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タイトルタイトル: 「飢餓で歩けない兵士たち」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 小田 博士さん、三上 安徳さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年6月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニア戦線  07:55
[2]2 チャプター2 飢餓の果てに  09:41
[3]3 チャプター3 豪州軍との戦闘  07:11
[4]4 チャプター4 目前の転進  01:27
[5]5 チャプター5 追い打ちをかけてくる連合軍  04:01
[6]6 チャプター6 ニューギニアからの撤退  04:52

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年6月25日

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あのニューブリテン島のラバウルゆうとこへ着いたんです。あそこは基地なんですね。南太平洋の基地じゃったんです。それでガダルカナル、ニューギニア、あわよくば豪州を狙ろうとったわけですよ。あの細かい島よぉありますよね。あの豪州はとてもじゃねぇが、よぉ考えたら無理な戦争ですわ。あそこまでいったらまだまだ負けてます。

Q:ラバウルから41連隊全員ニューギニアに行ったんですか。

小田:全員ではないですね。だいたい、2大隊と3大隊が中心で、1大隊は、留守部隊のようなかっこうだったかな。留守部隊。
どぉ思った。(三上さんに)
まぁ、どぉまるみるように小岩井さんが中心でね。
んで、小林三隊長は、あのー「年じゃ年じゃ」言うて、辻参謀へ東京へ連絡をつけて、新しい大隊長と東京へお帰りになったん。皆ものが憤慨しました。この最中に移動ゆうことはあり得んです。負けてなかっても終わるまではね、代わるもんじゃない。死ねば別です。死にゃあ別ですけど。

Q:みんな憤慨したんですね。

小田:ええ。ひきょうもんだ。

Q:小田さんと三上さんは中隊は。

小田:3大隊で、わたしは本部。こいつは9中隊。

Q:9中隊。

小田:9、10、11と機関銃中隊と4、5中隊。それで、カミオカさんが4、5中隊、あ、機関銃中隊。たかみやまの。これは9中隊の人事をやっておられました。

Q:人事係だったんですか。お2人とも3大隊は一緒で。

小田:はい。一緒で。だけん話は合うんです。

Q:上陸してからはどのように行動したんですか。

小田:上陸してからが、まぁ、上陸の時、無敵じゃったわね。

三上:うん。

小田:ガダルカナルが負けて。アメリカに負けて。日本が撤退して、その間にニューギニアをガーっと。あの、ガダルカナルが、ニューギニアへ押し寄せんうちに。だから、途中までは良かったんです。そしたら向こうが、増強、兵力の増強して、ガダルカナルはどちらかと少なかったんですが、海軍が主じゃったん。陸戦隊なんかがおって。で、本隊を補充して、沖の方のギルワ、バサブア、あの辺をサラモア、あの辺を中心に、地図見りゃ、これ見りゃわかるんですけども。
(地図を出して)
これがまぁ、基地です。で、この青いのが海岸べりで、これがジャングルです。で、こういう風なしるしが敵さん。これがだんだん増えたんです。で、こういう風に包囲されたん。で、逃げ、撤退したん。

Q:上陸したところはどんなところですか。景色とか。

小田:まぁやっぱりちょっとジャングルで、入口は川がこうあって砂地があるゆうような。こっちの海岸ゆうのはジャングルじゃないんですけぇ。ここらが大ジャングルなんですけぇ。で、そこで、遮へい物を作る、するから、どぉしても簡単な建物を建てたりして、司令長とか旅団長、師団長さんらがおるところは。とにかく、まぁ、民家の、土人さんの建物はあんまりなかったです。ええ、何にもなかったです。むろん、バナナもパイナップルもないところへ上陸したんです。

Q:どんな準備をして向かったんですか。

小田:むろん、1週間から10日分の弾薬、食料、一升をおぶって、担がれるものは高砂義勇兵、義勇隊、高砂、台湾ですね。台湾の徴兵ですね。あの雇いです。台湾兵を、担ぎ屋に頼んで補給しよったんです。ところが、途中からはアメリカが、豪州か、豪州ですよ。あの、途中を中断して補給を断たれる。空は空で爆弾落とす。とゆううな格好。で米は、補給の、ドラム缶なんかにお米を入れましてねぇ。ほれから鰹節がちょうどあるんですよ。ドラム缶んの穴にそれを入れたものを投げて、いつまでもおりゃあ飛行機がおるんで、あの、海岸へ投げてはいる。船舶工兵隊いうのがそれ取りに来て、またやられとるんもおりますけども、それを持っていんでまぁ、師団やら、旅団やら偉い人の方へとりあえずあげて、余れば一線へ送ると。で、入院しとる者はあと回し。ゆうような格好ですね。

三上:1週間ぐらい歩いたら、もうくたびれてしもぉてね。木の前へ行きゃ、前へ兵隊がおる思うてね。そこへ止まってしまうんのがおるんじゃ。

小田:敵の兵隊。敵の兵隊がおるから。

三上:うん。兵隊が前におろう思ってね。木の前で止まってしもぉて動かんよぉなるんじゃ。

小田:そこで「たこつぼ」いうのを、ショベルで穴をあけて、それへ入ったいうよぉなことがあったんでしょ。「たこつぼ」。ここから下へ穴を掘って。ところが、半年雨期ですけぇ、雨が降ったらそこは、まるで池になるんだ。じゃけぇ、健康に悪いですわね。濡れてもしようもないさね、弾が来ちゃあいけんけ、こうくすんで、こうやって。鉄砲だけは抱えて。で、向こうが、ちょっと油断して、頭出したいう時、むこうも「たこつぼ」ある。それで狙撃して死んだら、それがまぁ、あれですよね。晩になったら、一人死んどるけぇ、それをロープで足をくくって引っ張って。いきおうたらやられるけん、夜にあの、死体を引っ張ってきて、ほれからその肉を食べたいう者が、ま、おりました。で、そういうようなことをする人はやっぱり古い3年生、4年生の、なかなか頑張り屋さんが、「みんなに食わせないけん」いうんであの、引っ張ってきて、「これ馬の肉じゃ」いうて、配給があったことがある。いうようなこともありました。

小田:当初はね、人間の肉・・・、しまいには、もうそれはいらんとか、いうようなことはなかったですけど。終わりになったら、もう自分の命が助からにゃいけんのだと。こないな、どうでもいいんだというような、もう群衆的なことですねぇ。そら1週間に米1合とか5勺(しゃく)とか配給しかない時期があったんです。ずーっとじゃないんです。補給があるまでは少なかった。で、生野菜もそんなないから木の芽と草の芽と、ほれから蛇、カエルが水たまりで死んどるのを料理して食べたり、ネズミの料理したもんですわね。一人食うてもしれたもんです。蛇なんかはまぁ長いですけぇ。それ以上の大きい動物はいなかったですね。惨めなもんです。草の芽なんかが、やっぱり毒草とかあったんじゃろう思うんで、大腸炎になると。おかゆにして。米粒を数えるくらいにして、あの水と野菜いうのが木の実とか草の実を入れて炊いて食べよった。

Q:それまでの戦争と全然違う状況ですね。

小田:ええぇ。マレーなんかはね、どんどんどんどん行ったら一目散に何にも残して帰って自動車だけで逃げよった。着るもんまで残して、それをもろうて着たりねぇ。食べたり、コンビーフいうのおいしかったですわねぇ、あの頃のコンビーフは。パイナップルは産地ですからね。パイナップルが大きなんがあるんですよ。大地に。でそこへ工場があって。そこへ4~5日駐留すると、ご飯食べられんの、おいしゅうて。そしたら下痢する。パイナップルばっかり朝から食べよる、おいしいけん。こぎゃあよりはこっちがいい。いうような、時期がありましたねぇ。

Q:ぜいたくになっちゃいます。

小田:それをまあ、ニューギニアでも「現地調達せぇよ」と言う意見はあっても、それは参謀さんやら大本営やらの考えであって。ないんですけぇ。ジャングルの中で水気がびちゃびちゃなとこですから、動物も住んどらん様なとこですから。そういうことはさらさらなしですね。

三上:ニューギニアで、食う物ぜんぜんくれんのじゃ。じゃけぇ木の葉っぱやら、あがるもんばっかり食っとったよ。うん。ほいじゃけん、わしらが、そうじゃのう、30キロぐらいまで痩せた。60何キロあったんが。骨と皮ばっかりじゃ。うん。

小田:で「わしが死にゃぁ、肉を食うて、しのいでくれよ」いうて、元気な間に言い合いをしよった。「わしが死んだら、そうしんさいよ」言うて。誰もがそうじゃった。ところが、誰も死にゃあせず、骨と皮で補給があればまだあの、助かって息をするというようなかっこうで、最後はやはり、そうゆう骨と皮の人でも、身はないんじゃけぇ皮を食うぐらいのことでした。

三上:「人事係じゃけぇ、殺しちゃあいけん」ゆうてね。わしだけは食わしてくれた。なに食わしてくれたんかなあ思うたら、敵を殺して、肉食わしてくれた、敵の。

小田:わしは「馬じゃ」言われた。馬が5、6頭おったんですよ。戦車やら、ああゆうもんがなかったから。ジャングルじゃから。で馬を、

三上:人間の肉食うたのあれが初めてじゃった。後で聞いてびっくりした。

小田:肉としちゃあ、牛肉やらブタからいや、酸いかったです。わしは、よう肥えとるから。

三上:いや、アメリカの兵隊もびっくりしよったのぉ。「・・・食いやがる」言うて。食うものいっそ、くれんのじゃけぇ。妙に痩せて、歯も全部抜けちゃった、あそこで。うん。じゃけぇ全部今も上も下も全部入れ歯。自分の歯一本もない。

Q:向こういるうちに全部抜けちゃったんですか。

三上:うん。全部抜けた。

Q:そうなる人多かったですか。

三上:うん、そうえっと(たくさん)おらなんだ。残った者がえっと(たくさん)おらんのじゃけぇ。うん。ほとんど食わんと死んでしもうたんじゃけぇ。

小田:まぁやっぱりあのぉ。体質的に、頑丈ないう人と、弱わな人といますから。ひ弱な人は早く亡くなる。食べるもんもイモまで掘って元気がないいう人と、いやイモ掘ってでも長生きせにゃいけんのんじゃというのとおりますわな、人間には。欲望で。ああなるともう、人間扱いじゃないですよね。しまいには。

一か所がたまっとっちゃいけんのじゃけぇ。広がって散開しとるわけです。だからどうしても伝令のようなものがおって、「左行けとか右へ行け」とか、「どこは敵が多いぞ、しっかりしたんがおる」とかいうの、情報教えないけんですねぇ。後になったらほらぁ話になりません。はじめだけです。特にこのギルワから奥へ入って、この辺までね、これがポートモレスビーでしょ。この辺。

Q:向かっていく途中、サンボとかポポンデッタとか通って行ったんですね。

小田:ええ。で、最後はこう囲まれたわけです。あの、こっち側からも来るし、こっちからも来る。

Q:向かっている途中で敵と交戦はありました。

小田:あったですよ。じゃからいまの「たこつぼ」とかいうようなん・・・。

Q:敵と交戦するときは、それまでのフィリピンの作戦と比べてどういう戦闘になるんですか。

小田:まぁ、どっちかいうと逃げ足は速かったですねぇ、向こうは、フィリピンでもマレーでも。日本が来て、頭からそれをなしてしもうとる、撃ち合いしたっつう・・・ですね。ところがニューギニアになるともう、日本強いんぞということが言われるから、「どないにして日本やろうか」いう研究ばっかりしだしたんですけぇ。やけぇ、高いとこの木登って誰も気がつかんようなところで、下へ日本人うろうろしよるのを狙撃する、というやり方ですねぇ。狙撃兵もやっぱり訓練の良くできた人があるんですが、下からも狙撃兵がおったりしとる。

Q:さっきの木の陰にいるかもしれないって思うような、どこに敵がいるかわからないんですよね。

小田:まぁやはりあの、むこうも、うわーっと声を出して、来て、奇声を上げると日本も恐れるから逃げるじゃろういうようなことでね。バラバラに攻めるよりもそういう風な状態の時もあったですね。それで負傷した者は野戦病院へ入る。野戦病院では食糧、一線の元気な人へは食糧回っても、野戦病院には回らん。だから余計、野戦病院は栄養失調になるいうような格好で、薬もなけりゃあ弾薬も何もない。守ることもできん。

Q:小田さんが野戦病院に入ったのはどの辺まで行って?

小田:ええ、わしの、ここいらやねぇ。ここギルワで基地です。敵前上陸。これからジャングルですけぇ。この、ココダかね、この辺まで行ったんですよ。中腹まで。それで食糧続かんで、薬がないんでマラリアになってここへ野戦病院があったんですよ。野戦病院でも、青空病院です。青空野戦病院ですから、雨も風もよけることはない。トイレもないから穴を掘ってそこへお尻を入れて、垂れ流しですね。大腸炎いうても食べとらんのだからお腹のカスが出んのですわな。ですから垂れ流し。ハナとうみのようなものが、痰の様なものが出よった。それで、「胃薬くれ、腸薬くれ」いうてもないですね。それからあの、怪我しても「ウジ療法」で、「ウジが悪いもの食うてくれるけぇ大丈夫じゃ」いうようなことをいうて。ウジが良いわけはないですわね。

Q:野戦病院はどんな患者が多いんですか。マラリアと。

小田:もうほとんどがそうです。栄養失調がほとんどです。8割まで栄養失調です。よくまぁここまでやったもんだわ。で、この前のあの持って来とりますかビデオはね。あれは中部で、この辺でしょう。これが東部ですけぇ。

Q:もっとこっちですね、西のほう。

小田:西。こっちこっちこっち。ほいで、東部、西部こっち一番端が41連隊の分かれがおったわけです。で、ここで、豪州にやられよったん。野菜作ったりしとったいうんです。持久戦で。

「撤退命令が出た」というのが真相ですわね。ウエオカさんが、機関銃で第一線じゃったんで隣の町の。2年前に亡くなりましたが。その人はわたしにしょっちゅう言いよりました。これにも書いとるんですが、涙ながらに、しゃべられたですがねぇ。「情けなかったねぇ」言うて。あこまで来とって撤退命令。まぁ元気でもあるし、戦意もあったから、行きとうてかなわなんだ。しかしあれを行っとったら、みんなおだぶつです。撤退命令が来たけぇ、元気なものを始めとして、だんだんに、後方の、ラバウルでなしに、ニューブリテン島のツルブの病院とラバウルに引き上げたんだね。

三上:「全員死のう」いうた時ありました。どこじゃったかいな。連隊旗も焼いて、「全員死のう」いうことになたんじゃ。そしたら部隊長が「やっちゃいけん」言うて。「41連隊が戦争負って来とるんじゃけん。大事な連隊旗じゃからやっちゃいけん」言うて。「責任はわしがとるけぇ、もし敵にスキがありゃ後退せぇ」言うて。ちょうど大雨が降ってね。敵が油断しとった間にそこを抜けて出たん。まぁ、運が良かったんでしょうのう、大雨降って。敵も出られんもんじゃけぇ。

小田:向こうは連隊旗がここへあるけぇ、これを占領しよういうような考えじゃなしじゃったんじゃろうがの。

Q:その前はみんなで死のうっていう話になってたんですか。

三上:うん。みんなで死のういう話じゃった。連隊旗も焼いてしもうて。

小田:手りゅう弾で魚捕って食うたこともありますが、最後は一発ずつポケット入れたっけ。ほれで「栓を抜いて自殺せぇ」いうのがあの、命令でしたな。もらえんような患者もおったわけです、兵隊さん、あの病人も。それが、弾ももらえなんだ。一線の元気な人だけはもろうて。とにかく逃げよったいうことじゃった。

Q:脱出する前の最後の陣地ってどういう風な。

小田:それはこう、足腰の立たん、栄養失調で立たん人もおるし、負傷で立たん人もあるし歩けん人ですね。そういう人が一番まぁ、別れが辛かったですよね。あの、涙ながらの、座り込んで、「もう、どうにもこれ以上の力は出んから、あんたらは早う海岸へ出てくれ。わしはもう覚悟決めて座り込んで動かんようになった、動かれんけぇ」言うて、渋々後ろを見い見い海岸へ出る者とそこへおる者と。もうそれは、情けなかった。悲惨じゃった。

「こういうことをしゃべるのは良くない」と言う(人が)、まぁ、良心的いうんかどうかわかりませんが、おられますが、それは真相はね、真相として後世へ伝えるべきじゃ思うから、そういうことは遺族に対して気の毒なと思うよりもその方が大事や思う。

小田:夕方のね、日が暮れると敵が来てやられるから、航行中に。じゃけぇ、暮れる前にね、まぁ5時とか6時とかに出ると。時間まで覚えてますねぇ。着の身着のままで出たんですよ。ほんとにフンドシもろくにないような状態で。もう、足は靴もない、傷んだねぇ。それみんなです。補充がきかんのですけぇ。ほんで、ゴボウ剣いうて腰にやったらこれぐらいの剣を一本だけは持っとったんです。あれと手りゅう弾を持って、「いよいよ敵の捕虜になるようならこれで自爆せぇ」いうっふうなね。でまぁ幸い使用はありませんでしたね。
で、そん時にタナカを連れていこうと思っても、へたれこんでしまってね、どうにも息が続かんけぇ、「このまま放っといてくれ」。そのときの情けない、かわいそうないう気持ちがねぇ、忘れられんのです。未だにね。タナカいう上等兵は知っとっても、住所までは聞いとらなんだ。そこまでの余裕がなかったいうことですよね。はぁ。そういうような30人ぐらいおりましたかな。そのときに。最後の舟艇ですから。偉い人らは組を組んだりして、偉い人は担架でね、かがまれた(担がれた)ですよ。で、病人の兵隊さんなんて、かまってくれないですよ。出られる人だけで行る。だから、そのまま捕虜になったり死んだりしよる。 いろいろ、ありました。

魚扱いにされて、舟艇でこの辺まで来て、夜、昼に動いたら・・・されるから。夜、この海岸を、サラモアあたりから駆戦艇ゆうてねぇ、駆逐艦の小まいのがあるん。それへ乗せられて、ラバウルに帰ったんですけども。あの、人間扱いでないわけです。まるでブリかサケかのようなかっこうの、収穫したのをパンと投げるようなかっこうで。それはもう、大腸炎やらマラリアでよぉ痩せとる。臭いは風呂へ入っとるわけでねぇんですけぇ、ウンコだらけですわねぇ。だから、体臭があるから下へは入れてくれないんです。上の甲板。風通しのいいとこ。

まああれはもう忘れられん。ええ、甲板からねぇ。臭い。体臭が臭いんですよね。体洗うわけじゃないし。大腸炎やっとるから。体の臭気があるわ。だから、下へは入れてくれんのです。風が吹く甲板に投げてくる。魚扱い。まあ負け戦いうのは地味なもん。地味なもんです。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
(小田)広島県比婆郡西城町に生まれる
1941年
(小田)福山第41連隊補充要員として現役入隊。中国、上海奥地での作戦、マレー作戦、シンガポール攻略作戦に参加
1942年
(小田)ポートモレスビー作戦参加、南海支隊へ編入
1917年
(三上)広島県比婆郡本村に生まれる
1936年
(三上)第41連隊補充要員として現役入隊。マレー作戦、シンガポール攻略作戦などに参加
1942年
(三上)ポートモレスビー攻略作戦参加

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