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タイトルタイトル: 「家族に話せなかった体験」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
名前名前: 立石 秋三さん(陸軍南海支隊 戦地戦地: ニューギニア(ポートモレスビー、ギルワ)  収録年月日収録年月日: 2009年7月29日

チャプター

[1]1 チャプター1 転戦を重ねた連隊  04:46
[2]2 チャプター2 命をかけた「渡河」  03:04
[3]3 チャプター3 2度目の脱出  07:25
[4]4 チャプター4 草原をさまよう  04:52
[5]5 チャプター5 たおれていく戦友たち  02:44
[6]6 チャプター6 満期除隊  02:41
[7]7 チャプター7 話すことがなかった「ニューギニア」での体験  02:49

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年7月29日

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ラバウルまではね、戦争言うてもそんなに苦労は、無かったがね。じゃが、ニューギニアでだけは苦労した。それが一番長い時期じゃけんね、あそこが。8か月くらいおったけんね。それがね、一線部隊じゃけんね、そんなに8か月もおるようなところは無いんじゃけん。だいたい3月くらいしたら次の部隊が来て、それでわしらはまた、敵前上陸するようになるんじゃけんね。やけん、次々、6ぺんか敵前上陸したがね。

はじめ敵前上陸したところは、ブナへね敵前上陸した。そして、ブナへ敵前上陸してそれから今度は、トマン海岸をずっと攻撃して行きおって。それであの、この山を越したらポートモレスビーだろうな言うんで話を聞いとった。そして行きおうたんじゃが、55キロか60キロくらい手前でね、南海支隊がおった。そこで交代したわけだ。四国の部隊(144連隊)と。

とにかくこう、地図見てもね、大きな部落じゃ言うてもね、家が2,3軒しかないところが大きな部落に書いてあるだけ。何も無いんじゃけん、もうほとんど。

Q:それはニューギニアの時ですか?

えぇ。それじゃけん、家があるようなところはほとんどないです。ジャングルの中はね。ジャングルの中じゃけん。

Q:地図だけ見ると、ちゃんと町のように書いてあるんですね。

そうそう。それじゃけん大きく書いてあるけんね、これはええのう思うんじゃが、そんなとこは一つもない。やけん皆寝るんでも、そのまま外で寝るんです。

北支やらね、北支や中支や南支やマレーなんかはね、食べるところはほとんどあるでしょうが。それじゃけんね、一つも苦労は無いの。食べる物が無いんが一番辛いわね、ほんま。まぁそれじゃけん、マレーでもね、3日くらい食べんこともあったがね。道を迷ってから、マレー作戦で。じゃが、その部落を下りたらもう、この、山を越して部落を下りたら、食べる物があるけんいう気持ちがあるけんええがね、ニューギニアはそういう村は無いんじゃけんね。ここを下りたら、あぁ部落があるじゃ、食べる物があるじゃ言う事は考えられんかった。あそこじゃ、ほんま。まぁそれがね、一番辛かった。

スタンレー山脈ってね、大きな山やけんそれを越したらね、とにかく山を越したら、ポートモレスビーじゃいうて話は聞いとった。じゃが、そこでもう555キロか60キロくらいで、頂上まで行って、それで、そこで今度は四国の南海支隊に交代したわけです。それが、南海支隊がね、先上がっとったけんね。やけん、そこでポートモレスビーを攻撃さそういうんでね。

それでうちの部隊は途中へ帰って、野戦病院があった。そこを警備しおったの。そこを警備しおったんだが、その警備しおった反対に包囲されてしもうて、向こうに。こっぽり、野戦病院。それでもう、どうしようもないようになって。それでそこから、脱出せにゃいけんけん、1人減りで、2人減りで行ってからね。

野戦病院を、こう兵が守っとっても、それをこっぽり全部包囲されてしもうたけん。そこで、どういうふうにして逃げようかいうんでね、そこでバラバラになってしまう。それじゃけん、クムシ河を渡った、渡る前からもうバラバラになってしもうた。

それで今度は、出たら、今度は大きなあのクムシ河いうのがあるわいね。その河を渡らにゃいけんの。河を渡るんが、流れが急だしね、そして幅が広いよね。それを渡るんが、「大ごとじゃわい」言うて。そこで溺死する、溺れて死ぬ人が多い。そしてそれまでに、大腸炎とマラリアが併発して死ぬ人が多い。そしてわしも、いっぺんそこの河を渡りおって、いっぺん失敗したわけ。で、河が、こうなっちょるけんね。そうじゃけん、こりゃ今度は考えて渡らにゃいけんわ言うて。横まっすぐ行っても駄目じゃけん。こうなっちょるけんでこう、こっちの出っ張りへ着くように、流れへ沿ってこうやっておいてようやくこっち側へ入ったわけ。川を渡って。

Q:一回失敗したというのは?

それを、まっすぐ泳ごうとしたら流されてしまう。それで向こうへ着かんころに、やっぱ前おったところを途中の方へ着いたわけ。それじゃけん、今度は川がこうなっちょるけんね。今度は、そこから、上、ずっと登って。それで今度は、川の流れに沿って反対側へ着くように、とっぱ、出っ張りのところへ着くようにね、こう流れに沿って泳いで、それで着いたわけ。それで、それから今度は、あのココダいうところへね、警備に行くんじゃい言うて、それで警備に行ったわけよ。そこでまた包囲されてしもうてね。それでどうしようもない言うんで、そこで。それでそれから、その時にはもう着の身着のままじゃけんね。食べ物は無いしね。それで、銃も、銃も剣も無いんじゃけんね。じゃけんもう着の身着のままで。それでそこで警備しおって。それで敵に包囲されてしもうたけん、どうしようもないけん、これは動かれんわい。

そう、海の近くじゃけん。ココダでね、海岸を警備する言うんでね、おったんじゃが、何言っても兵器すら何も持っとらんじゃけんね、警備するじゃ何じゃすることはできやせんですわ、ほんま。そこ、おるいうだけのもんです。兵器も何も無いんじゃけんね。やけんどうしようもないの。まぁそれじゃがね、大方(軍隊に)5年おったが、1番長い所が1番つらかったです。

包囲されたらね、どうしようもないの。敵がこっぽりこう、守っとるけんね。それを抜けるんにね、こう並んどりゃせんのじゃけんね、向こうは。やけん歩哨が立っとる間を、抜けて出るようなんじゃけん。やけんいっぺんは、ここを出よう言うて、それで草原を出よったら、そこの前を歩哨が立っとる。「あぁ、こりゃダメじゃ」言うて奥へまた帰って。それでまた日にちを変えて、今度はそれから北の方へ回って、それでやったら、道路こう見ても「あぁ、ここはおらんけんええわい。あぁ、来い来い」で4人が、何したんじゃがね。じゃが結局は2人になったがね。

Q:包囲された時に命令が出て出たのではなく、状況を見て自分たちで判断して出たのですか。

そう、そう。もう、命令なんか言うものはありゃせんのじゃけんね。それで偉い人もおらんしね。やけんもう自分自身が、とにかく方向を間違えんように、ソルテイいうところに、帰りゃええんじゃ言うて。それじゃけん海岸を、波の音を聞こえる程度にジャングルの中で、ずぅっとこうかわった。そうせにゃね、方向がたたんようになる、ジャングルの中入ったら。波の、波の音を聞く。帰らにゃダメじゃ言うて。それじゃけんもう何よね、波の音を聞く聞く。ずぅっとなるべく奥へ入らんように、波が聞こえるところへ、程度でずっとおった。

Q:包囲されてる時は何日間くらいだったのですか。

いや包囲されて、それじゃけん3日ほど。3日ほど。それでそれから敵の中、ずって。それじゃけん今さっきも言うたように、「ここを出ようや」言うて。言うたら、目の前を歩哨が立っとるけん。それじゃけん、こりゃダメじゃ言うてその奥へ入って。そしてまた明くる日に、今度は方向を変えて、そこからなるべく北の方向いて出て。それでここを、ずっとこう、わしらが上がったところじゃけんね、わかるけん。上陸したところじゃけんわかるけん。やけんここを出よういうんで、そして、そこを出た。そしたら道路、道路見てもね、あっちもこっちも敵がおらんかったけん、「ここへ来い」言うて、それで出たの。

そしたら、金平糖がたまたまあったけん、それで食べたんよね。4人ほどで。じゃが、その時の味いうものは忘れられんですわい。あぁ、食べとらんけんね。それじゃけん、余計もありゃせんのじゃがね、4人が食べるんじゃけん。やけん、ほんま、ものすごい味じゃった。まぁ、ね。

Q:その前は何日も食べてないわけですものね。

やけん3日ほどその時には食べとらんかったけんね。やけん、木の実を食べたり、木の根がありゃ、木の根を掘ったりしてから食べるくらいのもんでね。掘るもんいうても掘るもんは無いんじゃけんね。木の実を食べりゃ食べるくらいのもん。それで薬が無いけんね、なるべく水でも、あんまり飲まんようにする。大腸炎になったりなんかしたら、ほんまに、どうしようもないけん。

Q:1中隊自体はその前にバラバラになって、本隊も何も無い状態だったのですか?

そう、いやそれじゃけんね、そこであの野戦病院を何して、そこでバラバラになってしもうたけん。それじゃけん1中隊は、もうそこでバラバラになって、誰もおらんように、わし一人になっとった。それで何したら、怪我した者がおったけん、ずっと2人で帰ったの。


それじゃけんね、ニューギニアから帰った時には、やっぱわし一人じゃった。うちの中隊はね。

それでジャングルの中へ隠れとって、そして「出ようや」言うたら、その時がちょうどね、15人くらいなっとった。それはうちの中隊の人は、1人しかおらんかった。前にも言うたように足をケガした人がね、人がおった。それと2人しかおらんかった、うちは。それであとは機関銃の人なんかがおった。それで「立石さん、いい道路があるよ」言うて、言うんだもんでね。いい道路がある言うても、これは、このジャングルの中いい道路を作っとるゆうのは向こうが、敵が作っとるんじゃろ言うたんや。まぁそれじゃが行ってみようや言うんで、見たらね有線が張ってあるの、ずっと。敵のね有線が張ってあるの。これはダメじゃいうたら、行ってみようや言うて、それでずっと行きおったらね、15人。そしたら向こうから敵が来よるもん。パァーッと、じゃけん、7人と8人がジャングルの中へ、別れてしもうた。

Q:有線とは何のためのものですか。

有線いうたら電話線じゃけんね。電話線じゃけん向こうがね、向こうの有線じゃけんね。敵が連絡するんに、電話線を張っとるんじゃけんね。やけん敵がおる言う事はわかっとる。やけん敵がおるでゆうことは、わしは言うとる、みんなに。じゃが、それじゃが「まぁ行ってみようや」言うんで行きおったら、敵がなんなく来おった。それで日本軍が作った道路じゃないんじゃけんね、ジャングルの中へ。やけんね、敵がおる言う事はわかる。もうほんま。まぁそれじゃがね、ニューギニアじゃほんま難儀したです。

それでこっちの8人の方はどうなったかはわからん。そしてこっちの、私の方の7人は残った。そして、それから敵の包囲を抜けるんにどうしようかの言うて、言いおったの。じゃが次々ね、マラリアと大腸炎で亡くなる人がおるし、それと餓死するんがね、食べとらんけん。それで3日目、3日目くらい、わしらが上陸したところブナがね、草原だからね、人間の高さくらいの草原だった。そして「ここから出ようや」言うんでね、4人くらいで。まぁあの草原の間をこう見たらね、そこの前を歩哨が立っとる、向こうが。「これはダメじゃわい」言うてまたジャングルへ入って、また一晩そこで明かして。そして、そのときに、あと、4人おったんが、他の人に言うのに、海の波の音を聞こえるようなところへおるようにせにゃ、あれが聞こえんようになったらどこへ行くやらわからん。方向がわからんようになるけん、波の音が聞こえるようなところへおるようにせにゃいけんで言うて、話しおった。

そして3日目に、ようよう、わしらがブナいうところ敵前上陸したところ、・・・上の方から、よう抜けて出たの。包囲されとった。そして、大きな道路を作ってあるけんね、工兵隊が。そこを、両方見てもおらんけんね、こりゃ大丈夫やけん来い来い、言うて来て。で、そこでね、ありゃ恥ずかしいことじゃがね、とにかくこのコンビーフが、敵のコンビーフが1つあったの。上陸したところへね。「これは、ええもんがあるの」言うて。で、封は切っちゃないしね、これを食べようや言って。そして4人が分けて食べて、それで1つだけね。今までが食べとらんやけんね、なんぼでも食べられるんじゃけん。それで1つしかないんじゃけん、どうしようもないけん。

そして、それじゃ分けて食べよう言うて、それで分けて食べて。それで歩きおったらもう「わしは、もう歩かれんけん、あんたら先行ってくれ」言うんで。そして、やっぱ波が、音が聞こえるようにジャングルの中ずっとこう行って。あぁ、ソウシュかソウシか何かいうところに部隊がおったんやね。そこへ行くのに、また途中で行きおって、そして結局その「わしはもう行かれんけん、歩かれんけん先行ってくれ」言うて、そして足怪我した者と2人がようよう、クムシ河のヘリまで出た。それでクムシ河のヘリへ出た。そして海岸へ出にゃいけんで、波が音がしよるところを、聞こえるようでな、そしてそしたら何したら、そこへ出たらね、大きな消火器があるの。こんな、真っ赤なのが。

これは敵がおるんじゃこれは、消火器があるじゃない。まぁそれじゃが、手りゅう弾だけしっかり持っとかなきゃ言うて、そして手りゅう弾だけ持ってね。それで「捕まったら自爆すんで」言うて。それで持っちょって。それで消火器のとこ行ったらね、日本の消火器じゃったの、それが。あぁこれは日本軍がおるんだな、ここらへおるようだ。そして「まぁええわ、クムシ河渡らにゃいけんけん、また、流れがきついの」言うて。そしたらね、向こうからこう手を振りよる。クムシ河の向こうからこう、手をこう振りよるけん。なんでか、敵が手振りよるんじゃろ。で、だから、「気をつけんでいけんぞ。手りゅう弾はの、離しちゃいけんで」言うて持っとった。それでなんたら、そしたらあの、水の流れと波のなんとで競りおってね、浅くなっとる。

ここまでくらいしかない。そのクムシ河の海岸がね。そこをこう渡って行ったら、それでようよう見たら日本軍じゃった。

そりゃぁね、怖いより何言うてもね、どうすることもできんの、もうほんま。そういう、戦争じゃったらね。やけんこっちはもう何も持っとらんしね、やけん撃たれて、死んで。そして、「あんたは、先行ってくれ。もう、わしは歩かれんけん」言うてもね、体支えて行ったろいう気が出ん。自分も食べとらんけんね。自分も歩くんが一生懸命じゃけん。ほんま。それじゃけんね、「こりゃ、大変のう」思うても、どうしようもないんよ。じゃが自分が歩くんが一生懸命じゃけん、もうほんま。それじゃけんね、あそこじゃ、うちのとこの人じゃがわしらより学校が一級下じゃったが、そんなんでも、やけん、撃たれて死んだがねどうすることもできんの、ほんま。

Q:さっきの話の、15人の中の「もう歩けないから置いて行ってくれ」と言った人は、その後どうなったかはわからないですよね。

もう全然わからんです。もうそれじゃけんね、その人らはそれじゃけん、そのまま餓死しとるじゃろう思うんです。その3日目4日目でもね、もう部隊こう帰るんでもね、「もうわしは歩かれんけん、あんたら先行ってくれ」言うて、そのままそこへ倒れたままでね、もう動かれやせんですわもう。やけん、そういう人のね音信は無いです。

やけん、足のケガした人でもね、我慢強い人じゃった。昔から。入って来た時からね。元気な頑張り強い人じゃった。ほんま。「じゃがあんたセは無いかい」言うたらね、「道路について帰るだけ、連れて帰ってくれ」言うてね。それで、ようようついて帰ってきたんじゃけんね。じゃが、我慢強い人じゃのう思うたんです。足ケガしとってもね。まぁそれじゃけん、すぐ、そこで帰って、ソルテイ言うところで野戦病院入って。それからがどうなったか、全然わからんの。

それじゃけんラバウルから帰ってね、今度は宇品まで帰るんでも、輸送船で2隻で帰りおったの。これが、わしらが乗っとる船が泰山(丸)言ってね、運輸部直轄の船じゃったの。そして、あとの船は輸送船。やっぱ同じ輸送船じゃがね、わしらが乗っとる船と後ろで乗っとる船とは違うて。で、いっぺん甲板に出てみたら魚雷が、どんどんどんどん魚雷で撃ってくる。潜水艦で。で、結局2隻の船は1隻は沈没した。で、我々はこう歩いて逃げて、そして宇品まで帰って。

そして、何です、検疫を済んで、もうこれで満期じゃろう言いおっても、汽車へ乗ってまた下関まで行って。それで関釜連絡(船)行って、そして関釜連絡から、なんです、釜山行って釜山から平壌行って、平壌で満期になった。

皆たまげとった、「5年兵」言うたら。そんなに長いことおる部隊は無いです。うちの部隊だけじゃった。(41連隊は)一線部隊じゃけんね、どうしようもないんよね、もう。

食べんことと、そして、マラリアと大腸炎なったら、必ずダメ。じゃが私は幸いにね、マラリアはね、帰るシテイ前くらいに、いっぺんやってから、それから出んかった。やけん大腸炎も、いっぺん1週間ほどラバウルか何かで入院したことが、野戦病院へ。1週間ほど、大腸炎でね。それで、それ以後はもう入院したことはなかった。だがまぁええわ、怪我は無いしね、じゃからまぁ元気で今帰られたもんじゃのう思うんです。

ニューギニアで苦労した言う事は、やけん、息子らやら言うとるがね、他の人には言うたことないの。

Q:どうして言いたくないのですか?

まぁそれじゃがね戦争のむごいことはね、言いたいことは無いの。ほんま。殺し合いじゃけんね、ほんまに。人に、言いたいことは無い。ほんまに、それが、ええことならええがね、ほんま殺し合いじゃけんね、ええことは無いの。それじゃが、わしらでも突撃するいう時でもね、どうしようかしら思うようなことがある。ほんま。自分がやらにゃ人が、相手をやらにゃ自分がやられるけんね、どうでもこうでもやるようなわいね。それじゃけんね、戦争言うものはするもんじゃないの。ほんま。わしはそう思う、いま。

Q:私が質問して思い出すのも辛いお話なんですかね。

うん。まぁそれじゃがね、人はニューギニアのことなんかはあんまり聞きやせんですわ。そりゃぁあの、わしらがニューギニア行ったいう事が、わからんけんね。やけん、ニューギニアでどないだったかいうようなことは、話することが無い。やけん、わしらがここへ戻った時でも、18年の11月に帰った時でも、「立石のとこには、ええ息子さんが帰ったが、ありゃ早う亡くなるで」って言いおったんじゃけん。そりゃぁ、顔がこうむくれてね、どす黒くなってね。栄養失調でね、ほんま、なんじゃけん。それじゃけん医者へでも、前も始め言うたように、4か月も通うたんじゃけんね

やけん、人が、ここらの近所の人でも「あそこのは、帰っても早う亡くなるで」言うて、言いおったんじゃけん。じゃが今までね、生きさしてもろうたけんわしは、満足しとるのもう。やけんいつ死んでもええわ。いや、ほんま。

出来事の背景出来事の背景

【ポートモレスビー作戦「絶対ニ成功ノ希望ナシ」 ~陸軍 南海支隊~】

出来事の背景 写真日本軍将兵の9割が命を落とした“生きて帰れぬ”戦場ニューギニア。その口火を切ったのが昭和17年のポートモレスビー作戦である。
日本軍は、中部太平洋の海軍の根拠地「ラバウル」を連合軍の空襲から守るため、連合軍の航空基地があるニューギニア島の南岸「ポートモレスビー」を攻略する作戦を立てた。ポートモレスビー攻略を命じられたのは、南海支隊で、当初は海路ポートモレスビーをめざしたが、珊瑚海海戦の結果、ニューギニア北東岸のバサブアに上陸して、陸路オーウェンスタンレー山脈を踏破する総距離350キロの作戦に変更された。現地司令官は「攻略は不可能」と断じたが、大本営参謀・辻政信の独断で作戦は実行されるにいたった。
昭和18年8月、南海支隊主力がバサブアに上陸、兵士たちは一人当たり、20日分の食料を含む50キロの荷物を担いで、詳細な地図がないままジャングルに分け入った。そこは、道なき道で、樹上からから吸血ヒルが降り注ぐ密林だった。密林を抜けると、豪州兵が銃火・砲火を浴びせかけてきた。さらに、標高3000メートル級の山越えで、食糧も尽き、兵士たちは体力を失った上に、マラリアに苦しめられた。
出発から7週間、兵士たちがポートモレスビーを見下ろす「イオリバイワ」まで進出したものの、そこまでが限界だった。9月下旬、日本軍は「転進」を決定したが、マラリア患者、負傷者を抱え、豪州軍の追撃を受けながら険しい山道を将兵たちは撤退することになった。そして、食料を失った兵士たちは、木の皮や根をかじるようになった。
ニューギニア北岸にたどりついた生存者は、バサブア、ブナ、ギルワなどの日本軍陣地に拠ったが、連合軍の追撃で翌18年の1月までに相次いで撤退する。
南海支隊はこの作戦で、9割以上の兵士が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1918年
広島県呉市にて生まれる。
1933年
尋常高等小学校卒業。
1939年
歩兵第41連隊補充要員として現役入隊。国北部)山西省に転じ、上海作戦、仏印進駐、マレー作戦、シンガポール攻略作戦などに参加。
1924年
ニューギニア・ブナ上陸。ポートモレスビー攻略作戦当時、南海支隊隷下歩兵第41連隊第一中隊。24歳、陸軍兵長。
1943年
除隊、復員。
1945年
再召集され岡山で初年兵教育に従事中、終戦。陸軍伍長。復員後は家業の海運業に携わる。

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