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タイトルタイトル: 「右胸貫通の重傷を負う」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 宮崎 登喜穂さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年9月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 グアム島攻略作戦  05:37
[2]2 チャプター2 ポートモレスビー作戦  05:28
[3]3 チャプター3 ココダの戦闘  12:59
[4]4 チャプター4 日本への送還  08:05
[5]5 チャプター5 特攻訓練の日々  03:41
[6]6 チャプター6 原爆、そして終戦  09:12

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年9月15日

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自分は小さい身体で暴れん坊だったから、大東亜戦争が始まるその部隊、移動する部隊の命令受領に、一人で、それぞれの学校で・・・、夜間、もう本当に誰にも見送られずに一人で坂出に行って、坂出からボートで、なんだったかな、軍艦に行って、そこで連隊の南海支隊の命令受領をしたわけです。命令受領をしたら、そのまま船に乗って、もう内地の土は終戦まで踏まなかったんです。で、グアムに行ったわけです。

もうグアム島のね、もう要塞、もうきわめてね 厳重な、要塞の情報地図、それにはもう全島で、砲台やらあって、そんな情報図をもらったんですよね。行く前はね。8月8日に朝、輸送船を離れて、わたしは特攻隊で、本隊よりも、44連隊の30分先に、輸送船から下ろされて、そしてわたしの1個小隊だけで突撃口を開くために、行ったんです。その前に、あそこはずっとサンゴ礁がありましてね、なかなか入れないんで、それでしっかりいろんな地図をもらって、頭の中に入れて、それでどの方向に行ったら、そのサンゴ礁の切れ目からね、突撃路を開けるかと、そればっかり気にしていたんですけども、そのときもう、海岸近くなってから、下の辺から、民家がぽつりぽつり消えていった…初めて民家は、我々が行ったことを知ったんですね。

Q:グアム島攻略では、敵との交戦はあったんですか。

交戦らしい交戦は、わたしの部隊はなかったですね。というのが、海軍がね、協定を破って、先、上がったんですよ。ですから我々陸軍が上がったのは、もうずっと道の両側にアメリカ兵の死体があるというようなのを見ながら、アガニアという守備隊のあった、そこへ行ったんです。アガニアの警備をひと月やって、それでラバウルに行ったわけです。

Q:アガニアにいる時に、真珠湾とかマレー半島とか、他の所の戦況というのは聞こえてくるのですか。

あんまり聞こえてなかったですね。うん、覚えてない。

Q:では、ラバウルに行かれて、ラバウルから今度はニューギニアに行きますよね。ラバウルにいる時、次の作戦について、つまりニューギニアに行くことについて、何か命令とかは。

あまり記憶にないですね。まあ あの、ニューギニアに敵前上陸3回目に行ったのは、どういう時期にどういう命令で行ったかは、よくおぼえてないですが、7月のいつごろかな、もう突然に我々は命令を受けて撤収をして、そしてあっという間に、ニューギニアの敵前上陸に参加をしたわけです。

とにかくもう持ったままですからね、弾も、手りゅう弾も、それから今度食べるものをね、もうどこもここもいっぱい入れて、持てるだけ持って、それで、あと現地調達。それで行ったけど、まあ無謀な作戦であったわけです。だから、わたしの場合は、まだ食糧も何も使わんうちに、ココダで大負傷したから、兵隊と同じようにリュックサックの中はですね、もう食べ物も弾も弾薬もまだ全然使わず、うん。

Q:ニューギニアに上陸して、ニューギニアの自然は厳しいと思うんですが、雨が降ったり、湿気がひどいとか、状況はどうでしたか。

それは雨に悩まされたですね。それから毒虫がおってね、サソリに、何人位やられたかな中隊で。もうサソリにやられたら、衛生医がね、毒も回らんうちに、ワーと切るんですわ。だから、わたしはやられなかったけれども、何人かは、サソリにやられてね、口がね、傷となる隊員がおりましたわ。

Q:どこを切るんですか。

刺されたら、ここやられたっていったら、そこをぐっとして、毒を吸い出すわけですわ。サソリにやられたら。だから衛生医が切っといてね、それにかみついて、そしてちゅうちゅう吸ってサソリの毒を吸い出す。だから中には唇がこう変形したね、人が何人かおりました。やっぱりわたしはやられなんだけど。

Q:川とか湿地帯も多い所ですよね。

そらもうね、川がこうなってね、湿地があって、もうとにかく体もずぶ濡れですわ。ココダに着くまでね。横山部隊(独立工兵15連隊)というね、大阪で編成した工兵部隊がそれはえらかったですわ。本当にえらかった。で、我々は、とにかく川を、池があったら腰を下ろして、その重い荷物を下ろして、休憩している。その間、横山部隊、大阪で編成した横山部隊は、川を渡る準備をし、ロープを渡して、いろいろ浅いところを見つけて、人が人柱になって、それを我々が渡って、そして次の所へ行ったら、また池があって、休憩している。そしたら横山部隊が追ってきて、同じようにですね、とにかく、渡河せんことには前に進めないから、そのためにはいろんなことをしてね、ずいぶん、ずいぶんと、この道をつける、そして川は橋をかけるものがないから、本当、人柱になって、横山部隊が我々を渡してくれたんです。それはえらかったですね。もう今でもね、よう忘れんですわ。そら大阪の横山部隊ちゅうのは、そーらえらかったですね。本当、すばらしい部隊でした。

ココダはね、この写真で見てもろたね、もう、うっそうとね、高い茅(カヤ)がずーっと生えていましてね、もう全然、途中は移動も分からんような状態でした。だから、ココダまで戦闘はなかったけど、ココダに着いて、もう、あそこの台に敵がかまえていることがすぐ分かった。それで真っ先に、わたしが将校斥候でずっと回ったんですよ。そのへんにものすごい茅が茂っとるんだけども、こう、川が流れていましてね、その間をね、縫うて、所々で川をね、あれはもうよくあんなことしたと思う、渡るんですよ。分かるように。もう機関銃構えてココダの上から。そしたらババーンって撃ってるでしょ。で、位置を変えて、また、今度、川をね。川には流れがあって、上から見える所があるから、それを渡る、何回も渡って、「ああ、あっこに機関銃がある」というのが分かる。私、斥候やってて、その状況を報告したわけです。それで、大体、台の上に敵がおるのは分かっとるけど、敵が台をこしらえて、ここで撃たれたというのをね、兵隊がずーと走って、わたしこうやって眼鏡で見ていて、そしてボーンと打ったら、「あ、ここに来た」と、そういうのを図に描いてね、大隊長に報告したんですがね。

Q:台の上というのは高台に敵が構えているのですか。

そう、あのココダの台だけ始めに見てもらいましたね。あの台だけに敵がおったわけです。

Q:将校斥候で何か所位見つけたんですか。

一か所だけ。ココダの台の手前に、大体、部隊が全部おった。それでわたしに、大隊長がすぐに「宮崎、行って来い」って。そして斥候をね、敵をずーっと調べて報告して。茅が植わってるから、もうすぐね、大隊長が夜襲を決定してね、それで夜襲の計画をした。ものすごい茅が生えている、それをね、上から見ればね、こう渡ってこういうふうにして分からんようにして行けばね、敵から発見されないような、そんな状況でしたがね。それをずーっと命令を下して、わしら一中隊が正面から、そして、わたしは斥候だから、上に上がる道が一本しかない、その道から突撃をする、わたしを大隊長が「お前あそこ行け」ということで、そういう体制でずーっと行ったわけです。

Q:夜襲っていうのは何時ごろですか。

ちょうど突撃したのが12時。

もう機関銃やら敵が構えているもんだから、あの道からね。もうそこ以外ないんだから。それをもうずっと。小隊は4個小隊。それをずっと分隊長を先頭にずーっと上げて、突っ込む所まで上げて、わたしは先頭でね。とにかく大隊長に「12時に突っ込みます」と言うて、報告をしといて。そして兵隊、皆に「12時に突っ込みます」と言うて。そして12時に「突っ込めーっ」てやったら、パンパンと2発来て、その1発がここから入った。だからわたしは12時にそうやって、「突っ込めーっ」て言って自分がやられて。

それから本にあったイシカワがね、当番兵が、わたしを溝へ放り込んだくれた。わたしは分からんけれど。そして軍刀もね、将校が死んだ時に、軍刀がなかったら、皆拾ってくれてね、溝へね、写真見たと思う、溝へわたしを放り込んで、刀もそこへ入れてくれた。それが12時。で、わたしが気がついたら、途中で、一回、兵隊に踏まれて気がついたけれども。それも分からん。手が全部入りました。最後に、最後違うた、朝収容された時に、「今何時や」って聞いたら、「5時です」と。5時間出っぱなしですから。しかも手が全部入ったからね。そんな状況で、出血多量で。もう軍医が、戦闘が終わって、皆軍医が手当てをする、わたしは手当てをしてもらわなんだ。「もうあかん」と。死んだ方へ入れられて。

当番兵がね、前に言ったと思うけどね、遺言を済まして、遺言を済ましたら、軍医は行ってしもて、当番兵と2人で、当番兵に「水くれっ」て言って。そしたら、水をこうやってくれて、どこで死ぬのかなと思って、飲んで、こういって飲んでね、「死なん、おかしい、死なんぞ、もう一つくれ」て、また同じようにこう飲んだけれどもね、死なん。「おい」、ヤスオカというね、35歳の当番兵でしたがね。わたしは25歳。「おかしいな、死なんぞ」と。「もういっぺん軍医呼んでくれ」と。そしたら、そのヤスオカがね、バーっと走ってね、軍医を連れて来た。初めて手当てしてもろうた。うん。それでもう、そんな状況やったから、誰もわたしが助かるとは思ってなかった。だから、収容されて、野戦病院っちゅうか、もう野原の隠れる所へ収容されて、人がようけ来るなと思って、もうあかんから「宮崎、病院行け」って、来たんですね。それで、死なん。それから、また、あかんという事で、また衛生医から連絡が来て。そういうことがね、何回も、3回も4回も。

それで死なん。そしたら大隊長がね「宮崎は死なん」と、「下げーっ」て言ってね、そこらにあった外人のねベッド、それを当番兵が、あれをこさえてくれて、その上に敷いて。それからヤギをね、大隊長、乳が出るヤギ、それを「宮崎にやれっ」て言ってくれて。それで土人2人にかつがれて、で、衛生兵一人つけて。

そして土人にかつがれて、歩いて下がった。下がる時でも、こんな坂でしょう。もうね、頭が下がったらね、脳がこういってね、ガバーっと血が出るんですわ。なんですか、山坂、こう頭がいつでも上がっているように、土人にかつがれて、向きを変えてね、そして一週間かかって、下がったんですよ。土人がおるからね、食べ物はタロイモ、クキイモなの。すぐ取ってきてくれてね、食べ物には不自由せずにね、一週間で下がったの。

だから、途中でマラリアがすぐ出ましてね。マラリアだから42度とか出るともう気が遠くなって、「もうあかん」と思う。そのつどね、衛生医にカンフルを打ってもらう。どのくらい、一週間おるうちに、カンフルを打つ針が刺さらんように。それで衛生医が「突き刺せーっ」て言って。そういうことで、まあ下がったんです。命があったんですわ。

Q:一週間かかったんですね。

一週間で、うん。二時間位で車で行けるところを一週間。それもあの、頭が下がったらいかんから、向きを、こういつも上になるようにね、歩いてもらったからね。その間、後から追求する部隊に会うて、軍刀をね、軍刀をこないに持って、「軍医はおらんか」といって、手当てをしてもらって、下がった。

Q:今は機能障害などはないのですか。

うーん、機能はないけれども、レントゲンを撮ったら、ここの、ここから入って右の肺を抜けとるから、レントゲン写真で黙っとったら、再診ですわ。しかし、もうずーっとね、戦後長い間、いろんなところに、機会に、医者に診てもらうことがあったら、レントゲンで黙っとったら、そう。別に発病しなかったし、まあ、92まで生きられました。

Q:ココダから一週間かかって搬送されて、そのあとはどちらへ。

あの、ラバウルへ。それがね、最後のね、もう早いもので敵が来てね、一週間かかって下がって、そこの海岸で何日おったか記憶がありませんけれども、駆逐艦が、最後の駆逐艦が入ってきた。で、泊っとった。それに乗らなんだら、もうあかんと。で、ちょうどわたしはかつがれたままでね、それに乗れたわけですよ。だからそれが最後の駆逐艦。だから早いんですけどね、戦争が始まってまだ日が経ってないけれど、もう敵が逆に来て、もうこの辺には近寄れない。だからわたしがその最後の駆逐艦でラバウルへ収容されて。それ以後の人は、もう自決しかなかった。で、将校はピストルで、兵隊は手りゅう弾を皆もらっとるから、自決用の。それか、それもできん人は捕虜になったり。そういうことでしたね。だから元気な人はあっこを歩いて、敵の間を、とにかく敵の陣地の間を縫って、まあ連隊としては脱出したい。けれども、もうそれは負傷した人やら、もう重症の人、そらもう本当に自決して、うん、ひどい戦いやったわけです。

Q:負傷者は自決するとか、そういう状況は、ラバウルから引き揚げた時からは耳にされていたのですか。

そうですね、いつ頃か覚えんけれども、敵が逆に上陸して、元気な者はとにかくそうやって、うまーく敵と遭遇せずに。ま、連隊としては、脱出したけども、それはごくわずか。その中にはツカモトという、わたしに命令をくれた大隊長が九州の人で、そら元気やったですからね。その人がやっぱり気合いで、相当の人が脱出できたと思うんですよね。もう連隊長は早うに死んだからね。あ、連隊長は早う死んだけれども、連隊長は行動、別ですからね。わしら一個大隊だけ、第二大隊が上がったわけですから。

だからニューギニアに上がったのは、第二大隊。ツカモトという、九州の、そーら、きつい大隊長でしたけど。立派なね。それはね、もう本当、わたしも暴れん坊だったから、もうグァムへ行った時も、もう、ラバウルにあがる時もそう。みな私を使ってくれて、ま、幸い敵と遭遇しなかったから、わたしは命があったけれども、そのとき大隊長もわたしをね、本当に可愛がってくれたと思うんですよ。だから、そうやって命があったわけ。あのときヤギがなかったら、あの土人にかつがれて下がらなかったら、もうあかんかったと思いますけどね。坂、こうかつがれて行とっても、こう頭が下がってきたら「アアー」という、そういう状況で、とにかく下がれて、最後のという駆逐艦に乗れて、それで、まあ命があったんですわ。うん。

ラバウルに帰ってからね、病院に行くけれどもね、わたしは本当に命が危なかったんですよ。ラバウルはね、病院が何回も空襲されて、で、わたしが病院に入って何日目かね、大空襲があったんですよ。そのときに同郷のテラダという中尉が負傷して、その病院におった。ちょうどそこへわたしがさがって来て、二人がベッド並べておったんです。一夜の空襲でね、もーうすんごい空襲ですわ。そんでもう皆、防空壕へ逃げて、そのテラダという中尉の当番兵が、サエキという大学出の優秀な兵長でしたがね、早うに行けというに、行かんで、それで最後に行きますって言って出たらね、そこへドカーンと来たんですわ。それでそのときに蚊帳の、もう蚊帳がハチの巣になっとる、わたしのテラダっていう人並べて、二人ともドターンってこけて、鉄の寝台がね、4本のうちの3本はこういうふうに折れて、蚊帳がね、もう本当に穴だらけで、それでね、わたしはね、ザーッてこけたんだけども、どこも打っていない。

Q:その後、ラバウルからはすぐに内地に帰られたのですか。

いや、病院で、ずっとマニラ…

Q:フィリピン。

フィリピンを経て、台湾を経て。台湾もずっと台南、高雄、台南、台中、台北と。病院をこうずーと、そして内地へ帰って来た。

Q:内地で退院されてからは、どうされていたのですか。

退院してからがまた、大変なことやけどもね。命があったんですわ。わたしは朝倉へ帰って、病院から退院してから、中隊長しとったけれども、転属命令が来て、広島へ行った。そしたら船に乗るね、部隊ですわ。それで、特攻隊を命ぜられて、時速37ヨットくらいの、ベニヤで作った、敵にばーんと、舳先に弾をつけて、突撃する決死隊に編成を命ぜられて、そして鞆、福山の鞆(鞆の浦)、仙酔島にたてこもってね、その船を25杯、兵隊を300名もらって、特攻隊を作った。

Q:解散命令が出たのは終戦のどれくらい前ですか。

どれくらいかなあ。もう2、3か月前ですかね。もう今日来るか、明日来るかって、命令待っとった時に。そうやって、もったいない、エンジン用に、特攻隊はエンジン・・・。それでも・・・言うて来てから兵団長に言うたら、それはパーッと解散命令が来た。だからもう、危ない時はいつもが命があったんですわ。

Q:ベニヤ板の特攻は、名前はあったんですか。

記憶にないですけどね。だから、もう何にも知らんわたしが陸から海に変わって、そして今度は10何メートルのベニヤで作った敵に突っ込む船をこしらえさせるのに、東京まで行って、ここへメガネをこうして・・・っていって、そういうことを何にも分からん者が行って、それでも命令を受けてやらないかんからね。やったんですよ。あー。だからいろんな事をしてね、短い間やったけども、わたしは命が最後まで、そういった、もう命を落とした場面に遭遇する立場にありながら、命があった。

Q:原爆の時、福山にいらっしゃたんですか。

そう、病院におったですわ。補充隊で。鞆で解散をして、補充隊におったですわ。それで行って、もう覚えてないけども。ピカッと光ったのを覚えてますわ。ああ。

Q:原爆の知らせは、当時はどういうふうに伝わってきたんですか。

別に伝わってこないけども、補充隊の病院に、広島からピカッと光った、もうすぐにその翌日か、どんどん負傷者が送られてくる。で、来て、もうすぐにものが言えなくなったり、到着したころにはもう皆死んで、それを、もうずっと裏、空き地へ重ねて入れて、もう毎日それを焼いたんです。ひどい原爆のあれですわ。犠牲者の末路がね。見てきました。またね、私がおるそこの、ものが言える程度の人がどんどん送られて、もうすぐなんですわ、亡くなっていったけどね。

そうねえ、とにかく、もう、想像もつかんようなね。あの、負傷した人の体。着いた時にはまだものが言えるような状態でも、すぐ息を引き取っていって、で、それを病院の後ろに積みましてね、薪を置いて。だからもう、しばらくは広島から送られてくる兵隊の、あの負傷者の、なんですね、焼却をする、それはひどいもんじゃったけど。そんなのをずっとやってましたね。

Q:終戦の知らせはどういうふうに知られたんですか。

終戦、終戦はね、うーん、はっきり覚えてないけどね。一緒におったね、陸軍士官学校を出た、あの、名前は忘れたが、一緒に部屋におったのかな、もうその玉音を聞いてね、もう切腹してね、士官学校出の人。そんなことが記憶にありますね。

Q:切腹して、自決ですか。

うん、自決。なかなかね、腹切っとるけどね、すぐは死なんわけですよね。

Q:その現場も見られたんですか。

うん。わたしがおったから、すぐにあの、捕まえてね、軍刀をのけて、そして、上にしたけど、もう腹切っとるからね。いろいろ言いながら、もう息が絶えましたけどね。うん。

Q:その方は自決されたのは、どういう気持ちで切腹されたんでしょうね。

ねえ。まだ一番の新品の少尉でしたがね。あの、その玉音を聞いて、そして、その晩かそのときか、もう腹切って。気がついた時には、もう腹を切ってましたね。んで、刀をつけてたまま、ああ。

その特攻隊を編成する頃でもね、とにかく制空権を取られて、内地が爆撃を受けるようなね、そんな状況ですからね。勝つと自分では思いません。負けるぞとは言えんけども、早くからね、自分ではあかんと思ってましたね。でも、命令には従わなあかんから。

Q:ニューギニアにいる頃はどうですか。

ニューギニアにいる頃は、もう、無理して、水を、橋を、川を、濡れたり、なんかして、ずっと上がっていって、最初の戦闘で、そんな負傷じゃからね、もう何もあんまり考えられなかったね。これから先のあのガダルカナルね、山脈の中へ行った戦いは、どないなるやろかってこともね、たくさん本も出とるでしょうが。その悲惨な戦争への思いはあんまりしなかったね。自分がそうやって、明日もないような命、負傷しとったから。

とにかく地図がなかったんですからね。戦闘、ニューギニア作戦を開始するまでは、そういった地図がないから、どうやって作戦を進めるか、非常に苦労したけど。まああんな、谷、山、谷、こんなところにね、本当に皆、負傷したり、豪州に捕虜になったりした人、苦労、もうあんなところの作戦がね、成り立つはずがないというようなね。そういう所へ、辻参謀が言ったんか知らんけど。戦争がね、陸路の戦争、企画したという当時の大本営のやり方っていうのは、今考えてみると、もう、誤りだったと思いますよね。でも、部隊、兵隊だけが、犠牲になった。

まあ、それでもね、兵隊はお国のためだと思って。わたしも、遺言済ます時にね、遺言はないかって言ったら、あの、「お国のために満足して死んだ」と、こう、あの、「親に伝えてくれ」と、いうことで。大体の人は、いろんな人がおったけども、やっぱり国のためと思ってね、戦っとるからね。それがあまりにも悲惨なニューギニア戦をね、画策した、大本営というか、あれは間違いやった、と、思うですね。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1918年
高知県吾川郡池川町にて生まれる。
1936年
農業学校卒業。
1941年
歩兵第44連隊補充要員として現役入隊。奉天予備士官学校に入学。歩兵第144連隊第1中隊第2小隊長を命ぜられ、グァム島攻略作戦、ラバウル攻略作戦に参加。
1942年
ニューギニア・ブナに上陸。ポートモレスビー攻略作戦当時、南海支隊第1中隊第2小隊長。24歳、陸軍少尉。
1942年
ココダの戦闘で負傷。ラバウル、台湾を経て内地還送。善通寺陸軍病院に入院。
1945年
終戦。復員後は陸上自衛隊に勤務。

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