ホーム » 証言 » 大和 清一さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「連れて行けない重症傷病兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 大和 清一さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年9月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニアへ  05:53
[2]2 チャプター2 ココダへの進撃  04:00
[3]3 チャプター3 斥候の任務  04:46
[4]4 チャプター4 豪州軍との対峙  04:12
[5]5 チャプター5 崖上の豪州軍陣地  06:02
[6]6 チャプター6 白骨となった兵士たち  04:08

チャプター

1
2
3
4
5
6
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年9月16日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

出港は全部ラバウルです。あっこが基地ですからね。静かな湾ですのでね。普通の汽船で入っても、昔の速力で10ノット足らずじゃろうと思います、湾内入ったらね。それで、ほとんど一日かかりやせんかというような時間じゃったですよ。それから、機雷とかそんなもの注意があったとうと思いますんでね。何処にあるんやら分かりませんきにね。そういう関係じゃったと思います。湾内の状況が判断できてれば、ずうっと入って行けますけんどね。そりゃ、災害から避けにゃいけませんきにね。しようがない任務じゃったと思います。

Q:上陸する時は、敵の攻撃はなかったんですか。

ない。ない、ない。大体、敵のおらん所を探して、こちらは上がって行くんですきね。手痛い敵の攻撃を受けて犠牲者を出したら、何もなりませんきね。攻撃が一番、上陸が一番大事ですわ。上陸途中に犠牲者を出したら、何にも意味がありませんきね。そこを慎重にやったんですよね。と思いますが、指揮者の判断をね。わたしらは、分隊長級でしたきにね、せいぜいね。船員は殺さないように、自分も死なないようにと思うて、精一杯動けるだけ動いたわけです。

Q:じゃあ、ニューギニアで先遣隊で、一番先に進軍して行ったんですね。

そう、うちの部隊がね。先遣隊ですけ、高知の連隊がね。それは、間違いない。

Q:どういう道を行軍して行ったんですか。

道はないんですよ。山の一番、人の通ったような形跡がありますきね。道というてはないですよ。それで一番、敵の、地元の土人なんかが通った跡だろうと思いますがね。上がりやすいところを上がっておりますきね。それを、我々は敵の攻撃を受けないように、一番坂をあがるとかなんとか、そこは、判断して上がったんですきね。

土人がいつも往来しておる山ですきにね。不可思議ですよ。それで、まあ、一番上がり下りするは谷間ですきにね。一番、敵にぶつかる機会も多くはなりますけどね。それが道とせなしようがないですよ。

Q:谷へ行くと、敵も多いんですか。

それは、敵もね、配備しておるだけの軍ですきね。いうたら、斥候というか、式な(のような)もんじゃないですか。後は、無線機で後方と連絡しておったはずですきね。我々もそうですき。無線機は、持っていきおったんですきね。専門が、本隊の後ろの大きい無線機で連絡をして、行動しおったと思います。わたしは一兵長ですけにね、そんな、大任のことは分かりませんや。分かる必要もないんです。物知りがようけいおったら困るんです。機材の割合が。今思うたらね、まあ、運というか・・それだけじゃないかと思いますよ。敵に遭遇しなかったということが。自分が通ったところはね。敵に会ったらもうしようがないんですよ。もう、見つかったらね、どうしても音を出さんとね、しまいがつきませんきね。「バンバン」と撃ち合わにゃ。

Q:ニューギニアのココダまで行くには山道が多いんですか。

ココダまではね、大体、山道よりはね、平たん道です。幸せなことに、あそこは。チョロチョロチョロチョロ歩き始めてね、あまりに道がきれいだきに「これは、大丈夫かや?」って、お互いね、言ったですわ。ほとんど川の淵もでたりね、大体、川に沿ってではなかったでしょうかね、あの道は。周囲を観察する暇なかったですよ。ほとんど斥候はね、もう周囲も観察していかんと、後から攻撃に移る部隊が上陸する時も非常に判断に困りますきね。それが肝心じゃけんど、そんなことより自分達が身軽に、早うに報告が出来ることだけを考えてね、タッタラタッタラ歩いて。こりゃ、わしゃ、立派な道だわって。「これは丁度いい。どこを通ったっち通れるぞ」って言ってね、お互いがね、土佐弁で話しながら行ったらね、広い川へ来たんですよ。そこへ行ったらね、向こうさんが・・・兵隊じゃないと住民たちが、仮橋の小さな、川を入らなくても渡れる橋を、石の上に丸太を置くなりしてね。そんな道じゃったです。

行軍はね、山の間をね、涼しいところ、木陰になってるところ。あれ、道もよかったですよ。あそこの土地は平坦地でね。最後に行った、ココダへ行く道はね。途中、ココダの手前で、ココダへまだ20キロぐらいありゃせんか、あっこから、川を渡ったところなんかもね、橋も架かっておったんですけんどね、それを向こうが落として、切り落として、流して。それから、工兵が仮橋を上げてった。友軍がね。
それで、行きがけは、落として無かったですきね。これは、もうしようがない。編上靴も濡らしたら、今度山を登るに困るきね、靴は脱いで、ソックスだけ履いて、足を痛めたら困るきに履いて、背嚢を濡らさん様に、全員のな。そして、川を渡ったんですよ。時間がかかってもしようがないでしょ。濡れ物を背負うわけにはいきませんきに、米も濡れますしにね。それを覚えております、今は。

自分等の任務でいうたらね、犠牲者を出すだけが仕事じゃないですきにね。精一杯生存者を残して、自分等が通った、仮に進路を生かすんじゃったらね、人間を残さないと何にもなりませんからね。わたしは、そう今でも解釈しておりますわね。わたしは一兵長だったんですきにね。長に・・・頭、幹部はほとんどおりませんやったきにね。使われることは、もう承知で動いたと思います。その当時は。
それが一番難儀なんです。向かって行き出したら、後に下がることができませんきにね。日本の法規として。軍法とね照らしおうて。「行け、行くところまで行け」じゃ。それで「報告は、いついっかせい」とかそんなことは何にも受けておりませんきにね。それでまあ、精一杯早うに、一報でも、状況が分かり次第ね、後方へ伝えるのが任務ですのでね。

Q:斥候はどういう所を調べて歩くんですか。

どういう所って、一番部隊が通り易い所ですよね。それから、そういう行きおったら、一番攻撃受けそうな所は注意して行かないかん。それから、向こうに敵がいるいうことを考えたらね。それだけですよ。運を天に任せて行くよりしょうないんですよ。斥候になったら、路上斥候といったら、一定の距離は大体日数に割ったり、時間に割ったりして計算して、今日は何処そこまで行かにゃいかん、明日は何処そこあたりまでは行かなならん。明日はとこがあるんだから、川を渡らないかんからこういう状態になるぞという判断でね、行く本隊じゃなかったんですか。

もう山はいいんですよ。んなものは。もう、歩兵に攻撃命令、攻撃といううちに何処そこまで進出せよという命令をうけたらね、ココダが第一の目的だとそれを受けとる以上はね、ココダへ到着するまで、調べて抜けにゃことが足らん。任務ありますんで。それをぐずぐずしおったらいかんから、敵に遭わんし、幸いに、タッタッタッタ向こうへ前進して行くんでね。わたしはそうじゃなかったかと思って、自分にも、長もやったことありますけどね、将校じゃないし、下士官としたら兵長でしたきにね、兵の斥候長ですよ。それで、判断をみてね、与軍が後につかえないように、前進することだけが任務ですきにね。
敵がおらんだったら、タッタッタッタ。土人にもあいますきにね。ベチャクチャつまらん英語でも何でも、土人に通じるようなことで問うたら”No,No”って。土人が”No,No”でね、逃げて行ってしまいますんで。それを無理に叩いたりなんかして聞き出そうとしたって、ええ状況はえられませんきにね。ほんで、仕合せがよかったと思います。

一番最初には、うちの連隊の1中隊長がね、正面攻撃。正面だから・・わたしらの考えたのは、正面から行くのは間違うちょったんじゃないかと、そんな判断もありますけんど。早う、バッテキ上がりたいんですよね。中隊長としてみりゃ。そんで、正面に向かったと思いますよ。もう、行きの折り、タイドから現れた瞬間はやられてたんですよね。わたしらはそのとき2中隊で、予備隊員でしたけんきにね。与軍の戦況とかそんなもんは後方からね、見える所で監視して報告しておったんですきにね。高いところへ、見通しのよい所へ、出来るだけ見える所へ、木の上やなんか上がって報告して。

ココダは、簡単に占領しました。その代わり、1中隊長は戦死しましたけんどね。これは自分の判断ですけれど、タニヤ中隊長は焦ってね、中隊長個人が飛び出しておるんですよ。敵の銃座の前へね。そんな所は、銃座があることのは分かっている。始めから撃ちおるから分かっているから、何とかして銃座を除けてからという、こういうような判断が出来なかったかと思って。小川中尉という方ですかね。今でも中隊長の名前もよう忘れません。

下がることは考えよる気にならんですよ。もう。「モレスビーを占領せよ」という命令ですきんに。それでもう処置なしですよ、軍としては。峰を、仮に2000メートルある峰なら2000メートルを越えて、他にどんな谷間へ下りるやら分からない。ねえ。行ってみにゃ分からんいう所へ行くんですきに。それで、わたしは(戦後)視察旅行にも加わって、物好きじゃきんにね。「ちょっとオラも加えて連れてってくれ」いうて、後で戦争が済んでからね、行って、モレスビーへ抜けて行ったことがありますけどもね。向こうが2000メートル級の峰があって、「こっから日本軍の攻撃、ココダの攻撃したところじゃ」という標識が残っておりますけんどね。うちの方へいんだとは書いてない。帰る道なんかのことは書いてなかったですよ。わたしは横文字が判断できんきに、読んでもらったらね。ここは、敵がこっから来た、「日本軍がここから攻撃を始めた位置だ」ということが書いてあるということは、説明をうけたです、通訳から。それは記憶に残ってます。はっきり。

山はそんなに険しい山とは思いませんけんどね。敵が陣地を敷くには一番、敵の、人の上がりにくいところに陣地をしておりますきにね、余計険しく考えますよ。道があって、敵が上がり、狭い隊形で攻撃してくるような所を選んで、そういう判断で陣地をしたんじゃないかと思います。今は一般の人が、わたしの解釈ですけど、「ここを上がった」言うと、「この山上がった」と言うと、「こりゃ中々道がええねや」とか「上がり易いねや」と判断する人もありますけんど、そんな容易い所へ敵が攻撃してくるように、来て、自分たちが抵抗線をええとは思いませんきにね。一番敵が来にくいところへ最終的には抵抗線をつくっておりますきにね。今視察に行って、ここをこう上がっていったと言うと、視察団が上がるような道じゃあないですよ。だと、判断できますからね。そう思いましたよ、わたしがあとで行った時に。わけはないでいかんな、こうやっている所で。帰って来るね。敵が攻撃しにくい、防御はし易いところへ道案内するように抵抗線を作っておりますきにね。それをはい上がって行きますきに。わたしはそう解釈しております。

Q:はい上がって行くんですか。

うん。立ってって行って、とても上がってこられるような山じゃないんです。ずるずる、ずるずるこけてね。カンジなんてありゃいいけど、きえっとついて上がらにゃいかんからね。そんで、その上に、敵が前の尾根の上に、仮に拠点を構えているとするとね、その下には必ず絶壁がありますよね。ちょっと、来ないように、手りゅう弾の届く範囲内には置かない。樹木がありますきにね。手りゅう弾なんかも放れん所もありますよ。そんな所考えて、陣地をしとったと思いますがね。わたしの考えでは。

崖(がけ)の、敵の防御のしやすい所で撃ってきますきにね。それが一番閉口する。機関銃の銃身の先ばしか見えんところで撃ってきまきにね。攻撃のしようがないんですよ。下から行ったって。

行軍はね、上がるところは上がるんで、あの、割合ゆっくり上がりますきにね、楽ですよ。かえってね、敵に攻撃しやすいところやなんかを下がったり上がったりするのは、一番嫌ですよ。嫌だったですよ。うしろから「ちっと、休んで行けやあ」って言うて声がかかってくるような時期がありましたきにね。できてきますきにね。

戦争言いますけんどね、一拠点をとったらね、もう一度動くことはできんです。わずかな兵隊できおるんじゃきに、もうそこで、そこを警戒しておらにゃないかん。友軍が後を、追求して来る距離を判断してね、それからまた前進せんとね。そらー、「オラが来れば、あとはみんな付いて来い」いうてもね、そうはいかんですよ。戦争は。それで、いつでも自分らが敵と対戦した時に、応援をえられる態勢にもっていきながら前進して行くのが軍隊ですきに。先兵はね、ただ、サッササッサ、敵もおったけど撃ち合って行きよるようじゃ、任務は務まりませんきにね。それで、日によっては、距離が全然伸びないときもあったですきに。抵抗が激しくてね。で、退却する時には、思い切って、何処まで退却をするという計画をたててからじゃないと、下がらなんじゃなかったかと思います。ね、わたしの判断。一兵隊の判断ですね。生き残っておる、それが本体です。

今思い出してもねぇ、気の毒な兵隊もおりますよ。死ぬの思わんに死んで。まぁ一番ねぇ、わたしが一番難儀に思ったのは、あのーココダから山岳戦に入りますがね、あれでねぇ、収容所の患者を後送できなかった部隊が確かにあるんです。それから重症患者は全員動かせんでしょう。何言っても退却する段には。そんで、そのまま生かしておいて立ち去ったのか、気の毒だけんども息を止めて立ち去ったのか、そんな判断はわたしにはできません。その現地で手当てしよったものは。ココダからねぇ、2キロ3キロ入った山を、高い山でしょ。下げてきて一番適当と思うところへ野戦病院をつくってねぇ。そこへ収容してたんはねぇ、包帯をすまして寝さしたなりもう、担架で下げても助かる見込みがないような人ではなかったかと思います。ほんでそのまま置いてあったんです。そりゃあ気の毒になる。
声はかけましたけどね、返事も何もしない。もうあそこで白骨になってしまった。

声をかけるというだけでね、通じたやろ通じんやろ全然わからんですよ。黙って通るわけにいかんからね。あいさつはしてね。「元気で頑張れよ」と。これだけのことじゃなかったんですか。まぁ、もう先の見込みのない者はね担架に乗せてかいて下げたところで、どっかで放り捨てにゃいかんもん。ほんでそこで別れを惜しんでね、わたしら兵隊は下がったと思いますよ。まぁ無理もないですよ。首を絞めてまで殺して下がるっちゅうそんなことはしなかったやろし、重傷患者は担架に乗ったまま動かさずそのままおいちゃったけんね。手当はしてあったね。包帯をしてあったけど。そんなの見た時には気の毒でおれんかったね。それを撃ち殺して息の根を止めてあんた、そんな手段は、首を絞めておいて殺して下がるか、そんな手段はしたような様子はなかったです。あの、ベットへ、担架へ乗ったままねぇ、足を動かしよるような兵隊を見たんですけどねぇ。かき下ろすもんもおらんからねぇ、そんで担架に乗せたまま寝よったのをわたしは見た記憶はあります。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1915年
高知県香美郡美良布村(現・香美市)にて生まれる。
1929年
尋常高等小学校卒業。
1935年
歩兵第44連隊補充要員として入隊。グァム島攻略作戦、ラバウル攻略作戦に参加。
1942年
ニューギニア・ブナ(バサブア地区)上陸。ポートモレスビー攻略作戦当時、歩兵第144連隊第2小隊。27歳、陸軍兵長。
1943年
満期除隊。復員。復員後は家業の農業に従事する。

関連する地図関連する地図

ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード

NHKサイトを離れます