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タイトル 「皇居内に据え付けた大砲」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~
氏名 尾立 厚士さん(近衛師団 戦地 日本(東京)  収録年月日 2010年2月3日

チャプター

[1] チャプター1 あこがれの近衞兵  04:22
[2] チャプター2 厳しい立哨訓練  06:35
[3] チャプター3 本土決戦にむけて  04:00
[4] チャプター4 昭和20年8月14日深夜  05:51
[5] チャプター5 宮城に大砲を据える  05:24
[6] チャプター6 8月15日正午  01:55
[7] チャプター7 師団命令は偽物だった  06:44

提供写真

再生テキスト

あのう6師団で教育するときも、教官あたりが言っていました。「そら昔はかっこいい兵隊が近衞兵だったんじゃけど、今かっこだけで行かれんだ。本土決戦を控えての、宮城を守るのと帝都防衛の責任があるから、何でもかんでも強うなけりゃだめだ。強兵、前は健兵ちゅうたけど、今度の近衞兵は強兵でなけりゃだめだ」ってことをシャンといわれました。それで君たちは6師団じゃから、6師団は日本で一番強いことになっちょんだろうし、支那の蒋介石が「一番強いのは6師団で、そん次強いのが日本の兵隊だ」っち言うぐらいに、6師団なら、ちっと荒っぽいけど強いんじゃということを、わたしたち教え込まれ、たたき込まれました。

Q:尾立さん自身が自分が近衞兵、あのあこがれの近衞兵の候補者になっていると聞いたときは、どう思ったんですか。

そりゃあうれしかったし、そりゃもう頑張って、何としてでもそりゃ、近衞兵の要員、今度向こうに行くの近歩要員ち言うとですけど、要員になって頑張らなと、そら思いました。ほして頑張りました。

Q:そりゃ、正式に、近衞兵になるために決意したっていうことですか。

ええ、そりゃもうあのう、入隊したいからもうその気持ちで頑張ったし、ええ。

そりゃもう絶対にしませんでした。そりゃもう8か月先に、家族の面会の許可があって、そんときにもう家族には言うていいと、それはいわれました。今までは絶対秘密やったんやけど、家族に言ってもいいから、ちゅうことは言われて、初めてそのときに両親に言いました。

そらもう、「近衞兵に行けるか」っちゅうようなことで、両親、おやじさんも本当涙出して男泣き泣いて喜んでくれました。面会に来ていいちゅうなやから、「こら、支那に渡んのやろか。フィリピンに渡んのやろうか。ニューギニアやろうか」と思うてやっぱ想像して来ちょると思います。どのうち戦地に渡るのやから、面会に来ていいちゅのじゃろうと思うて来たと思うのです。それが、戦地じゃのうて内地で、しかも東京で近衞兵に行けときたもんだから、そらもう本当、お母さんなんか本当声が出なかったです。ああ、喜んで。

Q:それを見て尾立さんどう思った?

そらもう、うれしかったです。まあ、これで、何とか親孝行できたと思うて。ええ、そしておまけ、あのう東京でも空襲が激しいことは知っちょる、聞いていますけど、外地に、フィリピンとかニューギニアに行くより、そりゃ第一、命の助かる面も少しはよかろうから親が喜ぶはずだ。まあ、親孝行もできたとも思う、思うておる親を喜ばせることできたと思うて、わたしもうれしかったです。

昔はもうかっこいい、二重橋のそのあれに立つとか、歩哨にこう立つとか、かっこいい兵隊。それからあの、儀仗(ぎじょう)ちゅうかな、あのう外国の人あたりが、偉い人が来たときなんかの儀仗兵として出る、そんなんがあの近衞兵の仕事じゃった。任務じゃったわけ。それにもってきて、もういよいよ本土決戦で戦争はひどうなるし、ただじっとかっこいいだけじゃ役に立たんちゅうわけだ。何でもかんでも強うないと役に立たんから、今度は強い者だけをなんするちゅ。それまでは、大分県から10名ぐらいのこっちゃない、もっと行きよったんですよ。20名も30名も行きよったんで。ほして、それがわしたちのときに限って10名しか行けんじゃったわけです、2連隊には。

Q:戦局が悪化して、いよいよ本土決戦も視野に入れなきゃいかんと。そういうときに、やっぱ宮城を守る近衞兵も戦闘要員としてっていうことなんですか。

ええ、そう、そうじゃと思います。もう一番身近い兵隊なんですから。まあヒトラーの親衛隊とか、ムッソリーニの護衛隊とか、それと同じように日本では、近衞兵は一番の、おそば近くお守りする兵隊っちゅことで、そらもう厳しく教育されました。

わたしたち入ったときは初年兵ですから、初年兵は、もう古い兵隊からちゃんと鍛えられました。けどまあおかげで、あんまり私的制裁っちゅことは・・私的制裁の排除っちゅことはもう言われておりましたんで、ビンタなんかは割と、共同ビンタとかいうくらいで、あんまり叩かれんじゃったです。ところが、そういう制裁は、キタグチの下士官候補生の教導部隊では、ほうらもう、朝から晩までたたかれどおしちいうぐらいにやっぱたたかれて。早く下士官になる者は、軍人精神をたたき込まにゃつとまらんちゅうて、しゃんとたたかれました。そらもうビンタ、ビンタで、それも往復ビンタで、それはもう、目から火が出るちゃ、本当つくづくと感じました。線香花火、ピッピ、火の出んのがありましょうが。あんなの目からこう火が出るような目、もうしょっちゅうあっていて、そんぐらいやっぱ鍛え込まれたんです。

それは特に下士官になるためには、こんぐれえ軍人精神を高めな、昔の兵は皆こげんしてたたき込まれたんじゃちゅうて恩に着せて、やっぱたたき込まれるっていう。

Q:近衞兵要員ならではの訓練っていうのは何かあったんですか。

ええ、その特別っちゅことはないけど、近衞兵なってから、歩哨に立つのに、目を動かしちゃ悪いんだ、ジーッと真っすぐ向こうむいて立っとらならんのや。そして不働の姿勢を1時間しきらな、近衞兵になれんのやっちゅようなことを、まあ半分は冗談かもしれんけど、教官あたりがいうて、それは不働の姿勢あたりをさせらることあったです。けど1時間もしちょってから、そら、ぶっ倒れる人があると。そら2時間ぐれえ不働の姿勢で立っとりゃんな、近衞兵にはなれんのやなの、そんなこと冗談、半分ぐらい冗談だったかもしれませんけど、言れて。不動の姿勢とか、目をキョロキョロさせたらにらまれるとか、いろいろ、そういうことは、一つのほかの兵隊と違った教育じゃなかったかと思います。

もうすべてが天皇様のひざ元じゃ、しっかりせないかんち。強い兵隊になってお守りせないかんちゅうことの一途じゃった。

もう何ちゅうても、おひざ元でお守りするのやから、そら第一礼儀正しくして、あのぴしゃっとお守りせねばちゅうことで、ええ。何ちゅうても二重橋、鉄橋あたりの立つ歩哨、下からまともに見えるところですから、ほいだからそういうためには訓練。精神力が強なけりゃちゅうことで、そらまあ、訓練ちゅよりも鍛錬されました。

何としても、全国の諸兵の模範児ならなならんのやから、そら外出したとこ、そらあ気をつけんとちゅこともいわれましたけど、外出もあまりできんどこじゃったです。なんせ空襲、空襲で、ひとつものんきに外出なんか、わたしたちが行ってからはもうできんやったです。

7月10日にわたしたちは富士山に行ったわけです。それからもう、戦争・・どことなく、全然外とは通じていないわけなんです。新聞もなけりゃ何もねえ。ただもう毎日毎日、ビンタビンタで、1か月間大砲の実弾砲撃の訓練ばっかりじゃったですから。その間はわけが、どうしようこうしようちゅことは全然もう、全体は、わたしたちには耳に入らなかったです。

Q:具体的に、本土決戦の訓練っていうのは特別したんですか。

うん、それはもう、大砲を撃つだけじゃない。敵の戦車が来たら、爆弾の抱えてキャタピラの中に飛び込むのじゃちゅう、そういう訓練も何回もしました。

Q:それどういう訓練ですか。細かく教えてもらえますか。

うん、そりゃもう、ただ大砲撃ちよったって、こう敵がどんどんして来たときにゃ、手りゅう弾でも何でもいい、爆弾ならなおいいんじゃけど、この隠れておって戦車が来たらそのキャタピラの中に飛び込むのやちゅうような、そんな訓練はさせられたです。

それはもう命なんかっちゅうことは、そんときには、わたしたちには問題じゃなかったです。何としてお国のためになるか、兵隊として国を守るための役に立つかというのを、それだけしか考えられないし、考えてなかったです。

爆弾当たりそうなそういう、現物の爆弾はなかったけど、もう、戦車来たときにゃ物陰へ隠れておって、戦車が来るのを待っちょって、パアッと飛び出て、戦車、爆弾の持って飛び込みゃ戦車を爆破するっていうような、まあそういう教育ちゅうか、訓練ちゅうか、そんなことをやっぱしておりました。

わたしが8月10日まで富士山におったんです、北富士ショウジャ。で、下士官候補者の教導隊というおったんです。10日の日に、師団命令で「ただちに帰隊せよ」ということで、もう大砲も馬も富士山にほっぽらかして強行軍でどんどん。汽車も不通だったんです。帰りよったら、中途から「甲府へ行けよ、すうきして当分行ってから、汽車に乗れ」ということで、それで汽車に乗って真夜中に東京駅へ着いて。そしてその翌日から3日ほど、そやから11、12、13日、この3日ぐらいは飯田橋に行ってみたり、皇居の中に行ったり、それからどこか、分散壕っていって中隊が分散してある壕のところに行ったら、なんじゃろうかと思うごて、あちこちあちこち、わけわからんぞく走り回ったのを覚えてる。

そして14日の朝、命令が出たわけです。命令というか連隊長の命令で「今夕8時、完全軍装で兵庭に集合せよ。私物は、典範例とか教範例、それから私物は一切もう焼却しろ」と、まあ命令が出たわけなんです。それでまあ結局、「今夕8時営庭に集合して出動する」っていう、出動命令なんだと。それでもう炊事から飯が上がってくる。それからお米やら味噌やら、いろいろ食料やら缶詰やらがみんなあがって、それを飯は握り飯にして、翌日も夏ですから、翌日ももつごて焼き飯にしたり、それから味噌あたりも焼き味噌にしたりして、米はあの靴下に入れて、それから背嚢(はいのう)っていう背中にかつぐ、あの中にみんな入れ込むわけ。弁当から米から、そういうような食料品。そして飯ごうには飯を握り飯に、余計飯が出たから飯ごういっぱいに飯をつめて、こっちにはおかずまで入れて、もうどこでも行かれる、まあ出動の準備ができたわけで。そして8時に営庭に集合して、軍装検査があって、これから、今からまあ、ですから軍装検査でも1時間から2時間かかりましたから。「今から出動する。あとはもう大隊長の命令を待て」っちゅうようなことやった。連隊、そういう連隊の命令やった。大隊長っていうのは、第2大隊の大隊長っていうのは、イグモ(?)なんかどっか書いてあったけど、ちゅう大隊長で、中隊長がユアサっていう中尉の人やったです。だからその人の命令でわたしたちは営待で武装、もう完全武装をしたまま待機したわけで、待機しちょっとたわけ。そしてまあそのときに時間が長くかかったんだ。
それで真夜中になって、11時やったか12時になってたかわからんけど、大砲を引いて正門を出て、乾門から皇居の中に入ったわけ。それで皇居に入って、二重橋を渡ったところに正門衛兵所っていうのがあるわけ。そこに着いて、そしてわしたちの中隊は、その二重橋の向かって右手、宮城から言えば左手、左を左哨脇という、そこへずっと土手があったわけです。そこに砲を引き上げて、土手に引き上げて東京駅前の皇居前広場の方向に、砲を向けてまあ待機しとったわけ。

Q:あれですかね、そもそもその14日の午前中に、「今日その20時、夜8時に完全軍装で宮城へ集合だ」と、「営庭に集合だ」と。

ええ、兵庭に集合だと、完全軍装で。

Q:それ聞いた時は最初どう思ったんですか。

はい、それはもう、いよいよ向こうが敵前上陸してくんのやろか。空襲はもう統制きいて、もう焼け野原やからな。もう今度は沖縄にアメリカが上陸しておって、今度は本土上陸で我々が出動するのやから、東京湾に上陸するのきゃろうか、それとも房総半島、シシナナジュウナナなんていう浜地とこがあるんですな。あそこあやろうか。それともまあ、向こうが上がってきたのを宮城の中でお守りする籠城(ろうじょう)じゃろうか、なんじゃろうかていうことはもう、あんてこんで戦友同士話し合って、そして準備したわけなんです。

8時の軍装検査が済んでからですから、9時か10時頃、第3大隊はまたあの、1大隊のご守衛の援護っていうか、予備に入ったんです。そして、一番最後にわしたちの第2大隊は、イグモっていう大隊長の指揮で、わたしたちはあの、営庭を出て、正門を出て乾門から、わたしたちは大砲だったから大砲を引っぱって入ったわけです。

もうそのときにやっぱり驚いた。「これはまあどういったことやろうか、なんやろうか」「正門を出て、前出て、竹橋を渡って行くのやろうか」「うしろ行って、うしろからイギリスの大使館のほうから出るんじゃろうか」と思うたら、前の中隊がみんな宮城の中に入ったから、「あ、これは我々も大砲を入れてくないのよ、どういったことやろうか」と、それは思いました。けどそれは命令やから、こっちは一つもわからんずくに、ええ。

皇居のある、明治宮殿のある、わたしたちがご守衛しよる宮城というところに大砲から弾薬を持ちこんだのは、それは初めてです。

なにがなんかわからんずく。「ああ、どういったこっちゃろうか。ほんならいよいよこれは、ほんなら敵が攻めてくるんだで、皇居をお守りするのじゃろうか」ともいうだり、これもう、「戦争に負くる後、暴動が起こって、皇居、民間の暴動が起こって、それを守るために我々は大砲を持ち込むのやろうか、なんやろうか」というようなことは想像しましたけれど。それも終戦になるっていうことはとうとうわからんずくに、玉音放送でそのときホゴに終戦ということを知ったわけだ。

Q:で、あれですか、具体的にはどうしたんですか。どういうことをしたんですか、そこで。大隊砲を宮城内に入れて……

入れて向こうのほうに向けて、まあ、待機です。いつでも命令があれば弾をこめて撃てるように。弾はとうとうこめんどくって。弾をこめて、それであの発射の何があるのやけど、そのことはせんずく。それから、目標あたりもとうとう言わんずく。ただここで待機しろということで、ほぼ広場に向けて据えただけだったです。そしてあとは待機しちょったわけだから。

Q:それはでも宮城前広場に向けて狙いは定めたんですか。

ええ、それはもう広場の方向に向けたのは、わたしたちもわかっちょるけど、目標がなんだとかいうようなことはとうとう命令は得られなかった。

Q:でもその宮城前広場に向けたっていうのは命令だったわけですか。

それはもう命令によってわたしは行動して、そこまで砲をひいていて、そしてこっちの岸からこっち向けて、あの、砲を据えたのは覚えています。

Q:そうしたら、でもなんだったんでしょうかね、どういう作戦っていうか、やるつもりだったんですかね。

そういうことはひとつも分からないし、それは小隊長も班長も、おそらく中隊長も、要はまだ知らんじゃったんじゃないのかと思います、後から思うのに。

宮城前あたりに、敵がその、アメリカ軍かそれとも、あの内戦、日本軍か、それはわかりませんわな。けど、なんでも宮城を攻めてくるものがあれば、それを防ぐ。宮城を守るために、防ぐために砲は据えたんだよとこっちも思っとる。

もう、それはもう、「敵前上陸してくるんじゃなければいいが、何としても、アメリカが来て、ちょっと暴動が起きてきても、何としても宮城は我々が守らなならんから」という、その気持ちでいっぱいやったです。

Q:なんかそれからなんか動きはあるんですか。ずっと待機していて。

待機しちょっただけです。小銃の中隊あたりは皇宮警察を武装解除したり、宮内庁の中を一面探しまわったり、それから各宮城の御門あたりの警備あたりに回ったり、まあいろいろ行動はしたでしょうけど、わたしたちにはひとつもわからん、わたしたちだけは砲のそばで待機しちょっただけなんで。

12時に、玉音放送があるから、左哨脇という堤防におったんが、左手の端に坂下門があるわけです。そこに集れっちゅうこって、砲は置いたまんま、皆そこに集っち。そして坂下門の皇宮警察の詰所のラジオを聞いた。詰所のラジオを大きくして、わざわざ詰所に行かんずく、その堤防の上で聞いた。

Q:それ玉音放送はわかりましたか。

いや、その内容はわからんじゃったの。わからんじゃったから、ますます何のことかわからんずく。じゃけど、何じゃか戦争に負けたんじゃろうちゅうようなことは、もうそれとなくわかってきた。

終戦ちゅうの、もうこれは戦争は負けたんじゃっちゅうことは、あの放送の後、何となくそういう気はしました。うん。しましたけど、いよいよ負けたっていうことも、どういうこっちゃ、いまの放送は何と言ったんかちゅうことも、中隊長からのお話でようやくわかった。

Q:それがわかったときは、どう、どういうお気持ちでしたか。

それはもう何としても、もう負け、負けたちゅうことは残念至極じゃ。もうあのころの兵隊として、軍人として、特に近衞兵として、あんた戦争に負けてまあ、たまったもんじゃないちゅうことで、もうほんとそれはもう泣きました。うん。それはもうあんときはやっぱり、泣かん兵隊は恐らくなかったろうとわたしは思います。

Q:その命令が偽であるっていうのは気づいたのはいつなんですか。

ええ、それは気づいたのはもう、結局もう偽命令だったっちゅうのは、結局宮城から引きあげて、15日の午後3時、2時か3時くらいじゃなかったのかと思うんです。ずっと砲を引いて坂下門から出て、お堀沿いに行って竹橋を渡って、そして連隊に、田安門をあがって連隊に帰って、ミキカンに中隊に帰って。ええ、中隊の兵舎の中で、内務班で中隊集合で、中隊に伝令が配られて、中隊長から昨夜来の状況を説明するっていうて、話してくれて初めて。

Q:尾立さんは、その、宮城内にね、初めて大隊砲入れたのが、クーデターだと。偽の命令によってだって知ったときはどう思いましたか。

ええ、大変なことをしたと思いました。たとえ、偽命令にせよ、あれだけこっちが大事にお守りしていた宮城を、まあ侵犯したんですから。ほじゃから、これはまあ大罪じゃ、大変な大きい罪を犯したと思いました。

たとえ偽命令であっても、ほりゃなんとしても、ほんとこれは大変な罪を犯したと、そりゃもう強く感じました。

そんときはできなかったことは、ほんと申しわけないと思っております。思うけども、何とも命令ですから、わたしたちにとっては命令じゃったんですから、もう致し方がなかったわけで。

ほいじゃからもう、あのころは自決ちゅう言葉が大変・・わたしたちがほんと死んで、皆死んで、こりゃもう、いつ死んでお詫できるのじゃろうかと思うような気持ちでいっぱいでした。あのころ。

もうそれ以外にないという気持ちで。ほいで、中隊長も「みんな早まったことをするな、中隊長に命を預けてくれ」ちゅう話、ほんと言われたです。そりゃもう、中隊長も悲愴な面持ちでお話をしたには、ほんともう、もうこれは中隊長が先自決せないいがと思うような気もそんころは持ちました。

ほいからあんた、中隊長のお話があった後、今度は隊づきの将校あたりからいろいろお話があって、そしてお互い誰が言い出えたか、誰が何したか知らんけど、ほんと小銃で自決する訓練をやっぱしました。小銃、三八式歩兵銃ちゅうのは長いから、こうせなとなくせんけど、九九式歩兵銃、もうわたしたちのころは、10、15センチぐらい短い九九式ちゅう歩兵銃で、それをこう逆さに持ち、銃口をここに当てて、ほして足の親指で押しさえすれば弾が出る。自決の訓練。それの稽古をほんとしました。ああ。いまから思うたらほんと、ほんとの気持ちちゅうと、ほんと、いつでもほんと死ねる、いつでも死んでも一つも命が惜しいない気持ちだったです。もう遺書から、遺品ちゅうて、爪なんか頭の毛なんかも皆、中隊の事務室には預けてあったですから。

現にわたし、わたしたちが放送を聞いたすぐ間もなく前の広場では、将校連中が拳銃自決するのを、なんもが、何人にも見ました。中にはトラックで乗りつけて、ほいで白い幕を松の木にこう張って、集団自決も。ほいじゃから中は見えんけど、ピストルの音を聞きました。

ほんとあれはやっぱ惨めじゃった。もうそれ、それまでたいげ泣いて、もう涙もねえかと思ったのに、あっこで女学生に・・東部軍管区司令部に電話の交換手で女子学生がようけ入っちょったの。それは知っちょったんじゃ。それが、それは皆十何人か出てきて、竹橋の欄干のとこにずっと並んで、「兵隊さん、ご苦労さまでした」ちゅうて、わたしたちに声をかけて、ワアーっち泣き出したら、ほうしてまた声、その泣き声につられて、わたしたちもまた二度泣きをいたしました。ほんとまあ、あんときの悲しかったことは、ほんとまた忘れられません。

多くのそうした、戦死された多くの犠牲者の上に、いまの平和があるので、どうぞこの平和がこのまま続いてくれるように。特に皇室のためにも、絶対、この戦争なんかはしてもらいたくない。この平和が続くようにわたしたちは、ほんと祈っております。まあ生涯近衞兵の気持ちでおるちゅうのは、やっぱそういうことであると自分でも自覚しております。

出来事の背景

【昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~】

出来事の背景 写真 明治24年に創設された近衛師団は、天皇と皇居の警護に当たる部隊で、全国から優秀な兵が集められたいわばエリート兵団であった。しかし、この近衛師団は二度にわたってクーデター事件にかかわった。
昭和11年の「二・二六事件」と終戦間際の「宮城事件」である。

「二・二六事件」では、近衛師団の一将校が率いる部隊が元首相の高橋是清大蔵大臣を襲撃・暗殺した。

 「宮城事件」は、ポツダム宣言受諾決定に対し、徹底抗戦を叫ぶ陸軍の若手将校が引き起こした皇居占拠事件である。彼らは、東部軍と近衛第1師団を決起させようとし、森赳近衛第一師団長を殺害。ニセの師団命令を出し、近衛師団の部隊に皇居を占拠させる動きに出た。天皇の終戦の詔勅の放送「玉音放送」を阻止しようとしたのだ。

この部隊は、8月14日深夜から15日未明にかけて、「玉音放送」の収録に立ち会っていた下村情報局総裁などを監禁したうえで、玉音放送を収録したレコード盤を奪おうと、宮内省など皇居内の建物を捜索した。さらに、当時内幸町にあった日本放送協会も襲撃した。

この動きに対して東部軍管区の田中司令官が鎮圧に乗り出し、クーデターは失敗に終わり、15日朝には鎮圧された。8月15日正午、昭和天皇による「終戦の詔勅」の朗読の放送「玉音放送」は何事もなく行われた。

証言者プロフィール

1923年
大分県国東市国東町にて生まれる。
1938年
豊崎村尋常高等小学校卒業。
1944年
現役兵として近衞歩兵第二連隊に入隊。
1945年
宮城事件。当時22歳、上等兵。東京にて終戦を迎える。復員。復員後は農業を営む。

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