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タイトルタイトル: 「多くの部下を失った小隊長」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: 小石澤 正さん(第1師団 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2007年12月

チャプター

[1]1 チャプター1 レイテ決戦へ  05:40
[2]2 チャプター2 レイテ上陸  07:30
[3]3 チャプター3 「死の谷の戦い」  09:08
[4]4 チャプター4 脅威だった米軍の迫撃砲攻撃  03:12
[5]5 チャプター5 姿を消す兵士たち  02:38
[6]6 チャプター6 抗日ゲリラ  03:22
[7]7 チャプター7 飢餓  05:22
[8]8 チャプター8 たおれていく兵士  04:35
[9]9 チャプター9 命を落とした部下への想い  01:17
[10]10 チャプター10 セブ島への転進  04:55
[11]11 チャプター11 考え続けた「生き残ったこと」の意味  06:00

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2007年12月

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はぁー、やっぱり「北満の北の満州でソ連を相手に、寒いところで広いところで戦争する」その訓練を受けた第一師団、われわれがですね、上海へ行って、今、言った沖縄かフィリピンか、それから、台湾かと、この中でフィリピン・レイテ島というようなことを聞いたのが船に乗ってからですね、移送船へ乗ってからのことです。ですから、向こうのまったく寒いところ、大陸の戦闘の訓練をした、と、それが南の暑いところ島国の戦闘というようなことで、まったくガラッと変わってしまったですね。こんなことで、いよいよ南の戦闘かなというようなことで、困ったな、今まで訓練した、受けたのも教えたのも満州の広いところ、そして、それがいいけど、それがアメリカ軍相手ですね、そして、レイテというようなことで、わたしだけじゃないですが、もう師団長以下驚いたんじゃないかと思いますね。

Q 小石澤さん将校ですけど、戦況って、当時の戦況ってどれくらい分かっていたんですか。

あのほとんど情報としては、わからない。ただですね。わたしたちが上海からバシー海峡を渡ってフィリピンへ行く、その年のバシー海峡、台湾沖の海戦というのがあって、一度引き返してきてまた行ったですが、これは大変なことだなぁと、そんなことを感じましたね。
 それから、・・・の情報で、4隻の輸送船がこのバシー海峡を無事に通ったなんということはないと、そんなことを言われながらですね、潜水艦の監視や飛行機の監視というようなことで、「もういつどうなるかなと、いつどうなるかな」って、そういうような気持で行ったですね。だから、下級将校という立場、あるいは、もっと上の人たちでも、フィリピンの向こうのレイテ、南方の様子なんか、あまり知らなかったじゃないかなと思いますね。

Q さっき、台湾沖航空戦で大変なことになったとおっしゃったんですけど、それどういうことなんですか。

アメリカの潜水艦が出没したり、飛行機が上を飛んでいると。そういう中で、今言った僕たちみたいに満州から上海、そして、南方へ行くと、その南方へ行く輸送船を狙っているわけですね。それで、潜水艦から魚雷を打ち込まれて、それで沈んでしまう。そういうことで無事に南方、目的の島へ着いたというのは、割合、少ないですね。

わたしたちがレイテ島へ上陸する前に、ある一個師団が上陸して守っていたですが、それも制海権、制空権をとられたあとですからね。どうにもならんの。戦争にもならないというようなことで、もう僕たちはこっち上るっていったら、向こうからこう下りてくる、まるで(日本兵は)敗残兵のようなんですね。そういう姿でしたね。ああ、大変なところへ来たなと。「もう日本もこれじゃあ」というようなことを、その頃から思いはじめましたね。

山下奉文ね、山下奉文軍(第14方面軍・フィリピン防衛を担当)の最高司令官ですが、あれがマニラの首都に将校を全部集めてね、第一師団「玉兵団」の、僕等も下級将校ですが、そこに並びましたが。もう米軍がレイテへ上がってきたけれども、もう一匹たりとも残さずこの海に追い落とせと。そういうような檄(げき)を受けて行ったですよね。だから、それはやっぱり戦争だから、苦戦だと負けると大変だというようなことを、状況が、もう最高司令官も言いっこないとは思うけども、そういうことで行ったわけですね。だから、レイテへ上がってみて、初めて「あぁ、日本軍は」という感じがしたですね。だから、行くまでは、「勝つんだ、勝つんだ、行け、がんばれ」そういうムードですね、行ったですね。だから、「戦争に必要なものだけを持って、そして、あとのものは、みんな船から輸送船からふ頭へ置いていけと、お前らふ頭へ置いていけ」と。そして、上陸はあの、レイテへ向かったわけですよ。
 だから、初め、満州を出る時には向こうの連隊へ入って、向こうで警備にあたるぐらいのつもりで行ったですね、気分そのものが。ところが、行ったらもうレイテ島大苦戦だということで、負け戦だと。そういうところへ行ったですから、山下奉文軍司令官に激励されて、檄を飛ばされて勇ましく行ったけれども、実は、そうじゃなかったですね。

Q 上陸して、まず、どういう任務を請け負ったんですか。小石澤さん。

まぁ、輜重兵連隊は二個大隊で自動車と馬場と2つなっていますが、わたし馬のほうですね、馬場。そこで二個中隊やったですが、その両方の中隊に2個小隊ずつ35名兵士ですがね、戦闘小隊がいた。その戦闘小隊というのは、弾薬、コウブ廠や、糧まつ輸送、それをするその人たちを警備する部隊ですね。戦闘小隊はね。だから戦闘、米軍、敵と向かい合って戦争するという本来の任務じゃなかって、輸送補給を任務とする輜重隊、それを守る小隊が戦闘小隊ですね。その小隊長として上海で編成されて、それから、レイテへ上陸したわけですね。
 だから、19年の11月1日になりますか、レイテ島に上陸した時、その時が、もう弾薬糧まつ揚げるますから、その警備というようなことですね。それもう1日、2日、3日あたりから歩兵が動きだしたというね、そういうふうな状況で、戦闘小隊というのはもう、戦闘部隊、戦いを任務とする部隊ではなくて、そして、戦いをする人たちに糧まつや弾薬を輸送する、それを警備する小隊ですね。時には、非力搬送といってね、担いだり、運んだりてし戦線へ輸送することもあったですが、まぁ、要するに戦闘の任務でなくて、いわゆる後方部隊といっていますがね。そんな任務をもっていたわけですね、戦闘小隊というのは。

Q レイテで、その糧まつの輸送って何回くらい小石澤さんは、されたんですか。

まだ、上陸した直後は、自動車がね、リモン街道を戦線へ行きましたから、それで1日に2回くらいずつ往復しましたですね。
 そんなことをして、あるいは警備し、コウブ廠の警備する、そんなことをしている中で、11月の12日に歩兵の57連隊へ転属なったですね。57連隊へ転属になっている。だからその間ですから、上陸して初めはあすこの警備、あと輸送ということですから、わずか2週間足らずくらいだったと思いますね。輸送の警備をしたということは。ときにこれもあれですね。兵隊さんといっしょに糧薬、弾まつ、弾薬積んでそして、前線へ送り届ける。

Q その弾薬や糧まつの補給廠にいらっしゃったわけですね。それよりさらに後方から補給があったことはあるんですか。

それがね、上陸して以来全然ないですね。船に積んでいったのを持ち上げた、持ち上げたそれを警備したり、輸送したりということで、あとから船で潜水艦で輸送船で運んできたということは全然ないです。
 ルソン島、ご存じのようにルソン島のマニラですね、これがフィリピンの首都で、ここの勝ち戦のころ占領していたですね。それが位置がかかっているのがレイテ島ですからね。そこまでマニラからレイテまでも船が来ないと。補給が保ちそうもないから出したようですがね。国を出ているけれども、途中でもう潜水艦や飛行機にやられて、そして、沈んでしまって届かないという。あとで帰ってみたら、「もうみんなお寺の鐘までね、そういう金物をみんな出して、そういった兵器弾薬を作るためにというふうなことまでした」ということを聞きましたがね、それは戦線へは来ないですね。やっぱりそれも、さっきも申したけど、制海権、制空権、これにあるんですね。もう輸送船が戦場まで近くまで輸送する能力がないと、そういうような状況だったですね。もう19年の11月はね。
 だから結論的には、内地から、あるいは後方から戦線へ輸送されて食べ物も兵器弾薬も来るようなことは不可能な状況だったということですね。そんなことですね。

 無理なことをしたものですね。食べ物も弾も送らなくて「戦争しろ、戦争しろ」とね。「頑張れ、頑張れ」といったって頑張りようがないですよ。そんなことは、あとでもって言ったり、今、考えることであって、そのときは、「何とか凌げ、何とか頑張るんだ」という気持でいっぱいだったですね。


Q 当時の日本軍の糧まつ集積所とか、あとその弾薬の集積所って、そのどんなものなのかって想像がつかないんですけども、どういう様子だったんですか、当時は。

やっぱりヤシだとかね、洞窟(くつ)みたいなところへなるべく、こう分からないように遮へいしながら、「ここは糧まつ、ここは弾薬、ここは油」とそういうふうに分けてね、分散して、そして、遮へい、隠れるようにして置いたですね。それがやっぱり米軍の情報網や、上空で観察機という飛行機がね、見てますよね。すると、察知するんですよ。そういう状況で、あるいは後方で食事を炊いたりしますよね。そうすると、野戦病院などもあるわけでしょう。そういうのが、そういうのは、もう情報としても米軍に察知されるですね。で、そういう中で飛行機でやられると。弾でやられると。そういうようなことです。だからそれを遮へいしたり、ヤシの林や密林の中に持ち込んでいってなんとかと持ってくるけれども、それもついにはどうしようもなくなってしまった。野戦病院でさえも襲撃されているんですね。機銃掃射を受けたり、砲撃を受けたりしている。

一個大隊って800 人いる。編成がね。それが僕らが19年11月の22日に配属になって第2大隊の長嶺少佐のところへ行って、まぁ、「配属になりました」ということをわたし、言いました。そのときに、連隊長もいたですが、わずか一個大隊が80名、10分の1になった。その中に傷ついたりあれもありますよ。
 そういうような状態になっているところへ、配属になったですね。で、戦闘を任務としない戦闘小隊の今、35名が戦闘のしかも師団の一番前線の、ほんとうに苦戦しているそこへ行ったわけでしょう。

大隊の800 人編成で行ったのが80前後になってしまった。そういうところへ行ったわけですね。だから、連隊長もそばにいて、「大した戦力だ、しっかり頼む」と言われたですが、しっかり頼むといったって35人、2個小隊ですから、2個小隊行ったですが、輜重隊ですから、そんな武器あれを持っていないですよ。擲弾筒だとか軽機関銃とかね。そのくらい。それで35人でしょ。それでポツポツポツポツと弾出して。そういうような全く劣る兵器。

Q そこで輜重兵の方もずいぶん、

はいはい。あのリモン街道というのが、オルモックからですね、向こうのマナガスナスのあれがあるですね。そこで、いわゆる「死の谷」と言われ、日本軍が付けたんですが、そこを通ると米軍に射撃されると。遠くから弾が飛んでくるわけですよ。あるいは飛行機でやられると。そんなことでですね、そこを無事に通る兵隊は、ほとんどないというようなことですね。で、あい路ですから、ずっとこう狭いあれになっていますよね。そこ一本道だからそこへ行けない。こっちへ行くと湿地帯だと、で、こっちは山だというようことで、どうしても通らなきゃならんところ、そこで日本の各連隊の兵隊がね、非常に戦死したものが多いというようなことで、「死の谷」といいましてね、わたしどもはそういう悲惨な思いをする前に、・・・・の配属で出てしまいましたからね。そこの状況はわかりませんが、やっぱり戦争、他はどうしても通らなきゃならんと、だけど弾が飛んでくる、飛行機が来る、だから犠牲が非常に多い。そんなことであとでですね、あるいは戦争中に「死の谷」と言った名前を付けただろうと思いますね。それは最前線にいる、後ろのほうですね。

Q 例えば、後方から物を運ぶために前線に行くにはそこを通らないといけないんですか。

そういうことですね。オルモックから、マナガスナス、一本の道しかないですよ。あとはさっき言った湿地と、それから、山とね。そのためにそこをどうしても通らなきゃならない、それがいわゆる死の谷という名前をあとで付けたと。
 で、戦場にそういうあれがあるです、どうしてもここを通らなければ戦線へ行けないというね。で、わたしたちは、そこの先の歩兵の57連隊の、配属になったのが、カシヤマ分廠ですね。リモン峠の近くにありますカシヤマの分廠ですね。そこの分廠を仰せつかったです。
 そういうようなことですから、もうそこは日本軍がうんと犠牲、戦死者が出たということ、前線でも一個大隊全滅、原口山なんて言っていますがね。そういうところもあるわけですね。まさに僕たちいたリモン峠も57連隊にしては、まさに「死の谷」だったとね。800 人の一個大隊がわずか80人で、それへ35人、70人の輜重兵の戦闘小隊が配属になったということね。配属といいますが、戦線に着いたということですね。しかし、着いても武器も、弾薬もほんとうに劣勢、劣ったものですね。そして、後から輸送は来ないという。そういうような状況ですからね。もう何回も言うようですが、戦場にいたものは無理な戦いを強いられた、そのために多くの人が英霊となってしまってね、そんなことを思いますね。
 「死の谷」どこかでお聞きしましたが、アメリカ、あとで聞いたこと、情報としてあれですが、音波探知機、電波探知機等をあれして、そして日本軍の行動がよくわかったというようなことを言われますね。あるいは上空から写真を撮って日本軍の動き、あるいは野営するとご飯を炊きますよね。煙が立つ、その煙でもって、ここに部隊がいるなとか、ここはどのくらいだなということも察知できるわけですね。そうすると、そのあした、そこを攻撃することができる。で、そういうような戦場でしたね。

それでも制空権をとっていればいいですよ。上で飛行機が援護してくれれば、それでも何とかねばれるだけども、飛行機はレイテへ上陸してから日本の飛行機は一機でも見たことがないですね。その50日の間ですね。


Q ほんとうに陸軍は孤立無縁だったんですか。

そうね。あーあ、今考えてみればね、あといろいろ情報が入るだけでばかなことをしたものだなぁ、無茶なことをしたものだなと思いますね。僕はね、そのね、あれをね、アメリカと日本を例えてね、アメリカは鉄、弾薬ね。日本は肉体、死守しろ、使うて頑張れ。抵抗したって抵抗しようがないですよね。そして、死んでも守れという、もう大和魂、日本は。向こうは苦戦だったらもうどうしようもなかったら、手を挙げて捕虜になって、そして、帰ってきてまたするという考え方がまったく違うですね。人権を尊重するアメリカと、大和魂で死んでもここを守れと。やっぱり、日本の軍隊教育で徹底されていますからね。一歩も下がることができないと、ここで死ぬんだ、死んで守って、そういうことが全体が情報がもうわからんですね。
だから、まぁ、情報をつかんでいるというあれが強いですよ。その情報に対抗する戦略ができますがね。「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と、やっぱり敵を知らなきゃ、情報をつかまなきゃ、それが日本軍ではもう飛行機で上から見るわけにはいかん、優先、電話、電線はみんな切られてしまう。無線機は通じないと。そうなるでしょう。それに、レイテは11月は雨期でしてね。雨。雨が降ると、もうどうしようもないというびしょ濡れですよね。持っていったカッパだけ、あとはそのまま、そのような中でもう体力も戦力も衰えて、そして、もう惨めな戦場でしたね。

迫撃砲でしたね。迫撃砲っていうのは、山がこうやって日本軍のここにあるこの山越して弾が上から飛んで来るんですね。上から飛んで来るんですよ。それで日本のほうは、ここに山があれば観測できないから、弾を撃つことはできないね。野砲にしても山砲にしても。歩兵砲、いろいろ大砲があるわけですが。持っていった大砲が威力を発揮することができない、ところがアメリカではずっとこうこっちへ砲列を敷いて、そして、そこで撃つ弾が大きいのだったら遠くから山を越しても来る。接近すれば近くでもってボーン、簡単に届く。日本軍をやっつけることができると、そういうあれですよね。で、その迫撃砲の攻撃が怖かったですね。
 それから、日本のまぁ、砲では、機関銃と小銃せいぜい向こうでもいったような迫撃砲だとか、それから、大きい迫撃砲、それから、野砲、山砲、それいろいろ大砲がありますが、すべてが威力を発揮してくるですよ。だから、僕は日本軍を戦線というのは、線を引いて守っている。向こうはそのもちろん戦線はあるけれども、今度は砲が、砲が上から山から飛んでくる。これ、立体的ね。それから、さらに飛行機は上から来るというようなことで、もう「線と立体との戦いだった」ということを、まぁ、考えますね。そう思いますね。だから、やっぱり迫、迫と言っていますが、迫撃砲は怖かったですね。で、それを観測機が一機飛んでいて、弾着、弾の落ちるところを観測するですよ。そして、今の弾はどっちこっちと言うでしょう。だからもう3発目で正確に当たってくると、こういうことですね。だれもみつからんように遮へいしている、あるいは壕を掘って深く掘って、そして、なるべく弾が炸裂しても、その死角に入っているようにというようなことで、やっていた。
 で、迫撃砲と戦争できるんですよ、こっちは。弾を撃つわけでないから。戦場心理としてね、突撃だとか、手りゅう弾、投げ合いというような状態は、もう興奮状態でしょう。で、それはもう夢中になっているからね、怖くないけども、「今度の弾が当たるか、あ、撃った」そういうね、遠くから来て手の出しようもない迫撃砲ですね。それが一番怖かったですね。手の出しようがないということです。遮へいしているか、こう掘ってやっているほかはないですね。手がないという。まぁ、火炎放射器も怖かったけど、それで前線全部というわけじゃないですからね。攻める、大事なところへ(迫撃砲)来たわけですからね。

Q そんな状況で精神的に参ってしまう人とか、いなかったですか。

あ、それはね。もう死んだほうがいいよとかね、いや、こんな苦労して何のためにというような気持のあれが出ましたね。わたしのところは35人ね、夢中になってやっていましたからね、最前線ですから。そんな余裕はなかったですがね。それは連隊の中には、もう精神的にね、もう参ってしまったという人があると。
 これは戦闘へあたってからのことですが、体の弱くてあとで分かったですが、寄生虫のためにね、もっと苦しんだですね。それが手りゅう弾抱いて自爆、いわゆる自爆というのしましたがね。それは、やっぱり病気に耐えられなくて、そして、自決といっていますが、手りゅう弾で爆死したと。で、後で見たら、そのこう、腸が飛びますよね。そこに十二指腸虫、このくらいのもうウヨウヨしているくらいなね、そういうような状況だったですが、これは一つの例、わたしが、わたしが戦闘に立ってからで見た、その後の兵隊さんの例ですがね。そんなこともありました。まぁ、中にはセブ島へ行ってからだったかなぁ、陣地を張ってそこで警備する、それに耐えられなくて、もうどこかへ行っちゃったですね。行方不明になっちゃったです。で、ゲリラは、やはり、少数で抵抗がないと思えば襲撃するんですね。大勢で行くと逃げちまうけども、で、そんなようなのが一人ちょっと聞きましたね。いわゆる行方不明。戦死でなくて、逃亡、手を上げて降参だと言って、半旗を掲げて行った、逃亡ではないと思うんですが、そういうあれもありました。
 だから、やっぱり戦場の心理というものはね、考えられんですね。戦闘していると気違い状態になると。今言ったように、早く楽になりたいよといえば自決する。とても苦しくてこんなとこにいられない。どこか向こうへ行けば楽なところがあるかなと思えば戦線を離脱する人もままあったということですね。直接僕の部下がそうだったということはないですよ。そういうことが同じ戦線の中であったということですね。

向こうにすればニワトリにしても豚にしても水牛にしても、ヤシの実にしてももっと大事で、それで生きているわけでしょう。それを日本軍が「そこの物で生きろ」と言われれば、それを「何とかしてやれ、食べ物がないからそれを」といえば、それはフィリピン人だって、もう日本軍に対しては、好意を持てないわけですよね。日本軍は食べ物を持って行っちゃたとか、家畜を殺して食べちゃったとかですね。そういうこと。で、現地物資で生きろなんていうことは上の人の言うことであって、依存する能力がない、ことができないからそこの物で生きろと。そういうことでしょうね。特にレイテは、レイテで生き残って米軍を引きつけている、で、マニラを落とさないようにですね。で、マニラ、その付近にいた人はマニラで残れば日本へ上陸する米軍もかなり少なくなると。1日でも延ばせと、そうだから先に行ったものは、南のほうに遠くのものは、みんな犠牲団ですよ。

ヤシ、こうありますね。葉のある。この根っこをやっぱり切るとヤシダケといって、ヤシの竹の子、それも柔らかくて食べられるですね。それをみんなで切って食べる。ところがヤシやバナナはフィリピン人にとっては、もう財産ですよね。ヤシの実だとか、何年もかかってそうして育てて、そのヤシを切り倒される、バナナを切られる。だから友軍に対してうんと反感を持つわけですね。「日本人はこういうことをする」というですね。

やっぱりフィリピン人、われわれ土民、土民と言っています、利口ですよ。勝っている方へ行けば、物がもらえるし、優遇される。負けている方は、むしろ、自分たちの大事な家畜やら、農作物やら、そういうものを日本人が「現地物質で生きろ」というから、それを取って食べて生きなきゃならん。だからまったく、こっちはプラスになる、こっちはマイナスになるということですからね。こちらので、もう苦しめられたゲリラになるんだと。そうすると、まぁ、反政府、今の中東の反政府じゃないけど、日本に対してもう反逆、アメリカについて忠誠を誓って、そして弾も運び、物も運び、道案内もすると。土民よく知っていますからね。だから、いよいよこっちの戦力は上がる。日本の戦力はいよいよ低下すると。そういうことですよ。だから戦場で土民が協力せんか、せんかとか、敵になるか味方になるかということは、うんとあれですね、戦争に影響しますよね。

初めはね、後方からね、もろこしを1人1本とか、そのうちに、もろこし半分を2人で1本とか、そのうち1本3人でというふうな、細々と輸送があったですね、食べ物が。ところが、それが最前線へ来ると、もうほとんど取られているんですね。だから、「何か食わなきゃならん、何か入れなきゃならん」というようなことで、若い木の芽を取って洗ってしゃぶるとか。それから、草の根は、根を洗ってというようなこと、そんなことで生きていたし、僕は、こんな例がありましたよ。タバコ吸わんから給与になったタバコを兵隊さんにやったと。そしたら、兵隊さんがそれを、「これ」ってくれたのが、モミ、玄米になる前のあれあるでしょう、トゲだけ取ったモミね。あれをもらったですよ。それから、それを口の中へ入れた。喉を通りませんよ。だけれども、噛(か)んで噛んでなんぼでも噛んで噛んでって、そして飲み込んだと。そんなこともありました。もう、このくらいのモミを喉を通したという、食べたというより喉を通したということですね。

口の中へ入れて、もう自然に喉を通ってね、そして、消えてしまうくらい噛んだですね。玄米ならまだわかりますよね。それで、玄米じゃ敵情許せば炊いて食べることもできるけども、モミだからね、モミも、あの殻の付いているものでしょう。あれ、時間をかけてまぁちっと入れちゃ、それで食べたというね、喉を通るという、そういう感触はあったですね。それがために生きの、体力を、そういうものじゃないですね。食べたという、喉を通したという、そんなだけでしたね。

Q どんな味がしました。

うーん、味の何もない。何もないですね。生のほんとう生のね、あれを穀物を噛んでいるみたいで。

Q そのとき、どういう気持で。

何もないときは、こんなものも食べなきゃなぁ、「あぁ、これが少しでも体力になってくれれればなぁ」体力になりっこないですよ、モミはね。そんな、そんなしました。よく食べ物のことで、ほら、トカゲでも、カエルでも何でも食ったなんていう、そういう話を聞きますがね、レイテのリモン戦線なんていうのは、弾の撃ち合いや機銃掃射でバンバンバンバンやっているから、生き物はいんですよ。食べるところじゃない。とっ捕まえて食べるなんていうそんな話じゃなかったですね、その間はね。

戦争がある程度静かなときにね、「おい、白菜の新香でなぁ、白い飯を食って死にてぇなぁー」と、そういうことを話すです。食べ物というのはね、戦線でもよく話が出るんですね。そのときに白菜のお新香を、そして、白い飯、もう一回食って死にたいなぁというあれが出るんですね。実はね、暮れになったばっかりの時にね、12月初めにレイテ島の仲間がね、樽(たる)へ白菜を漬けてくれたですよ。漬けておいたのを持ってきてくれた。そしたらね、思い出しましてね、うんとうまく上手に漬けるその友達ですがね、そうだ、あの戦友がなぁ、こう言って死んだなぁ、で、あの一番先にそれを洗って、そして、あれ、あすこへあげました。あすこにね、レイテの遺品がありますがね。「おい、白菜のお新香だぞ」と、「食いてぇなぁ、食いてぇなぁ」って言ったなぁっていって、そういうことを思い出しましたがね。やっぱり食べ物については、そのくらい切なかった、物がなかった。

そのころもうよく食べなんで生きていたなぁとね。
Q その4日も5日も絶食すると、どんな状態になるんですか。

意識もうろうとしてきますね。そうするとフラフラになってくるですね。自分のほんとう、こういうふうにこうやってみたけど、重くて、重くてこっちこうやるだけでね。拳銃でこうやっても、震えてしまうとか。このくらいの段はもうはって、今の僕と同じですね。立ったままこうやって登ることはできない。這って手をついて、そして足を上げてというようなね、そのくらい体力が減退しますね。でも、敵が来れば弾を持ったり手りゅう弾投げ合ったりしなきゃならん。しなきゃ殺されちまうですね。そういう戦争って悲惨なものだ。

12月の6日にはまたすごい襲撃を受けましてね、手りゅう弾投げ、弾の撃ち合いで、そして傷ついたあれを幾人かを後方へ下げましたよ。俺は「ここを死守しろと言われたんだから、ここを俺は下がれない」と、「怪我した人は、後ろへ行って治療を受けて、また直ぐ帰って来い」と。そういって幾人かを下げましたが、結局、それは下がっただけで帰って来ないと。ということは、もう後方へ敵が回っているし、ゲリラがいる。で、先べんへ立ってやられている。だから、下がったきりでね。
 そのときに時計とそれから印鑑を持ってね、もし、帰ったら俺は・・・レイテで戦死したからと言って、「もし、帰ったらこれを届けてくれ」って、「俺の遺品だから」と言って渡したですね。ところが、その人たちも帰っていないと。野戦病院に行きながら後ろの正規軍にやられたか、ゲリラにやられたか、あるいは野戦病院に入ってからやられたか、その辺はわからないです。帰って来ないとね。
 死守ということは「死んでも守れ」というか、他の人はみんな帰しても、小隊長の自分は、「最後までここで、俺はここで死ぬんだ」と。「ここで死ぬんだ」と、その気持で最後までへばりついたですね。という12月の10日か転進命令で、そこから下がってこいという命令があったから、だから命令によって下がると。死守しろと言えば「死んでも守れ」ということですからね。うーん、まったく別れる時には「無事に帰れよ」と、「俺はここで死ぬよ」と、「お前たちは帰って治療受けて、もし、元気になったらまた来いよ」と、そう言って別れたんですね。今、考えても悲惨なものだね。

Q 死守命令の中で、あえて、その部下を後方に下げるというのは、どんな思いがあって。

やっぱりね、部下は俺の命令なら下がってもいいと、俺は小隊長だからね。小隊長は、小隊長の命令で野戦病院へ、あるいは後方へ行った。そうでなくて下がれば戦線離脱ですよね。これは陸軍刑法に引っ掛かると。だから、「俺の責任において下がるんだ、俺が下がれと、その代わり元気になったら直ぐ帰って来い」俺はここで最後で一人になっても行くから。そういう気持ですよね。ところが、それが無事に野戦病院へ行ったり、後方へ行って治療を受けているそういうふうな戦況じゃすでになかったですね。だから、「下がった時がもう別れだ」と。「お別れだ」と。こういうことを思った。だから「もし、生きて、もし生きて帰ったら遺品に、俺の遺品だからこれを届けてくれ」と、そう言って渡したですね。「俺はここで死ぬんだ。」俺は最後まで指揮官がここを下がることは戦場離脱だった、退却だと。これはできないと。そうして、幾人か、7、8人だったと思うがね、下げました。1日じゃないけどね。悲壮な思いですよ、ね。それが結局、生死の境目になっちゃったからね。
 そして、不思議と僕と全然傷を受けないあの上等兵の、それが2人にそこで最後まで残ったですね。そしたら、12月10日だったかな、「連隊本部へ下がって来い」というね。それで2人で下がってきた。そのときにもしや、もしや下げた下士官兵がいるかなと思ったけども、一人もいなかったということ。言い換えれば米軍、正規軍が後ろへ回っていたんだから、それにやられたか、あるいはゲリラにやられたかどっちかだなと。それでも、西海岸へ集まって来るかなと思ったけれども、最後まで一緒になれなかったですね。その35人のうち戦死した者、確認した者以外ね。下げた者。

Q 小石澤さんは、死を覚悟していて、でも、結果的に亡くなったのは、その守りたかった部下たちだった。

そう。はい。

Q そのそういうことに対する気持って、どんな感じなんですか。

まったくね、それは運だろうなぁ、戦線に残った2人が生きて帰った。下げた者が亡くなったというね、こんなことがあるかなと思いますね。で、それだけ戦線はもう、米軍はここに日本軍が守っていると、守れば、5人でも10人でも、2人でも回っていったですね。その回っていったのにぶつかっちゃったと思うんですね。だから、かえって「いっしょにあすこで死ぬを覚悟してやったほうがよかったかのかな、俺の誤りだったかなぁ」と思う。だけど、そのときは、まさか後方がそんなになっているとは思わんですよね。だから、下げた、その代わり直ぐ帰ってこい、もし、生きて帰る人があったら、これを遺品に、俺の遺品だということで、そういうあれして別れたんですからね。

セブへ行くことが決まったのは、僕は、その船に乗る16日やった。1月の16日の夜でした。連隊長が、「小石澤、連隊本部に欠員が出たからお前乗れ」と言って、先の一人ずっといっしょにいた無傷の兵隊といっしょに乗ったですよね。75人しか乗せないような船に、それは4隻が船団を組んで向こうへ渡るね。そういう中へ乗るという直前ですわ。で、それに乗ったからセブへ無事に着いて生きて帰ったということですね。で、その後、レイテの西海岸付近に集まった者は、約2千いくらかありますが、それが、そこで玉砕しています。糧まつもないし、もう狭いところへ集まったですから、もう機銃掃射や砲撃、艦砲射撃ですね。

とにかくそこにあったセブ島にいた船舶工兵の船、レイテに近い、ここにいた7隻の船かな、それをフルに使ったけれども、4次か5次ぐらいでもう、この船が全部やられてしまったですね。だから、2千何百のものがレイテの西海岸に残ってしまった。全部移送するべくとね、第1師団、他に何個師団かあったけれども、この司令官の命令で「第一師団が一番苦労しているから、第一師団から移送しろ」ということね。で、それもやっぱり制海権を取られているから、夕方暗くなるごとにそーっと来て、そして、こっちにかがり火を炊いて、この下に友軍が待っているよという知らせをするですね。それが乗っかって隠密裡に向こうの島に転進というね。こうしていく。
それを何回もやろうとしたけれども、第4次ぐらいだったと思うんですね。船がもう察知されるんですよ、米軍にね。と、米軍の魚雷艇という船で機関砲ぐらい大きい砲を持っているのが、その船を沈めにかかる。それから、隠して海岸端へ置いても、陸の木の下へ置くようなわけ、船だからいかんでしょう。やっぱり木の混んでいるようなところ、海岸線に置くと。でも、上から見つけられて、そして、それを攻撃される。それを何回か修理に修理を重ねて、やっと4次ぐらいだったですかね。
最後1月の20日、近所だったと思いますが、それで船がもう何もなくなっちゃったと、だからこっちの人を残してしまったというかね。だから、その人はそこでみじめな思いをしたと思うですよ。狭いところで食うものはないし、それから、飛行機で機銃掃射、艦砲射撃でね。それがその人たちが玉砕だという。それは名簿でしか調べられないですよ。だから昭和20年の7月1日付けで公報の入った人たちは、恐らくそこへ残った人だろうと。
 僕たちは1月の下旬近くですね、セブ島へたどり着いたという。船が大きければもっと運べたと思うしね、それから、せめて、そこを守ってくれる海軍がいれば、もっと2千でも3千でも、輸送できたと思う。そのころは、まだ、セブ島には敵場がなくて、米軍は上がって来なかったです。で、天山(陣地)といってその要塞を作っておって、守っていたわけですね。海軍の・・・だったかな。それで、玉師団輜重隊ですから、今度輸送、輸送だから上がったところはセブまでいって、弾薬や糧まつや衣服、それを運んで、そして向こうにいる人に配ったというかね。
 その大発船へ、大発艇へ乗っかったことも一つの運命。向こうへ届くセブへ届く前に魚雷艇にやられて沈められれば、その晩でお終いと。幸いでもこう上陸したというね、そんなことが生きて帰った一つのあれですよね。傷を受けたこと、病気、アミーバ赤痢になった、マラリアになった、そういうものも克服したのも一つの運命ですね。そんなことをね。

あのね、あんなに大勢のね、僕の仲間だって35人のうち2人残っただけでも33人ね、は、もうリモン戦線か、あるいは後方か、定かでないものもあるけれども、やっぱり戦死したその人たちを思うとね、俺は生きて帰った。だからね、戦争が終わった21年の3月、一番先にお墓へ行きましたね。戦友のところへ。そしてね「俺は生きて帰って申し訳ないと、割腹して自決してね、戦友にお詫びしようかな」という気持があったですよ。
 だけど、「待てよと、大勢死んでいるんだから、その死んでいる人の分までやらなきゃいかんぞと、それではここで自決して死んでいちゃダメだ」と、そう思ってね、寝れない日があったですね。悩んだ、ほんとうに悩んだ。だから、戦争のことをそこで昨日、一昨日あった戦争のことをこういって吹聴してという、そういう気持には全然なれなかった。

しかし、2回の負傷もしたし、栄養失調にもなったし、それから、セブ島へ渡る時にも「連隊本部で欠員が出たから、小石澤少尉乗れ」といって乗った。乗った時に、その晩のうちに沈んでしまったということも考えられた。しかし、無事にセブ島へ届いた。そういう中をこう経てきてね、そして、俺は今、復員したんだと。だから、「恥ずかしながら命永らえてでなくて、亡くなったものの分まで何とか、何とかやらなきゃならんな」と。そういう気持で、こう「心を奮い立たせて、そして、自分ながら自分の道を一生懸命やってきた」と。こんな反省ですよね。

いいですか、これあのね、将校だから刀をこれ吊りますがね。そして、刀帯のここに付けて、肩付けが。これがね、レイテから持ち帰った、ただ一つの僕の装具ですね。胴体刀吊らせてね、これだけ隠してそっと持ってきましたがね。あとはもうみんな取り上げられたり、焼かれたり。それから、この辺がさきほど、ちょっと話しましたがね。35回忌にレイテへの遺骨拾集に行った時のね、遺品ですが、万年筆とか、これは三八式歩兵銃の弾ですよね。これを、これはボタン、これがレイテのあれです、石。

Q これは何なんですか。

あのね、これは兵器、これ万年筆、だれかの万年筆ですよね。これは軍服のボタン。これは三八式砲兵銃の弾、で、これが撃ち終わった薬きょうですね。これ弾を装填するはずですが、それがこれがリモン戦線、カツヤマ分廠あたりの戦線の砂ですよね。それから、これ西海岸、セブ島へ渡ったところの海岸の石ですね。こんなのを少しず、これはあれですが遺族の方に、先輩で戦死した人もいますから、そこへお届けしたことがありますね。これやっぱり最近話をした、白菜のお新香、白菜、あれをあげましたよ、あすこへね。

 で、それもこれもあとで考えると、やっぱり運命だったなと、運命さ。その代わり帰って来たんだから、俺が仲間の分までやらなきゃいかん。教職にありましたからね、そういう気持で、毎日毎日を、あれしました。そして、そのことをわかっている遺族には会ってね、お線香上げさせてもらった、こういう状況だった。「立派に戦死しました」と伝えたけれども、胸切ないですよ。11月23日、12月の6日に2回に渡って負傷したけれども、負傷したけれども、俺は生きていたんだと。仲間は大勢死んだんだと。そのことを思うとね、死んだ遺族、死んだ兵隊さん、遺族に申し訳ないなと、そういう気持でね、レイテのフィリピンのことを話す気持になれなかったですね。それを秘めていた、胸に秘めていた。言わなかった。でも、60年経って、戦後60年経って戦争の悲惨さを伝えなきゃという空気がこう出ましたよね。それで、アサガワ先生に誘われたから初めて話しました。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ
昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
山梨県山梨市にて生まれる。
1942年
現役兵として輜重兵第1連隊に入隊。満州に駐留。
1944年
レイテ決戦当時、23歳、少尉。
1945年
セブ島で終戦を迎える。復員後は故郷山梨県で中学校の教員などを務める。

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フィリピン(レイテ島)

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