ホーム » 証言 » 久保 隆一さん

チャプター

[1] チャプター1 待ち構えていた連合軍  03:24
[2] チャプター2 コヒマの戦い  05:31
[3] チャプター3 撤退  02:38
[4] チャプター4 飢えと病の退却路  03:17
[5] チャプター5 丸木船に乗って  06:09
[6] チャプター6 戦場へ復帰  04:16
[7] チャプター7 イラワジ会戦  07:52
[8] チャプター8 生還  04:27

再生テキスト

早く一言に言えば、作戦は間違っていたとわたしは思うんです。というのはね、我々のビルマにおける戦力からして、それを、戦力をね、日本アルプスと同じぐらいの高さのある所を40…、30キロぐらいね、山を突破してインパールへ攻めるわけです。それで持っている物は食料と弾薬、それも我々の装備は英印軍に比べて非常に落ちてますから。それで英印軍の利点とするところは、ビルマからインドへ渡る国境を越えて、インド平野にいちばん近い所にインパールがあるわけです。だからインパール作戦があるということを、英印軍は既に承知しておりましてね、もし攻めて来たらインドを守るためには、インパールを守ればいいと。そういうんでインパールと、コヒマですね、その前哨です。コヒマを厳重な装備をもってね守ってたわけです。しかも、攻撃するまで期間が約半年ありましたからね、全部こちらが準備するまで。その間、英印軍はですね、英印軍は万端を整えて、日本軍を待ち受けていたわけです。そして戦後、本を読んでみますとね、英印軍の司令官はね、なるべく日本軍がアルプスの山を越えて来るんだから、疲れきってると。その時期に反撃に出ればいいんだから、それまで入って来ても知らん顔してろと、こう言うんですね。そうすると日本軍は疲れきっちゃうと、インパールに到着するまでに。案の定そのような状況でですね、

それでですね、いいですか。わたしがね、第一線部隊で、コヒマの前進陣地を攻撃しました。ところが前進陣地と言っても、敵はもう厳重な警護をして、塹壕(ざんごう)は掘ってあるしね、鉄条網はひいてあるし。もう攻めるのがね、なかなか攻めきれなくて。

コヒマ陣地の攻撃の前に、敵の前進陣地っていうのがあって、その前進陣地が敵の第一線なんです。コヒマの前に前進陣地があって。その前進陣地を我が中隊はね、攻撃。それでその攻撃で負傷したわけです、その敵の地雷で。それでそのときにね、もう隣の中隊長も戦死。中隊長2人やられちゃったんです、三個中隊のうちね。中隊長は3人とも全部やられちゃったんです。1人の中隊長は即死。それで1人の中隊長は胸をやられて。敵の機銃でね、胸をやられて。後方へ下がって、敵の銃弾で胸をやられて。それでやがて復帰したんですけどね。それでわたしと、3人の中隊長がそこで全部やられちゃった。それで何と言ってもね、敵の第一回の防衛で、しかもインドの最前線でしょ、武器弾薬はもう十分あるわけです。それだから猛烈な銃撃でね、前へ進むにも進まれなくなるんです、ものすごいんで。それで夜近くまでなって、ようやくそこを落としたわけです。それでね、ようやく落として、夜になって、いよいよ明日はコヒマの陣地を攻撃だと、こういうわけですね。ところが、わたしもコヒマの陣地の方を見たんですけどね、コヒマまでジャングルは無し、平坦地でねもう木1本無いんです、コヒマまで、その前進陣地からね。それでそこはもう半年も1年も前から、堅固なコンクリートによって陣地を構築してるわけで。コヒマとインパールをやられれば、インド平野に日本軍がなだれ込んでくると。そういうような状態ですから、英印軍とすると主力を尽くしてインパールとコヒマを守ってたわけです。それに対して我々の方は、持って行くものは大した装備も無く。アルプスを越えて攻撃しているようなわけですから、持って行った武器弾薬には制限がありますから、これを間もなく使い尽くすというような状況ですね。ですからね、わたしは思ったんですよ。これで作戦の要諦(ようてい)とするとね、敵の陣地を攻撃するとき、日本軍の砲兵をもって、敵の陣地をね砲撃するのが常識なんですよ。ところが何1つね、敵の陣地を攻撃するものが無いんです。

夜が明けて、我が中隊はね、そこで中隊長代理ナラ中尉以下、全員戦死。遺体は1つも無し。全員戦死。ですから、戦後我々の部隊で残ってる者はわたしらと同じに、コヒマを攻撃する前に負傷した者だけなんです。前進陣地で負傷しない人は、コヒマで1人残らず全員戦死。ですからね、無念残念通り越して、何とも申し上げようがないですね。無念残念は通り越し、そういう感情ですね。

わたしはね、初日の夕方負傷して、前線を退いて野戦病院に行く。全身約8ヵ所ぐらいの傷を、戦傷を負って、やっと命を保ったっていうような状況でした。それで担架に乗せられて野戦病院にね、運ばれたわけです。それで野戦病院で治療を受けた。野戦病院といっても、ただの天幕を張った、ジャングルに天幕を張った所だけです。それで軍医が毎日一回、包帯交換っていうので、傷のところを消毒に来るわけですね。消毒器を持って。ガーゼと消毒器を持ってね。それでインパールが落ちるまで、とにかく軍医も「我慢してくれ」と。「分かった」というので、それまで待ってた、1か月間その間、野戦病院で。ところがいくら経ってもインパールが落ちないので、ついに撤退するというので、軍が撤退するというんです。そこで、まず第一に戦傷者を後送しろということで、我々はとにかく、なるべく自力で下がれと。それでもし下がれなければ、手りゅう弾を渡すからこれで自爆しろと。それで手りゅう弾をみんな渡されたわけです。動ける者はとにかく歩いて撤退しろと、野戦病院からね。動けない者は担架に乗せて後退すると。それでわたしは担架に乗せてもらって後退したわけです。

とにかく飯を食わずに、戦病者ですね、いっぱい道に座り込んだり、下がれなくなって。中には今言ったような手りゅう弾で自殺する。それから小銃の引き金に指を突っ込んで、それで喉へ銃口を当てて自殺するとか。そういう音がね、ときたま聞こえてくるわけです。自殺してる音がね。それでね、わたしはねつくづく思いました。飯が、食べる物が無くて下がってる途中、土下座してね、歩けなくなって、「飯を恵んで下さい」って。まるで乞食が、乞食と言っては語弊があるけど、恵んでくれと言うので、もう拝み倒しているわけです。わたしはね、そういう拝み倒してる様子を見てね、このスーダジョー(?)をね、日本の親族がこれを見たらおそらく気が狂ってしまうだろうと、わたしは深くね思いましたね。何とまあ無残なことだろうとね。これで親が見ないからまだいいけど、親が見たら親が気が狂っちゃうと、この戦場の状態を見たらね。そう思いました。何も食べずに飯を恵んでくれと、拝み倒しているわけです。土下座してね。だからね、そういうのを見てね、こちらも何も恵む物も何も無いわけです。だから見て見ぬふりをして下がる以外に方法は無いわけです。

ところが昼飯時になって、昼食だというんでね、担架を担いだ兵隊は九州の124連隊の兵隊だったんですかね。それが飯ごうをのぞいてみたら飯は一滴もない。それで野草と、それから野に生えてるバナナの芯ですね。バナナの木の芯が柔らかいから、それを飯ごうで煮て、それを昼飯代わりに食べてるわけです。

そして担架でまたかついで下がったんですけどね、わたしはどうも、みんなに担架でかついでもらうのは申し訳ないと。ちょうど担架でかついでる途中にね、山の渓谷に落ちる小さい、人が歩くだけの道があったんですよ。それで山の谷を見たら、一軒家があったわけ。それで、「そうだ!」とにわかに思いついてね、その家に行って丸木船でも何でもいいから、土人にこいでもらって下へ下がると。そうして担架でかついだ兵隊は原隊へ帰ってもらおうと。そういうふうに決めて、それでわたしはね、ただし下がるにもそのまま下がれないから、松葉杖を作ってくれというんでね、それでジャングルですからね、ビルマは。ちょうどいい具合に竹を切って、竹を曲げて、両方につく松葉杖を作ってもらったんです、一個。松葉杖を作ってもらって、それで下の谷底まで下りて。案の定、家にはね土人がいました。そうして土人にね、話は通じないけど、この船で、そして下がって。こういうふうに言って、それで土人も「オーケー」と言ってね、それで土人がね、丸木船、木をくり抜いて作った船ですね、丸木船っていう。それに乗せてもらって、これで急流をね、山の中の川ですから急流を下って。時にはね、5メートルぐらいの滝があるんですよ。で滝を、ジャンプよろしくこう滑って。それでやっとこすっとこ、平地へたどり着いたんですね。そこで船をこいでくれたその土人にね、お礼を言って。「ありがたかった」と。それでお礼を言ってね、もうこれからはチンドウィン河の大河ですから、途中に部落はあるしね。部落で飯をもらって食べたり、お茶も作って飲めるから、そこで別れて。

ようやく兵站というんでね、軍の補給する基地があるんですよ。で、そこへたどり着いたわけです。そこでようやく飯を食べて、それから味噌汁を吸って。それまでに野戦病院で味噌汁なんて吸ったことないから。塩気が無いとね、人の体もぼーっとするんですね。頭がぼーっとするんですよ、塩気が無いと。そこで初めてね、塩気のある携帯味噌で味噌汁を飲んで。そうしたらね、風に吹かれて、秋風に吹かれたように汗がスーっとね、体から発散してぬけて、「あー良かった」と。味噌汁と飯を食べさせてもらってね。それから今度は、兵站の、軍の、ようやく10トンぐらいある船に乗せてもらって、兵隊も100人近く乗せて。負傷兵なんか乗せて。それで次のマンダレーまでね。マンダレーはビルマの中央都市ですからね。マンダレーの近くの所まで、その船で送ってもらって。負傷者がいっぱいそれに乗ってるわけですよ。それでそのマンダレーで野戦病院に入院したわけです。

野戦病院までね、たどり着いた人は、まだ体力がある人で。ほとんどの人がね、野戦病院に入るまでにね、みんな死んじゃったわけです。戦傷者は。わたしみたいに船で思いついて、先に家がある、谷底に家があれば人が住んでると。人が住んでいれば船があるだろうと。そういう発想のもとにそこまで行ったですから。だからね、もう野戦病院自体に入った人は命をつないだ人ですね。それまでにほとんどのたれ死に。負傷者はね。だから何万という戦死者が出たわけです。のたれ死にですから。

そうしてわたしはね、今度はビルマだから、サイゴン、仏印までね、仏印まで下がったんですよ。で仏印まで下がって、そこから重傷者は船が来たら日本へ還送すると。それだけど軍医はね、とにかく日本へは帰らない方がいいと、サイゴンからね。「必ず敵の潜水艦に撃沈されちゃうから。番が来ても帰らずに、病院にそのまま残ってろ」と、軍医はね。そんなようなわけで、しばらく残ってたわけです。で、体も少しね、3か月か4か月したらようやく回復して、歩けるようになったんですよ。そうしたら今度はね、サイゴンの軍の方から「ビルマがだいぶ危険な状態で危なくなってきた」と。「退院できて参加できる者はビルマへ復帰してくれ」と、こう言うんですね。それでね、わたしにサイゴンの軍司令部は「飛行機を用意するから、それに乗ってビルマへ復帰してくれ」と。傷は治ったけど、喉をやられてから、声が出ないんですよね。それでも「ビルマが陥落するかどうかの瀬戸際だから」と言って。飛行機を用意するからって言うんで、わたしは少年飛行兵の操縦する九七式偵察機っていうのがあって。九七式偵察機っていうのは二人乗りで、操縦士と後ろに偵察者が乗る。で、その偵察機に乗ってね、まずサイゴンからタイまで、サイゴンからタイの首都まで飛行機で一日がかりで入って。翌日また飛行機で、いよいよビルマ入りをして、ラングーン飛行場にね、到着したわけです。でそれから先は、もう戦闘状態ですから。列車は通るけど、敵がよく銃爆撃に来るんです。それでね、銃爆撃を2、3回。銃撃、飛行機で銃撃するわけですね。低空飛行で。列車めがけて。それでそれをよけて飛行機が帰ったら、また列車が進発して、ようやく列車で戦地の第一線近くまで着いて。それでそれから、歩いて第一線部隊まで復帰したんです。

で、軍はイラワジ決戦をすると。で、イラワジ河をもって防衛線とすると、そういうので。わたしの来た58連隊もイラワジ河畔に防御陣地を展開したわけです。ようやくそこへたどり着いてね、それでイラワジ河畔の防衛をして、約2、3週間経ってから、敵が総攻撃をまた始めたわけです。で、何といってもですね、日本軍は砲兵もあって、野戦重砲も後ろに展開してるんだけど、一発も撃てないんです。年中ですね、四六時中、上空をね、飛行機が、偵察機が、観測機が、巡回、低速で巡回してて。もし撃てばそこの戦地でね、敵の砲兵がそこへ向かってね、すぐ砲撃を開始するわけですね。そんなようなわけで日本の部隊は砲撃もできなかった、実際問題。それで防衛陣地を敷いて、機関銃による、小銃・機関銃による防衛線ですね、それをひいてたわけです。それで敵はですね、我々の部隊の左前線ですね、左約1000メートルぐらいの地点の部隊。それは弓部隊(33師団)だったと思うんですけどね。部隊に向かってね、重点攻撃を始めたわけです。それでものすごい砲撃でね、とにかく間断無く何百、何千発といったぐらいにね、とにかく砲兵が撃ちこむんです。それでもう砂埃でね。砲弾が着弾すると砂埃で、もう先は見えないです。ものすごいんでね。そういう攻撃をして、敵の上陸舟艇でね。隣の・・・あがって来たわけです。それで我々の陣地の前は敵がこなくって。それで我々の方はね、取り残されちゃったわけです。それで重点攻撃の部隊の方へ、敵は、英印軍はね、どんどん攻撃をやって。これでたちまち英印軍にやられて撤退を余儀なくされちゃった。我々の方は取り残されちゃって。今度は、取り残された部隊は、今度は軍の命令でね、ビルマの北部のメイミョーっていう所があって、で、そこに元陸軍病院があったんですね。その方に向かってね、日本の部隊は平野から山際へ向かって撤退しろと言うんでね、撤退を始めたわけです。ところが我々の部隊は取り残されちゃったから、今度は敵の掃討部隊に追いつかれて。それで我々はね、昼になるとね、敵の戦車と砲兵と歩兵の攻撃を受けたんです。で、夜になって、敵が休んだところを見計らって山際まで撤退をする。約2日間ぐらい、そこまで行くのにかかってね、ようやく山際。敵も、それからは山際だから、肉弾戦になりますから入って来なかったんですがね。そこで終結したわけです。

で、我々の部隊はね、まずものすごいんですよ。敵のね、包囲を昼間させてるでしょ。それでわたしはね、みんなね、際まで行くまで敵に包囲されちゃってる。自分のね、夜明けまでに自分の入る穴を掘れと。自分の入る穴だけ、小さい穴を掘ってこう中へ埋もれて小さくなってろと。それでね、円形に陣地を作って、みんな丸くなってそこで夜明けまで。それでその上へ背嚢、飛び散った弾を受けるのに背嚢を頭の上に乗せて、穴の中に。それでね、昼間は過ごしたんですよ。それでね、敵の砲撃がやっぱりものすごいんでね、入ってても息ができないぐらい。だけど不思議なもんですね。その命中するっていうのはね、あれだけ砲撃を受けながらね、命中弾はね受けなかった。誰も負傷しなかった。

それでね、こちらはね、この小銃の先に付ける、この手りゅう弾は、ドイツからもらって、潜水艦がもらってきた、タダンとか何とか言うんでね、特別の手りゅう弾だったのね。でこれを銃口に付けて、戦車に目がけて撃てば、戦車に当たればね、熱で戦車の肉を溶かしてね、中へ浸透して中で爆発する。それがその通りにね、撃った弾が戦車に当たってね、敵の戦車に当たって。敵の戦車に命中して当たって、敵の戦車がどーんって一度に敵の弾が爆発してね、中に収納してた。戦車に引火したの。それで中の搭乗員がね、2、3人戦車から吹き飛ばされてね。それでね、敵の戦車はね、それからあんまり近づかなかった。

まあ複雑な、わたしの気持ちはあります。助かって良かったと思う面もあるが、それ以上にみんなに対して、全員戦死ですからね、全滅ですから、申し訳ないという念でねいっぱいです。ですからね、戦後、全体会があるときは、すれ違ったときは、たいがい赴いて、主に高田(58連隊の駐屯地)ですからね、連隊がね。慰霊祭にはたいがい参加しました。ところがその慰霊祭に参加の人は、さっき申し上げたように、みんな第一戦の、第一回の戦闘で負傷した人ばかりです。全員戦死しちゃったんですから。

早死にさせちゃって申し訳なかったと。わたしは九十何歳まで生きのびて、みんなは二十歳代の若い青年で命を落としてしまった。申し訳ないと、そういう念でいっぱいですね。ですからね、慰霊祭があれば、必ずと言っていいくらい参加しました。

弾が入ってるんです。

Q:どこにですか。

ええ、ここに傷跡があると思いますがね。

Q:ちょっと見せて下さい。

弾が入ってる…。それで戦後もね、足が悪くなって手術をしたりね。手術やり直ししたり。全身8ヵ所ぐらい。この傷で松葉杖を作ってもらったの。この中、まだ2発刺さってる。レントゲンで見ると。だけどね、軍医とか医者はね、ここを手術したんですよ。もう最後はね、下がってくるにも歩けなくなっちゃってね。それで野戦病院でね、野戦病院って言っても、もう終戦間際でね、終戦間際で茅葺き(かやぶき)の現地の家で、蚊帳をつって蚊とかハエが入らないようにして。その中にまた天幕を張って、ごみが落ちないようにして。そうして発電機によってね、発電機によってここを照明してノミで手術したんです。それでようやく終戦になって。病院で終戦になっちゃった。そこで治ったんです。

Q:今も痛みますか。

いや、もう大丈夫です。もう全然大丈夫。戦後家へ帰って来てからね、腰が化膿しちゃって。腰がね、ここのところがね。そうしたら中からね、自分の着てた洋服の破片が出てきましたよ。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1918年
埼玉県深谷市にて生まれる。
1940年
陸軍士官学校卒業。少尉として第58連隊に配属。
1944年
コヒマ作戦当時、26歳、大尉。
1946年
復員。復員後は銀行およびその関連会社に勤務。その後、書店を経営。

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インド(コヒマ)

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