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タイトルタイトル: 「“地獄”が待っていた」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~
名前名前: 竹中 直輝さん(第15師団 戦地戦地: インド(インパール)  収録年月日収録年月日: 2009年6月1日

チャプター

[1]1 チャプター1 インパールへ  01:25
[2]2 チャプター2 白骨街道と呼ばれた退却路  02:56
[3]3 チャプター3 月参り  01:34

チャプター

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わしら14年兵(昭和14年に兵役についた)はね、4月の29日にインパール入って6月に満期っちゅう、そういうあれで、まあまあ、噂や。それで行ったわけで。で、またそうやったんでんねん。行きしなは、よかったわけや。ところが行ったあとが途端に、そんなうまわけいかなんで、帰りが大変や。ほいで皆が、やられたっちゅうことですな。ほんで、行きしなはそんな地獄が待ってると思わしまへんがな。満期や満期や満期や満期で行けんのやちゅうて、初めて喜んで行った所がそんな所やわな。

われわれあの将棋の駒と一緒ですねん。「あっち行け」、「こっちへ突撃せい」て。それ、それしかおへんやないかいな。下級、下士官、将校て、みなそれですわ。ほんであの後でやね、無謀やったなと思うけどでっせ、しかしそんなことわれわれ兵隊はそんなこと言うてられしまへん。言われるとおり、こう、将棋の駒と一緒、おまえこれせい、あれせい、これせい。もうそれしかおへんやないか。そいでみんなやってきたわけですわな。

インパール街道ちゅう、あの下がってくるときでっせ、靖国街道、白骨街道ちゅうて、よその部隊は下がりますわな。ほしてあの独歩患者、歩ける患者が下がってきますわな。そんなもん皆死んでますやんか、食うもんあらへんさかい。ほんでそこいらの草食ったり、あんた、そこらの草みな食うんですよ、柔らかいもん。ほいでバナナなんてのはもう青いなりあらへんさかいに。ほしたら田舎のやつは偉いですわ。木倒せっちゅう。で、中の木ですな、柔らかいとこありますわ。それ、とにかく柔らこうて口に入ったもんやったら、何でも食わなしゃあないがな。で、それ食う。ところがね、半年も体拭くも何もできしまへんやろ、汚いどころやない。もうシラミも湧かへんわ。シラミわいたらシラミ食わんならんもん。そんな状態ですさかいね。ほしてあの、それであんた、みなかわいそうに。で、こっちも、んな言うたって、こっちもあんた、杖ついてでっせ、杖ついてあんた、いつどうなるやわからしまへんや。そいでふた月、70日ほどね、チンドウィン河って渡してもろて。ほで初めて後方勤務がおりまして、そこで一握りの飯をもろたんや。普通の飯でっせ。ほしたら何ちゅうたと思います? 「うわあ、飯や、白米!」 あんた、どない思います? 普通の飯でっせ。「白米や!」ほしたら後ろにおったもんが、「ああ、死による前に一口でええさかい、あいつに食わしてやりたい」って。今でもそれ忘れまへん。一口でええから死による前に食わしてやりたいと。白飯をでっせ。

それとね、あんた人間死んだらね、これかまへんかな、言うて。え? 最初はね、腹が膨れんですわ、ガスが。え。ほしてでっせ、しばらくするとベチャーッと腐ってきよるわけや。ほしたらペタッとなりまっしゃろ。ほしたら顔が真っ黒になりますわ。ところがね、真っ黒けのそのままやったらええのんですけどね、雨に打たれて半分骸骨かになっとるんやな。あんたそんなの見とみやす。びっくりしまっせ。それとね、ウジ虫がわきまっしゃろ。ほうすっと、口やらこういうとこ先食いよるわけや。死んどんの見てると。そんなもん見たらでっせ、ああ、こんな死に方したないなあと。うちのもんが聞いたらどないやろかと。同じ死ぬんやったら、砲弾で当たって木端みじんになって死にたいなあと思う。そんなやったです。

生きて帰っただけましですわ、ほんとに。それぐらい思わんとね。自分一人でこう生きたと思ったら、そら間違いでっせ。つまり実際において助けてはもらわんでもでっせ、やっぱりみんなの力っちゅうもんがあって、帰ってこられた。わたしはそう思ってます。わたしらも2回もこれやられてでっせ、ほいで来てですわな、そいでもだれかに助けてもらったってないんやけどね、やっぱりみんな戦友の力です。ほんと、わしは思ってます。ほいで、まあいつも来られるだけ来ようと思って、いつもこう来てるわけですね。

それとね、今でも思うのはわたしらはね、14(14年兵)で一番古いさかいね、帰ってからでもでっせ、まあ勲章も、ま、勲位もみなもろうてますわな。ところがね、当時あの時戦死した者とか、いわゆる病死した者がようけおりますわな。そういう勲位が何もないんですのや、かわいそうに。ほんでせめてあう人でもでっせ、勲8等でもいい、勲7等でもいい、わし、あげてほしいんやね。ただ、遺族の人には遺族年金ずっとこれね、もろうてはりました。せやけど、そういうことがないちゅうことは、わたしはかわいそうやなあ思いまっせ。

出来事の背景出来事の背景

【インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~】

出来事の背景 写真陸軍第15師団は、京都府と滋賀県出身者を中心に編成され、総兵力は2万。
昭和19年(1944年)3月に始まった「インパール作戦」に投入された三つの師団のうちの一つである。
「インパール作戦」は、ビルマ方面第15軍司令官牟田口廉也司令官が、戦況を一気に打開しようと考えついた作戦で、連合軍の補給拠点、インド東部のインパールを攻略しようというものだった。
31師団が、インパール北方の拠点「コヒマ」を攻略、33師団は、南のう回路からインパールへ、そして、15師団は北側からインパール攻略を命じられた。
大本営をはじめ、陸軍内部は補給を軽視したこの作戦の成功を危ぶんだが、牟田口司令官は強硬に主張し、作戦開始が決まった。

3月、インドとの国境を流れるチンドウィン河を越えて、作戦が始まる。将兵は重い荷物を担いで、3000メートル級のアラカン山脈を越え、作戦開始から10日目に、サンジャックで連合軍を退け、コヒマ-インパール間を遮断した。
しかし、インパールを取り巻く高地に近づいたところで、最新の兵器で反撃を受ける。「セングマイ高地」では、連合軍の最新の戦車に蹂躙され、肉弾攻撃に踏み切らざるを得なくなり、多くの兵士が命を落とした。
6月に入ると、コヒマを攻略していた31師団も苦境に立たされ、ついに佐藤師団長が独断で撤退を開始、31師団からの援軍を当てにしていた15師団は大混乱に陥る。

15師団にも、7月には退却命令が出されたが、その撤退は悲惨を極めた。飢えと病気で兵士たちは次々に倒れ、その撤退路は「白骨街道」とまで言われるようになった。

19年末、連合軍とのイラワジ会戦を戦いさらに大きな損害を受け、タイまで後退して終戦を迎えた。師団将兵2万人のうち、1万5000人が亡くなった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1919年
京都市上京区浄福寺中立売下ル菱丸町にて生まれる。
1939年
60連隊に入隊
1944年
インパール作戦に参加。ビルマ、タイと戦闘に参加。
1945年
バンボンで終戦を迎える。当時25歳。軍曹。
1946年
浦賀にて復員。復員後は、紋彫り業を営む

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