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タイトルタイトル: 「死んでゆく少年兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 石川 栄喜さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月13日

チャプター

[1]1 チャプター1 中学3年で鉄血勤皇隊へ  09:01
[2]2 チャプター2 砲弾雨のなかの卒業式  03:03
[3]3 チャプター3 炊事班  08:08
[4]4 チャプター4 首里撤退  02:35
[5]5 チャプター5 無数の死体  03:37
[6]6 チャプター6 失われていく、戦うことへの気力  07:47
[7]7 チャプター7 本島南部へ移動  03:36
[8]8 チャプター8 米軍の追撃で、さらに南へ  04:50
[9]9 チャプター9 本島最南端  03:51
[10]10 チャプター10 戦争は何を奪ったのか  04:56

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月13日

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2年生、入学は昭和17年ですから。昭和18年、昭和19年の10月10日の空襲のときは、わたしは寮にいましたけれども、そのころからはほとんど授業できないような状態で。おわかりのように、ほとんどの学校が日本軍が駐屯して。一時は午前中と午後に別れて授業行っていたけれども、それから後はほとんど授業皆無の状態で、毎日が軍の陣地掘りでした。識名の高射砲陣地とか与那原の特攻舟艇の壕(ごう)掘りとかに駆り出されたんです。我々の寮1階6室、2階6室の12室ありましたが、2階の方は下に降ろされて3~4名入っておったのが8名に詰め込まれる状態で。最初は武部隊が入っていましたけれども、武部隊は台湾に移動して、そのとき夜中に我々はたたき起こされて台湾に引っ越すからということ秘密裏なので夜中の行動でした。寮生しか分からないような状態。その後に球9700部隊がまた入ってきたんです。社会室の方は司令官が寝泊まりしまして、尉官級、少尉中尉大尉などの方たちが2階の方に寝泊まりするような状況。寮生とですね。昭和20年3月27日卒業式。28、9日に鉄血勤皇隊の編成が寮の敷地内で行われました。そのとき寮にいた2年生は鉄血勤皇隊が編制される前に、2年生は通信隊に入隊。2年生が早かったんです。1年生はわたしの記憶ではちょうど上陸前の3月31日に、熊本出身の学校長以上に当時権限を持つ教官、配属将校シノハラヤスシの命によって、1年生は寮から故郷の方に帰されたんです。彼の観察隊生き残りとしては、この前も話したように牧志の方で弁護士事務所を開いているヨナミネタメモリ君が今、お元気で弁護士で頑張っているその一人なんです。3年生はもちろん鉄血勤皇隊に入隊しまして。その鉄血勤皇隊の何百名の生徒の入る壕も、そのときから玉御殿の地下の方にみんなで掘って、そこに何百名の生徒が入る壕を掘りまして、寮に通ずるような壕を掘って、その壕とは反対側の今の安国寺の敷地の下の方に職員、校長をはじめシノハラヤスシ教官等が入る、つまり鉄血勤皇隊我々本部と、記録等にも書かれている本部の校長、シノハラヤスシ教官、職員等が入る壕、壕はこの2つに別れます。生徒の入った壕と職員の入った壕です。寮生のほとんどはこの生徒と職員の炊事班にみんなまわされまして、結局捕虜になって・・先生の組織が指揮命令が届く間の豊見城村の保栄茂(びん)というところまでは、指示系統がまだちゃんと繋がれていましたから。そこまではずっと炊事班で、寮生中心としてあとは外部の方から生徒が4~5名入っていましたけれども。ずっと非戦闘員的な、職員の食事をつくる、食料を畑にいって芋を掘ったり野菜をとってきたりするような仕事が主だったんです。

Q:そういった軍隊と出合って勤皇隊に召集があると思うんですけれども、招集はどのように行われましたか。

他の生徒は首里近郊にいる人たちは呼び集められて、これももちろん校長を通じてシノハラ教官の方から「親の了解を取ってくれ」といって一応家に帰されたんです。寮生もわたし以外みんな帰されたんです。わたしだけは帰されなかった。教官に「お前は帰っていかん」ということでとめられて。それは、その当時は「どうしておれは帰されないのか」という思いはなかった記憶なんです。戦後になって今静かに考えてみるときに、たまに考えてみるときに、2月ころかな、わたしは一応は故郷の平安座の方に帰りまして、本土に疎開すべく親の了解をとるために帰って、親がそれを許さずに親の了解をとる時間が長引いてしまって1週間ほど学校休んだんです。おそらく帰ってじき「お前なんでそんなに長いこと学校休むのか」と教官室に呼ばれてひざまずき、3~4時間ばつされたんです。教官にはお前帰ってきたばかりだから、という思いがあって帰さなかったのではないかという思いが今するんです。

Q:でも一方でほかのメンバー、軍隊に入るための親の了解をとりに行ったのに、栄喜さんは。

両親から了解は得ていない。だから親もわたしが捕虜になって親に会うまでは、故郷に帰るまではどうなっているか全然知らなかったんです。兄弟2人しかいない、兄貴の方は徴兵令で現役で招集で入隊をしておりましたので、2人の子どもが帰ってこない。次男のわたしは何でどうなっているのかと親も知らなかったんです。今でもわたしの思いはシノハラ教官に対しては、そういう許せない面があるんです。1人だけ差別して、みんなと同じように扱ってもらえなかったという、大変悔しい思いがあるんです。

わたしの記憶は本の記録とはちょっと違うような気がするんだけど。わたしの記憶は寮の後ろ、今の慰霊塔の刻銘のある玉御殿の真後ろ、ぞうりのでこぼこに立って、そこに代理の司令官とかきて卒業式が行われた記憶なんです。

鮮明な記憶はないんだけど、とかく砲弾の落ちるさなかでしたから、周りの砲弾の飛んでくるのを大変気にしながら、はらはらしながらの中での。一時は至近弾が落ちて、その周りにいた来賓の司令官等がひるんだような記憶がかすかに残っているんです。そういうような状況の中で行われました。

時代が時代なので、記憶にあるのはすごく砲弾の飛んでくる不安と緊張した野外ではあるけれども、卒業式という形ですから、やはりそのような雰囲気は感じました。

わたしは鉄血勤皇隊編制されない前に、少年戦車学校に願書出してあったんですよ。昭和19年の10月10日がちょうど県庁で試験の日だったんです。寮から歩きましてちょうど今の安里にきたところで機銃掃射が始まったんですよ。演習だと思って県庁までいったら試験官も1人も見えないんです。身動きがとれなくて県庁の方に壕があったんで、職員が入る壕が、そこに入り込んで、お昼ごろまで身動きが取れない。12時から1時までの飛行機1機も飛んでこない時間がありましたから、その時間に首里の方に逃げ延びてきたんです。首里の寮から午後は高見の見物の状態でした。順々、那覇が焼けていくのが。少年戦車兵を希望していたものですから、入隊するときの気持ちはその引き続きという意味でもわかるようにすごく憧れておったんです。軍人になるということが。

Q:入隊されて、学校ではどんな仕事だったり訓練したんですか。

3年生は授業の中でも武器を使用するような内容はありませんでしたので。ただ隊列を組むとか行進をするとか、敬礼とかその程度のことでした。上級生の5年生になると銃部隊から銃を持ち出して、銃の構え方とかそういうのをやっていましたけれども。3年生まではそういう程度の訓練でした。

Q:入隊してから少し変わりましたか、仕事であったりどんな作業したんですか、入隊してからは。

先ほどお話しましたように、わたしは寮生で炊事班でしたから、もっぱら食料集めと食事をつくるのとこれが、毎日の朝昼晩の仕事でした。食事つくるのが。最初の犠牲者も炊事班からでましたからね。首里での犠牲者は。

Q:その憧れていた軍服を着て、でも最初にやらされたのがそういう雑務ばっかりで、少しがっかりしたところもあったんじゃないんですか。

そういう思いはなかったけども、炊事班にしろどういう仕事にしても、結局上からの指示で命令に従うという従順な気持ちしかありませんでしたから。ただ思いは、他の生徒は軍に配属されるまでは、壕の中から各山部隊とか陣地掘りの作業にみんな駆り出されていったんです。我々はそういう陣地掘りという仕事はなくて、もっぱら食事をつくる安易な仕事でしたので、その面の苦労はなかったんです、他の生徒よりは。他の生徒は真っ黒になって帰ってくる状況でしたからね。その後に4~5名、2~3名と各部隊に配属されてみんな別れ別れになっていったんです。

Q:入隊してから、郷土兵としての訓練はなかったんですか。

派遣されてきた人しかなかったんですが。食事を教導兵というのかな指導する森伍長、見習士官かな、はじめ、最初は自分たちで生徒も食事は自分たちで、醤油樽みたいなものをもって、我々がつくった炊事のところに取りにきたんですよ。配置された兵隊の方々も自分たちで取りにきていたんです。ある日に限って取りにこないものだから、そのまま無関心でいたら、炊事班みんなこの壕に呼び出されて、兵隊のところに呼び出されて、自分たちで暴力ふるうんじゃなくして、炊事班を学友どうし並べて拳で頬が腫れるくらい。軽くつくとものすごく暴力ふるうんですよ。それでしかたなく自分の学友を拳をにぎって頬が腫れるくらい。

Q:もう1回説明して欲しいんですけど、お互い並んで向き合って殴り合うんですか。

そうです。それをやらされたんです。自分たちで罰するんじゃなくて。打ち方が悪いとものすごく暴力ふるわれた。たまらないのでもう相手の痛さを考えなくて、ものすごく頬が腫れるくらいやったんです、鉄拳をにぎって。これだけはずっと思い続けてます。

Q:それはどういう理由でそういう制裁を受けたんですか。

何でその上級のおれたちに食事をもってこないんだということでした。ちゃんと炊事班はそこまでが仕事だということで、呼び出されてやられたんです。

もっぱら炊事だけです。あの何百名の生徒の食事をとるのも集めるのも、ある食糧をつくるわけじゃなくて、食糧までも炊事班がいもほりいったり、ときには首里の留守宅ほとんど首里の市民は山原に疎開していませんですから。そこに放置されている、放置というか養う人がいなくなっている鶏とかうさぎをかっぱらってきて、食事の食材につかったり、そんなことも炊事班の仕事としてやりましたから。特にいも掘りが大変でしたよ。あれだけの人数の芋を、主食の芋を集めてくるのが。

Q:そういった生活をしていく中で、いよいよ分散配置が始まるわけですよね。

本部。本部の校長はじめ配属将校いるわけですから。その人たちの食事を作らなければいけないので、ずっとついて動いたんです。逃げるときも。豊見城の方まで。

Q:基本的には食事をつくるために同行させられたという。

はい。非戦闘員なんですよね。もっぱら職員の食事をつくるという仕事で。豊見城にいってから生徒は一部傷ついた生徒が、先生たちについている生徒と教頭先生の奥さんのところの数名家族ですね。人数は少なくなってます。30~40名の食事をつくるためにずっとついて逃げ回ったんです。

見送るということなんかないんです。砲弾は壕からもう出られない状況ですから。出ると命の、生か死かの状況なので。そういう状況の中で三々五々に配置されていったんですから。ほとんど配置されるのは知らないような状況なんです。壕に入っているばかりだから。

Q:気づいたら、もう学友は。

いなくなっている。みんないなくなっていたということです。

Q:最初は栄喜さんたちは首里の一中壕に残っていたという形なんですよね。

生徒のいた壕とは炊事班は別で、安国寺のお寺の真後ろの方に、ちょうど岩の下に岩陰みたいな自然なちょこっとした穴がありましたから、そこの方が炊事班の寝泊まりするところでした。炊事班だけ。

しばらしてどうなったんですか。ずっと首里にいたんですか。

いいえ、5月の・・本の記録の方には正確なのがあるんだけど、5月15日ごろ首里から撤退する。撤退をしてその豊見城の方に、日暮れでしたけど。そのときはもう今安国寺と玉御殿との間の小さな道です、今の健児の塔へいく道。そこはちょうど首里から撤退するときに、壕から出てみたら日本軍はみんな陣地を埋め込んでありました。踏んだらすぐ爆発するような状況でした。壕飛び出したら。そこを出てその、南部の人たちはどこを通ってどう豊見城の方までいったかは経路はよく覚えていない。わたしはもちろんここの出身なので地図もサダかでないもので、夜間のことはよくわからないけれども。

もちろん、それも初めての経験でしたけどね、いま亡くなって生々しい人間。4~5日もするとね、真っ黒になってね、小学生の体がね、服も破けるくらいふくらんで真っ黒になるんですよ。それも初めての経験でしたけどね。摩文仁の海岸出て港川近くで捕虜になるまではね、そこもひどかったんですよ。波打ち際。藻くずのようにみんな連なっていましたから。真っ黒になりますとね、全身穴があいてね、真っ黒な上をこの真っ白なウジが全身を埋め尽くすんですよ。ウジ虫が。で夜間寝るときにはね、亡くなった人たちの傍に寝ころんだりするんですね。朝起きると自分の顔をこうするんで、手で払うとウジ虫なんですよ。周りの死がいから伝わって来ているのが。それがあるし、今度はのどがカラカラに乾くもんだから、水をがぶ飲みするんですね。港川の海辺の方に行ってから。がぶ飲みして満足して息をふっと吐くとね、臭いにおいが自分の口の中から吐き出るんですよ。水の中にね、腐った人間があちこちに流れて溜まっているのがね、飲むときはにおいを感じないんだ。飲むまでは。一杯飲んで息を吐き出すときは自分の中から腐ったにおいがね。そういうようなことも、ああいう戦場の中ではね、いろんなことがありましたね。もちろん食事は3食食べてもないですよ。食事も作れないような状況ですからね。

ただ真壁の伊敷の伊原の壕にいたときに、下士官・・下士官というのは老兵、古参兵が部下を二等兵とか2~3名でしたが、連れて僕らの壕に入れろと来たんです。それで入れた。僕らの壕には見習い士官の見ず知らずの人が1人入っていたんです、僕らの伊原の壕に。彼は階級ももちろん少尉か中尉でしたから、「やめろ」と一喝したんです。「入れろ」といってご覧のとおりこういう状況ですから、「ご覧の通りです」と言ったら、「手りゅう弾投げつけろ」とこうやったんです。奥にいた見習士官が「やめろ」と言ったから一喝したのを素直に聞いて、そこを立ち去りましたね。そういうような同じ日本軍同志でも、そういうように乱れているような感じは、今思うとありました。もう秩序が保てない。

首里後退するときからは、もう激烈でしたので、砲弾が。豊見城に行って砲弾が落ちない、真壁行って直の砲弾が落ちない時期も、勇ましく敵をやっつけるという思いは少しもなかったです。首里に入隊をして、首里から撤退する時点まで、砲撃の中に追いまくられて同僚も焼け死ぬ。しかも自分の手ではらわたは飛び出す学友も介抱して、そういう状況首里で経験して生まれて初めての経験。それから闘うとかそういう思いはそこで消えていました。静かだった豊見城の一時、真壁での一時でも敵をやっつけるんだという思いは、頭の中から全然なかったです。みんなの気力を見ても誰しも昨日のひめゆり部隊の写真が琉球新報に壕の記録残ってますよね。その中でも彼女たちも同じ思いで、毎日が生きるのに死にものぐるいだったということを発言をして書き留められていました。みんな同じだったと思うんですね。生きるのに本当に、死にものぐるい。生か死か。豊見城・真壁・伊原の壕の一時的兵はある。兵は一時的なもので、4~5日するとまるっきり変わっていくんです。1日、1日日が経つにつれて。激しくなっていくんで。

Q:最初は敵と戦うというのは実際、どんなイメージを抱いていたんですか、いちばん最初のころは。銃を手に持って。

そういうことではなかった。ただ首里にいるときには米軍の姿を見たいと大変思いました。米軍というものを自分の目で見たいということはありました。それを見ないままに真壁の伊原の壕行ってから初めて見たんだけど。首里では米軍は出合わなかった。今の砲弾も、言葉では砲弾だけど・・飛行機も4~5機じゃないはず。本当にトンボが飛ぶような状況ですから、島尻の空がトンボが飛ぶ状況。雨降り後のトンボが群れて飛ぶような状況です。砲弾も戦車でしょう。陸上の砲にしても山砲とか野砲とか。いちばん地を揺るがすのは艦砲射撃です。これは飛行機の爆弾以上に直下型地震のように全部、島尻の南部の陸が全部揺れ動くような状況です。それがずっと続いているんですから、そういう状況が。いちばん怖かったのは今のセスナ機、皆さんのNHKの軽飛行機。あれがいちばん怖かったんです。観察機。日暮れになって戦闘機が消えますと、これが2~3機飛んでくるんです。操縦している米軍兵士が見えるくらいに低空飛行してくるんです。観察。体験によってわかる。泉があると、みんな水くみに集まるんです。低空してきて旋回します。ビューとエンジンをうならせて、ギュンと急上昇するんです。急上昇したかと思うと何百発の集中砲撃くるんです。それも経験しているから、セスナ機が来るとみな用心してグっとうなると、そこから逃げ去るんです、その場所から。集中砲撃されるから。そこに残ったら全部やられるんです。首里からこれは体験しましたから、首里にいるときから。

首里にいるときまでは、ブリキの一斗缶を使っていましたが、島尻に行ったときにはたぶん農家の方に水くみの水おけなんかが残っていたのを取ってきて、それを使ったりしました。島尻の伊原壕でもわたしがくんでいるときに集中砲撃くらったもんだから、帰ったらおけはやられてしまって、その後からは水くみというのはもうめいめいが持っている飯ごうを、バケツとかそういうものないから。毎日が雨でしたから。ずぶぬれれでしたから。着の身着のままでずぶぬれ。1か月ほどずぶぬれの着の身着のままですから、そういう状況の中で人間がどんな姿になるかということは、想像も出来ないんです。男も女も。前にも話しましたが、特に戦争の話に出てこないのが、生きている間は排便がありますから、出ると命が吹っ飛ぶんですよ。ときにはそのまま着たまま流してしまうとか。言わないだけのことであって、ありうることなんで、す誰しもが。着の身着のままで。飛び出して正常にやろうとすると命吹っ飛んでしまうんだから。だから壕の入口は全部糞(ふん)の山です。それを踏みつけて、水を飲みに行くときにはそれを踏みつけるんです。そこで全部散らかしているから。多くの人間が。周りにいる人間が。沖縄のチビチリガマとか、島尻の大きな糸数壕とかは仮のトイレが造られているから、いい方なんです、あれはああいう大きな壕は。ああいうところ以外はみんな今話すような状況です。男も女も。着の身着のままで。糞尿排便ですね。

記憶にあるのは、あちこち砲弾の、艦砲射撃とかの砲弾のデコボコとか穴とかね。結局、日暮れに出て朝着いたというのは、そのような砲弾のあとを。正常な道路じゃないんだよね、そういうところを歩くためにだいぶ時間がかかりましてね。途中で人がやられているのも、ほとんど見かけませんでしたね。今でも記憶に残っているのは首里を出てすぐね、今の首里城の後ろ辺りかな、与那原方向の首里のはずれの方に馬がね、やられたばかりの生々しい馬がぶっ倒れていたのがね、今でも記憶にずっと残っているんです。あの馬だけは。保栄茂に着くまでは、一人の人間の犠牲者、亡くなっている人の彼らをわたしは一人も見かけなかったですね。保栄茂着くまでは。

Q:で、保栄茂で、保栄茂ではどのようなことをしていたんですか?

保栄茂でもやっぱり首里を同じように、食糧探しともちろん炊事ですね。炊事で大きな負担に感じたのは水くみでしたよ。あれだけの人数の飲み水が壕にあるわけじゃないんで、サイは100メートルくらい離れておったかな。保栄茂は壕のあととかもちろん山。雑木の生えている山の中を飛び出してね、部落の方まで150メーター、200メーターくらい歩いて、おけに天秤棒で水を運ぶ水くみの靴だけはありますね。あとはもう芋掘りと野菜。食糧は首里に比べると案外豊富でしたよ。向こうは農業の村なんでね。で、そこに保栄茂にいるまでは、向こうの村々には大きな赤瓦の家があって、馬小屋牛小屋もある大きな屋敷の家でしたがね。で大きな井戸がありましてね。屋敷の中にね、池があったんだよ、この家には。当時の沖縄の田舎の大きな豪農といわれる家には、だいたい、屋敷の後ろに池があって、その池では馬を浴びせたり、牛を浴びせたりする池に、屋敷のやつ使われてました。その池の方で、洗濯、洗いをしてね。で、井戸水でそそぐというような状況。案外、普段の生活をしたことができたんですね。それでも保栄茂から下がってからは、着の身着のまま。汚れたままでね。いくらかさっぱりしたものを着けることをやっとったですね、豊見城までは。

行って直はね、豊見城に着いたときと同じで、とても平和でしたよ。そこもやっぱり砲弾落ちてなかったんです。それが日一日、一日と過ごすうちにね、首里とおなじようにもう、壕を出ると命が吹っ飛ぶような状況だったんですね。ただ、食糧を求めるには豊見城と同じように、もう目の前には畑が広がっていましたからね。ただそこでも、豊見城と違って大変苦労したのは豊見城は先ほど話は、民家まで150メートル行けば井戸から水をくんでね、透き通った水を炊事や飲み水に使っていかしたからね。真壁のそこに行ったときにはね、ときにはその澄み切った水というのはほとんど飲めなかったですね。行ってすぐは飲みましたけどね。もう砲弾が、壕から出られない状況のときには、田んぼの畦(あぜ)に溜まっている水を飲んだときもあるんです。濁った赤土の水を。で、飛行機の飛ばない夕暮れ、米軍は夕暮れには飛行機ほとんど撤退していなくなりよったんですよ。夕食の時間あたりなるとね。そのときには多くの住民も、女学生も我々鉄血勤皇隊も全部井戸を探してね、ちょうどひめゆりの塔のある道越えた反対側の方にね、そこの畑の中に、泉みたいのがありましてね。そこの澄んだ水はそこに行って求めましたね。僕らの壕からすると、やがて1Kmくらいの距離だったと憶えているんです。しかも山を登って行って、そこからくんできたんですね。水が大変でしたね。水求めるのが。だから、わたしはそのときの記録にもそれだけは書き残してあるんだけど。毎晩寝るときに3つの祈りをね、ほんとに寝る前にね、あと一度だけ澄みきったコップ一杯の水をね、飲んでから死なせて欲しい。二つがもう一度大の字を書いてね、寝かせて欲しい。で三つ目が、手が千切れたりはらわたが飛び出したりした学友の死を自分で見てきましたからね、ああいうすごい痛みをこらえるようなね、死に方。寮で最初に犠牲者となった屋宜が焼き殺されるような最初の犠牲者、ああいう死に方はさせないでね、一発で身が粉々に散るような痛みを感じさせないような死に方をさせて欲しい。毎晩この三つをね、祈るような思いで頭に本当に祈ってから眠りにつくような状況でしたね。そのときからもう、明日生きるか、今生きれるか、あと何日間生きられるか、そのことばっかりですよ。頭の中は。親のことも、ふたりしかいない兄弟のこともね、夢のにもこれっぽっちも頭に思い浮かべることはなかったです。自分が生きられるか。死ぬのか。そのことばかり、生か死かそのことばかりでしたね。だから、首里にいるときの遺言に書いた、首里にいるとみんな勇ましくね、靴音立てて軍服着けて那覇に散歩に行くようなあの勇ましさ。それは国民学校から中学にいたるまでの、軍国主義の教育を受けたね、あの勇ましさは首里まではすごくあったんですよ。首里にいる間は。勇ましい、やるんだというね気持ち。しかし、首里が散々にやられてね、追いまくられてからは180度その気持ちはね、みんな同じだったと思うんだけれども、その勇ましさからね、生きるのにみんな死にものぐるいでしたね。本当に生きるのに死にものぐるい。

Q:校長先生が亡くなって解散と言われたと思うんですけれども、この話を聞いたときはどんな気持ちがしましたか。

それはよくたずねられるんだけど、当時は、今のように正常な状態がじゃないけど、頭のほうも半狂乱の状態なんですよ。現在の平和な世の中のような正常じゃないんです、頭が。もういつも混乱しているんですね、頭は。だから、いま言うならもう精神錯乱と言うのかな、その状況です、みんな。もう常におびえて、朝から晩まで。おびえてばっかりいる状況なんですね。だから普通の人の持つような気持ちというのも失っている。

Q:じゃあ、いま思い返してみても何を思っていたか分からない。

分からないですね。何度も繰り返すように、生きられるのか、死ぬのか、おびえていること、これだけですね。もう雨あられの砲弾が落ちているんですから。地響きで、直下型地震のようにぐらついているんですね、朝から晩まで。そのような状況の中にいるから。

Q:先発隊で壕を探してうろつく中でもそうでしたし、他にも悲惨な光景をいっぱい目にしたんですか。

それはもう今の伊原壕に行ってからはもうひどかったですよ、そこは。ひめゆりの塔のあるところは伊敷という部落ですが、そこの部落は傷ついた将兵、住民が、特に軍人がいっぱいでしたよ。入れる壕も無くて、屋敷のがらくたの中の一本柱を、身をかばうような状態で寝ころんで血を吹いているとかね。もう修羅場でしたよ、あのひめゆりの塔のある集落は。家はほとんど無かった。で、今度米軍は黄リン弾を使いまして、焼け残っている茅葺(かやぶ)き、ほとんど茅葺きですがね、黄リン弾ですぐ火事で燃え尽きるような、黄リン弾を使って全部焼き尽くしたんです。動けない人たちがみんなうごめいて、まったくの地獄以上でした。もうここでは、豊見城から真壁に行くあいだはむる(ずっと)、そういう状態がずっと続いていました。豊見城から真壁に行くまではその場面がいっぱいあったんです。特にひどかったのは東風平でしたかね。真壁着かない。日本人の小隊か中隊の、相当な団体が一息つこうと休んだんでしょうね。そこを直撃弾をくらって、そこはもう飛び越えて歩きましたけど、もう見られる情景じゃなかったです。首が吹っ飛ぶ、足だけ吹っ飛んでいる、胴体が千切れている。散らばっているんです、全部。夜間でなぜそれが見えるかと言うと、真っ昼間の状態でしたよ、照明弾が。もう満月のような状態です、照明弾がついているあいだは。

Q:やっぱり少年時代に思い描いていた戦争とは天と地ほど差があるという。

はい。ただ一つの思いは県立一中の、皆様おわかりのように当時としては名門の中学で、みんな進学に大志を抱いて入学しましたから、平和な世の中ですよ、昭和17年までは。情勢はあったけれども、目の前に戦争があるわけじゃないから。遠くの平安座の島から出てああいう向学心に燃えた学友たちが、そういうことで命を失ってしまった。しかも負け戦の中で。ああいう大変な苦しい思いをしながら。戦争のときは誰しも、その悔しい思いは誰も思う人いなかったと思うんです。あの戦時中は戦争の中では。だから今、生きて亡くなった学友たちへの思いとして、それがよみがえってくるんです。どんな思いで死んでいったのか、10代で命を失ってしまって。ただ今でも家族が病気をしたりして、自分の命に関わるようなことを感ずるときに、正直思うときがあるんです。わたしの命は16、17歳で既になかった、という思いは今も強いです。16歳でわたしの命はそのときで既になかった。今生きている場が余りにも恵まれすぎているという思いはいっぱいあるんです。

Q:それはある種の後ろめたさみたいなものにも通じるものですか。生き残ってしまったという。

それももちろんあります、正直なところ。そのために語り部の方もわたしは遠慮なくずっと語ってきましたが。その多くの鉄血勤皇隊だった一中の方で、県外から来る生徒の語り部するの、県立一中僕一人しかやってないんですよ。みんな断っているんです。生徒を島尻で引率して戦時しきを回ったのは。あとほとんど断って僕の方が東京都の高校とかそういうの長いこと十何年もやってきましたけども、ほとんど断り続けている。そこが余りにも思い出したくない後ろめたさがあるものだから、みんな口を閉ざしてきたんです。なかなか話さなかったんです。わたしも家族には今のお話一度もやったことないんです。子どもたちにも。教員時代も教え子たちにも一言も今の話したことなかったです。だから教え子も、わたしが学徒の16歳の生き残りだということを知りません。わたしが退職してそういうことで新聞に出たり、テレビに出たりするもんですから、教え子たちが「先生は学徒の生き残りだった」と会うと初めてわかったという人がいるんです。越来小学校の校長のときには慰霊の日に、放送で校長話してくれと頼まれまして、カタン先生から。あのとき初めて学校で、放送を通じて初めて話しました。もうこみ上げて、話がつなげなかったです。どんどん涙が出ました。初めての体験でしたから。どんどん目の前に浮かんできよったんです、学友たちが。命果てていく場面が。だから言葉がつなげない状況にありました。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
沖縄県平安座島にて生まれる。
1942年
平安座国民学校卒業後、沖縄県立第一中学校入学。
1945年
3年生を終えて鉄血勤皇隊へ入隊。鉄血勤皇隊の本部に配属され、一中の校長らと行動をともにする。米軍に捕らえられ捕虜となる。
1946年
前原高校に編入。その後、川崎小学校で教員を務める。

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