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タイトルタイトル: 「レイテに残った兵士の運命」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: 山下 伸一さん(第1師団 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2007年12月

チャプター

[1]1 チャプター1 レイテへ  05:47
[2]2 チャプター2 敗戦の予感  02:38
[3]3 チャプター3 ピアノを弾く少女  10:03
[4]4 チャプター4 草の汁をすする日々  04:03
[5]5 チャプター5 命を落としていった兵士たち  07:26
[6]6 チャプター6 斬り込み突撃  04:35
[7]7 チャプター7 セブ島への脱出  08:47
[8]8 チャプター8 終戦  03:15
[9]9 チャプター9 遺骨収集  03:20

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2007年12月

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タニシマというわたしの同年兵、同じ歳の男ですよね。それもレイテ行きの船に乗っかっていったわけですけっど、行く船がどこかしらでアメリカの潜水艦それと飛行機、爆撃機、それに発見されて撃沈されちゃうですよね、輸送船がね。で、肝心のマニラ、レイテへは着かないで途中で半分くらいの兵隊が死んじゃうですよね、その中の一つの話ですけっどね。
 タニシマという上等兵がおって、そいつがごく仲の良いあれで、ずいぶん不安そうな顔しながら、「俺は百姓の出だから、泳ぎが全然できないからそのときは頼むぞ」というね、「俺はカッパだから俺のうしろへついてこい」つってね、「それから離れんなよ」って。
 ところが、そういう空襲やそれから潜水艦の来撃とかいろいろあって、ゴチャゴチャやっているうちに、いつの間にか、いなくなっちゃって。でも、必死でわたしのあとついてたけっどとうとうダメになっちゃってね、どこで死んだか分かんない。

わたしらが乗った「能登丸」というのも一緒に、ボカチン食って、敵のコンソニ(コンソリデーデッド)、ボーイングなんて、とにかく敵の爆撃機に爆撃されて、4隻は助かったですけっども1隻だけやられちゃって。

Q その爆撃されたこと・・・

爆撃の直撃弾はなかったらしい、直撃弾って、もろにこうババっと当たることはなくて、船をこうねらって船のそばへ、舷側っていうですけど、船のそばへ弾がおっこって、で浅瀬ですからすごい水柱が上がったですよね。その衝撃、水柱が上がるつってもものすごい勢いでウワッーと空へ吸い上げられるように水が上っていくから、その圧力で。 ほんで輸送船のあのなんだ、輸送船の構造っていうのはなにも爆撃に耐えるあれじゃなくて物資を輸送するやつだから、なるべく軽く薄くできてるですよね、船はね。だから穴があいちゃって、その水柱の勢いで穴があいちゃって、で、1隻だけ沈没して。
 で、そのときに約1個中隊、2個中隊ぐらい、使役つって、結局、海から陸へ積んでった兵器・弾薬・糧まつとかそういうものを揚げるわけですけっど、それの使役に行った連中が、「能登丸」が今度は弾薬庫に火が入っちゃって大爆発したものだから、「能登丸」というのはわたしが乗っていた船の名前ですけど、それで200人くれぇ死んだらしいですよ。

Q まだ中にいたんですか。

200人くらい残って結局、荷物を揚げてたんですよ。船から陸へ、燃えてる船から陸へ燃えてる船から陸へと。そのうち弾薬庫へ火が入って、大爆発が起きて、その時に、使役をやっていた連中はほとんど逃げる間がなくて、ま、死んじゃったわけです、やられちゃったわけですけっど。

わたしはちょっちょっと大爆発が起きるちょっと前に、カラ船がときどき来ますからね、そこへ乗っけてもらって、で、陸へ上がって、「あー、よかった。敵の第2波が来ないうちに上がれちゃって」って、みんなで「能登丸」の作業を見ながらうわさ話ししてた、だから全然ケガなしで。

いや、人の考えてるより、悪いけどね、そうね、なんていうのかな、人間っていうのはああいうもんだかもしんないね。やっぱり、自分が一番かわいいから、ホッとした思いですね。だから、中の連中は大変だなとは考えますけっど、そんなにしみじみは考えませんわね。

負け戦で、そういうことを肌で感じてたですね。今度はそこへ長嶺さん(レイテ島派遣当時、少佐。戦死した大隊長の後任として、第一師団歩兵57連隊第2大隊長となる)が関連してくるけっど。マニラの何軍司令部ってそういう細かいことわかんないけっど、とにかく長嶺さんが参謀要員として、参謀要員ですよね、参謀候補生っつうかな、マニラの山下将軍の指揮下に入ったわけですよ。ほんで、「レイテへ3名ばかり実戦の大隊長として配備したいけっど誰か志願者はないか」って山下軍司令官が言ったそうですよ。そしたら誰も手ぇ挙げねぇだって。
 ということは、「レイテへ行けば死ぬっていう」あれが、みんな参謀になるくらいだから本当の戦の勝ち負け、今どういう、四分六の戦いしてるか、七分三分の戦いしてるか皆知ってるわけですよ。だから、誰も死ぬに決まっている所へ行く人間いませんからね、誰も尻込みしちゃっていなかったっけ、長嶺さんが義憤にかられ、「よっしゃ、じゃあ俺が行ってやろう」っていう一番先に手を挙げた。だから、長嶺さんは手を挙げたおかげでレイテでえらい苦労した。
 でも、あの人が来てくれたからわたしは助かった、ほんとにね。豪胆でね、ほんで緻密で、ほんで、ある程度陽気な人で、指揮官としてはもってこいの男で、今も付き合ってますけっど。そのときに長嶺さんつうのを初めて知ったです。この偉い大隊長がうちに来てくれるななんて。

とにかく坂を登っていったら進行方向左側に、リモン目指していって進行方向左っ側にニッパハウスが、ニッパハウスというのは土民の小屋ですけっど、それが建ってて、その前に2人の少女がいたわけですよ。1人は普通の服装、普通の服装つっても、まぁ普通の服装だけっど。あと4つか5つの子どもは素っ裸で、だから、土民だからシャツもあんまりなくて裸でもいいんでしょ、あれ。日本人が見たらおかしいと思うけっど、みんななんかそうらしくて。
 で、行ったら警戒して、警戒は素振りで分かりますからね、変な兵隊、日本の兵隊が2人家ん中へ入ってきたけっど、どんな男だか分からない戦々恐々としてたでしょ。

Q なんでまず入ろうとしたんですか。

あ、昼飯を食おうとしたですよ。

Q 現地で・・・

昼飯、乾パンを少し持ってたから、それを昼飯代わりに食べようと思って、ほんで入ったんですが、で、水筒の水が切れちゃったから、水でもあったらもらおうかなと思って。

とにかく2人とも、エバタも英語できないしわたしも全然できないし、だいち、サンキューっていう英語がなんだかわかんねぇんだから、そういう体たらくで、日本兵には絶対英語教育っつうのはなかったから、だから向こうも話を、話ししちょって、どういうきっかけ作っていいか少女にもわかんないし、こっちもどういうきっかけで状況を説明したらいいだか分かんないし、初めだいぶウロウロしてたけっど、まず水をあれしてこう見回したら、しお汲みじゃなくて瓶に水があるような感じだから、指差したら、ただ、うちの母が、それでこういう格好だけですよね、ゼスチャーだけ。そしたら「オッケー、オッケー」って。
 オッケーオッケーつったって何だか分からないけど、とにかくうなずいたから、これはありがたいって、そこでまず水。ほいで、相当汗をかいてのどが乾いたから非常にうまくて、「こんなにうまい水があるのかな」ってね。それから、それ一杯の水でなんとなく和んできたわけですね、水を所望したことで。そしたら少女がね、ピアノのそばへ寄って、で、トンって叩いてみたですよ、いきなりキーをね。そしたら「ポーン」って。そしたら「ポーン」っていい音がするわけですよね。
 もっとも音楽なんて、しばらく3、4年、寒い所にいたから聞いたこともなくて、音楽ができないけっど、音楽は好きだったわけで。そしたら興味に引かれて寄っていったら、前にお話したように、日本の歌を「見よ東海の空あけて」って歌があったですけっど、それを弾き始まったですよね。
 こっちはびっくりしちゃってね、フィリピンでなんで日本の歌知ってるんだなと思ってね。で、こっちがあんまり熱心になって聞き耳立てたもんだから、少女はだんだん調子に乗ってきて、わたしに「席譲ってくれっですよね、弾いてみろって」で、真似してこうやってピンポンって、初めてピアノっつうのを触るもんだから全然分かんないでしょうよ。と、それていねいにね、わたしが間違えるとその正確な所を教えてくれて、間違うと正確な所を教えてくれて、それでなんとなく名演奏終わって。
 そしたら今度は自分であの、わたしがそれで頭を下げて、で席を立ったら、今度は座り直して、今度はね、悠々と弾き始まったですよね。それがやっぱり見事なもんで。で、2人ですっかりピアノに熱が入っちゃって、あれずいぶんやってましたね、ゴチャゴチャゴチャゴチャ。で、すっかりいいご機嫌になって、戦場にいることを忘れるほどのいいご機嫌になってちゃって。
 さて昼飯も食って、水も飲んだし、それで前線を行かなきゃいけない。オイダちゃんにドヤされちゃうっちゅうわけで、「じゃあ出発しよう」ということになったら、今度はもう一人ね、兵隊がね、日本の兵隊が下から上がってきたんですよ。で、何か見たらここに記章がついててね、憲兵ってあった、兵隊なのに憲兵ってあったんですよ。軍隊の中の警察・警官ですね、で、えらい権限持っていて生意気なヤツが多かったけっど。で、それがなんか話のついでに、「この子どもは、夜になったら日本兵が殺しにきて殺されちゃうからっ」てちょっと小耳に挟んだんですよ。
 びっくりしちゃってね、「なぜこんなちいちゃい子どもを殺すんだ」と言ったらね、「もしこの子どもが、『きょう兵隊さんが来て、2人来て3人来てこういうこういう』そういう話が米軍の、位置とか何かが暴露されちゃうかもしんないから口封じに殺すんだ」って。
 で、それこそ頭に来ちゃってね、「なんとかして逃がしてやろう」と思うんだけど、なんともお互いに口が利けねぇんだから、それでも根気よくわたしがやってたもんだから、これは様子が違うなと思って向こうも。それである程度いくらかなんかそれらしい様子を飲み込んできたんでしょう、とにかく「ここから行け行け」って押すもんだから、恨めしそうにこうやって後ろを振り向きながら、林の中へ消えたけっど。

かわいそうでかわいそうで、しょうがなかったよ。とにかく、そのピアノは、少女にとってはもうこの世に二つとない宝物でしょうよ。それ下手すると壊されちゃうから。まぁ大事な大事な女の人が宝石を盗まれちゃったとかなんかと同じで、すごくがっかりするでしょうよ。

Q しかも、その子どもは殺されるかもしれない。

うん、殺されちゃったかもしんないし助かったかもしんないしね。それ戦場だから最後までは探りきんないは。という話です。

Q 今その話を思い出すとどういうお気持になりますか。

うーん、残念だったっつうのかな、助けらんなくて。ちょっとでもなんかカタコトでも英語をしゃべれりゃね、絶対助かったのにね。それでも、「助かったのに」っていうのはこっちの独りよがりで、あるいは助からなかったかもしんねぇけど、とにかく事態が好転したことは確かだったよね、ちょっとでも話ができればね、それが残念だ。まぁそんなとこですかな。

少女がかわいい、かわいくてかわいくてしょうがない少女が殺されるんだから、これはもう無念残念というとこですよね。いくら見ず知らずでも自分になついた子どもを殺されると分かってたら、誰でもいてもたってもいられないでしょ。憎ったらしい子どもでもやっぱり目の前で殺されるとなると、助けてやりたい、それが人情でしょうよね。

食糧は最高で「15日来ない」っていうのは記録に残ってねぇかな、なんかどこかで聞いたような気が。15日配給がなくて、15日、そこらにある草をそれこそ、草の汁をすすりながら、それが最悪だったんじゃないですかね。その間も、来たつっても乾パンが1袋か2袋、圧搾口糧という口糧が、1日でこんなサイコロくらいのやつがね、6つですよ。で、これ食べるとね、1日分のカロリーが十分補えたとかいっちゃってね、このくらいの大きさ、あ、そのテープの箱くらいの大きさですね。それが1日に1箱、とにかく食いものが最悪だったですよね。
汁をすすってですよね、歯でしごいてね。それであの、なんだか知らないけど新芽、木の新芽ですよね、小さい新芽、あれ案外柔らかいですよね。で、毒草もあるらしいけっど、いい案配に毒草は食べないで済んだけっど。「電気イモ」つって、食べて3時間もするとあの全身がけいれんして死んじゃうという、そんな噂のイモもありましたね毒イモだそうです。

Q そういうのも食べてしまう兵隊さんがいたんですか。

実際にいて、何人だか何十人だか死んだけっど、そういうウワサが広がったましたね、前線一体にね、「電気イモには気をつけろ」ってね。シビれが来っからすぐ分かるんです。だから毒キノコと同じようなものじゃねぇんですかね。

無責任も無責任もこんな大無責任ないでしょうね。人の命を何万という人の命を。しかも分かってるらしい、これって同じことを2回言うと、勝ち目のない島へどんどん兵隊だけ送り込んで。だから、員数だけあえば、員数って数が合えばいいじゃないでか、レイテ何万の兵隊を送り込んだって。食いものとかなんとか、弾とか補給物資の充当についてはそんなの全然報告しないで、兵隊の頭数だけそろえて、「今度は何千人上がった、今度は何千人上がった」、それで大本営のほうの帳尻を合わしてたんじゃねぇすか。普通だったら、あのくらいの戦闘で8万なんて兵隊死ぬわけないでしょうね。

いちばんの原因は物資輸送の不備です、物資輸送のね。物資輸送しないからああいうふうになっちゃった。弾があれば、弾があって食いものがあって、それから、医者の道具が医療器具があれば、もっと大勢の兵隊が死ななくて済んだでしょう。

シシキ上等兵という兵隊が前を歩いていて、わたしがそのあと、すぐあとを歩いていたわけです。それでババババッと来て、ハシモト軍曹やなんかがやられて、で、胸部をやられて戦死しちゃうわけですけっど。その同じ何発かの砲撃で、ハシモト軍曹もやられたけっどシシキというわたしの仲間がなんだか前に倒れてるんで、砲撃が終わってもいつまで起きてきねぇから、「シシキ、どうしたどうした」つったら、手応えでわかったですよね。あ、これはどこかやられたなと思って足引っ張っただけどね、それで仰向かせてみたらね、ここが、ここからブクブクブクブク血が出てるんですよね。
 で、「俺はキンタマまで、キンタマ飛ばされちゃったからもう絶対助かんねぇから、家族にこれを届けてくれ」って。えーと、家族のね、うちのお父さんお母さんの写真をここから出して、で、わたしに託して、それから万年筆を託して、「これは俺の形見だから生きて帰ったら家へ届けてくれ」ってね、それを預かって。
 で、「このくらいの傷でどうする」つってもね、「俺の体は俺がよく知ってっから、もうこれ絶対助かんねぇから、しっかり頼んだから」つってね、この2点預かったの。ほいで「日本はどっちだ、どっちだ」って言うんですよね、「なんでこの傷を受けて」つったら「いいから日本のほうを向かせてくれ」つってね、こうやって座って、「あぐらかかしてくれ」って、で、あぐらかいて、ほいで、「俺は今から手りゅう弾自分で爆発して死ぬから、お前トバッチリ食うから下がれ、下がれ」ってね、わたしに命令するわけですよ。
 そいで、部隊の連中はもう、もう何人もやられてるから、その辺にまごまごしてると、あとに残った連中がまごまごしてるとまたやられっから、ずんずんずんずん退却を始めちゃったですよ。で、わたしもその退却のシッポへくっついて退却してきたんですけっど。これもなかなか出来ないこってね。なかなか自分の・・・と、俺は橋本軍曹とよく似てんなと思ってね、2人同じ襲撃でね、2人亡くなったんですよ。2人ともに。

エバタゴロウっつうのが。あれも第二の無二の親友だったけっど。体が衰えてっから死ぬのが早いですね、何日も患わないで。初めてチフスが、あのなんだ、血便が出るのなんていうのはわたし医学知識がないから分かんなかったけっど、ジメジメした血液が出っですよね、もう便じゃなくて。気の強い男だったけっど、病気には勝てない。

Q それも最前線で病気になって、どうしてたんですか、その間。

ああ、その間、わたしが、ときどき、大隊本部のほうに用事があって呼び出されたり、でも日中、日中はなんだな、毎日っつうわけにはいかねけっどなるべく彼のそばにいて、水を非常に欲しがってですよね。で、戦場で水って大変なもんだから、リモン川って川があってそこまで汲みにいくですけっど、汲んでるうちにみんなやられっちゃうですよね、アメリカの狙撃兵にね。でも、エバタが水欲しがっから、水筒をいつでも2つ持っていってエバタと自分のとを。で、リモン川へ行って水入れてんです。と、「ガボガボガボ」って音がするのがよく聞こえっですよ、水が入っていくのが。「いや、こらぁねらわれっちゃうな、ねらわれっちゃうな」と思って、敵に。
 必死になって転げ回って壕へ逃げ帰ってきて、せっかく汲んできたのもじきに飲んじゃってまた汲みに行って。でも、最後まで看とってやったから、エバタに関しては悔いはない、思う存分水だけは飲ましてやったから。

大体、前線で負傷しても後方へ運んでやるトラックもないし。で、歩っていけるほどの患者は助かるけっど、歩けない患者は医者に見せてやりたくても、師団司令部まで行けば医者が軍医がいたけっど。あとは、1回だけ治療してもらって、おしまいというのが多いですね。
 戦車の小さいのがあってそれで輸送したですよ、患者を。道端の道の両側にもう米兵が進出してきて、やっぱり待ち構えてっから、病兵がヨタヨタ歩ってくんのを。で、寄ればみんな撃たれっちゃうから。
 軽戦車っつうのがあって、それがときどき来ては重症患者を連れていって、それで、わたしの友達のネモトさんつうのがやっぱり腰をやられて動けなくなっちゃって、で、リモンから下がってきて、で、輸送船で日本へ帰れて助かったんだけっど。取り切んないらしいですよ、破片が。だから、相当ここに粉みたいな破片が、ガラスのかけらがみたいなものが取っても取っても取り切んないなって、だから「そのまんま放っぽってある」つって、年中腰まげて歩ってるけっど、後遺症だね。

リモン峠に上がって。斬り込みっちゅうのはせいぜい5人か7人ぐらいですわ。集団であんまり大勢で行くと見つかっちゃうから、ほいで敵のうっかりしてるとこを忍び寄って、敵の大将がいればそれはそれで殺しちゃうし、大将がいないと、敵にいくらか損害を与えてそのまま引っ返してきちゃうのもあるし、そのまま突っ込んで行っちゃうのもあるし、いろいろですね。

Q なんでわざわざ少ない人数で行動してるんですか。

うん、少ない、だから少ない時でなくて多い時に行きますよね。初めの頃に。だから最後は斬り込みっつうのは、万歳突撃と違うから、斬り込みっつうのは少人数で奇襲攻撃だから。だから上杉謙信が川中島で、単騎、敵の重囲突破して、あれ斬り込みですよね。少ない人数で敵に動揺を与えて、そのすきに大将の首取っちゃうとか殺しちゃうとかね。

Q なんでわざわざ少ない人数で行かないといけなかったんですか。

大勢だと目立つから、なるべく少ないほうが目立たないでしょ。奇襲攻撃はほらもう、途中で発見されたら、・・・が少ねぇから全滅しちゃうから、なるべく少ない、だから大概5、6人というのが多いでしょ、多いじゃないですか。

Q 山下さんご自身は斬り込み隊に経験されたことあるんですか。

うーん、残念ながらないです。大隊というのは・・・だからよかった。斬り込みの人選に加えられたら、大概、ほとんど助かりませんからね。それをやってリモン戦線2日目に、敵の米軍とぶつかってリモン峠で2日目に、2大隊の長嶺さんが入ってる長嶺さんが受け継いだ役ですけっどね、平井大尉という若手の大尉が将校斥候っていう5、6人兵隊を連れて、で、敵の陣形探りに行って、ついでに斬り込みやって敵に発見されちゃって全滅しちゃったですよね。
 だから、戦闘2日目で57連隊は、ポスト2が、2番目に偉いヤツが、みずから若かったから斬り込み遂行を買って出て、戦死しちゃったですよ。それでこっちの陣形はずっと崩れちゃったですよね。で、長嶺さんが急きょ後任の第2大隊長になって。
 それからその晩に、平井の弔い攻撃だつって3大隊の大隊長がその晩にですよ、平井大尉が全滅した晩に佐藤大隊長っていう、3大隊長の大隊長が、これも若いから、ひとつ手柄を立ててやろうっちゅうなもんでね、同じ場所で敵の追尾攻撃っていうのが、敵が引いたですよ、一時期、そのあとを追っ掛けていってね、追っ掛けていったら敵が戦車そろえて待ってた。そこへ突っ込んでいっちゃったから、ムチャクチャに短時間でやられて、3大隊の大隊長もそこで戦死。
 だから1日のうちに、3人しか重要ポストがいないのにその2人ともやられちゃったわけですよ。で、長嶺さんが今度は総指揮とって1大隊2大隊3大隊の大隊長を兼務して、だから初めからもう激戦ですよ、リモン峠の場合はね。

Q 山下さんはどういう形で転進を知ったんですか。

やっぱり長嶺グループだから長嶺グループでまとまって、敵のあの囲みを突破して、師団司令部へ合流して今度は師団司令部と一緒に、あすこは、地名は忘れたな。セブ島の、セブ島じゃないレイテ島の、あれは西海岸、東海岸になんのかな。
 さっきビリヤバつった所、地名が出ましたよね、あの辺へ集結して、それで工兵隊の脱出用の船舶があっですよね、工兵隊ので鉄で出来てる船ですけっど、60人乗りぐらいで1回に、それで機関銃一丁の装備だけであとは武器何も持ってないです、ただ脱出するための船ですから、それでセブ島へ脱出したわけですね。

わたしの親友の、一緒にレイテに行った・・・間宮さんのお兄さんがうちの部隊のナンバー2で、で、連隊長の下をやってたですよ。その人が下痢でもうしょっちゅう下痢やってて、ほとんど歩行困難で、担架で兵隊に運んでもらって歩ってたですよね。それで脱出の日に命令が出て下っていったんだけっど、途中からあの、次のその便には乗れない。もう定員が、あれあの辺のいきさつはよくわかんないけっど、とにかく間宮さんの兄さんというのは脱出できないで、その次の便を待ったわけですね。で、遂に永久に脱出できなくて、その近辺の海岸で亡くなったって話し聞いてますけどね。
 だいたい残っている連中はもうケガをしてっか、わたしらみたいにケガもしないでそのまま脱出したっていうのは少ないですよね。みんなケガしてて。セブへ渡ってからは結構比較的に食いものがあったから体力は回復しましたけっど。レイテ島、脱出するまではひどいもんだったです、食料事情もね。あ、ティブルです、名前は、脱出地点は、あの辺の海岸のチブルっていう所、「ティブル、ティブル、ティブル」って言ってたけどね。
 そこから、ダイハツ3杯でセブの間、海上8里しかありませんが、30キロくらいしかセブ島まで、タカボンズという所までね。だから1晩にさ、昼間は敵の魚雷艇がしょっちゅう警備してて海峡を走れないですよ。だから夜中に出発して明け方に着くようにして、3回ぐらい往復したのかな、そのうち敵の飛行機に発見されて撃沈されちゃいましたけっど。だからレイテからセブへ渡った、わたしらが知ってる限りではともかく2000人足らず、脱出してきた何回かの脱出、舟艇に脱出させてもらってね、そんなとこですね。

Q 山下さんご自身は、セブ島に脱出するということは当時分かってたんですか。

分かってました。

Q それは何で分かったんですか。

それは下達があったから、情報公開があったから。この船に乗ればセブ島のタカボンズという所に着いて、で、レイテから脱出できるんだってそういう情報は下達、下達がありましたからね、知ってました、乗るちょっと前に分かってましたから。だからみんなそれに乗りたがったんですよ。だけど人員に制限があって乗せられなくてたった2000人しか。だから、帰ってきたのはそのうちのなんぼかが帰ってきて。

セブに行くっていうことは、いろんなあれは情報網があってね、それでみんな知ってました、だからこれに乗り損なっちゃしようがねぇって。その乗船地点から相当離れて間に合わない人なんかも結構いただよね。地域が遠くてそこまで歩ってくるうちに、もう夜中に舟艇は脱出しちゃうから。だから海岸まで来てもう行ったあとだつってがっかりして、そういう連中もたくさんいたでしょう。

「ああ助かった」と思いましたね、「これで命が助かったかな」と思いました。あとに残してくる戦友のことはあんまり考え、失礼な男だけっど忘れちゃったですね。脱出の喜び命が助かる、これで命が助かるっていう喜び、そういう喜びのほうが強かったですね。こういうのも放送すっと、「ひどい男だな、あの男は」あっかもしれませんが、本音本音だからしようがないですよね。

Q なんで戦友のことが考えられなかったんだと思います。

だからそれが人間の本能でしょ。自分が、とにかくいちばんかわいいのは自分だから、その自分のために命が助かったっつうことは、これ大変な喜びで。普通の人が病気になって大病になって、これ手術やっかやんねぇかで助かるとか助かんねぇとか、ああいう心境になっでしょうね、生死の境目っつうですか。

Q そのセブ島に行くということは生死の境だった。

そう、生死の境だったですね。渡った連中にすると大体助かりましたから、生死の境目だったですね。残った連中はほとんど、あと助かったって話し聞かないから、ほとんど野山をさまよって餓死するとか、フィリピンのあのゲリラ軍にあって、前のアビハオの海岸で殺されたように殺されちゃったり、とにかく全滅でした。

あれ、1人で仮に舟艇の上で、「もう少し誰それが来っから待っててくれ」とかなんとかっつったって聞きませんからね、脱出始まっちゃったらね。実際ありましたよ、船はもう動き始まっちゃったときに丘のほうから駆けてきて、「乗せてくれー、乗せてくれー」って来たけっど、その連中も乗船許可をもらってたでしょうけっど、たまたま2分3分集合場所集まるのが遅れたからそれは運命の境目で、それがやっぱり戦場ですわね、わたしらはあくまでも運に恵まれてたっつうことですね。

終戦ですか。終戦はレイテのタクロバンの捕虜収容所に入ってて、それで停戦になって、あそこからアメリカの貨物船で浦賀、横浜のね、浦賀へ、昭和20年の、早いですよ、12月の二十何日かな、浦賀へ。あそこで無罪放免になったです。「召集軍人を解除する」って解除命令が出て、で、一般市民に返って、それで家へ帰ってきたら家が焼けちゃって跡形もないしね、「おや、こりゃ」と思って。

Q その、ひとつね、戦争に負けた、一生懸命戦ってきたわけですよね。で、戦争に負けたということを知ったときにどんな気持になったんですか。

「戦争に負けた。 負けて、戦争が終わってよかったな」と思いました、正直の本音ね。これ続いてたら命が幾つあっても足んないと思って。とにかく生きて帰ってきたっつうのが大きい喜びでしたね。

Q 命をかけて戦ったわけですよね。何のために戦ったのかとかそういうことは思いませんでしたや。

あんまりそういうことは考えませんね。ただ個人の身の回りに起こったことだけ考えて、「ああ、俺が帰ったから一家の大黒柱が帰ったんだから、また商売一生懸命やって家族を養わなきゃなんねぇから」ってそういう使命感のほうが強くて、そういう大義名分なんつうことはあんまり頭になかったですね。

生きて帰ってよかったって。大万歳だ、人生謳歌だ、いや本当に。それより自分の食うのが精いっぱいで、終戦後は。そんなこと考えたら、まぁ今だから言うけど、そんなこと考えてたら食えねぇんだから、なんとしてでも食わないと。
 家族が8人いましたからね、わたしが長男で。足の悪いじいさまとおばあちゃまと、それからわたしが長男で6人だから、8人家族だからね。8人家族をあの当時養っていくつったら、大変なことだった、メシ食わせるのがね。だから、とにかく生きて帰って体が丈夫で帰って来たことが、これ最高の幸せだと思いましたね。

輸送船ってタクロバンから浦賀へ来る復員船ですね、あれに乗ったときに、死んだ戦友に誓ったですよ。「今は日本へ帰るけっど、落ちついたらお前らの骨は山下が全部拾ってやっから安心しろ」ってね、「絶対拾ってやっから安心しろ」つってね、わたしはそれに半生をかけたわけですよ。
 わたしの半生っつうのはほとんど遺骨収集で終わっちゃいましたから、まぁ言いようによっては、一生かけたわたしの使命かもしんないですよ。はっきり言うと、レイテの島影にそれは誓ってきました。「絶対お前さんらの骨は山下が拾ってやっから、もう少し勘弁しててくれ」って、で、それを30年近く実行したわけです、だからあえて悔いなしですね。

「俺がお前らを迎えにきたぞ」って、「今度の飛行機で一緒に帰ったから安心してついてこい」って、遺骨が見つかるたびにそうやって言ってましたね。人によっては、遺骨を触るのを嫌がったりするんですが、頭蓋骨やなんかね。遺族さんでも、頭蓋骨なんてあんまり触るの喜ばないですよね。
 わたしは遺骨を収集するときは絶対に手袋やんないし、素肌でちゃんと、出てきたら素肌で掴んでは収容して素肌で掴んでは収容して、軍手なんてものはやんないで。その度に「ずいぶん長かったな、ちょっと遅れたけっど迎えにきたかんな」ってそういう感じですね。それがすごい喜びだったですよね、じゃなきゃ30年も行きませんわ。


レイテが恋しくてしようがないですよ、遺骨が恋人みたいになにして。それに恋人に、レイテの恋人に引かれて足繁く通ってたわけです。

Q あれだけ悲惨な戦場だったのに恋人なんですか。

そうです。振り返ってみれば恋人です、もう仏様だから。戦場が恋しいじゃなくて遺骨が恋しい。

Q なぜ遺骨が恋しいんですか。

だから男と女の感情ですよ。男が女を愛する、女が男を愛するどっちが愛してもいいけっど、とにかくそういう感情。レイテへ行って遺骨を拾いたくて拾いたくてたまんない。これはもう理性超越した感情的な問題ですよね。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ
昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
千葉県銚子市にて生まれる。
1942年
現役兵として千葉県佐倉の歩兵第57連隊に入隊。満州に駐留
1944年
レイテ戦決戦当時、22歳、兵長。
1945年
セブ島で終戦を迎える。復員後は家業を継ぎ、銚子市で洋菓子店を営む。

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フィリピン(レイテ島)

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