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タイトルタイトル: 「食料めぐって銃を持ち出す」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 飢餓の島 味方同士の戦場 ~金沢 歩兵第107連隊~
名前名前: 高田 稔さん(金沢・歩兵第107連隊 戦地戦地: ミレー島  収録年月日収録年月日: 2009年10月27日

チャプター

[1]1 チャプター1 ミレー島  06:34
[2]2 チャプター2 米軍機の空襲  02:59
[3]3 チャプター3 陸軍部隊の上陸  05:44
[4]4 チャプター4 ネズミが食糧に  03:06
[5]5 チャプター5 命がけの食糧確保  03:21
[6]6 チャプター6 野菜泥棒  08:03
[7]7 チャプター7 飢餓の末に  03:07
[8]8 チャプター8 思いとどまった自決  03:55
[9]9 チャプター9 ミレー島に現れた氷川丸  01:01

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 飢餓の島 味方同士の戦場 ~金沢 歩兵第107連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年10月27日

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まあ地図も載っとらんごたですね。あれはミレーは載っとらんでしょう。そしてそれがですね、えー35日かかったですよ。もうぼろ、ぼろ貨物船のですね、200人ぐらいそれに乗っとった、それに装甲車とか何かいろいろ。

それでまあ当時、17年11月の5日、3日にか、5日に上陸したんじゃなかったかな。その当時はまだ米軍のあれもなかったしですね、18年の暮れ、暮れ。初空襲受けたのが18年11月、うーん5日、5日か7日ごろやったろうと思うですが、晩。夜間、夜間空襲起きて、そのときは結局偵察でしたね。照明弾落として、だいぶ3時間以上照明弾光っとったですね。真昼と一緒やったです、もう。
それから1週間ぐらいしてから、あの4発のB17ちゅうのが5機ぐらいやったかな、ちょうどもう、高高度で1万メートル以上ですたいね。そんで空襲来たんですけど。もう高射砲も届かんとですたいね。ま、水平で撃つならですね、1万、その5、000メートルぐらいまではその射程距離やっとって・・・もうやっぱり1万メーターぐらいでしたでしょう。それでまあ、大型機の空襲はもう怖くはなかったでしたね。もう僕らも、そういうのほとんど陸上に落ちるっちゅうことは、初めのうちはなかったけんですね。でもその後、そう18年の11月に、あれの隣、隣の島のマキン島、タラワ島ちゅうとが玉砕したですもんね。18年の11月に。
その当時からが空襲、その前からあったですけど、その当時が一番ひどかったでしたね、空襲もですね。もう1回飛んでくっと、もう100機以上編隊で来よったですもんね。そのときわたしは目が良かったけんですね、ほとんど見張りで望楼(遠くを見るための高い建物)の20メーター、本部は30メーター、望楼が。で、その上に上がって、20センチのこう脚、三脚に眼鏡ついとったてね、前が眼鏡と2つくらい・・・それともう一人8倍のこう胸からかけとる双眼鏡と、2人、2名。昼は、昼は4時間。夜、深夜12時から2時までと、2時から4時までは2時間やったですね。当直、立ち寄りばしてた。
それがもうその見張り台言うても、そらもう戦地のことやけんですね、お粗末なもんでして、杉、杉丸太のですね、これくらいんとさ、それをこうこうやって組み立ててですね、ほいでこうこう階段のついて。一番上、上はこう敷く、どうやったかな、畳、畳2枚敷きぐらい。2枚敷きか3枚敷きぐらいの広さでしたね。それにこう、周囲がこう丸太でこう囲いをつくってですな、そのその下にまたこう、雨降りなんかにこう入るごと、ガラス張り、ガラス窓がついて、ちょっと間。周囲は囲いをした部屋。部屋って昔かたぎの、そういうあれがあってですね、ちょうどその中、そのこう下のほうから、その上がってこんな台のとこに上がってくるごとが、そんな構造になっとったですけんね。

ロッキード36ち言いよったかな、胴体が2つがあるとですね、プロペラが2つついとったの。あれ山本五十六元帥が撃ち落とされた飛行機ですたいね。それがですね、もうその・・低う飛んでくっとでしてね、もう島、大体もう島伝いにずーっともやけんそう、

その機関銃、重機関銃は高射用に据えてですね、上から戦闘機がさ、内海からさダーッと撃ってくるとでしてね、その水しぶきがさ、ワーッと上がってくっけ、そらもうわかっとるちゅってね、弾、弾が飛んでくっとですな。
そらま、ああいうで、そのこっちもですね、そぎゃんやってこう撃つときはですね、こうなかですたいな。向こうの弾がビュンビュンビュンビュン来るけどですね、恐ろしいなかよったけど、まあ退避して、障害物の陰にこう隠れ、退避しとるときなんか、やっぱ怖かやったですね。今まではそのヒュン、ビョンビョンちゅう音がして、音すっとは、まあ遠かですよ。もう近くに来たときはですね、プスッ、プスッ、プスッ、プスッっていうて、そんで弾のですね、そぎゃん、そのプスプスいうときはもう、ほんといつ当たるか思うて、もうほんと、よか気持ちはしよらんやったですね。

それがですね、やっぱり飛行機は速度が速いけんですね、もうほとんどもう、機銃の弾は飛行機のあとばっかり行きよったですね。あれは昼間は全然もう見えんばってん、夜間になったらですね、暗いけんで、曳光弾(えいこうだん)、明かりで修正して、まあ射撃はするとばってんですね、ほとんどが飛行機のけつばかり。

マキンとタラワがやられた、ほんなすぐもっと、まあ距離はどれくらいあったか知らんけど隣りの島やったけんですね、そやけん、そのマキンがやられる前やったか、アメリカの機動部隊がですね、ミレー島の外海にダーッと並んでですね、バンバンバンバンバンやったでした。それで夕方かけてですね、ほしてっていうんで、これはあしたの朝早うは上陸してくるに違いなかろっち言うてですね、みんなその晩に水杯して。
そないしとったら、夜が明けたら1隻もおらんごとですね。よそへ行ってしもうたけん、ミレー島におったわれわれは助かったですたいね。それは空爆はあったけどですね。もう上陸してくれば、もう一日も持てんごたる状態でね、だから彼らが、今あのアメリカが撮ったビデオを見ればですね、あれだけの物量で上がってこられたらですね、もうそらひとたまりもなかですよ。機銃でもですね、こっちが1発撃つときは向こうは100発ぐらい撃つとですけんね。

陸さんはマキン・タラワが玉砕してですね、あそこを奪還するためにですね、陸の機動部隊ちゅう言われるあの部隊が、兵器・弾薬だけ積んで、食糧はあんまり持たんで来たわけで、それからミレーから先はもう制空権、制海権、握られてしもうとるけんですね、もう行けんで、ほしてもうそのミレー島に終戦になるまで、そこにいたわけでしてな。
ほんでまあ、何や海軍も初めは、その食糧、海軍の食糧やったですけれど、後から海軍、後からのもう補給ちゅうとは全然ですね、そういう状況が状況で、制海権、制空権握られてこんとですけん、内地からの。沖は全然、潜水艦でですね、2回か夜間に持ってきて。1回20トンかな、40トンか、まあそれを持ってきてくれたちゅうて言いよったけんどですね。その40トンの食糧も、5、6000の、五千何百人を食わすにはですね、わずかな日数の食糧しかなかったろうけんですね。
大体、軍隊は食糧は一日に4合、4合6石か、決まりですね。で、もう19年の何月頃だったですかね、ゼロ食になったのは。毎日、毎日のごとずーっと減らされていってですね、茶わん1杯おかゆさんのごとってなってきて、そのおかゆさんのその1杯のあれにですね、おわんに米粒がもう、2つ粒か3つ粒かですね、それくらいなって、最後にもう全然何も、何もない。その給食は。

魚、わたしとこはほとんどですね、魚でですね、生きとったですよ。魚がもう主食でしたね。何て食うネズミも、それは取りましたばってんですね、もう行った当時はですね、もう島にもうネズミがごちゃごちゃしとったでした。それがあのヤシの実なんかをですね、えさにしてるから、もう晩になったらもうバサバサ言うてもう、バサバサ歩いてもう、木の枝とこやら何やどこやら伝うてですな、足まわりか。明日になったら、もうその食べもんもあれものうなってですね。で、じゃ今度地に、地でない砂地やったけど、サンゴ礁ですな、地べたにこう穴掘って住みついたでした。
そじゃけんで、その北砲台、うちなんかでもネズミ捕り競技会ちゅう、班別にですな競技会ちゅって、そぎゃんとをやってですね、ほして一番余計取った班には一等賞、二等賞ちゅってですね、何かあれを班にくれよったですよ、賞品を。それでそれを料理してですね、あの士官にはですね、食べさせよったでした。すき焼きしてですね。それでこう皮はいで焼いて食わせたりさして、食べさせよったばってんですね。
ちゃんと首、首切って、皮はいでですね、こう焼けばさ、ちょうどあの競馬馬のですね、走る格好になってこうなってした、格好して。おれは食うたことなかったばってんですね、これはそぎゃん好きじゃなかったけんですな。そやけんど隊長あたりには、そういうふうにしとって、すき焼きして食わせよったですわ。

そして海軍はあれはオウショ、オウショ。。も少しおったですかな。漁労班ちゅってですね、漁師の、漁師の人が5、6名班をつくってですね。漁労班ちゅうのをつくって、ほしてまあ、どないしてどうして船は持ってたかですね、持っとって、ほであのダイナマイトですね、あの魚取りを、もうその人たちはまあ仕事やったですもね。毎日魚取りで釣れば、2回、2回アメリカの哨戒機が低空でずーっと島に出てくっとですよ。ほして、漁労班出とりますね。それはもう機銃掃射したりなんだすっとでした。

そやけんもうほとんどもうその魚です。でも南方は毒魚の多くてですね。きれいな魚がもうほんと、色とりどりおってからさ。その内地、こっちもおるような魚やったら、そら安心して食われるとでさ、もうそのわけのわからん魚は食えば、もう毒持っとってですね、あのオグラ、オグラ兵曹知っとるでしょ。あの人は(ミレー環礁中の)タカイワ島にやられとって、後でタカイワ島は、そこのタカイワ島に派遣されて行っとるもんは、ほとんど毒魚で死んどるですもんね。それ後で行ったんじゃなかったかな。ほとんどその魚がいっぱい取れた、どんな魚か知らんばってんですね、余計取れてその刺身、煮魚、焼き魚にしてみんな食うとったですよね。ほしてあとやられよったですが。
本隊、ミレー島から、あの公用で渡った人はそこで、あの公用で行って泊まって、ほいでその魚それを食うて死んだもんもおったですね。

そら周囲は陸さんしかおらんもんやけんですな。よう陸さんもつかまってさ、何ちゅうかな、こう衛兵伍長室いうて、あの衛兵伍長ちゅうて、下士官の、まあその下士官が班長で、こう当直のあれはこう何、何つってたか、こう詰所になっとるですわね。当番兵がこう詰めとったから、そこの前にですね、つかまって座らせられてさ。ほしてあとで陸さんの隊長か班長か知らんばってんさ、もらい受け来よったもんな。そやけ、そういうふうで、やっぱ泥棒にまあ来よったですたいね。

その電線にこう歩いてて触るでしょ。そうすればカランカランカランカランちゅって、鳴るですたい。あれあれはもう、何か薬きょうですね。うーん、何かな、普通のあのあの真ちゅうでも、ちょっと材質が硬かじゃなかですかね。あれはよう響くですもんね。

そのときはその晩は、昼は薬きょうの実弾込めておらんでも、晩なんかはもう実弾込め、込めて来よったですもんね。小銃ば。それはもう上海でも一緒。晩はもう、当直立てば、実弾込めてですな。ほしてもう、「だれか?」ちゅって、3回呼んで返事なかったらよかったですもんね。「撃て」っち、「撃て」。もうそういうあれに、決まりになっとったですけんな。

もうそういうふうで、もう相手はもう陸軍で、これもそれも日本人ちゅうことはわかっとったばってんですね、やっぱ撃ちよったですもんね、やっぱ。

Q:じゃ「だれか?」って言っても返事がないわけですね。

それは返事もですね、それあの「だれか」ちゅう、言いよったかな、もうガランガランちいうたらすぐ撃ちよったから、そこにきゃもう覚えんですな。

Q:鳴ってるほうに向かって撃つわけですか。

そうそう。だれかあっちに、こっちに来らんよったなて言うです。ほんとにあれですな。そやけん、その確実にあそこちゅうことはわかるとですたいね、目標ちゅう、晩はその目標がその見えんじゃけんですな。あの何か、懐中電灯か何か持ってピカピカされて来っとやったら、それは目標して撃つばってんですな。

やっぱり食糧がなかったけん、撃ったんですな。その食糧を取られるっちゅうことは、我が身かかってくることやけんですね。こっちももう生きていくためには、そういうそのカボチャつくっても、命がけっちゅうことじゃなかばってんですね、食うて、それを食うていたんがために、それでそうやってつくりよっとでしてんですな。わかって、日本人ちわかっておりながら撃ちよったですたいね。

ああいう極限な、時代に遭遇せんば、ああいう心境にはならんですわね。普通のまあ、普通の状態ではならんですよ。もう極限の、ほんとに生きるか死ぬかっちゅうぐらいの状態にならんばですね。もう、相手は日本人、同じ日本人ちゅうわかっとってですね、撃つとやけんですね。
果たしてその、昼堂々として出てきたら、これはそれは撃てんですよね。それは撃てんですよ。あれもそれは、その実際まあその人をこう、銃口そっち向けて、撃ちやすればってんですね、これはその確実にこれが当たるちゅうことは、もう恐らくまあ本人、撃つ本人もですね、そこまでは考えて威嚇のつもりでですね、撃つとじゃないかと思うばってんですね。そやけ昼やったら堂々と出てくれば、そりゃ撃ちゃせんですよ。

Q:周りに全部陸軍がいるから、盗みに来るのは陸軍しかいないなっていうのはわかるわけですね。

そじゃけ海軍はですね、それはそれでもう、恐らく餓死したもんはおらんとですよ。何とかしてですね、しよったけど、陸さんは陸さんはもうほんと、あの飛行場辺りでは、その当時はもう2、3人、もうあの飯ごう、飯ごう下げながら食糧になる草ですな、食べられると探して回って、行き倒れ、2、3人ぐらい行き倒れする、毎日すっちいやったですもんね。

その港言うとって、こうちょこっとした港をつくっとったばってん、爆撃でやられてしもうてですね。何やったけ、まだあんまりして、荷揚げしとらんやったですよね、入港してから。
ほしてから、あれがまさに食糧難になったでしょう。その沈め、沈められた米の食糧をね、あのときもう半年以上なってから、今度もう今度引き揚げに行った海軍がいたでしたね。で、もぐってさ。もうそれが、米がですね、もうあの腐れてさ、もう臭うなってドロドロなってるんば持ってきてですね、もうそれ、それば団子にしてさ食わしよったばってんですね。もう普通やったらだれも食いよらんですけんね。もう缶詰なんかももう腐れてしもうてですな、塩吹いてさ。瓶類、瓶類は・・駄目だったですかな。

Q:食べました? 引き上げたものは。

高田:食べたですよ、下ろして。食べんばなんてなかったけ。その臭か米のですね、腐れ・・そしてもう、その海につかっておったばってん、塩につかっちょったばってんですね、もう腐れとったやけんさ、あの粒々がドロドロにですね、腐れとったやけんさ、それば持ってきてこう広げて乾してですな、ほしてそれば団子にしてさ。ようあぎゃんと、今ならとてもとてもそぎゃん、あれも食い物がおらんとばってんですな、今の賞味期限、どぎゃんきれいかっても、賞味期限切れとりゃもう食べんでしょうがね。あの当時だったらもう、賞味期限のへったくれの何も、食われるもんなら何でも食わんばいかんやったけんですけんね。

やっぱ何が一番つらいかち言えば食糧ですね。食糧がなかったのが一番つらいですよ、これは。人間、その人の精神、心がね、わかるですよ。この付き合うてみてですね、ああいう、ああいうもう極限なときになればですね、あれですよ、ほんともう正常では考えられんごたる、やっぱ精神状態にやっぱ陥っとるで、ですね。

あのわたしもですね、実際はその農園に班ちょっと行ってですね、そしてカボチャが肥料がないもんじゃから、葉っぱがこう赤うなってしもうてですね、あんまりこうカボチャがなるような状態じゃなかったですよ。そしたらあの班長がわたしのせいにしてさ、もう「ほかしてしまえ」ち言うたでした。そんじゃけん、班長が言う、そりゃ上官の命令は朕が命と思えということですね。したったけ、わたしがひっこばして全部・・・した。そしたら撃ち殺すちゅう。その小屋の中から鉄砲ば持ってきてですね、ほして撃つち言うたから、ほで逃げたでした。
ほしてからもう、あのときはもうわたしも死のうかなと思ってさ、もうそのあの銃の引き金ばですね、足のここに引っかけて、親指にかけてさ、ほして銃口、口へ、足でもってですな何したって死に、死にきらんやったですばい。

結局あれは生きて帰るか、そのそれもちょっと、なんやったでしょう、そういう点もあったですたいね。食べもんもなか餓死、あんな地獄の島でさ、もう生きて帰れる保証もなかずに思うてですね、もう死んだほうがましやないかち思うて、そういうあれも、行動にも出はしたけれどですね、とうとうその引き金を引けなかったちゅうことですよ。あの今、今考えてみればですね、やっぱあのとき死なんでよかったなあって思うですよ。

戦争が終わったちゅうことを聞いたときはですね、ああ、これでもうそのあしたからはあの空襲は、空襲ものうなったたけん、ようなったなち思うたですたいね。ほで来て、ほんと氷川丸(引き揚げ船)が、あそこのミレー島の内海に入って、入ってきたときはほんとうれし涙が出たです。うれしかったです。

出来事の背景出来事の背景

【飢餓の島 味方同士の戦場 ~金沢 歩兵第107連隊~】

出来事の背景 写真日本からおよそ4600キロ離れた太平洋中部ミレー島(マーシャル諸島のミリ環礁)。太平洋戦争中、5700人の日本陸海軍将兵が送られ、3100人が命を落とした。

このミレー島は、戦況の悪化とともにアメリカ軍の支配地域に取り残された。そのため2年近く補給が途絶え、兵士たちは耕作地のほとんどない環礁の島での自活を余儀なくされ、飢えのために次々と倒れていった。
多くの犠牲者を出したのが、石川県金沢市で編成された陸軍歩兵第107連隊第3大隊。この部隊が派遣されたとき、島にはすでに3000人を超える海軍部隊が配置されていた。補給が途絶えた島に駐屯した陸軍と海軍。食糧不足が深刻化すると、同じ日本軍でありながら、両者は食糧を巡って激しく敵対するようになり、食糧を盗んだ兵士が射殺されたこともあったという。

さらに、米軍は上陸してくることはなかったものの、海で漁をする兵士を機銃掃射の標的にした。

昭和20年(1945年)になると、第3大隊1000人のうちおよそ半数が亡くなっていた。
そうしたなか、同じ部隊同士でも食糧の配分を巡って対立するようになり、大けがを負わされた部下が小隊長を射殺する事件も起こる。先行きに絶望した兵士の中から自決する者も出た。

終戦後、第3大隊の生存者が島を離れることができたのは、昭和20年9月29日。復員船氷川丸に乗ることができたのは、300人足らずであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1924年
生まれる。
1942年
入隊。上海陸戦隊で上海に駐屯。11月ミレーへ。
1945年
中部太平洋ミレー島にて終戦を迎える。
 
戦後は国鉄に勤務。

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