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チャプター

[1] チャプター1 関東軍参謀  04:49
[2] チャプター2 決死の「戦後処理」  07:14
[3] チャプター3 収容所生活  03:28

再生テキスト

Q:もともとソ連が侵攻してくる前っていうのは、金子さんはですね、どこの部隊にいて
、どのような任務をされてたんですか。

はい、関東軍司令部にいたんです。関東軍参謀部にいたんです、はい。それで30軍ができまして(昭和20年7月30日編制)、30軍に転勤になったんです。

関東軍参謀部一課。一課ってのは作戦なんです。一課が作戦、二課が情報、三課が教育というように分かれてるわけなんですけれどね。

日ソ中立条約までは、日露どちら、米露どちらでも戦えるようにしてたんですが、日露、日ソ中立条約ができましたから、もっぱら警戒はしながらも、もっぱらアメリカに全力を注いだ。ですから、満州の冬にね、夏服で部隊移動やってるわけですよ。満州の冬で夏服で部隊移動なんていうのは、どこへ行くのか、どう行くのかって、みんなそれ全部釜山に集めて、釜山から船で南方に。そういうような状況でしたからね。ですからもう、関東軍は空になってたんです。人数合わせだけで。

関東軍という偉名は、これはもう天下に冠たるもんだったですからね。関東軍は満州事変以来強いということに徹底してましたから。ですから、その衣を着て中身を入れ替えてたわけですね。

そこへソ連が入ってきたもんですから、もうこれはどうしようもないということで。それが8月9日ですね、はい。で、その30軍という軍ができたので、とにかく軍はつくったから、軍をつくったからには、とにかく満州に置くんだから、満州のこと知っている者行かなきゃいけないということで、幹部はだいたい関東軍の連中で固めたわけですけど、その下で働く下士官、兵隊さんの方はですね、もう寄せ集めなんですよ。内地から召集でもって、数だけ集めるという。ですからソ連が入ってきたら、もう一発ですよね。

それで東部国境で編制して、行くのは西部国境に行くことになってたわけです。東部国境でもって編制したら、軍司令官、参謀長が8月の8日に着任したら、9日にソ連が入ってきたんです。それですから任地にいないわけです。だからすぐ任地に行かなきゃいけないというので、満州航空の飛行機をチャーターして、新京と延吉の間の、そこの任地に飛んだわけです。軍司令官と参謀長とわたしと副官と、専属副官と4人。それに操縦士と機関士と。4人で飛んだわけ。

Q:それでその任地に行ってからは、どのような。

それで、任地に行ったら、1週間。1週間、まだソ連が、日本が降伏するかしないの最中に、今度は30軍は新京に移れと、こういうわけです。西部国境を後にして東部国境を相手にしろと。それで新京に飛んだわけです。そしたら終戦になっちゃった。

もうね、停戦にあたっていろいろやったんですけどね、もうすぐにソ連が入りましてね。交通遮断ですね。ですからもう全部独立です。だから軍の中でも軍司令部の、軍司令官の意見なんか全然そっちのけです。

Q:終戦を伝えるということは、やっぱりいろいろやっとったわけですね。

ええ、そりゃもうしょうがありませんからね。軍司令官として、最後に天皇陛下のご命令として伝えました。そのあとがもう四苦八苦ですよ。もうソ連が入ってきたら、天皇陛下のご命令がたとえあっても、伝えようがないわけですから。

107師団というのが、西部国境の、東部、北部、西部とあった、西部国境の最先端にいたわけです。それで、降伏命令を伝える手段がないからというので、わたしが飛行機で行ったことになる、満航(満州航空)の飛行機で行ったわけです。そしたらもう、陣地で戦闘の跡はあったけれども、もう新京に目指して退却してたわけですね。ですからすれ違いになってしまいました。こっちは飛行機で行ってる、向こうは山道の敵のいない所、陰を陰をつたって行くもんですからね。

こちらはもうね、やられるつもりで行ってるんですよ。もう生きて帰ったってしょうがないから、どっかでやられるつもりと思って腹くくってやってますからね。どっかでやってくれというつもりだったです。

この場でちょうど死ねてけっこうだと思ったですよ。ええ。ここで死んでやろうと思って。

Q:負けたって分かったときは。

しょうがないと思いましたね。はい。だってあれでしょ、ニュースでもってどんどんどんどん、こっちのあれが出てきてたでしょうが。もうこれは起死回生の方法なんかないわいと思って。だから「こんなんならもうどっかで死んでやろう」とこっちはそう思いますしね。だからこらぁ死ぬ、3度死ぬ機会があったのを、3度ともだめだったんですよ。あんときはもうほんと、ここで死んでやろうと思いましたね。

それでこっちの任務を、こういう任務持って伝えてきたんだと。で、おれは30軍の参謀だと。こういうことで話したら、(ソ連)軍に「それじゃぁ、もう日本軍はいないけれども、行くんなら行ってこい」と、こうなったわけです。それで満航のあれを借りて行ったら、もぬけの殻で。いろんな物が散らばって、日本の兵器とか被服類とか散らばってるんですけれども、日本兵全然いないわけです。それでこの通りだと。日本兵はもういないんだと。向こうはそう言うから、それでも念のためにあちこち調べるけれどもいない。あぁ、これは退却したなと思って。

Q:五叉溝(ウサコー)の飛行場で、もっといろいろ捜索をするためにいろいろ交渉っていうのはされたんでしょうか。

ええ、もう「捜せ」と言うから、こっちも捜しました。そしたら人間は誰もいないのに、飯ごうとか被服とか靴とか、そういうのは、日本の物がゴロゴロしてるわけです。

部下と一緒、その下のあれも入れて、くまなく捜したけれども。1時間ぐらい捜したですかね、はい。

もう、ああいうことになるとね、大っぴらな行動はできないでしょう。ですからね、飛行機からこう捜すっちゅうても、なかなか見つからないんですよ。ですから地上でもってね、判断していかなきゃしょうがないんですね。武器の、捨てた武器とか被服とか、そういうものを。もう何だかんだいっぱいありましたよ、飛行場にはね。

そりゃ時間さえくれればいくらでも捜しますよ。だけども飛行機でもって時間制限されてましたでしょ。そうするとその散らかり具合を見ればね、だいたいこっちとしても見当つきますからね。こりゃまぁ、ひどい目にあって退却したなということを。

Q:捜す時間っていうのはやっぱり、その1日だけしか与えられていなかったっていうことですか。

もう1日もないですよ。

こりゃ全滅したかなと思ったですねぇ、そのときは。わたしは。こんな散らばり具合であって、しかもひとりもいない。こりゃ全滅したのかなぁと思ってね。

連絡取れないですからね。どうしたってこちらは悲観的な状況になりますわねぇ。

日本兵がひとりもいないと。こういう風に散らばっているのはみんな日本兵の靴とか鞄と兵器だと。

空から見るけれども、いないんですよ。この辺だったらいるんじゃないかと思って、日本兵のあれがね。全然いないんですよ。

もちろん悔しい思いありましたね。それと現にそういう日本製のいろんな物が散らばってるわけですからね、いたことは確かなんですよ。ですから、そのいたことをどっかでつかもうと思うんだけれども、つかめなかったと。こういうことですからね。

Q:つらかったでしょうねぇ。

ええ。でもそうなるともう、ソ連軍と押し問答したってしょうがないんですよね。それでまっすぐ帰さないわけです。やっぱりアルシャンに寄っていけと、こういうわけですよ。

興安、興安、後の興安ですよね。そのころ、アルシャン、ハロンアルシャン。

飛行機が来れば隠れますからね。それでやっぱりそうなれば、大部隊の移動というのは夜にしますからね。飛行機には見つかりませんよ。しかも、あそこの、今の所は何て言ったっけ、五叉溝、五叉溝、あの辺はもう満州でも西部国境ものすごく・・東部、北部というのは山岳地帯なんですよ。西部というのは平野なんですよ。ですから、ズラーッと展望がきくわけなんです。それでもってもう見つからなければ、もうこれはちょっと見つけようがないですね。向こう(107師団)はどんどんどんどん山岳地帯に入っていったんです、ハルビンの方に。

戦争を始めたのが9日でしょ。で、15日終戦でしょ。そして僕たちが行ったのが20日ですからね。まぁ、10日、1週間ぐらい。その間に、何か情報がなかったものかなと思うんだけども、なかったんですなぁ。あんな広い所、107師団1個師団じゃどうにもなりませんよ。

そりゃもうどうにもなりませんよ。そして、戦車があるわけじゃなしね、何もないでしょ。自動車と鉄砲ですからね。機関銃でしょ。それで山砲ぐらいなもんだから、どうにもならないわねぇ。しかし負け戦っていうのはそういうものですよ。

だからここまで生きてね、もうほんと、苦労してるんですよ。もう3度死ぬ機会あったんです。ソ連から帰ってくるまでにね。3度死ぬ機会あったの、3度とも助かっちゃったんですよ。他の人が犠牲になってこっちが助かったりしてるんですから、もういやになっちゃう。同じ目にあいながらこっちが助かって、相棒が死ぬでしょ。だからもうほんとにもう、もうほんとの、若いけれども、あとは余生だと思って戦後の生活はやってるんですけどね。それがこんなまた長生きしたもんだから、ほんとに情けないですよ。で、おまけにこんな病気にかかってしまって、もう。やっぱりこういうあれもあるもんだからね。人との付き合いでも、そういう調子の付き合いやってますからね。後腐れないように、後腐れないようにやってますからね。そしたら女房も早く死ぬし、弟が2人いた、弟2人の方が早く死ぬし、なんかひとりだけぽかっと残ってますわ。ですからもう、どっかで早くおしまいにしたいんですけどね。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。
107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1920年
東京都渋谷区にて生まれる
1935年
陸軍幼年学校卒業
1940年
陸軍士官学校卒業。関東軍野戦重砲第20連隊に配属
 
関東軍通信隊を経て関東軍参謀部
1945年
終戦時にソ連軍に軍使として派遣され終戦交渉を行う。ウクライナに拘留される
1948年
復員
1953年
中央大学卒業。その後、中小企業金融公庫に勤務

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台、新京)

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