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タイトル 「弾雨の中を輸送機で飛ぶ」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
氏名 小林 憲一さん(第56師団 戦地 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日 2008年11月5日

チャプター

[1] チャプター1 孤立した部隊への空中補給  01:11
[2] チャプター2 どういう戦死をするか  02:57
[3] チャプター3 懸命の補給活動  03:40
[4] チャプター4 孤立した軍を救出できない戦況  05:08
[5] チャプター5 女性の姿を見かける  01:59
[6] チャプター6 孤立した部隊の上空で体が硬直  03:53
[7] チャプター7 玉砕を聞いて  01:14
[8] チャプター8 終戦  02:56

再生テキスト

ナウンキオ飛行場って、(北ビルマに)メイミョウという観光都市があるんですよ。湖のあるね。そのすぐ隣の飛行場なんです。

ナウンキオ飛行場を離陸しましてからね、わたし、時計で計ったからね、拉孟上空まで50分。

拉孟へ飛んだんです。全部で、私の記憶してるだけでも、飛ぶだけでは11回行ってます。だけど、拉孟上空で必ずしも落としたっていうのは、そんなに多くないんですよ。確か4回ぐらいじゃなかったですか? 回数にして。成功しているのは。そのくらいだと思います。後は天候不良とかなんかで引き返し、本当にそういうことがあってね。

とにかく、一度、ナウンキオの飛行場を離陸するたんびに、「今日はどうかな、帰ってこれるかな」という気持ちで飛んでいっとったんですよ。戦死覚悟ですよ、もう。生きて帰るなんていう望みなんて持てない。

飛行中胴体のね、日の丸、見ながらね、「ああ、いよいよ敵だな、行くんだな」と思って。やっぱり「祖国」という感じしましたね。胴体の日の丸眺めながらね、「敵陣、上空へ今から突っ込んでいくんだ」という。

私は「戦死」っていうことはいつも頭にあったんですよ。「俺はこの部隊で戦死するな」という気持ちで。だから、「予備役の将校、普通だったら何年何月ごろになったら、現役解除でもう、日本へ帰れるな」っていう話題なんですよ。一般の予備将校っていうのは。ところが私はそういう仲間に、一切入ったことがない。嫌だったんです。せっかく戦場へ来てるのにね、何が内地の問題だっていう。私はもう反旗を翻しておったですよ。気持ちの中では。

いつどこでどういう戦死をするかということが、私の命題だったんだ、私自身に対しての。だから、予備役でなんで、除隊になって内地へ帰るなんて、とんでもない話。とんでもない話だったんですよ。私には。

「死ぬ」ということに対しては、恐れっていうものは、感じていませんでした。だって、玉砕してるんですよ。いくつもの部隊が。そこへ、助けるために飛んでいってってるわけでしょう。だから、私は命の尊さっていうものは、知っていたけど、これだけ多くの兵隊が玉砕してしまうなんていうのは、とんでもないことだっていうんだ。だから、俺の乗ってる飛行機が1機や2機落ちたからって、どうってことはない。「なんとかして助けてあげたいんだ」と。弾薬をね。たくさん持っていって。落としてあげたわけですよ。
命がけの体験っていうのは、こういうことをいうんだなと思いました。

私だって、飛行班長として責任もあるし、「戦死する」ってことはもう、当たり前であってね。だけど「同じ戦死するなら、格好いいな」という気持ちもあったんですよ。「ここで戦死すれば、俺は永久に靖国神社におれる。それで、こういうところで死んだんだと、いうことを遺族も知ってもらえる。遺族にも、俺は生涯永久に生きてるんだ」と。その意味では。いう気持ちでいましたからね。私は決してね、後ろ向きなんてなったことはないです。

拉孟上空へ行って。小さな落下傘を付けて、下へ落としてやったです。やっぱりね、あのう、ひとつが50キロありますからね。

左右の、両方の翼に下に1本ずつ。50キロの弾が詰まってる弾薬をね。落下傘で落としたわけです。

ただね、回りに敵、敵ですからね。回り全部が。撃たれてるんですよ。バンバン。その中でここへ来て兵隊がこういうものを敷くわけです。陣地の中でね。それをめがけて私たち上から飛んできて、だから、一番下がったところで、本当に50メーター以下までグーッと、落ちちゃいますね。

地上の部隊の人たちも、私が飛んでいくとね、下から、対空砲火すごいですよ、高射機関砲。
高射砲はまさかね、わずかもう数百メートルですから。距離にしたら飛行機との地上との間が。そうですね。300メーターぐらいじゃないですか。だから、狙い撃ちですよ。地上からすれば。そこへ気力で突っ込んでいってね。もう死ぬかもしれないことは重々承知の上。この上空で自分の体に当てて、被弾して機上戦死するか、飛行機そのものがだめになって、そのまま自爆して戦死するか、どっちかなんですよ。死ぬとすれば。

それこそ、30倍という敵ですよ、地上は。地上軍のね。そっから何百発、何千発という弾、撃ち上げられてるんですから。よくも当たらずに生きて。いつも出るたびにもう、自爆覚悟でしたからね。「このまま突っ込んで、俺たちはもう消えるんだ」と、いう気持ち。悲壮感というものはわかなかったですよ。
もうねえ、地上軍はそのような、諦め切れない中で諦めて、死んでいくんですよ。もう、時間の問題になってたの。
そういう中へね、弾薬だけを補給に行くんですよ。「我々、生きて帰ってくるんだ」それを彼らの気持ちを思ったらね、私らも戦死、死ぬっていうことなんか全然もう問題にならなかった。ただ、「弾を運んであげなくちゃいかん」という任務があるから、これだけは生きてなくちゃいかんからね。そういう気持ちでしたよ。
死という問題については全然念頭になかったの。「いつ死んでもいい」と。
それだけのことを俺たちはやってきたんだというね、自負心もあったですから。

私たちだって、もう帰る、基地まで帰るっていう自信がなかったんですから。何百発って撃たれてるんですから、そのうちの1発でも当たれば戦死なんですよ。機上で。飛行機乗ったままで戦死しちゃってるわけだ。それがなかった。だからブスブス開いてるんだ。穴が胴体に。まったく奇跡としか言いようないですね

あれだけ撃たれてね、体に当たってなかったっていうのは、天佑としかもう思えない。
飛行機にはバラバラもう当たったんですよ。胴体。

何しろ玉砕直前の部隊の上に行ったときは、もう、人間の混乱がなんともいえない気持ちになっちゃったですよ。
もう、しびれちゃったしね。体が。「ああ、この方たちがみんな死んじゃうのか」という思いがしたですよ。
もう、だって、私はあれですもの、参謀、辻参謀からはっきり言われとったんですよ。
「小林中尉なあ、あの拉孟の守備隊は残念だけど、救出することはできねえんだよ」と。
「全滅するほかないんだ」と。「そういう戦況なんだ」と。
ということは、あれを救ってやる予備の兵力がないんだと言うんだ。もう後方に。
それを言われましたよ。辻参謀から直接。辻参謀にナウンキオの飛行場で、そう言われたんですよ、わたしは。

「とにかく小林中尉な、兵力がもうないんだよ」と。「あの拉孟へ追加して、増員して、拉孟を助け出すっていうことができる兵力がなくなっちゃってるんだ」と。「だから、目をつぶって玉砕をもう承知の上で作戦を練ってるところなんだ」と。「だから、貴公がやってもらうことは、それまで1日でも長く命を延ばすように、弾薬なり食料なり拉孟陣地にとって、これはもう、とにかくプラスになるというものだけは空輸してやってくれないか」と。
それ、辻参謀から、私、言われたの。

「どうすることもできないんだ」と。「小林中尉、これはもうな、俺たちにはもう手に負えない」と。
だいたいもう、後ろに兵力ないんですから。ない兵力出すわけに行かないんですよ。
内地からね、送るなんて、そんなことできないですよ、もう。
目の前に今、玉砕するかどうか、差し迫ってるんですから。「だから、仕方ないんだ。」「だから、目をつぶって、この玉砕を見送るほかないんだよ」ということを、辻参謀、懇々と私に言いましたよ。
「小林中尉が、落としてもらう弾薬の補充というのは、これは本当に1日でも多く長生きしてもらって、陣地を確保してもらえたからなんだ」と。「だから、貴公、その意味をよく心得てもらって、続けてやってくれんか」と、いうことを辻参謀から言われたの。私が。だから私はね、まあ、非常に感動しましたよ。

でも、なにしろ、わずかね、もう何名ぐらいになってたんですか。60名くらいじゃないですかね。残ってた方は。
その方たちが、もうとにかくわずかな数になっちゃいまして。なんとも仕様がないんだもん。救いようがないんですよ。

半身裸体の兵隊さんがねえ、もう万歳してるんですよ。その丁形布判の脇で。万歳してるの。まったくもう救いようがなくてね。悲しくなっちゃった、私も。

地上の兵隊さんが、私たちが飛んでいくとね、「ばんざーい」って手を上げてね、その声まで聞こえるようなんですよ。なんともいえない、慰めてやりようないんですよ。
私は飛行機に乗って、爆弾をただ、じゃない、梱包をね、食料の入った梱包なんかも落としてあげるんだけど、手を出して救い上げることができないわけですよ。もう前途、時間が、時間単位で決められてるの。
この世と別れるわけですよ、みんな。あんだけの気持ちはもうやりきれなかったですね。我々だけは生きて帰るんですが、彼らはもう、そのすべがないんですよ。死ぬ時間の問題になってるんです。
なんともしてやれない。だからね、私ね、個人的にね、キャラメルかなんかかな、お菓子を1回入れてね、落としてあげたことありましたよ。もっと、それを続けてやりたかったなと。後になってね。1回それあげました。「どんな気持ちで受け取ったかな」と思ってね。キャラメルかなんか、入って。

私1回ね、弾薬の中へ手紙書いてね、「本当にご苦労なことです」ということを書いて、投下したことありますよ。
ええ。もうなんとも言えない。助けてあげることができないんだから、もう。
なんとも気持ちはやりきれない、という気持ちですよ。我々だけは生きて帰るんですから。
上空で投下すれば、任務は終わったわけですから。
ところが彼らはそれを使って敵と、もう、玉砕覚悟でやってるんですから。

1人の女性でした。この岡の上でね、立ってハンカチをね、こうやって私の飛行機めがけて振ってる姿見たんですよ。モンペはいた。あれは、朝鮮出身の女性だったと思うんですがね。なんとも、もうやりきれなかったですね。
あのときの気持ち。こんな第一線、男だって、もう、怖気が振るうような第一線にね、どうして女の子が来てるんだって。慰安婦としてね、連れて行かれたんですよ。かわいそうにね。みんな、あそこで死んでるんです。
どうしてやることもできないんだから。まったくつらかったなあ。私もあれ見たときは。女性ですよ。完全に。
モンペはいたね。私、見たのは、それが最初で最後でしたかね。女性で。
なんとも、戦争、憎みましたよ。どうして、こんなひどいことを戦争はやるんだと。
もう、自分の身の危険なんてことは忘れちゃってましたね。下から撃たれてるんですよ。
だけど、そんなことはもう、吹っ飛んで、ただそういう人がかわいそうだって。
どうして、罪もないあの人たちをこういうとこで、殺さなくちゃいけないのかって。
あの韓国籍の人が多かったらしいですけどね。そんな、韓国もどこも、問題じゃないですよ。人間がですよ。
平民が。市民が。ああいうとこで死ぬなんて、とんでもないことですよ。

そりゃあ、だって量が違いますよ。もう、敵さんはね、もう、とにかく爆撃機でね、1トンや2トンのね。あれを積めるんですから。それでもって、爆撃機に積んだ荷物をドサーンと落下傘降下。
それが、軍偵あたりのね、50キロ包みぐらい、1つや2つぶら下げていって落としたって、本当にもうネズミの涙ですよ。本当に。これは気休めとしか、もう言いようないですよ。だけど、仕方がないですよ。これは軍命ですから。

もう、兵力がないんですから。だから見殺し。

兵力がとにかく、もうないんですから。手持ちが。人がやっぱり行かなくちゃ、戦争にならないでしょう。
それに弾薬だって、補給がもうなくなるんですから。お手上げじゃないですか。
そんな状況に、追い込まれちゃったんですよ。
だから、「死にたくない、死にたくない」といいながら、死んでいったんですよ。みんな。
これはもう私はね、航空隊で、上でその下の状況を見て、その動きでわかるわけ。
空気がね、とにかく上を飛んでいくと胸が締め付けられるんですよ。なんだか知らんけどね、ギューッと。
これはもう、なんていうんですかね、何が、ああいう作用するんでしょう。本当に体が硬直しちゃうんです。
あの上空へ飛んでいくと。精神作用が何かあるんですよ。私だって何とか助けたいのに、どうしてやることもできない。せめて、この弾薬が無事手元に落ちてくれたらなと思って。

やりきれない気持ちでしたね。「助け出すことができない」という前提のもとに(補給を)やってるんですから。
やりきれないですよ。みんな死んじゃうんですから。
だからね、私たちはね、まあ本当に私が今までこうやって長生きしたのもね、拉孟の戦場で私たちの来るのを待ち望んでいた兵隊さんたちの霊が、私たちを守ってくれてるんじゃないかな、と。そういう気持ち。
本当に寂しい、というか。つらいというか。軍命とは言いながらね、自分の戦友たちを目の前で死んでいくんですよ。考えられないでしょう。そういう光景は。本当につらかった。

司令部のほうからね、「もう空中補給はこれでいいから」ということを言われたのはね、玉砕する4か月、3か月ぐらい前でしたか。言われたんですよ。「もう行かなくてよろしい」と。辻参謀から言われたんです。
それから3か月後に玉砕されたんですがね、もうそれはやりきれないですよ。私たちが飛んでいくとね、壕から出てきて、裸で、半身裸体でね、「ばんざーい、ばんざーい」って、唱えてるんですよ。下で。
声がもう、爆音も吹き飛ばして聞こえるんですよ。あの万歳の声が。

もう「やりきれない」という気持ちでしたね。「救ってあげられなかった」という、私たちの責任感も加えて。
「ああ、もうなんともしようがなかったな」と。
せめてね、せめて私もね、自分の書いた手紙も落としてあげましたよ。それから、お菓子もあげた。私のわずかな分量だったけど。お菓子も落としたことありますけど、もう、それ以外にどうしてあげることもできない。
ただ、飛行機が飛んでいったと、いうそのことだけがね、地上部隊に見捨てられたんではなかったんだよなという気持ちになっていただいただけで、救われたんですよ。やりきれない気持ちでしたよ。
上空行ったときの、あの地上から上がってくる霊気といいますか、人のもう生きてるあれじゃないですよ。霊気。
魂の何かがね、グーッと迫ってきた。もう、やりきれない。もう、こんな感じはね、生まれて感じたことないですよ。

終戦のあれっていうのは、呆然としましたね。まず、第一に考えたことは、「あれ、俺、死ななくていいのか」という、そのことだった。真っ先に感じたのは。「あれ? 死ななくてもいいのか」と。
それまでは、本当に死ぬ気でいたんですから。直接、敵と正対して戦わなくても、自爆するつもりでいたんですよ。ところが、終戦でね、陛下がご命令を出されたんですよ。それじゃあ、もう、無駄な抵抗だと。さらっと、諦めついたんですけどね。まったくやりきれなかったな。本当に。
まずね、気の毒だったのは、玉砕された、あの守備隊の方々の心情。「もう、これで俺たちは生きて帰れないんだ」と思ってね。最後の抵抗、中国雲南遠征軍に対して、鉄砲を向けて打ち合った兵隊さんたちの気持ちを考えるとね、本当にお気の毒したな、と思って。あの拉孟陣地の情景が、今でも目の前にちらつきますよ。

どうして、こういう戦争、殺し合い。人間の殺し合いでしょう。戦争って。どうして、こんないみじくも、与えられた人生をね、こんなことで殺しあうんだろうかと。悲しくなりましたね。

しかし、一旦、戦争始まってしまった以上、引っ込むわけにいかないでしょう。もう。我々。
どうして止められます? 国民の、ただ1人の国民として。これ、どうすることもできないんです。

嫌ですよ。死ぬ間際の、死ぬな、と思ったときの感じ。これは自殺と違うんですよ。他殺なんですよ。
だけど、他殺といったってね、軍隊ですからね。そんなこと言っちゃおれないんですよ。やらなければ自分が殺されるんですから。だから、こんな矛盾した話、ないですよ。まあ、どう考えたって。お互いが、そんな個人的に憎しみなんかないんですよ。何にも。それなのに、殺さなくちゃいかんて。ああ、いけない。もう、この気持ちだけはね、やっぱり前線に立っててね、「死ぬかもしれないな」と思いながら、戦してるもんでなくちゃ、これはわからないかもしれない。

出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール

1919年
福島県西白河郡西郷村に生まれる。
1940年
現役兵として太刀洗第5航空教育隊に入隊
1941年
陸軍航空部隊として、大連、クアラルンプール、シンガポール、ジャワ方面を転戦。
1944年
ビルマ作戦に従軍。断作戦に従事。中国雲南省拉孟で孤立した守備隊救援のため空中補給作戦に従軍
1945年
北ボルネオ海上交通保護作戦に従軍。終戦。当時26歳、中尉。
1946年
復員(神奈川・浦賀)。

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