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タイトル 「参謀からの玉音盤捜索命令」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~
氏名 相浦 紀一郎さん(近衛師団 戦地 日本(東京)  収録年月日 2010年2月8日

チャプター

[1] チャプター1 「御文庫」  03:24
[2] チャプター2 「宮城警備」  04:15
[3] チャプター3 玉音盤捜索  10:58
[4] チャプター4 ニセ師団命令  02:52
[5] チャプター5 師団長の殺害  11:08
[6] チャプター6 中隊長としての終戦  05:40

再生テキスト

宮城の中に御文庫っていうのがある。コンクリートの防空壕と思ったらいいよ。それがね、昔500キログラムの直撃弾に耐えるような、そのセメントでつくってある。そいつを500キロじゃだめだと。1トン爆弾で大丈夫なようにしろというんで、1トン爆弾にダイリするように、それを近衞師団が、特に1、2連隊ですよ。もうそばなんだから。で、その営庭にだね、ミキサーを置いて。もう何台、十何台ミキサーを置いて、で、そこでセメント混ぜたやつをだあっと兵隊が押してくんだから、トロッコで。それでこう宮城との境目に塀があるんですよ。英国大使館に行く道があるでしょ。あの道の向こうに宮城の塀がある。その塀を壊して、それでそこにトロッコをこう線路を置いて、それでそのナベトロってやつで、トロッコにセメントいっぱいにして、だあっと持ってって、それで落として、それで帰ってくると。違う道でね。だからそれを約2か月か3か月、その宮城をまず丈夫にせないかんと。それがもう近衞師団の大切な用事っていうことで、2か月ぐらいかかったよ、あれ。もう徹夜で。だから兵隊さんは、我々もうそりゃ毎晩じゃないけれども、その当時、順番、もちろん時間割決めたからあれだけど、もうほとんどずうっとやり続けたわけだから。60日ぐらい。

古賀参謀っていうのはセメントで天皇陛下の御所を固めるときでも、みんな参謀なんだから、彼が。だから師団長と、森師団長と2人がやっぱり部隊に来るし、それから命令も下すし、それから「ご苦労さん」って言うし、これをね、そういうことをみんなその師団長、参謀っていうのは気を使いながらやってましたよ。

師団長というのはね、森赳という人。この人は、コンクリートで、ミキサーで、うちの連隊の庭にだね、全部、そのうミキサーで、宮城の中へこうコンクリートをミキサーで持ってくるでしょう。その夜のときに、「みんな大変だな」というんで、師団長は夜1時か2時に行くんだよ、真夜中の。24時間(連続工事)なんだから。そのときに北畠(近歩2第1大隊長)という人は、同じく自分の部下のために1時2時がいちばん大変だろうというんで行くんだよ。その2人が会うんだよ、そこでよく。で、北畠というのは森師団長の信頼を得たわけだよ。得てるわけだよ。

近歩1、2連隊っていうのがあそこにいると、全滅する恐れがあると、爆弾その他で。だからみんな散れというんで、もうみんな、もう各中隊を単位にしてみんな連隊から出て、みんな外へ出たんだよ。で、僕はたまたま(第3大隊)第3機関銃中隊っていうのは、これはね、明治中学っていう中学があったよ。駿河台の崖(がけ)の下。今でもあると思う、明治中学っていうの。で、明治中学校っていうのの部屋を借りて、そこに1個中隊入って。で、その横に駿河台の大きな台地だから、あれ。あそこに穴掘ったの。横穴を。

それで中隊がしょっちゅう一緒だけども、中隊以外の人と連絡とれるなんてことはないわけだから。それでその初めて14日の何時かに、午後2時ごろだね。2時の少し前ですよ、そんときに連隊本部から大隊本部に命令が行って、それで「1個連隊宮城に入る」という命令が来て、僕らはもうびっくりして行ったんだからね。それだから、その前にね、いろんなことを画策したとか、そんなものは一切ないね。もう飛び上がって行ったんだから、みんな。で、行って始まったのが、まあいわゆる宮城事件と、こういうことになるわけ。

普通は1個大隊で守るわけですよ。で、その近歩2の1個大隊が守ってるところに、師団長命令で「1個連隊入れ」という命令が来たわけ。その命令すらおかしいじゃないかというのが、ある本ではそういうふうになってるよ。「1個師団がもう反旗を翻してだね、1個連隊で入った」と。「それ自体がもう反乱だ」というような書き方しよるけど、それは違うんだ。それはもう近衞師団長の生きてたときだからね。近衞師団長っていうのは森赳っていう、これまあ大変、天皇のあれを守るのが近衞師団の責務だと、凝り固まってる人でね。凝り固まってるっていうか、もう非常に強い人ですよ。だから、その人がですね、生きてるときに命令してるんだから、その近歩、「近衞歩兵第2連隊、宮城に入れ」と。

明治中学校からトコトコトコトコ行ったんだから。それは各中隊みんなそうだよ。みんなほうぼう散ってるのがみんな。それで集って、それで連隊長の指揮下に入って、それで入ってったんだからね。それまでそんな話は聞いてないわけですよ、何も。

僕らはね、機関銃中隊っていうのはね、もちろん守護に行くけどね、機関銃っていうのは持ってかないのよ。みんなだから小銃だけですよ。だけど、あんときはね、やっぱりその連隊で入るときから、「機関銃持ってこい」ということだし、その機関銃を持って入ったんだから宮城の中にね。で、それがちょっとこれは異常だなというのを自分で感じたよ。連隊長が「機関銃を持ってこい」という命令だからね。これはちょっと違うなと。で、機関銃を持って入って。で、二重橋の裏側に、この広場があるんだよ。二重橋入ったとこに、正門ていうの。そこへ全部、機関銃置いとけということで置いたまんまで、あと、守護。行く人は門の衛兵の交代とかね、それはみんなあれば行くと。

古賀参謀が来てね、そいで「相浦、ちょっとこい」って言うから行ったら、

「北村(近歩2第2大隊長)がね、1個大隊で宮内省へ、中へ入って、それで録音盤を捜してる」と。「で、なかなか上がってこない」と。「で、おまえ手伝いに行け」って言うから、「はい」と。

「1個分隊ぐらいでいいよ、連れてってやってくれ」と。「わかりました」と。10人ぐらい連れてったよ、宮城の中の、その宮内省へね。

Q:その10人に伝えるときは、10人の部下の表情はどんな感じでしたか。

いや、そんな全然。それはもうみんな、例えば「中隊長が言うなら一緒に行きますよ」というようなもんだよ。別に殺意を持って人殺しに行くわけじゃないからね。でもね、やっぱり、それは緊張しないと言やあ、うそになるわな。やっぱり、宮内省の中へ行くんだから。

宮内省なんてね、あんな広いとこわからへんのや。それで、ふだん入ったことないんだから、みんな。で、初めて宮内省へ入ったってね、そりゃわかんないよ。もうそれで何が何だか。それでみんなにこう問い詰めても、そりゃまあみんな言わないしね。で、それは録音盤ていうのがほんとにあるのかどうかも、まあ我々わかんないんだからねえ。

もう、どこに何があるかわかんないんだから。どこに何かがあったり、どこに顔見知りがいるというのはないんだから。だから行って、入っていってそこの人に聞く以外ないんだから。それは前行ってない、北村さん(第2大隊長)の調べないところを行ってると思うから、「ここへ前来たか?」って。「来ない」と言うと探す。「来た」と言えばもうそれで次のとこへ行く。そんな姿だったよ、僕らの回り方は。

Q:それは宮内省の職員や侍従に尋問というか、調査したと。

まあね、それはそう、大変だという顔をしてたよ、みんな。それはまあ、な。

あそこ、3階だから、宮内省って。3階で、1つの階にもう部屋幾つもあるからね、それをあんた、ほんとに全部回るとしたら1時間や2時間じゃだめだよ。ずーっと回ってもし詳しく調べるとしたら。あそこは大膳寮というのもあるんだよ。大膳寮というのはね、ご飯つくるところ。宮内省の下に。そういうとこの、あんた下まで行って、宮内省の下まで行ってね、大膳寮を見たってわからへんよ、そんな。釜があったり、ご飯炊くとこだろう。

Q:よくわからない中、ひたすら探したという感じなんですか?

もうそれしかないからね。宮内省なんて入ったことないんだもん、僕ら。そのう、ご守衛ちゅうてね、守衛、宮城を守るための歩哨の任務にはつくけども、だけども、宮内省の中なんか入ったことは1度もないよ。

でもまあ、結局見つからずだよ。で、それがあそこの中で唯一の命令だったね。僕らに、僕なんかに対する。

Q:古賀参謀から直接命令が?

うん、古賀参謀から直接。

Q:相浦さんご自身はその古賀参謀から「録音盤を捜すのを手伝ってくれ」と言われたときに、何のために録音盤を捜さなきゃっていうのは聞いたんですか。

いや、それはもう、それは放送させたくないから。だからやっぱりその前に録音盤ね、捜せというのはね。確かに、それはまあそう、そうかと。で、ただしその前提は、みんなその最初、いちばん最初に出てるわけだよ。そのう、「陸軍大臣も、それからその東部軍司令官も、近衞師団長も、みんな起ち上がろうという決定があって動くとき、そんときはもう、近歩2は動くよ」ということは、まあ3人が言うてるわけだからね。

大隊長も、大隊長も知らないと思うよ、あれ。いきなり「北村、ちょっと助けてこい」っていうのが。

Q:それは、でも、驚きませんでしたか。どういうふうに思った?

いやいや、驚くっていうかな、まあ北村っていう人が1個大隊で捜しに先に入ってるからね。これをね、やっぱりね助けるっていうか、ちょっとって言われても、おれもそんなに知識があるわけじゃないし、宮内省に対してね。わかんないわけだよ、宮内省。

Q:そもそもそのう、録音盤て単語が出てきたんですよね。それは、わかりましたか。何の録音盤かっていうのを。何のためにそれで捜すのかっていうのはですね。

いや、それはもう参謀がね、椎崎(軍務局中佐)、畑中(軍務局少佐)っていうのは、玉音放送を終戦のときやるらしいというか、それはもう握ってるわけですよ。それで宮内省に放送協会やなんか、まあ、こう入ってったというのは知ってるから。録音やったなというのを彼ら知ってたと思うよ。

Q:じゃ、相浦さんは、そのことはご存じだったですか。

いや、僕も知らない。そんなその録音を、詳しいことは。ただ録音やったっていうのは、その、ちゃんとその参謀が言うから。「録音盤があるはずや」と。「だから、それをいま、北村がやって捜してるけど、おまえ行って手伝え」ということで、おれ行ったけどね。

Q:その、なぜ、そしたら録音盤を捜すんだっていう理由は言われましたか。

それはね、なんかその、大隊長と2人の参謀が話してるでしょ。3人の参謀と連大隊長が。で、そんときにね、佐藤(近歩2第3大隊長)っていう大隊長がね、「その録音盤ってね、もう門を閉めちまえば、もう自然、ええやないか」と、それで。門を占領しちゃえば。門をおまえ閉じちゃえば。宮城の中っていうのはね、坂下門と、それから正門、それから半蔵門、それから北門、これだけが通れるとこですよ。この4つみんな軍隊が押さえちゃえばね、入れないですよ。それから出られないですよ。だから、そんなことでね、「もうレコードを捜し回るの、何もいらないじゃないの」と。「もう門さえ閉めればええやないか」と。で、その間に「もしほんとうに、陸軍大臣も、東部軍司令官も、近衞師団長も、みんな説得されて、起(た)つんならば、ちゃんとした命令を出しなさい」と。「そしたら我々動きます」っていうのがその最後の話だったんじゃないかと思う。またそうだと言っとるよ。その、大隊長は。

だからそんときにやったのはね、何だったかなあ、その命令のいちばんね、あれは。「通信網を遮断せよ」、もう外部とのもう通信を全部断っちゃったよ、たしか。それから、門をみんな占領しちゃったよ。だからその、情報局総裁っていうのがね、レコードを録り終わってから、総裁が坂下門から出るとき、うちの坂下門の歩哨につかまって。それでその情報局総裁はそのまま司令部に連れてこられてるよ。で、そこでしばらく置いておかれてるはずだからね。その師団長と連隊長と大隊長が、軍司令官に会いに行くっていう決心を決めて、別れる、大本営から来た参謀と分かれる、行動を分かれるという姿にするまでの間、情報局総裁はたしか押さえられてたはずだよ。

Q:相浦さんご自身は…

僕らはもうね、そうなるとね、そりゃもう僕らよりか上の話だからね。で、また、いい回答をしたなと思ってる。「ちゃんと命令出せ」と。大体、参謀なんていうのは命令出せないんだから。参謀だけのあれでは。師団長っていう名前で、師団長の名前で出すんだからね、命令っていうのは。参謀は出せないんだから。だから師団長もオーケーするという姿が師団命令で、その師団長がサインすれば、それが命令になるわけ。

Q:宮内省に入って捜索するじゃないですか。で、結局、見つからなかったんですよね。

見つからないよ。見つかってたら、やっぱりね、参謀はもう勢いづいたと思うよ。それを持ってれば、もう放送できないんだから。

Q:見つからなかったことを今度また報告されたんですよね。

ああ、もちろん。

Q:そのときはどういう感じでしたか。

いや、それはもうね、何でもいいから必ず持ってこいなんていう姿ではないよ。[見つかりません」「あ、そうか」 北村のほうも見つからない、こちらのほうも見つからない。やむを得ないということですよ。古賀さんが直接命じたんだから、だから古賀さんに「だめです」と。たしか古賀さんダイレクトに言ったと思うな、おれ。

よく師団長はこの命令出したなと。おれらが知ってる師団長は、こういう、これを絶対にしない人じゃないかと。で、「よくおまえ、この師団命令、師団長がオーケーしたな」と、言ったのに対して、古賀参謀は「師団長はやむを得ず、嫌々ながら賛成されました」と、こう言ったわけだよ。だけど、そんときにおかしいぞっていうのが、みんな、その連(隊)大隊長の3人の間に走ったろうと思うよ。僕はまあ、それ知らないけども。だからそういうことが積み重なっていくうちに、「あ、これはおかしい」ということが、だんだんだんだん、なってくるわけだ。で一方、阿南さんはいま自殺してると、そういう話が入ってくる。そうすると、これおかしいぞと。しかも、近衞師団長があんな命令出すはずないのに、まあ命令出しとって、それで「嫌々ながらオーケーした」と言ってるけども、近衞師団長が一つも、ご連絡ないやないかと。これもおかしなことやなと。だんだんだんだん募ってくるわけだからね。

だけど、それが偽だっていうのがわかったのはいつごろかって言われると、これもまたわからないね。いつごろその偽だっていうこと、気がついたかって。いや、明方だろうな、15日の。

それは命令なんだからさ。で、それ師団命令、偽だっていうのはまだ、偽なんていうのはわからへんのやからねえ。で、近衞、近歩1だ、それでとうとうNHK行って、NHK占領しちゃうんだから。それからもう1つ、第8、東部第8連隊(近歩7の通称)か何かを宮城の外の、なんか巡視かな、警戒か何かを命令されて、「これはおかしい」っていうのが連隊長が気づくわけだよ。連隊長が気づく。そんな命令はね、おかしいと。それで「軍司令官に問い合わせろ」っていうんで、軍司令官に問い合わせて、それで東部軍司令官もおかしいということで、これは戦後の話だけどね、わかったのはその(東部)第8連隊長っていうのが気がついて、おかしいっていうんで、軍司令官に問い合わせをしたんだよ。それでそれがおかしいと。師団命令。で、それで師団長がいなくなったって、殺されたっていうのがそこでわかってきたと。

結局後で、そうか、あれね、偽命令かと。師団長殺されたのかと、いうことまでやっぱりまあそれ、いちばんびっくりしたね。その偽命令よりか師団長が殺されちゃったっていうことが。

Q:そのときは、どういう気持ちになったんですか?

いや、それね、もうほんとにすごいことをやっちゃったんだなと。

いや、それはあんた偽命令なんてのはね、飛び上がっちゃうよ。「あれはまあ偽命令や」と。「それから師団長が殺されちゃってる」、ねえ。「それで軍司令官がいま門に来てる」と。こういうのがみんな明らかになってくから。で、それで陸軍大臣は割腹自殺してると。これをね、だんだんみんな、夜が明けると同時にはっきりしてくるわけだから。だんだんだんだん知れてくるわけ。「で、いつの段階で知りました?」って言われるとね、「これはいつの段階、これはいつの段階」って言われるともうね、わかんなくなっちゃったね。


Q:よく詳細がわかったときにはどういう気持ちになりましたか。

いやねえ、やってたら大変だなっていうのがまあ1つ出たね。いちばん早く。もうおれやってたら、まあえらいことになったなと思う。近歩2が起(た)ったら、ほんとに起つと思う。東京に少なくともある連隊とか。それからもう関東地方、恐らくみんな起つよ。そうすると、そのあのう、和平の形はなんで・・戦争になっちゃう。戦争継続となっちゃうだろ。

Q:最終的に、クーデターの真相がわかったとき、首謀者たちの思いというか、ねらいというんでしょうかね、それはどういうふうに感じましたか。

いや、それは、そのね、そういうおのおのがみんな、みんな考え方はあるし、そういうことで動いたのはいいけども。だけど、ただね、大本営というのは機能してなかったなと思うよ、もう終戦、終戦のそのゴタゴタのときに。だって本来ならば、大本営は、その2人の参謀の上司、確か井田(陸軍省・中佐)というのがいたはずだよ、井田。で、その上もいるでしょう、課長で。それからその上もいるでしょう。それが、変なおじさんが近衞師団へ行って動いてるぜということも知ってんだから、「直ちに帰ってこい」と。帰ってこなければ自分が飛んできて連れて帰るというぐらいのことをしなきゃいけないよ。それがだね、その井田という人だろうと何であろうと、みんな、畑中(陸軍省・少佐)・椎崎(陸軍省・中佐)、それをほうり投げて、それで、近歩2の連隊長と大隊長、3人をやらしてて平気なんだから、横からこうやっとって。で、戦争が終わる寸前ですらね、彼らは動いてないわけだ。もう、大臣がやめるということを決めて、で、みんなに決める方向で、僕らのね、一緒の近衞歩兵第2連隊の隊友会にね、やっぱり大本営へ行っとった軍曹や曹長がいるんだよ。それの話がね、やっぱり終戦後出るけど、「相浦さん、ばかなこと言っちゃいけないぜ。東北かなんかにもう阿南さんの訓示が出て、それでもう全部終わりということで、全部動いてたんだから」という話が出てるよ。だからそんなね、2人の参謀がゴタゴタね、近衞師団へ行って動いてるということ自体もおかしな話ですなというぐらいのものが出てたぐらい。それで、それすらね、それだったらば、その上の人が全部動かにゃいかんよ、もう、阿南さん以下の人が。そのう、近衞師団にそんなのが行ってやってるということがわかったら、もうすぐ来て引き上げなきゃいかん。その自浄作用すらなかったわけだから。だから、これはね、情けない話だなと思うよ。

まあそれはまあ、こういうことはね、二度と起きてもらいたくないなと思ったよ。もうしかし二度も、二度って、それはこれは初めてで、まあ初めての・・負け戦も初めてだろ。この近代、国家が近代化されてから、ずうっと勝ち戦で来て、最後に負け戦。だから日本はまだ慣れてないんだよ、負けることに。ヨーロッパの国なんていうのは、みんな負けたり勝ったりしよるから、負け戦でも何か知恵が湧いてくるんじゃないかねえ。だから日本陸軍だって、もう少し、これからのところはねと思う。

もう、クーデターなんてね、やるべきでもないし、また最後のあれをね、あんなか…、もしもそれで入ってたら、大変なことになってたなと。やっぱりいいとき収めたなという感じはあるよ。いいときに収めたなと。

戦後、割合早かったよ、これは間違いだなというのを感じたのは。それから、もう、僕もね、戦争が終わってしばらくは、大学へ行ったって、アルバイトのための大学へ行ってるようなもんだよ。もう当時、休講、休講で、21年に入ったんだから。21年、22年、23年って、まあそれは昔は3年だからね、大学。その3年間あんた、飯、みんなで食わにゃいけないんだから、家族で。

あんなとき、戦争をね、続けるということ自体がね、おかしな話で。もう、やるったって、鉄砲ないんだから。銃剣もないんだから。それで、ただ動員令だけは下したから、動員で人はね、年寄りやなんかみんなやってるけど、ほんとの九十九里浜の前線に行ってみると、銃剣はない、鉄砲もあんた、三八式というやつじゃなくて、その前の30年式というやつを持ってきて渡しても、まだ足りないというような姿だからね、それで戦争をやるというのがね、そのう、やっぱり大間違いだよ。やっぱりそのぐらいでもう手挙げなきゃいけない。それをやっちゃうと、どんどんどんどん一般の人の被害がいくし、陸軍で守り切れないんだから。
Q:当時はやっぱりそういう陸軍の雰囲気というか…

いやね、それはもう、やるのかやらないのか、どっちにでも、極端に言やあどっちにでも言うなりに動くという姿ですよ。そのときは。だって、みんなわからないんだから。その今の九十九里浜の話なんていうのも後からですよ。帯剣がないとか、鉄砲がなくて、九十九里浜の第何師団というのは、人数だけはあったけれども、武器も何にもないと。これも後の話ですよ。だから、その当時はね、わからへんのや、もう。14日に入ったら、外と、外部は一切連絡途絶えちゃうんだから。

Q:今思うと、8月14から15日というのは相浦さんにとってどんなものだったんでしょうか。

どんなもんって、一生に一遍の大変なことだったよ、これ。それはまあ、おれらよりかもっと、連隊長、大隊長の3人が大変だったと思うよ、これ。相手をおれらは知らないんだから。向こうでこう、3人でこう、3人、3人で会ってんだから。だからね、これ、よくまあね、その、やめだという線で帰ってきたと思うよ。

Q:相浦さん個人的にはどうでしたかね、その1日は。

いや、それはもう、やっぱり、いま後になって、後になってからだけど、その3人にね、阿南さんは、あんた、先頭に起って来ると言うけど、うそじゃないかと。今朝切腹しよるそうじゃないかということを言って。それから近衞師団長はいないというのはどういうわけだ、というのを確かめてる。ね。これはね、それで、東部軍司令官は田安門に来て会いたいと言っとる、これは一体どういうことだというのを彼らに突っ込んでる。それでよかったと思うね。それ以上はねやれないよ、やっぱり。で、それをやったことがやっぱり国を救ってたわけだ。それをやってなかったら、入ってたら、大変なことになってたよ。アメリカの火力というのはすごいからね、これ。

もし戦争に入ってたらば。もう戦争をやる方向に行ってたらね。だって、もうすぐ、すぐ水戸の通信隊からも来てるし、それから、どこかの何とか連隊から来てるし、みんな宮城のそばにいたんだから、みんなその代表が。

それで、もし戦争へ入る。近歩2が起ったということになれば、みんな帰ってってやるよ。だからさ、大変なことになってたよ。そうすると、もう1遍戦争を継続。それでうまくいくか。絶対いかない。それはもう、その今の軍備からいって、ものすごい、一般の国民がものすごい被害を受けて、ね。もちろん陸軍も部隊がやられるわけですよ。その被害たるやね、100万ぐらい行ってると思うね、少なくともあと。1週間ぐらいの戦いで100万ぐらい行ってるよ。それで参ったとまた2回目に言うわけだよ。

毎日毎日、あの宮城前で10人、20人、みんな、腹切ったり、こうやったり、こうやったりして、みんな亡くなってったんだから。終戦の日から10日間ぐらい毎日だと思うよ。大変な終戦だ。大変だったんだよ。国民に対してもすごいショックだったし。

いや、しかしね、僕らはもうね、戦争が終わって帰ってきたときね、やめてよかったなというのがいちばん先だからね。やめになってよかったなというのが。北畠(近歩2第1大隊長)という人からいろいろ話を聞いたよ。それから佐藤さん(近歩2第3大隊長)からも。だけど、佐藤さんはほとんど話さずだけど、北畠さんが話してくれたよ。だから、あれだね、やっぱりやらないでよかったなという線がますます強くなったからね。だんだんだんだん、そのう、日がたつにつれて。やってたら、これ、国民に大変な損害が出たなと。損害というのは命の問題だからね。

まあしかし、それはね、過ぎ去って長い年月を経てまあそう思うだけの話で、そのときはといったらね、それはあれだね、もっと、もっとあれだろうなあ、深刻だったね。そうか、ほんじゃあ大隊長がもし死んでたらおれも死ぬかと、極端に言えば。連隊長、大隊長が自殺したらどうするんだろうかと。おれらもやっぱり中隊長までぐらいは腹を切るかというあれもあったよ、考え方として。だけど、それはもう、阿南さんの言ってたのは、若いやつはね、逃げたらあかんと。最後、その、負けた後の日本の復興をおまえらがやるんだと、これだけは非常に強く言ってたからね。

当時の連隊旗手で僕らの1年下がやつが言ってるよ。「あのときは、相浦さん、宮城の中で一緒に自殺しようって、あんた言ったでしょう」と言うから、「ちょっと覚えがねえな」と言ったら、「いえいえ、言ったんだ」って、こう言ってたからね、あるいは言ったのかもしんないけど、おれはまあそう思ったなという感じはあるよ。

Q:それはいつぐらいの話ですか。

いや、その終わった直後よ。もう連隊長が乾門で軍司令官と会って、それからもう参謀たちにはだめよと言った後、彼は行ったんだからね、会いに。会って帰ってきて、そのときだよ。これで終わりなら宮城の土手で死ぬかという話も、その57期、1期下のやつとね、話したと彼は言うんだけど、ほんとに話したかどうか。でも、それぐらい深刻だったことは間違いない。

Q:それはどうして自害するということになったんですか。

それはね、たとえわずかの間でも、やっぱり、そのう、反乱という線で動いたんだから。極端に言えば、その何時間かは反乱の動きですよ。門を閉めちゃう。占領しちゃう。それから通信を切っちゃう。ね。これはもう完全に反乱の姿ですよ。だから、やったことはやったんですよ。だから、行動なしかと言えば、行動はやっぱりあったわけだ。それから、そのう、情報局総裁を捕まえたなんていうのも、これはありますよ、これ。だから、全然何にもしなくて、そういうようなことは言えないと思う。近衞歩兵第2連隊はやっぱりある程度動いてる。それは近歩1、近衞師団全部の問題ですよ。ニセ命令でみんな動いたんだから。

それはまあ当時の、そのう、置かれた者としては、やっぱり、この、終わりになる、日本が負けということでね、皇室も終わりになってしまうんでいいのかと。やっぱり戦う以外ないじゃないかというふうに言われればそっちになるし、しかも、その戦いたるや、全陸軍がみんなそれでやるんだというんならば、じゃあやるかという線もあったし、だからまあ選択肢はあるけれども、だけど、まあそうだな、やらないでよかったなというのがあるね。

だから、極端に言えば、責任があるなというのを、終わった後、感じたぐらいだよ。そのかわり、それは、連隊長も死に、大隊長2人もね、みんな責任取って死んだとき、おれら中隊長は何にもなしということはないなというのを感じたからね、やっぱりそれは、そうなってきたらやっぱり随分事情は変わってきてるよ。

出来事の背景

【昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~】

出来事の背景 写真 明治24年に創設された近衛師団は、天皇と皇居の警護に当たる部隊で、全国から優秀な兵が集められたいわばエリート兵団であった。しかし、この近衛師団は二度にわたってクーデター事件にかかわった。
昭和11年の「二・二六事件」と終戦間際の「宮城事件」である。

「二・二六事件」では、近衛師団の一将校が率いる部隊が元首相の高橋是清大蔵大臣を襲撃・暗殺した。

 「宮城事件」は、ポツダム宣言受諾決定に対し、徹底抗戦を叫ぶ陸軍の若手将校が引き起こした皇居占拠事件である。彼らは、東部軍と近衛第1師団を決起させようとし、森赳近衛第一師団長を殺害。ニセの師団命令を出し、近衛師団の部隊に皇居を占拠させる動きに出た。天皇の終戦の詔勅の放送「玉音放送」を阻止しようとしたのだ。

この部隊は、8月14日深夜から15日未明にかけて、「玉音放送」の収録に立ち会っていた下村情報局総裁などを監禁したうえで、玉音放送を収録したレコード盤を奪おうと、宮内省など皇居内の建物を捜索した。さらに、当時内幸町にあった日本放送協会も襲撃した。

この動きに対して東部軍管区の田中司令官が鎮圧に乗り出し、クーデターは失敗に終わり、15日朝には鎮圧された。8月15日正午、昭和天皇による「終戦の詔勅」の朗読の放送「玉音放送」は何事もなく行われた。

証言者プロフィール

1924年
長崎県佐世保市にて生まれる。
1942年
陸軍士官学校卒業。現役兵として近衞歩兵第二連隊に入隊。
1945年
宮城事件。当時21歳、大尉。東京にて終戦を迎える。復員。復員後は商船三井に勤務。

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