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タイトルタイトル: 「乗り組みの駆逐艦撃沈」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 久保 忠司さん、黒木 繁頴さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年9月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニアへ  08:16
[2]2 チャプター2 ポートモレスビー目前で撤退  17:35
[3]3 チャプター3 海軍としてソロモン・ニューギニアへ  04:18
[4]4 チャプター4 ソロモン海周辺の海戦  10:34
[5]5 チャプター5 4人兄弟の出征  07:35

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年9月19日

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久保:敵の陣地は、どういうとこにあるのか。これはね、はっきりした陣地はね、こちらからは見つからなんだ、うん。ほじゃから、岩石が多い所じゃから、岩石の近くに、敵の陣地があったと、うん。東部ニューギニアは、岩山が多かった、うん。そこが敵の陣地。ま、こういうことですな。ほじゃから、敵の陣地へ近づいて、攻撃するような、行動が全然なかった。

「スタンレーの頂上を目指して行動せえ」と、こういう命令を、もろうておったから、スタンレーの頂上目指して、2000メートルを、もう頂上間近へ到達しとった。そのころに、後方から、日本軍は戦力が落ちたから、前進をするなと。なるべく機会を見て、後方の、もとの海岸線へ帰れ、撤退せえと、こういう命令が来とった。第一大隊も、もう、まとまった行動はできない、バラバラの行動だった。非常にあの…、

ほじゃから、山岳の道を、バラバラの行動で頂上へ行きよった。こういうことですな。ほじゃから、まとまった行動ができない、うん。

前進が苦しかったんですね。もう、山岳の道路がない、山岳、山岳、

いわゆる、山道、山岳、岩、岩山をかきわけて、頂上へ目指していくから、苦しい。うん。
やから、もう既にそのころ、バラバラの状態で、前進をしとった。だから、食料も不足をしとった。そういうことですね。

Q:あのー、本なんかを読みますと、この転進はね、ほんとに苦しいって書いてますけども。

前進、前進だけは、なかなか難しいんで、時には横転をして、あのー、苦しみながら、前進をしておったと。ほやから、一進一退ぐらいのところがたまにある。んやから、もう、しかたなしに、進路を変更して、

山林で、宿泊、食料をとったりながら、前進をしとった。

Q:地図とかあったんですか。

地図はね、たまに見ることがあったけれども、あのー、自分の所有する地図はなかった。まぁ、とりあえず、

とりあえず、生きるための食料を背負うていきよった。そういうことだな。せやから、途中で野生の食料を探して、それを補助の食料としとった。こういうことです。なかなか、食料がね、後方から順調に送ってくれなんだ。時々、台湾兵が協力をしてくれよった。こういうことは、よく覚えております。

高砂義勇隊は、台湾兵。ここへ、はっきりある。どんな働きをしたのか、これが、今言うように、食料、兵器の運搬に協力をしてくれたと。これは、非常に感謝をしとると。こういうことですよ。うん。

あの、一番高い所は、海抜2000メートルくらいのところ、対岸の、オーストラリアの飛行場の爆音が、時々聞こえとって、聞こえとりました。そのときに、後方から、日本軍は、「元の後方、元の出発点へ引き戻せ。」と、こういう命令がきたんです。そいじゃからもう、前方へは行かない、前方へ行動中止、後方へ、「元の基地方面へ後退をせえ」と、こういう命令がきた。そいじゃから、また2000メートルを下って、元の所へ帰る。バラバラでおいて、まとまって行動ができない。山岳が、上の方、岩山が多いので、非常に危険なんです。ちょうどそのときに、台湾兵が協力をしてくれて。みんな、ま、あまり期待はできじゃったんだが、台湾兵がよく協力してくれた。そういうことがあった。

Q:みなさん、山をずっと越えて苦労されてね、山の向こうまで行って、モレスビー近くなった時は。

向こうの、オーストラリアの飛行場の空軍の音が聞こえておった、こういうことですな。向こうの行動は、目に映らん。そやから、そういう迷いの状態だったところへ、後方から命令がきて、日本軍はもう既に敗戦の状態。ほじゃから、早く、速やかに後方へ後退して帰国する、帰国の準備をせえと、こういったことだった。

バラバラなこう、ある地点で、「今までの我々の行動を、まとめて、ラバウルの軍司令部がある、そこへ、報告をしに帰れ」と、命令を受けたです。ほれから、今までの行動を記録した従軍記を持って、持参して、ラバウルの軍司令部へ持参したと。そのときに、もう日本軍は敗戦の状態に近いから、ここからニューギニアへ復帰せずに、日本の内地へ帰る準備をせえと、こういうことだった。

もう戦後、もう難しいあれだった、そのころは、もう全然、食糧難で、もちろん、兵器の弾薬等は全然、持参せない。食料が不足しとったから、食料を集めるのが精一杯。非常に難しい、最後の状態だった。うん。

輸送は…、車両の準備がない、全然。輸送の車両が。ほじゃから、徒歩で、三々五々…、あの、行動するほかなかった。他にはない。ええ。輸送が、便乗ができなかった。こういうことです。

Q:皆さん、食べる物とか。

食べる物が、不自由で、うん、自分で…、

山林を探して、日本の山芋に類した食べ物を掘り出して、食べとった。日本の後方からの食料が、途絶えとった。こういうことですな。ほじゃから、海岸では、あの、持参しとった手りゅう弾を、すぐ近くの海岸へ投げて、浮き上がって来た魚を捕まえて、それを補助の食料にしとった。そういうことです。

とにかく、最終のあれは、食糧難、それから…、

医療の病気、それから負傷、傷害の時の手当がなかなかできなかった。ほじゃから、あの、海外線で、日本の海軍の、海軍の輸送船が見つかったら、それに便乗して、内地へ向かっとった。ほじゃから、時々、海軍の輸送船が、海岸に近づくことがあった。それを止めて、乗船を、便乗しとった。こういうことです。

こちらの、軍の行動を記録した書類を持参して、わたしは、41連隊の第一大隊。大隊本部付きだったけ、ほいじゃから、41連隊の、敗軍の…、残軍が、最初の従軍から半数くらいしかなってない、おらなんだ。残部の兵隊がね、塹壕(ざんごう)が。その、詳細の報告を持参して、今のラバウルいうたけな、ラバウルの司令部へ…、司令部へ行動して行きました。そのときには、第一大隊の本部から、大隊本部の生き残りで、モリ伍長が行きよっです。モリ伍長とわたしと、わたしは、大隊の大隊本部、二人、行動を共にして、ラバウルの総司令部へ出向して、書類を渡して。

そしたら、ラバウルの司令部から、わたし、軍曹だったから、この軍曹らは、日本軍が苦戦の末、もう、「後の軍行動はすな」と。じゃから、「ラバウルへ、ここへ残れ」と、こういう命令があった。そしたら、一大隊のモリ伍長が、元の部隊へ報告をしに、ぜひ帰隊をしたいと。ほいじゃから、帰隊後、またラバウルへ帰って参ります、復命します。こういうことを言うから、わたくしも行動を共にして、便乗、ラバウルからニューギニアの基地へ便乗の、便船のアレがあったから、それに乗って、ニューギニアの元の基地、海岸線へ帰って。

その当時、やはり、空陸米軍の、空陸の勢力は、圧倒的に強い。そじゃからもう、外より、場外へ出られない、危険だから。そこで、駐留しとったところが、モリ伍長は、米軍の空中散布(機銃掃射)を受けて、戦死をした。わたしは、残留して、元のニューギニアの山地へ、あれは何とかいう山だがねえ、あの、2000メートルくらいな高地がある。それ、復帰するように、残った残留の人らと…、

元のたどった道を、山岳を、山岳道を上って行った。そいで、ほとんど頂上へ近くなったころに命令が来て、日本軍がすでにもう、退却の状態じゃから、元のニューギニアの海岸に復帰せえと、こういう命令だった。

で、そういうことで復帰して、またラバウルに復帰して、残留しとったら、「これからすぐ、残留の一部の部隊と一緒に、久保軍曹は、ラバウル、ううんフィリピンへ帰れ」と。それから、「モリ伍長は戦死しとるから、久保軍曹一人、便乗して、日本の船舶に便乗して、フィリピンへ帰れ」と。それから、南国の熱病がわたしの体内にあったから、フィリピンの病院に一応入って、そこで一週間くらい滞在して、療養して。それから、そこから、便乗が、復帰の便乗があって、日本の内地へ帰る、そういう苦しい経過をたどっていたんです。日本の軍隊は、ニューギニアで半数くらい倒れた、いうことで、非常に苦しい状態だったです。

黒木:わしは海軍じゃけぇのぉ。

久保:とにかく、えーでもね、我々は、陸用って、海の往来の部隊よね。

黒木:うんうん。

久保:頼りにしとった。もう、なによりも海上を往来する部隊を歓迎して、依頼をしとった。助けても、助けても、うたんよ、海上の、のう。

黒木:ニューギニア。

久保:ニューギニアからね、ラバウルへよ。往復のなんか、なかなか難しいが。モリ伍長が、任務を終えて、ニューギニアへ一応帰って、向こうの敵の空軍の向こうに、えー、散弾かなんかね、敵の銃撃を受けて、倒れたよ。

黒木:全滅よぉね。ニューギニアはね。20年…。

久保:モリ伍長はね。

黒木:19年の、あれは、なんだったかなぁ、わしが、わたしらは船じゃから、ずっと長くおらんけぇね、陸軍の船団の護衛をしていって、ほれから、帰りに、傷病、死体やら、また乗してね、乗して帰ったんよ。乗して帰るゆうても、波まで。

久保:誰が話もな、海軍の輸送船よの、頼りにしとった。やから、そういう海軍の船を捜しとったんよ。やから、わしらも、ラバウルからニューギニアの元の基地に帰るのに、海軍の輸送船を利用して便乗したんよ。

黒木:便乗した。

久保:思うとるよ。他のいい便がないけぇ。あぁ。

黒木:あのころはもう、ニューギニアがせん滅じゃいうような報が、我々にはわからんけぇじゃが、上のあるじきゃあるからねぇ。ほいであの、家や食料はないわ、んで、兵隊もねあの、あっこへラバウルへ行くのに11杯を、巡洋艦を1杯と、駆逐艦を9杯で護衛した思うんです。それを、行く、もう向こう見えよるんのに、おおってきてね、やられて、まぁ、もう、負け戦のときじゃけぇね、あれは何千機というて。

傷病兵はね、わたしらは、9杯も船団も輸送船もおるんじゃけぇね、輸送船はおるんじゃが、輸送船はもうガチャガチャにやられるんじゃけぇね、爆弾が落ちるのがみえる。ごうごうゆうて音が多少、多少ゆうことないぐらい鳴るんじゃが。んで、煙がこう出るんよね。船団はもうほとんどあれは沈められて。

あのときも、撤退作業じゃけぇね、ニューギニアの撤退作戦じゃけぇあれは、向こうへ夜ついて、ラエへ舟艇でのなにが出てなにしとるんでしょうのうと、舟艇で、輸送船へつれて帰って、乗して帰るんじゃけぇね。でもあのころは相当な犠牲があったんだと思うんですよ。わしらもやられたんじゃけぇ、どうにもなりゃせんのんです。40度くらいに傾いてね。艦長がもう「わしらの船は沈むのは間違いない」なんがあって、艦長が「全員退艦用意」ゆうて、これもマイクによう聞こえるんですよ。「あぁそうか」ゆうて。それからまた、わしらの分隊で上の人たちがおられる分隊がおられるけぇね、「こういうような行動をせぇ、あぁやれぇ、こうやれぇ」ゆうてね、革靴は履いてね。あのとき、わたしはあのちょうど探照灯の、駆逐艦ゆう船は1700~1800トンの船じゃが、前の煙突の、えっとこう2本あるんですが、それの後ろ側へ探照灯があって、それから、わたしは伝令をおおせつかっとったんですよ。今んなって、こうようにいえるようになったが、あれだったんですよ、伝令を艦長から、艦橋いうのがあるんですが、その前に司令塔ですよの、戦艦なんかありゃ40なんぼメーターなんかあるんですからね、高さが、駆逐艦らでも、20メーターや、そこらあろうもんじゃが、そこに立っておられるんじゃけ、わしら特に指令艇でもあったんです。

アメリカの戦艦がね。戦艦ちゅう、航空母艦でも、まぁ日本のものでも大きさはえっと変わりゃあせんが、仰山くるんじゃけぇ、あんたどうもならんでしょうが。じゃけはっきりしたことはあなたがいわれるような記憶はなあがねえ、ほいじゃが、哀れなもんよね。ほれからね、こちらの戦友や先輩の人でも撃たれて機銃掃射がバババッてやられるんじゃけぇね。11人おったんじゃがね、わしは伝令しよったんじゃがね、11人、広角砲25ミリの機銃ゆうんがあるんよ。それを飛行機から、命令、命令いや艦長、艦橋の方から、「人間の何度方向に何機敵機いやぁどう」とか言って。「それ行け」ゆう。それから、わたしが伝令しよるけぇそうゆうていわれるけぇ、そうように、そうするとまた、次が今度こう、左舷の方にもこうがいうのがおるけぇ、それをあの、伝令がゆうて動くんじゃのうて、長ゆうのがおるんじゃけ、機銃でもね、4連の機銃が2機ある。右舷へ2機、左舷へ2機あるんか。あれがざあっと長ゆうてあった人、これがまあ一番その現場では上ですわの。一等兵曹、昔の、あれ階級変わったけえ、上等兵曹いうようになった、その位の人が指揮をとる、艦橋から命令が来て。ほえで、ババババッて来るのに、攻めに来よるの、見えるんですよ。見えるんじゃけぇね。はあ、来よる、来よるゆうてもなにもならんでしょ。ババババッてやって来るんじゃけぇね、当たらんゆうのが不思議。

ほいで、わたしら、「伏せろー」ゆうて。11人おって、7人だったかの、甲板にようは血と船がこうようになるけぇ、歩かれんのんじゃけ、血で。あの、鉄板の上にね、どうもならんでしょうが、やりようもないでしょう。あの、軍医さんの、ときに、どうとかいうようなことはできやせんのんですから。軍医さんおるのは居ってんじゃけぇね、あの前のほうの室に居ってんじゃけ、そこへ連絡やらなんやらゆうのはあらせんから、飛行機が来るときゃ、魚雷をもって、航空魚雷をもって落とすんじゃけぇね。海の泡を伝ってばあっと来るのが見えるんですぞ。ワーっていうんじゃ、船の上からみてね。でもどうにもならん。ガターン、バーンってやられて、ぐらぐらにやられたんですが。やからね、あの、戦死したもんもおるし、重傷のがおるしね。

久保:海軍の小さい船がの、協力してくれたのがうれしかった。

黒木:うれしいもんじゃの。陸軍さんをね、積んで、足を片方落としたような人をの積むのがね、わしらもまだ20歳なるかならんか、終戦の年にわたしが20歳だったんでね。今のような民主主義のとは違うんじゃけぇね、軍国主義じゃけ、命令ひとつじゃけ、これはいけんゆうても上官へ服従せにゃけいんのんじゃけぇね、反感もって、これは、「何々隊長、こうじゃいけんのんですか」とは一口も言えんのんじゃけぇね。そういうことだったんですよ。それに日本の軍隊がモテとったんですよ。あれだけ、教育に打ち込んでね、あの九州のなんかでも、飛行機に一人乗って、魚雷艇のようなのにも一人乗って、向こうくりゃ付きあたって死んで、今の自爆テロとおんなじやり方ですからね。それが、名誉じゃゆうて、ありがたくお受けするとは言わんのんじゃが、ありがたく敬礼して出てくんじゃけ。

もう、ニューギニアの撤退ゆうのはね、むちゃくちゃじゃけぇね、やから死んだ人も、かなりおってんですよ。負傷者もおる。

久保:ニューギニアから渡って、ラバウルの本部で、書類を渡して帰ろう思うたら、もう帰んな、日本軍の勢力はすでに敗退の時機じゃけ、本国からきとるんじゃぁないと、こういうことだった。ラバウルの本部自体で、もう前進はできないと、こういうことだったんです。

Q:久保さんが、長男ですか。長男ですか。

黒木:これは、長男。

Q:長男ですか。

久保:長男。

Q:黒木さんは。

黒木:わたしは、四男です。ぱっと四男よね。これの下が海軍。

久保:海軍で戦死しとろうがあ。沈没して、あれは誰かいの。

黒木:ヨシさん、ヨシさん。ヨシノリさん。

久保:そうだ、ヨシノリだ。

黒木:あれは、戦争行かんで、これの弟はね。あのー、海軍の潜水艦で、南方で死んだんですよ。2人になった。わたしのすぐ兄は、陸軍だったんだがね、シベリアへ抑留されてね、戻ってもものをゆうても、マッカーサーに引っ張られ、呼ばれて、東京へ来いやといわれて。やっぱり、アメリカいや、ソ連でね、チタへおったんじゃけ、教育受けてね。あのねアカの教育を受けとるんじゃけえね、ほえでから、日本のやり方は悪いじゃぁゆうて。これはいけんゆうて、マッカーサー司令部へ来いゆうてね、わたしが戻って、あれは後、戻ったんじゃけぇね、(昭和)22年だったじゃろうか。

始めごろはね、名誉のように思いよったんじゃけ。兵隊に出てね、出るんでも、これらが出ん時はね、ここに前の家が立ち退きでこっちへやったんじゃけど、あっこへ杉でかんもん(願文)をしてね、「祝入営」ゆうてね、皆がこんなほうなのをしてから、送ってくれてんですよ、駅に。いう様な時だった。「名誉」なんじゃけ。誰が当たったって、戦争が、いざ、はまり過ぎてあんなんになってね、大きなことになって、何でしょう、あれ、全体では200から300万人もの人が死んどるんだろうが。哀れれなものよの。どうしてしてにゃだったかってことよの。あんまり人口が多いけえね、狭い国より。反面じゃそういう人もおって。「人間を少のうせにゃいけん、ようけおって食われんようになったら、なんして」戦犯の土肥がね、ちょっと来い言われるかもしれんが、そういう説もあったんですよ。多いすぎたんじゃけぇね、一億おったんですよ。一億おったんですよ、あのころには、昭和18,19年。

わしゃ、母親のことを思えば涙が出ての。ほんと一生懸命になって、千人針を、昼は仕事をしてね、夜は千人針を、それから、子どもの・・・。を触るんじゃけぇ。・・・麦をようけえ植えよったんじゃけえね、ようけえゆうてもわしはわきや(分家)じゃけぇ、けども、百姓せにゃ、牛を飼わにゃいけまあ、親父は、大工、背負って・・・生活できやせまあ。で、・・・たってきて、早う、やっぱしの、今頃の様な、あっちいけ、時とはちがうんじゃけえね、仕事が目の前にうじゃあってあって、洗濯機じゃいうようなもんや、炊飯器じゃことのの、風呂でも水を蛇口を、水が出るようなときじゃあなんじゃけえね。水でも担いでね、まあうちらの井戸からあれしたりしよった。せわしいことよ。それで、そうして生活してね、来とるんじゃけえね、そりゃ、ここらじゃのうて、全国、皆、そんなんですよ。

終戦まで、今ごろの高校生じゃ、中学生じゃいうのは、苦労もなにもして、手伝いもえっとせんでもの、みな親がして、ま、それでええんじゃがな。じゃけ、日本の兵隊は強いゆうのはそこを言いよったんです。

Q:兄弟4人とも戦争へ行くっていうすごい時代ですよね。

黒木:皆行って、一人は戦死しとる。

久保:これ、兄弟が4人。

黒木:これ、あんたの友達じゃろ。わしらじゃなあよ。これがあんたじゃけえの。ほいじゃが、これ、おばあさんがよう写真に、なに撮ってどうなにするやらしよったようのう。わしらも大きゅうなってから、関心が無あけえの、わしら・・・ないけえ。貴重な資料ですぞ。

Q:ほんとですよね。

黒木:あんた、覚えとる。入隊する時じゃろ。「祝入隊」書いてある。

久保:これが父親。

黒木:おじいさんよ。

久保:母親。

黒木:母親。おやじがこれよ。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1914年
(久保)広島県世羅郡三川村に生まれる
1935年
(久保)歩兵第41連隊補充要員として入隊
1942年
(久保)ポートモレスビー攻略作戦参加
1945年
(久保)復員
1925年
(黒木)広島県世羅郡三川村にて生まれる
1942年
(黒木)大竹海兵団に入団。ソロモン海戦などに参加
1945年
(黒木)終戦。神戸港湾警備隊にて従事。4月復員

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