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チャプター

[1] チャプター1 ソ連軍の侵攻  02:41
[2] チャプター2 山の中の敗走  02:02
[3] チャプター3 ようやく知った終戦  02:10

再生テキスト

Q:どんなところでした、アルシャンって。

気候としては寒いところだしよ。それから、その宿舎以外に建物ないしよ。行け、と言ったって、つまんねえもんだしよ。ほんとにアルシャンっていうものもな、何もねえとこで。

Q:訓練とかは、どんな感じでした?

訓練? 兵隊の訓練は、毎日、1か月。駄載車ってよ、馬につけたり落としたり、組んだりよ、大砲組んだりよ。みんなで、5、6人で大砲押したりよ

それまでは陣地構築。戦争が始まるっていうときだから、8月の…

Q:8月9日に戦争が始まったんですよね。

だべ? 8月9日、8日の7日の晩かね、夜は。7日の夜だか、その前に陣地構築、みんな・・・行ってたんだ。で残ったのは病者と、でそれから炊事班、そういうのは残ったの。

低い山の方から来たのよ。30台もそろって。戦車。日本の倍もあった。大きくて。それがこう30台も来たもんで、やっ、これは大変だもんで、んで、穴掘って、入ったもんで。

Q:待ってるときっていうのは、穴に入って待ってるわけですよね。

穴掘るもの。待ってる。

Q:どんな気持ちだったか、覚えてますか。

んまあーどんな気持ちって、やっぱり死ぬ気で行ってんだから、ここで死ぬのだなあって思ってよお。

Q:今のようにタコツボに入って、戦車が来るの待ってて、その後っていうのはまた戦車が来なかったから移動したわけですよね?

移動した。それで西口(シーコー)に向かったんでねえかな。

食べ物っていうのはまだ、考えなかったし、班ごとで、飯ごうさ飯炊いてよ。まず、いちいち、かれんだからよ(そのつど、そのつど、ご飯もたべられるから)。3食、食ってたんだから。そんだかちょっと飲んだったから・・だもん。んだ、食べられないなんて考えなかったな。あの時代。


Q:その山中を行軍して号什台の戦いの時のことを覚えてますか?

号什台あるす。号什台は、山と山の間歩いたもんだ。それで、7中隊だが何かやってたんだ、号什台の山の上にな。それで、いま1門ていうわけで、おらだ(陣地)取ったから上がったんだべ。あんときはよ、偉い人みな上がったんだ、8中隊では。おらの8中隊ではよ。


Q:で、その、号什台のとき沢山撃ったっていうのは、音とかは聞いてたんですか?

いや、聞こえなかったな。まず、その号什台の下はよ、かなり傷んであったから。兵隊の死骸でよ。

Q:あの、号什台の戦いのときはやっぱり、そういうふうに勝ってたって感じなんでしょうか。どういうふうに思ってました?

だなあ。こうさよお、「勝った」て言われても(自分は思ってないけれども)、ここに「勝った」というふうに書いてあるんで(「勝った」ってことじゃ)ないの?

Q:戦争終わったときの様子って知ってますか?その、飛行機飛んできてビラまかれたとか。

ああ。

Q:見た?

うん。イントールで。あそこで、敵兵のあの、飛行機が来てばらまいたんだ。日本はな、戦争は負けたなんとかってよ。

みんな「負けたって、うそだ」って言ってたけどよ。おれは「当たり前だ」って言ったから。おれは、「このざまでは当たり前だ」って言ってたから。

意味なんて一つもなかったね。だから、なんのための戦争したかと思うけど、人口勘定で人殺さねばならんと思ったて考えたりよ。そんなぐらいしか考えなかったかなあ。

俺は8月の24日の日か。丸3年でな。丸3年で、8月24日に帰ってきた。

帰ってきたときは、ありがたかったけど、仕事がなくて、これ死ななくてはいけないなと思って、やせて。毛布一枚背負って。あと飯ごうと薪(まき)しか、今残ってないでよ。あとボロボロの服着て。本当に無残な帰りでよ、本当に。

Q:そのとき、日本っていうのは、もう変わってました?

変わってたね。もう仕事はまだひとっつもなくてよ。仕事なくて、何して暮らそうっていう中での。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。
107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1924年
山形県東置賜郡吉島村にて生まれる。
1938年
吉島村高等小学校卒業。卒業後、地元地主に奉公4年、徴用で横須賀海軍工廠に2年ほど勤める。
1945年
現役兵として第107師団野砲兵第107連隊に入隊。満洲で参戦してきたソ連軍と戦う。
1945年
終戦。当時21歳。1等兵。イントールで武装解除後、シベリア抑留
1948年
復員。復員後は農協に勤務。その後、建設業に従事

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台)

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