道陣地の西の端に白旗を掲げたんで、竹に白旗をつけて。占領した、もう友軍の砲撃をやめろということで。ところがそれに壕の中の一人の兵が飛び出しまして、組みついて壕の中に転げ落ちました。それをわたしが眼鏡で見ました。それほど接戦で繰り返して、最後には火炎放射器でやられて。それで8月の1日にとうとう本道陣地は陥落しました。

それでまあ生き残った兵隊は、本道陣地から三々五々裏山の主陣地のほうに逃げてくるのが見えましたけれども、もう数えるだけしかおりませんでしたね。だから拉孟の戦闘では本道陣地が、ではいちばん戦死者が多かったんじゃないかと思いますね。守るのに対して。

それから関山でございますが、本道陣地が落ちて、あとは本道陣地から関山も音部山も全部ねらい撃ちですから、もう目の下に見えますからね。関山を、ツジさんという大尉のかたが、これは学校の先生してらっしゃったかたなんですが、そのかたが5、60名で守っておられて、そこはどうしても堅固で落ちないと。ずっと砲撃もしておりますけども、落ちないんで、敵はついに8月の初めから、本道陣地が落ちてから、関山に対して穴を掘って坑道攻撃して爆破しようという計画を立てて、それで8月の19日まで穴をずうっと掘ってきまして。

それであとは音部山から西山に至るまで、ずっとだんだんだんだんと斜面でございまして、上から下に攻め、攻められるという格好で、西山に向かって音部山から逐次撤退をして、抵抗して、しながら撤退したわけでございます。で、29日には関山も、じゃない、関山に続いて音部山も陥落しました。あと残るのは西山、松山、横股、その3か所だけになってしまいました。

最後のもう関山を取られて、西山が取られるころになったら、もうほんとにみんなもうだめだと、力も尽きたというような感じでした。みんな意気消沈してましたね。これから突撃してってやっつけてやろうなんて気持ちはなかなか起きなかったと思います。わたし自身も起きてないですね、そういう気持ちは。いかにして友軍が早く来てくれるかと、その助けを待つだけだったというのが皆さんの心情だと思います。守ってる人たちはね。

最終的には1週間に、8月の末に缶詰を一つずつ分けてくれました。野戦倉庫で砲撃されて破壊されて、野戦倉庫から缶詰を一人に一つと、(ユウ)缶をこのぐらいのね、一つと、それから乾麺麭(かんめんぽう)、携帯用のありますね、乾パンというのが。あれを一袋もらいました、一人に。それだけ分けてくれたのが、8月の27、8日でした。それから9月の7日までは何にも、まあ泥水をすするだけだということでしたね。

だからまあ皆さんね、腹っぱい食って死にたいと、食べて死にたいと思ったのは事実だと思いますね。いっぺん腹いっぱい食ってみたいと、そんな気持ちにもなりますよ。もうこれでいよいよ友軍の助けもこないと、食べ物もこれだけしかないというふうになったら、もう皆さんほんとに意気消沈してましたしね。それがまあ最後の望みとして、おなかいっぱいにいっぺん食べてみたいなあという願望を持っとったというのは、皆さん事実ですね、それはね。

拉孟ではね、自決命令はね、軍医さんが、僕も直接聞いたんですが、(9月)6日か7日の日でしたね、横股に追い落とされて、皆さんが集まってきたときに、連隊の軍医さんがね、昇汞(しょうこう)、飲んで自殺する。昇汞をいつ配ろうかと思ってると。兵隊さんに。結局自決ですね。だから最後にはこれを飲ませろという命令が出たのか、出てたのかもしれませんね。自決しろと。まあ死んでも捕虜にはなるなというのがね、その当時の戦陣訓にありましたからね。それはわたし実際に聞きました。いつ兵隊に飲ませようか、配ろうかと思ってるということは。

もう壕の中でけがした兵隊なり何なりが、「手りゅう弾をくれ」、「手りゅう弾をくれ」って、叫んでるんですよね。自決するために。ですから、手りゅう弾をやるにも、手りゅう弾もありませんしね。ない、も、それよりも敵に向かって投げたいという気持ちですからね。軍医さんがそういういことを話をされたのをわたし直接聞きましたから。その上にどう、命令が出てたかはわかりませんけどもね。

8月の20日ごろだと思うんですけれども、わたし横股の陣地におりましたら、伝令が来まして、守備隊長が呼んでおられるから来てくれということで、横股から西山、それから音部山に行きましたら、壕のとこに案内されまして、地下が4メーターぐらいのとこに壕をずっと奥深く掘ってありましてね、で、そこに案内してくれて。そこは薄暗くてろうそくしか立ってませんで、金光さんがおられまして。

そしてそこで、まあわたしがそこに呼ばれたのは、今度どっかの陣地を奪取しに、逆襲におまえ行ってこいと言われるかと、そんな想像で行ったわけなんですが。で、おまえはひとつこの拉孟の戦闘の状況を師団司令部に報告をしてくれということを突然言われましてね、わたしも心に思ってないことを言われて、ほんとに想像もしてなかったことなんです。それでとんでもありませんと、まあこういうことばじゃないんですけど、わたしはここで支部隊長と一緒にね、陣地で守って、友軍が来るまで頑張りますということを言ったと思うんですよ。

そしたらまあ金光部隊長もいろいろ考て、しかしまあよく考てくれと。このままみんなだれも報告に行かない、電報だけのね、連絡だけだったら、だれがどこでどうやって死んだか、どんな戦闘をやったか、誰にもわからんのじゃないかと。だからぜひともひとつ君は脱出をして、最後のときに脱出をして報告に行けと言われまして。そこまで言われましたら、わたしもかたくなに行きませんとは言えなくて、「はい、承知いたしました」と。

とは言ったものの、拉孟に行ったのは今から、これは9月ですから3か月前で、拉孟から出たことがございませんのでね、深センのほうでちょっと出撃に行きましたけど、全然、援蒋ルートを、ビルマルートを通って表通りを通って拉孟に来ただけで、どっちをどうやって行ったらつかまらないかなんていうことはわかりませんし、全然地形も不明だったもんですから、まあ何とかなるだろうと思いながら、「はい、承知しました」と言って、そのときは引き揚げたんです。

で、そのかわり、今おまえはあしたからこの音部山に陣地をつくれと、西山との間にずっと壕をつくって、音部山から西山に対する、一日でも持ちこたるように壕をつくってくれと言われて、それから三日間ぐらい壕を一応、ここまで深いような壕はつくれませんでね、体を隠す程度の壕をつくって、で、西山陣地から横股陣地に引き揚げたんです。それで守備隊長とそこでお別れしたのが最後でした。

だからまあカメガワとそのサトミと二人を連れて行くということに決めまして、そしたら挺(てい)身班が着てった、昔、蚊帳、ご存じだと思うんですけど、蚊帳のすそをね、紺色の、蚊が入らないようにすそまわしがあったんで、それで挺身攻撃に行くときに便衣、中国の服をつくりまして、それを着て出て、それをまた帰って陣地にあったんで、それに持ってこいと。

それに着がえまして、そして重要書類を胸に入れて、手りゅう弾も一つずつ持って、拳銃も皆持ってましたね、不思議に。下士官でも刀を持ってましたよ、軍刀をね。白さやの軍刀を持ってるのと、それからもう一人は覚えてませんけど、とにかくみんな、カメガワも持ってた、そのモリモトも持ってた。まあわたしは当然持ってますけども、3人で、出る準備をして、あくる朝の、夜が明ける前に、早く出たほうがいいっていうんで、3時ごろ陣地を後にしたわけでございます。

それから横股の陣地をずうっと下に下りて、水無川まで下りて、対岸にたどって脱出第一日に入ったわけですけど、もう下に下りたときには日が、もう夜が明けましてね、水無川を渡るときにはもう対岸からも敵に発見されたぐらいで、もう太陽はまだ昇っておりませんでしたけど、その当時のそのときの天候はわたし覚えてませんけど、夜は明けてたけども、雨は降ってなかったですね、そのときは。それでまあ9月の7日の朝3時ごろに拉孟を脱出したというのが事実でございます。

それからまあ六日ぐらいかかって龍陵まで帰りましたけど、大体報告を受けて、報告をしろという命令は、以上のような経緯でございます。

わたしは7日の朝3時に出ましたから。で、水無川に下りて対岸に7日の夜まで横股のほうをずっと見て、どんなふうな状況だろうと思って、昼間ちょっと動けませんので、隠れて友軍の陣地をずっと見てたわけです。距離が大体1,500から2,000メーターぐらいですけど、手にとるように見ました。

7日の夜8時ごろでしたか、その援蒋ルート、ビルマルートをずーっとヘッドライトが移動するのが見えたんです。ということは、道路も補修して、敵の自動貨車が龍陵のほうに向かって行ったっていう証拠になるんですね。ですからもう拉孟は完全に玉砕したなと、落ちたなということを確信を得たわけです。

西山からだんだん敵の手りゅう弾戦ですね、結局また。上からどんどんどんどん、爆破する煙が西、横股のほうに下りてきまして、で、今度は最後は横股でその手りゅう弾戦がやるのがずっと見えまして、それで夕方の6時になったらもう全部消えてしまいまして、で、ここの壕の中から、マナベさんがいた壕の中から煙が上がるのが見えたんです。ですからこの壕も爆破されたなと。

その中にね、わたしと同期のカタズミというのが片手をやられて、手りゅう弾を持って壕の中で寝てるのがいたんです、動けなくて。だからそれなんかも手りゅう弾で自決して、そこで亡くなって、そういうもので、壕の中の火もついて煙が上がったんだろうと思って、確認したのが夕方の6時ごろでした。

龍陵にはね、師団のね、参謀が出てきてました、龍陵まで。戦闘司令所というのをつくりましてね、師団の本部は芒子にありまして、芒子から2、30キロあった龍陵の第一線までナガイ参謀というかたが出てきておられて、そのかたに、出ましてから五日目でございますか、会ってご報告をしたわけです。

それから今度は師団司令部に行って師団長にご報告をして。

で、軍司令部がその当時はビルマのいちばんこっちの、蜿丁よりちょっとビルマ領に入った所に軍司令部があって、そこまでまいりまして、そしたらまあいろいろ話を聞いて、じゃおまえは今度はラングーンに行ってくれと。侍従を陛下がお下げになって、ビルマ方面の戦況を集めておられるから、そこに行って戦況報告をしろと言われまして、それから軍の自動貨車を1台出してくれまして、ツジ参謀が。これに乗ってけと言われてラングーン、ラングーンまで報告にまいりました。

で、そこで侍従が、中佐のかたでしたけども、名前は記憶しておりませんけど、そのかたに拉孟の100日の戦闘のご報告をしまして、それで録音をしまして、それを陛下にお届けするということで、一応軍、方面軍の司令部をあとにしまして、ところが、マラリアが再発しましてね、動けなくなってしまいました。で、ラングーンで入院しろと言われて入院して。

居ても立ってもいられないんですよ。1週間したらね、もう芒子が落ちたっていう話を聞いたもんですから、とにかく退院させてくれと言って、また待たせておった自動車に乗って、それで三日ぐらいかかって遮放にやっと着きましてね、もう遮放まで、芒子も落ちましたね、龍陵のちょっと先まで後退してました。そこでまあ連隊に復帰しまして、で、連隊長から、おまは通信係の将校をやれと言われて、それからずっと終戦まで連隊本部にいたわけでございます。

辻参謀はね、もう非常に喜ばれましてね、じゃあ木下、その100日間のあれを日記に書けと言われて。それで軍司令部で、モンユの三差路にいた軍司令部で二日三日いたと思うんですが、日記を書きまして、お見せしたんですよね。見ておられて、「うん、なかなかよく書けてるな」なんてお世辞言われましてね。それで今度は軍司令部に報告に行けと、方面軍司令部に。言われて、お別れしたわけなんです。それからあとはもうお会いしてませんけどもね。

終戦はね、ビルマに撤退しまして、ビルマのサルウィン川の沿線でね、渡河点があるんですけどもね、そこのそばでまだ戦闘、モチ鉱山なんていう山の中で戦闘やってましたけど、終戦のことは8月の14日ごろにね、ビルマの南部に近いですね、所で14日に聞きました。「明日は陛下の放送があるから」ということを、「聞くように」ということを聞きました、第一線で。

やっぱり終戦のときですね。負けたなと、終わったなってことを感じましたのは。負けたなと感じたのはもっと、もっと北のほうでね、もっと早く感じてますよ。もうずっと撤退作戦ばっかりですからね、負けたほかに思いようがないですよね。

その当時の気持ちをまあ考てみましても、負けたなという実感はあって、今後日本がどうなるんだろうなんていうようなことはね、全然見当もつかないし、ただ負けたんだっていうことだけで、ほかには考える余裕がなかったですね、と思いますね。自分がこれから将来どうなることかともわからないし、何をしようかとも思えないし、ああ負けたんだ、どうしようもないなと、ぼう然としてたということだけでしょうね。そんな気がしますね。

もともとの命令っていうのは金光部隊長から、もしも君が内地に帰る機会があったら、遺族のかたにもこの拉孟の話を伝えろという命令を受けて、わたし出てきたわけですよね。それで全般の戦況等はもうすでにお話をしてわかってるんですが、皆さんの最期の亡くなられたときの状況というのは、ほとんどね、わたしわかってないんですよ。

ほんとに、目の前で死んだかたのことは詳しくわかりますけど、拉孟からあちこちに、陣地に派遣されてますから、うちの砲兵の中隊にしても、みんな三々五々と散らばって戦死してますんでね。ですから遺族のかたに皆さんに全般のことをお話しできても、個々のお話ができないというのが、非常にわたし残念に思うんですけども、今それを強いてしようと思っても、つくり話になってもいけませんので、やっぱり黙って、知らないことは、見てないことはお話し申し上げられないということだけになりますね、今は。

ですから知ってることは、今までほとんどもうお話ししましたけれども、あとはもうこれ以上のことはお話しするのは、現在ありませんけども、やっぱり守備隊長から命令された最後の遺族に伝えよというのが、全部に伝えてないというのが、じくじたるやこれ気持ちが、死ぬまでこれ残りますね、これわたしの、思いとなってね。

それでまあ、これはお話ししてどうかとも思うんですが、遺族のかたには、何でお前生きて帰ったんだと、逃げてきたんだろうと、そういうことをおっしゃるかたもいらっしゃるんでね。だけどそのかたの戦死の状況も知らないし、お話のしようがないんです。ですからやっぱりそういうことを言われますということは、わたしの胸の中にやっぱり、その重荷がやっぱりいまだにかかってるというのは事実でございます。

いろいろね、申し上げましたけども、まあ我々のやってきたことは、結果としては悪かったとは思いますけれども、今の平和な日本があるということは、ま、こういう犠牲の上にね、立って、今の平和な日本があるんだと。

いまだに夢を見ますよ。包囲されて追い回されてるような。60年たっても、やっぱり昔の戦争の夢見ますね。これは偽りじゃないです。それほど二十歳過ぎて、感じやすい年代でございましたからね。しかも初めての命を的にした経験ですから、それは頭から離れることはないんですけども、日にちとか何とか、そういうこまごましたことはだんだんだんだん忘却のね、あれには抗しえませんので、まあご勘弁願いたいと思いますが。

守備してると、敵が山を登ってね、攻撃してくると。さあそれをこちらも攻撃をせにゃいかんと思いながら、敵が後ろに回った。さあどっから逃げようかと、退路をどうしようかと。だから敵と、苦しい夢ばっかりなんですね。同じような夢ですね。

出来事の背景出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
熊本県熊本市に生まれる。
1942年
陸軍士官学校卒業
1943年
野戦砲兵学校卒業。第56師団野砲兵第56連隊赴任。野砲兵第56連隊第1中隊小隊長。中国雲南省騰越に進駐。同連隊第7中隊に転属
1944年
中国雲南省拉孟に進駐。9月玉砕。当時、22歳、中尉。
1945年
ビルマにて終戦。
1946年
復員(神奈川・浦賀)。

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中華民国(雲南省拉孟)

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