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タイトルタイトル: 「米豪軍包囲網からの脱出」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 金尾 好範さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年7月30日

チャプター

[1]1 チャプター1 ポートモレスビーへ  03:56
[2]2 チャプター2 苦難の行軍、そして撤退  06:17
[3]3 チャプター3 連合軍に包囲される  04:13
[4]4 チャプター4 脱出  05:06
[5]5 チャプター5 たおれていく兵士たち  07:01
[6]6 チャプター6 帰還そして除隊  02:43

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年7月30日

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(昭和)16年の4月10日にこの福山の41連隊へ入隊して、それで、8月に支那へ行ったんです。支那の元41連隊の部隊へね。それが、浙江省の山へ「浙江作戦」言うて、作戦が済んで一緒に警備しとるところへ補充で行きました。それで1か月ぐらい、そこへ居りましてね、それから、カンワンいうて揚子江の上海より反対側の北側にね、そこへ仮兵舎が出来とって、そこへ帰って、そして、休養と同時に次期作戦の準備をしてウーソンから船に乗ったのが、11月頃ですか。それから、12月8日にはタイのシンゴラに上陸をとって、そしてずうっと、3日目にマレーの国境を越えて、マレーの中央線をずうっと5師団が中央線を行って、シンガポールの総攻撃までやりました。

Q:マレーの戦闘は激しかったんですか。

いや、マレーはね、4艇団ってありましてね。交代です、次々へね。一線で戦闘したら一番後ろへ下がってね、それで、自転車で歩兵で進む。自転車で毎日。で、それでまた前へ出て戦闘する、2回、3回くらいやりましたかね。で、総攻撃は一番出ましたけどね。

それからね、マレー・・・シンガポールを陥落して部隊が治安維持のために、各ところへ分散するんです。その折にね、熱発しとりましたね、マラリアで。そして、ジョホールバルの野戦病院へ放り込まれて、部隊とも3か月くらい離れとりました。それで、退院して、結局、貨物船に乗ってね、台湾まで帰って、台湾から今度マニラへ行って・・・。部隊がマニラのフィリピンへ行っとりましたからね。それだから、マニラからね、西部いろいろ、ミンダナオ島のダバオで中休して、ダバオ湖でまた次期作戦の準備でね。

そして、船に乗って、パラオ、ラバウル、それからニューギニアの・・・あれはラエだったかサラモアじゃったかね。そこへ上陸して、スタンレー山脈を越えて、ポートモレスビーまで行ったんですよね。

輸送部隊はね、台湾の高砂族と、ラバウルで土人を徴発してね。背負子で輸送しとったんですけどね。だいたい結局、しまいには、糧まつなんか自分で負うたのをほとんど食べてしまうような状態になりおったわけですよ。

Q:中隊長とかの分も背負うんですか。

ええ、それは当番は皆。

Q:2人分。すごい山道ですよね。

山道です。馬も越さんような。それだから、背負子で。わたしら兵隊は背負子じゃなかったですけどね。輸送部隊が背負子なんですよ。

Q:どれぐらいの山なんですか。

どれくらいって。スタンレー山脈いわれる山脈ですけどね。頂上は、ほんまにもう霧で。それで、大きな竹が生えてね。竹を切って、その中の水を飲んでって行ったことは覚えてますけどね。

Q:行軍について来られない人なんかもいたんですか。落後するって言うか。

そりゃ、おるでしょうな。戦闘中はなんだけど、脱出した折には、道端で動けんようになってね。そして、何だな、助けを請うとるんじゃけども、誰も他人の世話できなかった。いよいよ自分もフラフラだったから。だから、ポートモレスビーの見える所まで行って、それから引き返したのは・・・で、包囲されてからが、もう皆逝ったんですよ。亡くなったんですよ。結局、砲弾でなしにね、衰弱と病死ですわな。負傷した者は、そりゃ居りましたけどね。ほとんどが栄養失調でフラフラだった。

Q:ポートモレスビーが見えたんですか。

あのね、見えたって言っても、かすかに、夜なんかにちょっと、明かりがちょっとぼんやり見える程度。遥かな向こうですから。山の上から見るんだから。

Q:ずっと、そこのポートモレスビー目指して山越えて行って、見えた時はホッとしたんじゃないですか。

ううん。まだまだね、ものすごい距離がありますからね。それで、山の尾根、尾根で見たんですからね。一番最後は、山の一番頂上で見て、それから引き返してきたんですけど。そのとき分にはもう戦闘機がね、銃撃に来ておりました。

眼下にポートモレスビーが見えとりましたけれどね、そこでまで行って結局輸送の気がなくなってね、糧まつと弾薬と。それから・・・それで引き返したのがいつ頃だったか、もう日にちは覚えとりません。後退するのはね、やっぱし負けて逃げるのはえらいんです。
それで結局、あれはサラモアですかな。ラエだったか・・・。包囲されたところが・・・どっちだったかよう覚えんですけどね、あれはね。結局、ガタルカナル島ですか。あれが撤退するために、制空権も海上権もみんな握られとったんですから。それで輸送の気が無くなって、ニューギニアに引き返したところでね、ほとんど餓死ですね。まあ弾に当たるゆうことはあまり無かったですよ。時々当たる、砲弾が時々来る程度でね。包囲されてる間は中々。まあ、一線へ出とらなんだからね、真ん中に居ったから。弾に当たるようなことは無かったんです。

包囲された折にね、始めのうち、海岸端まで糧まつが通じるように、中隊長が「お前行け」言うたから行きおうたんですけれどね。その折に、結局、米やしょうゆやね、そういうものは・・・缶詰なんかっちゅうけど、米を食べるんで、背負って戻る。その折にね、途中でね、言うちゃようないんだけど、水筒へかますのね、穴開けて水筒の口開けて、内緒でこの、水筒へやる、一杯とって・・・。
そしたらまた戻ってね、使役いうのありますよね、料として掛け声いっぱい掛け合って、余分にくれたの。まあ、それでね、どうにか。まあお粥なんか耐えられない。お粥しか食べてなかったですからね。

Q:米は普通の時は、1日何合食べるはずですね。

あのね、5勺です。1日5勺ぐらい食べとります。じゃから、お粥にして、そしてそれを3回に、飯ごうへいっぱい作ってね、3回に食べた。

Q:足りないですよね。

それだからね、食べ物が無いから、夜、そのお粥をね、枕元に置いとるのに、盗まれるんです。

結局、まあ、そういうお粥をすすっとったんですけど、それを盗まれたりね。そして、病人が出たり、それからね、負傷したり。そういうのもね、負傷するとね、傷口にね、結局ね・・・もう、薬が無いでしょ。それだから、ハエが溜まって、もう周りが卵で真っ白になるぐらい。そしたら、直ぐウジがわくやね。そのウジをピンセットでこうやってハサミで取る。衛生兵の人が取るんですけれどね。その程度でね。

Q:脱出命令が出るまでは、長く包囲されてたんですか。

ええ。ずうっと、もうね、包囲されてましたよ。

Q:包囲されてる時はどういう状況だったんですか。

包囲はね、ずうっと壕を掘って、それで外側を陣地作っとったわけです。だけどわたしらのとこは、壕もなんも天幕だけ張ってね、その下で寝起きしとったんですけどね。

1月の19日に結局、砲撃とね、それから砲撃がやんだら歓声が、敵の声が聞こえてね。そして、その折に、もう軍旗に火をつけてね。そして、軍旗護衛とそこで撃ち合ってね、そして準備を作ったんですけどね、その折に、途中に声も聞こえのうなるし、撃ち合いもなくなってね、静かになって。それでそのままじーっとしとったら、もう敵は入って来なんだからね。それが1月の19日です。18年のね。それから、そのあくる日に、結局、脱出命令が出たから。そして、その夜、夜通しかけて敵の中、出たの。

Q:敵の中を。

はい。

Q:敵の中って敵陣地の中をですか。

そうです、包囲されてるから、それを出て一部抜けるのにね、夜通しかけて出てたんです。それがね、出る折に前を道路がそのままだったのを、今度出る折に、そこを通ったら、舗装しとりましたからね。

Q:敵に気づかれないように、行くわけですよね。

2回ぐらい入りましたかね。夜、ずうっと一列になって、一切、音を立てんようにね。「後ろ下がれ」いうのも、手で次々に行くわけです。それが2回くらいありましたね、道路出る折に。

Q:脱出してからは、どこに向かったんですか。

クムシ河より2キロ手前に軍が迎えに来とったわけです。それが20日に出て、1週間くらいで結局その地点までたどり着いたんですけどね。そこでなんでしょうな、大体、病人、弱った人から先に舟艇で下げたんですけれどね。

Q:河を渡って。

いや、河は渡りません。手前で。河の手前。そこに舟艇が来とったわけです。
そして舟艇で、夜、走って3日ぐらいかかりましたかね。友軍の一線陣地に入るまで。

2月の2日までに、クムシ河の河口2キロ手前まで迎えに来とるから「それまでに帰って来い」いう命令下って。

Q:それまでに帰って来いって。

それ以降は「戦死に認めろ」いう命令じゃったんですよね。

Q:それ以降は・・・

それ以降は引き上げてしまうんでしょ。

Q:2月2日までに行けない人は生きてても戦死なんですか。

はい。

Q:もう生きてても、戦死って扱われるんですか。

そうです。「帰らん者は戦死と認めえ」と。

要するにね、衰弱してもうて、服もぼろぼろ。それから編上靴もね、履いとる者でも破れてしもうとるし、裸足の人もおりましたしね。それで、銃も、もうほとんど持ってなかったです。持って歩けない。

動けない、歩けないんです。結局、マラリア起こして熱発したり、衰弱しているからね、動けなくなるんです、自然に・・・。まあ、食べるものも何も持っとらんしね。それは出る折にね、乾パンと・・・缶詰のね、サバの・・・イワシの缶詰だったかな。一つもらいましたけどね。それをもうずうっと中隊長と一緒にね、金平糖まで同じ様に分けて食べて帰りましたけどね。

Q:中隊長とずっと一緒だったんですね。

ええ。中隊長と帰りましたよ。一緒に。

Q:中隊長なんかは、年なんかはずっと年上ですよね。

ええ。大分、上だったんじゃ、もう40・・・ぐらいじゃなかったですか。年寄りだったんです。だから、軍旗護衛に回されとったわけでしょ。大体そう思いますわ。

Q:さっき、助けを求められても、やっぱりどうすることもできないっておっしゃってましたけど。

もう、(動けなくなった兵士たちを)見んふりしてね、ずうっと通って来たですからね。

Q:見ないふり。そういう方もたくさんいらっしゃったんですか。そういう倒れて、助けを・・・。

ええ。そう、だんだんおりましたよ。道端にへたり込んで、もう動けなくなってね。そんなんが、だんだんおりました。

Q:やっぱり、見ないふりっていうのは、やっぱり見てしまうと気になりますものね。

そう。

帰って来る時はね、下をこっちの上陸地点に近い所、クムシ河をね、河を渡る時に、あれですよね、イカダを組んで、そして、渡ったんですけれどね。でも、イカダを組んだ言うてもね、イカダの上に乗るんでなしにイカダを持ってね、河を流れたんですけれど。その折に、イカダごみに流された人は沢山おりました。そして、結局上陸地点へ帰るわけですけれどね。その折はね、海まで出た折に、海の潮を飲んだのを覚えております。潮が味が良かったことをね、海の潮がね。塩気をひとつもの食べとらなんだいうことですよ。

Q:やっぱり塩気が足りないって体で感じるんですか。

ええ、だから海の水が本当においしかったですよ。

あの曹長の人がね、脱出に熱発で意識不明で。その人は結局、拳銃を握らして、引き金を引いて帰ったわけね。

Q:その拳銃を握らしたって、その場面は見られたんですか。

ええ、見とりますよ。あのね、指揮班には曹長と軍曹と、まあ中隊長とね、軍旗護衛しとる中にそこに一緒におったのは、それと衛生兵と僕とそれぐらいだったんですからね。皆あと一線の方に着いとりましたからね。指揮班にはまだ色々おるんですけれどね。それとも、皆、准尉の人も結局なんじゃね、一線に着いとりました。

Q:じゃあ、その人たちで一緒に、撤退の時、一緒に行動して。

ええ。

Q:一緒に行動していたんですね。

あの・・・一緒にね、一緒に行動した折には、誰とかも全然わからん。もう、中隊長とわたし2人でずっと一緒だったから。あとは、もう、よく分からんですわ。

Q:意識がね、そういう拳銃握らしてっていう、そのときのことは詳しく覚えてます。

うん。それはもう、はっきり見とりますからね。うん。それはもう、脱出する直前です。

もう意識不明ですよ。あのね、周りはマラリアの熱発だったら分からんですよね、40度以上出ますからね。

そのまま置いて帰ったらね、熱発しとって分からんなんでも、もう捕虜になるか、それとも、何だな、撃たれるか。それだからなんでしょう。

まあ、地獄をね。あれはほんまにもう、生き地獄じゃろうな。

まあ、あれですわな、ニューギニア包囲されて脱出して、平壌まで帰ったのが150人ほどですけどね。

Q:それは、連隊全員で。

連隊で全員。あの、ニューギニアで包囲されてから帰った人は。それから、後から帰った、他で、会うた人はね、皆帰っとりますけどね。

ええ。あのね、わたし戦争中の18年の12月に除隊になっておりますから。そして、もう直ぐ、戦死された人、家や家族、ずーっと回りました。

Q:ああ。

そして一年間あまり居りましたから、また召集で出たんですけれども。

Q:遺族の方のお家訪ねたときは、どういう話されたんですか。

それはもう、状態をね。分かってる、戦死した時の状態を結局、分かっておれば話すけど、他には全然状態が分かりませんからね。只お悔やみで線香上げてから帰って。
それで、戦死者の公報には書いてあることがね、それはあの、何だけど、遺骨いうたらほとんどありませんよ。爪、ぐらいなものです。

まあ、結局・・・戦争は、何ですかね、国の・・・国と国とのけんかじゃろう、戦いじゃろうけども、その一線で働くね、兵隊はほんまにもう惨めなもんですわ。殺し合いですからね。人殺しを仕事にしとるんですから・・・。いつ、なん、どっちがどうなれど分からんしね。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
広島県深安郡坪生村にて生まれる。
1935年
尋常高等小学校卒業。青年学校卒業 
1941年
歩兵第41連隊補充要員として現役入隊。中国大陸での作戦の後、マレー作戦、シンガポール攻略作戦に参加。
1942年
ニューギニア・ブナ上陸。ポートモレスビー攻略作戦当時、歩兵第41連隊第7中隊。21歳、陸軍上等兵。
1943年
満期除隊、復員。陸軍上等兵。
1945年
再召集され。臨時憲兵として麻布にて終戦。陸軍兵長 当時25歳。復員後は家業の畳屋を営む。

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