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タイトルタイトル: 「海に流された南海支隊長」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 和気 道春さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年9月17日

チャプター

[1]1 チャプター1 緒戦の快進撃からポートモレスビー作戦へ  06:45
[2]2 チャプター2 イオリバイワからの撤退  04:39
[3]3 チャプター3 機関銃を捨てて退却した  03:33
[4]4 チャプター4 河を下っての撤退  04:08
[5]5 チャプター5 銃弾貫通  04:28
[6]6 チャプター6 糧まつも弾薬も届かず、極限の状況に追い込まれた  03:05
[7]7 チャプター7 ラバウルへ  02:20

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年9月17日

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16年の戦争が始まって坂出を出たのは、11月の23日ごろに出まして、それから今度グアム島へ12月の10日へ敵前上陸したんです。

それから今度5日ほどおって、今度ニューブリテン島へ敵前上陸を、昭和17年の1月の23日に敵前上陸をしまして、それから今度、5月にポートモレスビーへ海軍と一緒に行きまして空襲にやられて、ラバウルへ引き返してもうて。それから今度作戦が変わりまして、陸の方からモレスビーへ行くようになって、今度戦争のやり方が変わったんですわ。

Q:その作戦が変わった時は、海から行こうと思ったんですね。

海から行くのは、日本でゆうたら東京みたいなとこ行くのを海岸ばたから行って、そこに、そこに上陸する考えじゃったけんど、それができなんで、今度遠いとこから、バサブアゆうとこから敵前上陸して今度新たに、何百キロという遠いところからポートモレスビーへ大きな山を越して行きましたので、日にちがだいぶかかったんですよ。

それでもう、向こうは始まりから地形がわかってるとこ、こっちはように調査をせんで行きましたので、こないだ言いましたように、最初は自転車で機関銃をつんでいきまして、それから木がかやっておって道が、道路が通れんようになっておりますので、自転車を捨てて。馬が、8丁の機関銃ですけん馬が16頭おったんですが、それは結局もう糧まつがないけん、食料になってしもうたんですわ。そして、連隊長や他の人の偉い人の馬もさっぱり餌食になってしもうたんです。

始まり3日ほどは自転車を運転して行きまして、2人が銃を担ぐ者がいよったんですけー。それで2人が銃身を担ぐ者は、銃身を自転車に積んで、1人は背のうを2人分積んで。高いとこは3人も4人もかかってやりましたが、さっきも言いましたように、もう道路が、大きな大木が倒れて、枯れた木が倒れてしもうてますのでな、それでもう行かれんから捨てて、人間が交代交代で肩に担いでいたんですらい。

それからまた向こうのスパイいいますか、土人やなんかを使うて、こっちの日本軍の来るやつをな、それを調べたりして、こっちも斥候を出して調べますけんど、向こうもやっぱいろいろとやって、なかなか向こうへ進みにくいようになって。しばらくとポートモレスビーまで行く日にちがだんだん遅うなりまして、それでもまあ一生懸命にやります。長う進むんますですけえ、弾薬や食料を持ってくるのに遠なってな、次第と遠なって、戦争をやめてまた後方へ弾薬やそれから食料を取りに行きますので、向こうへ行くのが次第と遅くなりましてな。

Q:敵のその斥候はどういう場所にいるんですか?

敵の斥候も、土人や何かをつこうてな、いろいろと日本がどれくらいな兵力に進みよるかいうようなことを調べて、どこら辺から来よるかということをな、やっぱ調べるんです。こっちもほれ、なかなかああいう中にココダいうとこら辺まで行った時に、もう3中隊は後になって、1中隊と2中隊が先攻めるようになりまして、わたしらはもとの機関銃中隊へ戻らしてもろうて。それで少しちょっと、1中隊、2中隊よりは2、300メートル後方の方から来おりましたが、もういったん占領して中隊長も戦死せられるし、小隊長も意外な負傷をして後方へ下がってやりまして。
それからまた、そこを占領しましたので、それから2、3日向こうへ進んでましたらまた敵がそこへまわって来て、せっかく大勢戦死をしたり負傷した、難儀して占領したとこをまた取られまして。それからわたしらはまた後へ引き返してもって、そこを取り返して、それからそこへ行くようにして、しないと向こうが人員がだいぶ増えまして、なかなか向こうへ攻めるのが困難になりましてな。

おお、ポートモレスビーの明かりが、やっぱここらで言ったら東京みたいに一番良いとこですけ、やっぱ明かりがな、だいぶ明かりがついておるやつを、高い所から「あそこじゃのー」いう。まあ、歩いて4日5日したら行くくらいな、近い所まで行ったんですね。
それでもう、そこまで行きましたけど。それより、背後から命令が来てますけんど、電話なんかないけんな、要するに、どんどんどんどん戦争。「第一線は戦争止めて、どこそこへ集結をして、もう戻れ」言うような、「退却をせい」いう命令がな、2~3日前にきますけんど、第一線にはわかりませんのよ。そやけん、まだ戦争はやまっておらん思うてな。

Q:そのポートモレスビーの光が見える所までやっと着いた時は、皆さん喜ばれました?

そうですわ。もう、いよいよ、あそこまで進めていたけん。「もうこれは戦争に勝った」思うてな、おりますけんな。もうそれで、向こうが近いとこまで退却するのでな、色々缶詰や食べ物やなんかも残して逃げておりますので、それをこっちは拾って食べたりして元気ついてな、「もうやったぞ」思うてな。もう南海支隊、南海支隊ばかりじゃない、他の山部隊とか他の工兵隊とか一緒に、後から来てもろおた人も喜んでな、「もう戦争は勝った」思うてな、おりました。そやけんど、いけません。「はよう撤退せよ」いうとこで、ああいう中にはな、色々出回っとるんで、南海支隊はしばらくやったけ、仙台の青葉支隊と交代になるけ、もう、砥部のミエノヨシヒロさんいう人も「和気の、わしは召集じゃけ、帰ったらすぐに満期になるとわかっているが、わてらも、もう5年兵になったけ、もう一緒に満期になるけ、何やかにや皿鉢を記念に焼いてやるけん」の言うて、言うてもらうましたんな。

よっぽどポートモレスビーに近いとこまで一番先の人が行きましたけど、もう退却をせにゃいかんに、何十貫何百貫という大きな砲を撃っておりましたけど、それを砲を埋めて。もう担いで逃げるって言ったってなかなかですけん。それで、「もう退却をせよ」ゆう命令になったから、砲を土の中に掘って埋めて。

今度少佐という金筋4本で星1つの人が、陸大の試験に受けなはるので戦争最中に任務から帰られて、また他の大隊長がこられてな。そんなようなことになりましたが、次第と向こうに進むのが難しくなるし、それからガダルカナル島の方や他のソロモン群島の方が負け戦にひどいからもう、「こっちは撤退してもとのギルワの方へ帰れ」という命令になりまして。

それからまぁ2大隊長は、今言いますように陸大の試験を受けられるので帰られて、試験を受けられたか受けられんかはもう兵隊ですに、負け戦やけん、それはもうわかりませなんだが、陸大の試験に通られましたら、まぁ一番下のもんでも少将ぐらいにはなれるような話だったがな。

今度は退却する側が骨折りだった。敵が今度、こっち逃げるもんじゃけ、向こうが今度また大きな音を・・向こうの方が、こっち負けるより、向こうが敵がだいぶ来ましたので。そやけ、勝って、勝ち戦のときと変わらんほど(のスピードで)後まで下がる、早うによう下がるんですわ。ああいう中に出て来ては邪魔するもんですけんな。弾撃ついったって弾ないけん。あんまり撃ったらないようなるけん。またいつ弾が来るかわからんけ、機関銃も捨てたらいけんけん、やっぱ、10日も15日も空の、弾が一つもない機関銃を交代交代で担いで逃げたんですけんど、もう最後に、負け戦いうことわかったけ、中隊長はもう捨てよって言われて。

そいでもう、負け戦ですけん。始まりは勝って往きましたけど、なかなかこっちは、大勢戦死をしておりますけど、向こう(豪州軍)はもう戦死者が少ない。向こうは退却して2~3人しか戦死をしておらんのに、こっちは何十人というように戦死をしましたので、もう近道回っては攻めてきたり。しまいには大きな川が毎日毎日大雨が降って意外なこと水が増えましたので、それでもう一週間も食料を食べておらんので、うちの部隊は「おい、おい」言うても、もうすぐ流れてしもうて。行けなんで。いかだを、「いかだを好きな者同士が帰る」という中隊長の命令で。もう弾薬もないので機関銃を最後捨てて。「戦友を担ぐのがこの人数ではございません」というては参謀のところへこう言い継ぎに、逓伝(ていでん)といいますか。口頭でしまいに、何百人という者がうだっていて「何中隊は何名兵隊を出せ。戦友を担ぐのに何名出せ」というふうに。そして「砲を捨てよう、機関銃を捨てよう」いうような、で、もう弾がないので何日も機関銃を担いでどんどん逃げては、ちょっと4~5日後方へ戻ってはまた陣地を構築して、敵が来るのを防いでは、もう戦友をみんなが担いで逃げましたけど、最後はまた海の方から艦砲射撃にやられて。日本軍はこっそりと上がりよりましたけど、向こうはもう正々堂々とどんどんどんどん、こうで、もう木も何も枯れてしまうほどやって、やられてしもうて。

わたしは2大隊長が戻られたからあとは、もういよいよ次第と後方の方へ下がって、なかなか行けんので最後はうまの合うた者同士がいかだを組んで、「下がれ」いうて言われまして。

それからいかだを組んで、その人と2人が組んで後方へ下がりましたが。わたしの4人ほどは下がりましたが、わたし一人現役で、あとの人は召集兵で。あそこの砥部いうとこの砥部焼いうとこのな。その愛媛県のそこの人とそれから周桑郡(愛媛県)のヤマウチタダオさんゆう人と、高知県のタケマサいう上等兵と、3人はわたしよりなんぼか年上で召集兵の人でしたが、それ4人が、いかだを組んで戻りよりましたら、こがいな曲がったところへ突き当たって止まりまして。ちょっと3kmぐらい最初上がったところから3kmから4kmぐらい下に下がった時にそがいに止まりましたので、ロープで背のうを全部組み付けて、4人のやつをやっておってひっくり返しましたら、みんなが、みんなの装備はありましてな。それからもう中隊長が全部こっちの川へ下るときに右側の方へ居て、こっちいたらえぇ。それから広島のヤワタいう人等はまだ今日が今日まで食料があって食べておりなはって、お水に流れよりましてのでどんどんどんどん泳いでこっちにな、着きました。わたしらはもう、わたしらの中隊の者は全部飢っついて何日も食べておりませんので、もうそこへはまったら流されてしもうて、向こうへよう着かなんで。
それからもう東側にもう1人はどんどんどんどんおって「助けてくれよ」いうたって、いかだに乗って。毎日雨ですけん、おおけらどんどんどんどん水が流れてしもうて、どうすることもできなんで。わたしはそして向こうへそれから何日も歩いて、で、それから1週間くらいかかって、よっぽど死ぬまで海岸まで着いたんですが、初代の(堀井)富太郎少将と参謀殿がカヌーという、ちょっと船みたいなものに乗って、当番と3人がニューギニアの沖へ流されてしもうて。
そして当番は若いけん泳いでニューギニアまでまた着いたんですが、支隊長はもうしばらく泳ぎなさったが、参謀はよう泳ぎなさらんもんで、みるみるうちにもうさっぱり沈んでわからんようになってしもうて。
そいから支隊長はあの「天皇陛下万歳」でもうそれ力尽きて。もう100mか200mかしたらニューギニアにまた、海岸に泳ぎ着くんですけど、もうやっぱそがいな偉い人ですけん年を取っておられますんで、やっぱもう力尽きて亡くなられて。

Q:どういう状況で負傷されたのですか?

それは迫撃砲というダーンいうて音がして、ここに落ちるのは何秒か後にくるようなの。機関銃は撃ったら近距離300mくらいの所が一番当たるのですが、迫撃砲ゆうものはいったん向こうに撃ったから何秒かしてあとから、音がしたからあとに弾が落ちるんですらい。それにその破片がはまって、ここへこう枝木をこって、そして・・・いうて川の中へ泥がぼらんようにな、芝みたいな葉っぱがあるものを切ってこう、どこぞこれぐらいから少し長いようなものを泥の下へやって、そして泥をやってこう水が漏らんようにするようにやりよりましたら、仕事をするというとこが出物みたいになってふしゃふしゃになる。またやめたらまた乾くゆうように繰り返しました。山行ってやりおったたらそのカパカパと跳ねて、見たら歯の欠けたやつが骨が欠けたやつが出ましてな。それからはまぁふしゃふしゃせんようになりました。

Q:ギルワ陣地は、敵は近いとこにいるんですか?

敵は近いとこにもうおったんですらい。もう向こうは余計戦死をしとらんので初めからこれはもう負け戦じゃ思うておりました。もう向こうはな退却をするんですらい。こっちは何十人も戦死をせられておるのに、向こうは格別死んでおらんのです。戦死した者は少ないんです。じゃけんもうやっぱ予定のもう、なぶられ放題なぶられてな。あい中からどんどんどんどん来るもんですけんもう、その一号無線ゆうのは重たいもので、それで台湾の義勇隊が応援を担うてはな、やりおりましたが、もう三号無線があったら後方となんぼでも連絡が取れるゆうてな言われて一号無線を捨てたんですらい。
それからもう近いとこいなんずくに反対の方向へ向けて行くもんじゃけん、戻り下がりよったやつを、また戻り向きで向こうへ行くようなことになったんでしょうかなぁ。もう一つもその連絡が取れんようになってな。いけんのですらい。そいでもう次第次第と戦友を担いで歩くのも、道がないとこを何百人も歩きますので、ここ逃げたゆうことすぐわかるように道つくんですらい。大きな男が歩いたらな。そいでもう向こうは、そいで大きなことを後からわかったことですけど、何個師団も上がったいう事をな。

ギルワが一番戦死者が多いですわい。それからもう、病院でもマンバレーというとこが、だいぶ死んでおります。それでな、もう負け戦で病院がなかったですけんな、その、早うから負傷しておった者はな、ラバウルへ下げんずくに、そこへおりましたけんな。そいでまあ、ギルワが一番多く死んでおりますわ。もう、ほとんどギルワに死なれた人多いんです。
また、どさくさに誰も彼も死んでもうて、誰が死んだやら知らん人がだいぶあって、それで名簿に載っておらん者がだいぶあります。やっぱな、大概、几帳面にやっておられますがな、それでもなかなかな、なかなかわからん。

食べるものな、食べるものがないけ、もう豪州の戦死体を食べたりや、草や木の葉を取って食べたりや、するようなことになったんですらい。もう餓えてしもうてな。そやけ、あの人元気なか、どうてやろ思うたら、そがいな人を食べたりした人が元気なかったなあ思う。米がギルワでな、もうわたしの部隊はヤマモト曹長さん以下17名が入院しとりましたが。そいて、わたしがなかんずく、ここを負傷しているだけで、まあ一番、わたしより若い者が、1年2年下の者がいておりますけんど、わたしらがなかんずく元気なかったけん、そいで衛生兵の所へお米をもらいに行くんですらい。もらい行ったら、「何名ぞ?」になるけ、17名ですらいて、戦友が死んでも、やっぱ17名です言うては余分にもらうんですらい。そいで、衛生兵が17名言うたら一升七合くれるやつを、またちゃっとこうやって余計くれるんですらい。そいつを戻すらに、弾がシュー飛ぶですけん、いつやられるかわかりませんけ、生米をかじるんですが。そやけ、16名なったら、17名なっとりますけ、一合自分は取るんですらい、な。

もう、いよいよ苦労してな、着るものももう、ハンパツみたいになってちぎれてしもうてない。髪も伸び放題になっておりますけんな、もう軍司令官が来られた時に、ようやくヒョロヒョロしてな、その時分よりもまだマンバレーいう所に戻った時の糧まつがだいぶ、まだそのころはありましたけ、後方の方には。そいでドラム缶にご飯を炊くもんですけ、本当に炊けんのです。そいで御飯が芯ができて、本当に炊いて、炊けてないもんじゃけ、それを食べて、今寝なかった者は食べ過ぎてお腹が悪うなって、それが元で死んだりやな、するようなことはだいぶありました。そして糧まつがな、もうやっぱ後方の方にはありますけど、第一線にはないのでな、そやけ、飢えて死んだものが沢山あるんです。

わたしはもう7月の23日から、あくる年の18年の4月の24日までニューギニアにおりましたけど、1回も友軍の飛行機見たことありません。そいでもう食料も弾薬も来んのです。向こうがゆうたように撃ち沈められてしもうて沈没しておってな。来ませんのよ。そいでわたしは最後に帰らしてもろうた時に、その乗った船ゆう御用船がもういよいよ悪い船でな。爆弾が落ちたらバーンゆうて、その当たりませんのにその振動でばらばらばらばらこがいに船の縫ったやつがばらばらばらばら落ちるぐらいにな。


もうわたしは、もう一回潜水艦が来たら、マンバレーからラバウルへはよう帰らしてもらったんですけんど、もう空襲が激しゅうて、潜水艦がはまらようになりまして、とうとうフィンシュハーフェンという、もういよいよ西の方の、ニューギニアの病院がまた点々として、向こうへ西の方へいて。そんときに軍司令官が来てもうて、昭和18年の4月の24日と5日とに戻らしてもらうようになって、24日に戻らしてもろうたんですけん。駆逐艦に乗せてもろうて、ラバウルとニューギニアとのあいなかまで戻らしてもろうて。もうそのおかげで元気に帰ったんですが。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1919年
愛媛県東宇和郡田之筋村にて生まれる。
1940年
歩兵高知第44連隊留学隊第1機関銃中隊に入隊。太平洋戦争開戦に伴い、第144連隊第3機関銃中隊としてグァム島攻略作戦、ラバウル攻略作戦に参加。
1942年
ポートモレスビー攻略作戦に参加。
1942年
ブナ作戦中、右腕銃弾貫通ほか、肩など6ケ所負傷。
1944年
第1機関銃中隊長 金子大尉より帰国の申告。満期除隊。復員。陸軍兵長。当時25歳。
1945年
再度防衛召集を受け、地元田之筋分隊長として松末分隊へ入隊。終戦。復員後は家業の農業に従事。

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