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タイトルタイトル: 「部下の死に苦しみ続けた夫」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 林 澄子さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年10月6日

チャプター

[1]1 チャプター1 軍人一家  02:41
[2]2 チャプター2 戦争中の結婚  04:23
[3]3 チャプター3 夫から感じたポートモレスビー作戦の苛烈さ  03:57
[4]4 チャプター4 憲男さんは200人近くの部下を亡くした  03:10
[5]5 チャプター5 帰国後、国内の部隊の大隊長になった  02:45

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年10月6日

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生まれたときから軍人の娘で育ってるから、当たり前だとしか思ってないんですよ、もっとよく主人に聞いておけばよかった。でもかえってそれが、何も聞かなかったから、主人はかえって良かったのかもしれませんけどね。

うん、「マッカーサーが来たら何されるかわからないから、軍人という感じのものは全部捨て、燃やしてくれ」っていう、「燃やしなさい」っていうあれが出たもんですからね。だからね、山の中に落下傘で下りてくるわけないのに。だからね、ノモンハン、ノモンハン事件ていうのも結局、白木の兄が調停に行ったんですけどね、どういう戦争だったかていう、なんかね、国境のあれだったらしいんですよね。

国境紛争で、日本軍がそれこそ塹壕を組んでね、作ってね、それで、ロシアの方から来る戦車をよけようと思ったらしいんですけどね、やっぱりこういう塹壕だったでしょ、そこに入ってぎゅーっと、まわられて皆死んじゃったんですって。あんまりひどいので「調停結んでやめよう」っていうことになって、兄が行ったんですけどね。

Q:ご結婚されたのは憲男さんがニューギニアに行かれる前なんですか。

いえ、後なんです。後なんですけどね、元々がね、遠縁なんですよ。だから、台湾に行ってたもんですからね、一家が、それで夏休みとかなんか帰れないときはね、もういつも家に来てたんですよ。だからね、まさかね、あの人の嫁さんになるとは思わなかったんですよね。

ニューギニアでひどい戦争になってるっていうのがね、一度、ラジオでね、深夜放送かなんか聞いてたときに、退却っていう言葉使えませんからね、転進したっていうのでね、「あ、それで生きてるんだわ、まだ」っていうのがわかったんですよ。

Q:お名前は出たんですか。

うん、出たんです。なんか10人ぐらいでね、ジャングルの中にいたら、アメリカ軍が10メートルくらい先にいたんですって。で、そーっと音を立てないように、退却したわけですよ。深夜のニュースで言ったんです。それで「憲男さん生きてるわ、まだ」っていうのがわかったですよね。それで、急にね、結局、えーと何年に帰ってきたんでしたっけ。18年ですか。

18年に帰ってきたんですよ。それでね、18年の9月の23日に帰ってきたんですね。

東京駅にあの母が「迎えに来てくれ」って言われてね。それで母一人で行くのあれだからついていったわけですよ。でわたしがついてきたら結婚しようと思ってたんですって。で、そしたらそうとは知らないで、ついていったらひょろ長いのが帰って。だってあのね背が172くらいあった人がね、47キロになってたもん。だから、たぶん母一人じゃわからないだろうと思って東京駅まで行ったんですよ。だから東京駅までついてきたらもらおうと思ったんですって、もらおうと思ってたんですって。でそれがね、この写真をね、妹のさっきの、主人の妹の、台湾に送ってたんですよ、お見合いの写真のつもりじゃなくて。ただ送ってたらね、この写真を見て、東京駅まで来たら「もらおう」と思ってたんですって。だから、結婚したのはね、結局あの、母の許しを得て、あたしを通さないで、下さいって言ったらしい。

Q:でもこれやっぱり本当にやせられてますよね。

すっごいやせてましたよ。それでマラリアがあったしね。だから、マラリアの特効薬がキニーネって言うんでしたっけ。それをいっつも持ってましたしね、ですごい熱が出ても、ガタガタガタガタ震え出しても、その薬飲んでね。でちょうどその結婚式のときもね、マラリアが出てね、で、薬飲んで抑えてね。

Q:結婚式の時も。

それはやっぱり体力がついて来たら、だんだん出なくなりましたけどね。

Q:戦地でどうだったこうだったとかそういう話はされました。憲男さんの方から。

あんまりしません。それで、結局、食べるものもなくて、ひどい、戦争なんていうもんじゃなかったけど、飢餓との戦いだったよっていう話は聞きましたのね。それで帰ってきた後で、あたしの里から海までそれこそ10分くらいのとこだったんですね。あの東京湾のとこ。そこにアサリがたくさんいたんですよ、それでアサリって知らないっていうからね、二人でアサリ取りに行こうって言ったんですよ。そしたらフナムシとかね、ヤドカリだとかね、アオサっていう海草だとかが、いっぱい岸にいたわけですよ。そしたら「これだけ食料があれば大丈夫だ」って言って、それで、なーに言ってんのかしらって思った。もう、とにかく海の海老なんかを釣りに行こうと思ったら大抵やられてたらしいですよ。だから戦争っていう、どれくらい撃ち合いをしたっていうことは全然ね、話になかったですね、とにかく餓死との戦いで。で不思議なことに、前の方を並んで歩いてても、前と後ろが死んでて、自分だけ助かってたって言うんですけどね。でもその、今考えれば6年半戦地にいて、ずいぶんひどいこと言われたんじゃないですか。「どうしてあなただけ助かったんだ」っていうのでね。だから、あんまり戦争の話はしなかったですね。わたしも、のん気なもんですから聞かないし。でも、東京空襲の時が、ちょうどあたしが一週間後にお産だったもんで、里に帰ってたんですよ、主人も帰ってきててね、でそのときは、危ないからって言ってね、やっぱりそのタコツボのある防空壕をね掘ってくれて、ここにいろって、言われたことを覚えてますけどね。とにかくね、あんまり言わなかった人ですね。言いたくなかったんでしょうね。

あ、生きて帰ったっていうことに対して、それはね、言わなかったんですけどね、その前にね、ニューギニアに行く前に、中支、南支、北支に行ってましたでしょ。そのときに怪我してた人が入院してたわけですよ、陸軍の病院に。でその人とね、一人の方がね、ミツノさんていう人でね、目をやられてね、「かわいそうだ、かわいそうだ」って言ってたんですよ。で帰ってきてすぐそのミツノさんのところに見舞いに行ったわけですよ。でそのときに何か言われたのか知らないけど、「もうこれでお終いだ」って言ってました。だから、あの、亡くなった人のとこに行く方がいますでしょ、ああいうことはしなかったですね。

えーとね、ニューギニアから帰ってきたのは8人だって。中隊が200人くらいいたんじゃないでしょうかねあのころね。

Q:やっぱり小岩井さんの、こういう本なんかを拝見しても将校の方で生き残った方の自責の念ていうかすごく強いんでしょうね。

うんうん。でこれはね、ほんとに小岩井さんに頂いた本はね、あのあれなんですよ。うちの娘がね、長男の息子にあげちゃったらしいんですよ、それで失くしちゃったんですね。でその前にね、失くなるといけないと思ってね、主人が書き込んであるんですよいろんなところに、そのあれをねコピーして持ってましたの。それを見るとね、あのーなんですか、やっぱり、生き残るためにね、生き残るために、怪我した人をおいてくような、その船には乗せないっていうときに、あの中隊長に「どうせ生きられないんだから殺してください」って言って主人がピストルで撃ってあげた人がいるんですよね、そしてそれをやっぱり自分でもかわいそうだとは思ってたんでしょうけど、乗せられないからしょうがないからそうしたらしいんですけどね。それがね、ほんとに頂いた本には書いてあるんですよね。そしたらその後でね、「『ニューギニア戦記』を貸してくれ」っていう人がいましてね。それもやっぱりね同じ部隊、31連隊の人だと思うんですけどね。音沙汰もなくて、ずっと十年以上音沙汰もなくてね、31連隊の人たちのとこに。でいきなり家にきてニューギニアのあれを貸してくれって言われて、で、貸してあげたんですよ。
でそしたらね、「林さんだって人殺しじゃないか」って言われたの、あたし。そのときがすごいショックだったんですよ。主人は殺そうと思ってじゃなくて、「楽にしてくれ」ってしょうがなくて撃ったわけでしょ。それをね、書き加えてあったわけですよね、本に。それを読んでね「林さんだって人殺しじゃないか」ってね。

Q:じゃニューギニアから復員されてからは、すぐ外地の方には。

うん、行かなかったです。その代わり関東地区を守るために、2877部隊っていうのに配属されて、で、そこの大隊長になって、それで穴掘りに行ってたんです。

Q:まあでも生きて帰られて良かったですよね。

そうですね。でも、五十、定年が53だったんですねあのころ。53のときに、定年の翌年に倒れちゃったんですからもう。脳梗塞になっちゃったんですからね。それも、結局、ニューギニアで育ち盛りに栄養失調になってると循環器系統がやられるっていうのでね、で、十年歳とってますよって言われましてね。なんか心臓悪くしたり、いろんなことがあったけど、結局、まあ生きて帰って、子ども3人出来ただけ幸せだったでしょうね。ほんと。

Q:これここにあった写真ですかね。

まあ、ほとんど軍帽はかぶってないですもんね、戦闘帽ばっかりだから。二十歳くらいですよこれ。

Q:終戦のときは少佐でいらっしゃったんですかね。

そうです。終戦のときはね、少佐だ。帰ってきて少佐になったんですよね。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1924年
弘前市在府町に生まれる。陸軍士官の父の転属に伴い、大阪・東京・千葉で育つ。
1942年
千葉県立千葉高等女学校卒業。翌年、女子高等学園入学、12月、同校閉鎖。
1944年
林憲男さんと結婚。
1982年
死別。

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ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)

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