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タイトル 「サボ島沖海戦で撃沈される」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・エンガノ岬沖 ~囮(おとり)とされた空母 瑞鶴~
氏名 高井 太郎さん(空母・瑞鶴 戦地 フィリピン(エンガノ岬沖、レイテ湾)  収録年月日 2009年11月30日

チャプター

[1] チャプター1 海軍兵学校  03:49
[2] チャプター2 実戦配備  04:47
[3] チャプター3 「古鷹」沈没  02:17
[4] チャプター4 「ケ号作戦」  03:59
[5] チャプター5 空母「瑞鶴」  05:36
[6] チャプター6 マリアナ沖海戦  02:02
[7] チャプター7 レイテ沖海戦  02:06
[8] チャプター8 襲いかかる米艦載機  05:48
[9] チャプター9 総員退去  05:37
[10] チャプター10 救助  04:55
[11] チャプター11 振り返って思うこと  01:20

再生テキスト

岐阜の田舎育ちなんですけどね。大体あの当時はね、小学校の高等科、小学校6年で、あと高等科が2年というのがあった、その辺ぐらい行くのが普通だったんですね、それから行った人が師範学校行くようなことも普通だったんですが、わたしの親父は、中学校まではやってやると、あとはもう、それ以上のことは経済的にもできないと。そうするとね、やっぱり、中学校行ったらみんな専門学校、当時の専門学校ってのは、今の短大みたいな所ですけどね、それから高等学校行って大学行くってね、ちょっと親父がもうそれは経済的にはそれは無理だと言ってるから、これは選択肢としてはね、タダで行けるところ、陸軍か海軍しかないわけですよ。端的に言ったらそんなことですよね、やっぱり。

これはね、陸軍(士官学校)の方はね、身体検査がね、身長に対して胸囲がなんとかっていうのがちょっと足らなくてね、ダメだったんですよ。
      
海軍の方は、すぐそれは範囲に入っとったもんですからね、もう海軍しかなくなっちゃったんです。だから岐阜の、岐阜県という海の無い国に生まれてね、あの江田島の兵学校行って初めてね、あぁ海水はしょっぱいなってこと、頭の上では分かってるけどね、もう当時はそんなことだったんですよ。
       
あの当時はね、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」っていうのがはやる時期だったんですよ、まだ明治のね。それで、数学の先生がね、中学校1年か2年のときの数学の先生がね、幾何の先生がね、黒板中色々な数学のことを、三角形書いたりしてね、三角形の二辺の和は他の一辺よりも大である、その定理を言ってるから、一生懸命聞いてるとね、ぱっと急に何を言い出すかと思ったら、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」とこう言う。君たちはこうなんだよ、って言ってね。そういう時代だったんですよ。だからそういう雰囲気ではね、みんなが中学校よりも上の学校へ行く、俺はもう行かないというようなことで済まないようなことになっちゃうんですよ。今と大分違うんですよ。そういうことは今はね、今そういうことがあればね、もっと、変ないじめとかあんなことなかったですからね。

親父もね、士官ではなくて、下士官あがりの親父だったから、それは行け行けということは言ってたですね。そういう時代だったんです。

そうです、昭和16年の11月15日卒業でね、翌月の12月8日が開戦ですから。それでね、時局が迫ってるってことは聞いとったわけですけどね、卒業すれば少尉候補生ということでね、練習艦隊でもあるんですね、それに乗って、要するに世界中を、世界というか、平和なときは世界一周しながら各国を回ってその間に候補生としてね、海上の訓練を受けるんです。それがなくてね、いきなり実戦部隊にぼーんと配置されちゃったんですね、我々のときは、わたしのときは。それだけ時局がひっ迫しているということがあったですけどね、わたしは船の巡洋艦の「古鷹」っていうのに乗ったんですが、そのちょうど、11月15日にすぐにその、呉(広島県)におりましたから乗ったんですよ。そしたらね、その11月30日にもう、瀬戸内海を走ってどんどんどんどん下に下がり出したんですよ、それで、そしてね、母島に入ったのは12月3日だったんです。それで、一晩明けてね、艦長に呼ばれて士官全部集まって、そしたら艦長が母島を出港したときに開けという密書をね、中央から頂いてきたから開けた。その内容を話そうということで、日米、特別なことが無い限り、12月8日未明を期して戦闘状態に入ると書いてあった、だから翌晩に我々聞いたんです、その通りになったんです。そういうひっ迫した状況だったんですよ。

Q:開戦を聞かれたときはどう思いになられたんですか?

いや、もう、「は?」と思っただけですね、そのころからもう、前から厳しい状況になるっていうことは一応聞かされておったからね。だけど他の士官も初めてそういうことやったんですからね。

「古鷹」でね、第一次ソロモン海戦(昭和17年8月8日)ってのがあるんです、それはね、敵さんがね、ガダルカナルで、ご存知でしたっけ、あそこへね、大輸送船団を組んで来てね、飛行場、こちらに飛行場があったの、小さい飛行場、それを占領しちゃったんです(昭和17年8月7日、米軍ガダルカナル上陸)。そのときにね、第一発に来たときにね、古鷹、6戦隊だったんですけど新しく8艦隊が編成されてね、「鳥海」(重巡洋艦)が旗艦でもう一隻あって、6戦隊が8隻でね、昭和17年8月8日だったんです、8月8日に今のラバウルを出てね、南下して今の、敵さん来てる、ガダルカナルに行ったんです。そしたらね、相手はね、輸送船で陸へ上げてね、まぁ一服だっていうような感じでセットしてね、アンカー入れて、砲台はセットの位置にあってね、みんな寝てるんです。そこへ入っていってね、ダダダダってやっつけたですかね。100パーセント勝った戦、第一次ソロモン海戦でね。わたしは当時ね、測的士っていってね、測的指揮官のアシスタントであったもんですから、その状況も全部見てね、本当にね、こりゃ大変な勝ち戦も経験したんです。

その二月後はね、今度はね、このアメリカがこちらの飛行場を占領してね、それでこっちは陸軍もそれを奪回に行っても、どうしても奪回できんからね。それでは沖からね、船の艦砲でそこを、相手を攻撃しようといって、我々、古鷹それに行ったんです、それが2月後のね、17年の10月の10日の晩だったんです。そしたらそこにね、ばぁーっと雨が降ってね、一寸先が見えないのよ、どしゃ降りの中でね、そろそろこちらも砲撃する位置に来てるかなぁと思ってるころにね、ババババーンとね、真っ暗な闇から撃ってこられたんですよね。

それが何だったかって言ったらレーダーなんです。こちらはもうレーダーのレの字も知らないくらいのときにね、見張りもね、肉眼の訓練はよく出来てたけどね、とてもレーダーにはかなわない。そこにやられたんですよ、それで沈没した。その今度の日米の海戦でね、レーダーというのがね非常にこちらも遅れとったという、そのときなかったんだ。こちらは全然、向こうはレーダー射撃あるんですよ、先が肉眼で見ようが見まいが関係ないんです、レーダーで見えちゃうんですから、こっちは何でも見えない、そういう経験を2か月後にやったんです。一度2か月前には勝ち戦2か月後には沈められたと、こういうことです、古鷹で。だから瑞鶴(高井さんが)沈められたの2回目なんです。

それから、雪風ではガダルカナルの引き上げ、撤収作戦にね、行ったんです。これは、ガダルカナルの飛行場っていうのはこちらは落とせない、逆にどんどんどんどん、こちらやられる、それから陸兵もね、3万名くらいいっとったのが、兵糧もなくてね、もう攻撃もできなくなっちゃって、最後は引き上げようという、撤収という、決定が出て昭和18年の1月31日から一週間の間に3回往復してね、駆逐艦が20パイ行って、ブーゲンビル島というところへ引き上げたんですよね、その作戦にずっとわたし行きまして、そのときは、駆逐艦が20パイ行って、夜中に行って引き揚げないとね、暗いうちに向こうで陸で揚げて帰ってこないとね、ダメなんですね、夜中じゃないと。ところがね、これが行って、ガダルカナルに入るここまで行くのにね、明るいうちにどうしてもね、暗くなってから行ったんじゃここ届かないからね、ここのところでね、敵の飛行機がここに来るんですよ。こんときバンバンバーンと来るんです。その2回、2回ね、入るときと出るときにやられるんです。

それで駆逐艦っていうのはね、舵がよく利くんです、くるくるくるくる、これも細いもんですからね、爆弾を落とされても怖くないんです、ひとつも。それで艦長のそれこそ、それをね、回避する技量でね、もうこの上からの爆撃っていうのはね、もう悠々としてるんですね。それで、飛行機が、敵の飛行機が来たと行ったら、ぱっとこうやってね、見張りしっかりやれって言ってマドロスパイプくわえて、ぽーっとしてこうやって見てるんです。それで「爆弾落としました、方向変わるか」って、「変わりません」と言ったら舵を取って、「変わります」って言ったら知らん顔してるでしょ、変わります言えば当たらないです。その代わりね、当たらない場合でもね、この船の横にバーンと落ちるとね、水柱がぶあーって上がって、でやーっと、真っ黒になっちゃうんです、そんな経験も何回かやりました。それがね、雪風の引き揚げのときの経験です。

それで、もう引き揚げると、こういうことになって3万名がね、1万3千名ぐらいになっちゃって、それを3回に分けて引き揚げたんですがね。これは成功したと言えるんですよ。撤収作戦に成功したってのがね、これなんですか? 撤収作戦に成功してばんばんざいじゃないんですよ、戦略的に負けなんですよ。撤収したんですから、ただそこで、玉砕しなかっただけの話なんですね。

これはね、戦争が始まる前に竣工したね、このやっぱり正規の空母ですよ、これでハワイ(真珠湾攻撃)にも行っております。ただミッドウェーには行ってないんです。珊瑚海海戦にも行ってるんですけどね。

Q:瑞鶴に自分が乗るっていうふうにまぁ命令が来たときにはどういうお気持ちでしたか?

どういう気持ちも何にもなかったですよ、命令きたから。実はね、駆逐艦の雪風をね、その今の引き上げやったりなんかしながらね、一段落したときがね、平成18年の8月の初めだったです。8月の初めにね、「横須賀鎮守府づきを命ず」という電報が来て、わたし、内地帰ったんです。それで、なんかね、魚雷艇指揮官のための講習かなんかに予定されてたんです、それを講習に行けばね、魚雷艇の指揮官になる予定だったらしいけどね。それで、しばらく待機しておれというわけだったんですね、で、待機しておってもなかなか指示がこないもんですからね、どうしたんかなぁと思ってね、海軍省に電話して、この時期あんまり長く内地におるというのは恥みたいな感じがするから乗せてくれと言って、そしたらぽーんと電話がきて、「瑞鶴乗れ」って言ったから、はっと思って、それもね、今度はトラック島だったんですね。トラック島、で、雪風を退艦して飛行機で、水艇ですけどね、内地帰って、また行くときには瑞鶴のトラックと…また飛行機でトラックに行って着任した、それが18年の11月だったんです。で、すぐにその、その瑞鶴は内地へ帰ったんです。

Q:瑞鶴ではどういう立場で乗艦されたんですか?

あのときまだ中尉だったんですけどね、中尉だけど、大尉の廃止でね、分隊長って言われて、瑞鶴分隊長っていうことで行ったら、航海科の分隊長で。航海科の下士官兵の人事は一切はその分隊員として責任を持つということと、戦闘配置は見張り指揮官ということで、見張りとレーダーと、水測の合わせた、要するに見張り、いわゆる沖を見張る指揮官として。戦闘配置は艦長に直属と、こういう配置だったんです。内務については航海長の指示の元に分隊の内務のことを管理するという、そういう役だったんですよ。

それからね、修理があるんでね、いつもだから定期的に修理があって、呉でいわゆる修理をしたわけだね、呉の、あの工厰(工しょう)でね、そんときに艦長がね、菊池艦長っていう方が貝塚艦長に交代されたんですね。それで明けて1月、2月とね、内海で少し、瀬戸内海で訓練をやっとってね、シンガポールに行けというから行ったわけですよ、そうしたらね、2月にシンガポールに行ってね、シンガポールに何しに行ったかったらね、ゴムの固まりをいっぱいね、積んでね、内地帰って来たんです。このときにわたしが怒ったことはね、正規空母がね、こんな輸送船の代わりのようなことやらざるを得ない日本かと思ってね、あぁ、これだけ物資が無いのかということでね、ちょっと非常にショックを受けた記憶があるんです。

シンガポールでリンガで2か月ほど訓練やってって言いましたね。で、5月の何日かに、そっからあの、訓練を止めてタウイタウイという漸進基地ですけどね、そこへね、艦隊が集合するときにそこへ行ったんですね、そこにタウイタウイに1か月ほどおって、そこを出撃したのは6月の12日か13日だったんですが、そこからギマラスというところで補給をやって、いわゆる、あ号作戦、マリアナ沖海戦に展開して行ったんです。

あのですね、まともな戦争になってなかったという感じですよ。それで、あのときはね、「瑞鶴」、旗艦ではなかったんです、確か「大鳳」でしたかね、それで「翔鶴」っていうのもあったし、あれがね、目の前で爆発して沈むんですね、それで、大きな海戦で飛行機が来てバンバンやってじゃないんですよ、これは潜水艦にやられたんですね。潜水艦でやられて、それがすぐ沈んだんじゃなくて、それが弾薬庫に移って、それが爆発して沈んだんですね。

これはね、水上艦艇がレイテに突っ込むんだと、しかし、こちらはね、飛行機がいないんだと、それで水上艦艇が突っ込むについて、飛行機でやられたんじゃもう、レイテ突っ込む前にやられちゃうと。だから敵の航空艦隊を北の方におびき寄せる為にこっちはおとりになるんだと、おとり作戦だとこういうふうに聞いてましたよ。だから、そういう意味では覚悟して行かなきゃならないんだと、それで、こちらの飛行機もですね、対等に向こうの航空艦隊に対応するような飛行機を持ってるわけもないから、ただこっちもやられると、おとり艦隊という、おとりになるについては水上部隊がレイテに突っ込むってことが目標なんだという、もう覚悟して行ったわけですよ、これ非常に難しいんですよ、おとりってのはね、敵を攻撃して敵をやっつけるだけじゃないんですよ、おとりにならないとね、作戦成功というわけじゃないわけですからね、非常に難しいわけですよね。だから、こちらもね、敵が現れたとなると、電波を出してね、こちらにおるようなことを、情報を流したりしてね、向こうはその気になってこっちへ北へ登ってきたんですね。

10月24日にね、アメリカの空母がおるということが分かって、そこで作戦を展開しようとしてたけれども、夕暮れになっちゃってね、もうそれができなくて、翌日の10月25日の朝になって、これは初めからもう「配置につけ」ですよ、朝から。7時ごろからね。配置についたらもう配置付きっぱなしということで、第一軍装でゲートル巻いてね。昼飯もちゃんと缶詰配られてね、配置についちゃったという感じ。それが朝の7時何分ごろですね、それからやっぱり敵の飛行機来るわけですよね、何回も来るわけです。

Q:敵機というのはどのぐらいの量がきたんですか、いちばん最初。

100機ぐらい来たんじゃないですか。

Q:目視できたんですか、こう?

目視できたんです、それこそね、もう敵の飛行機の・・・見えるの気持ち悪いですね、やっぱりね。

気持ち悪いですよ。こっちはまぁまぁ、広角機銃撃ってるけれどね、見張りとしてはもう見張りだけだからね。

Q:そのとき、日本側の航空機っていうのは応戦したりとかっていうのは?

見えなかったですね、そこら、いなかったですよ。見えなかった、日本の飛行機をやっつけてるやつ、こっちへ入ってきたかどうかですよね。見える所には日本の飛行機は戦闘やってなかったですよ。
       
やっぱり自分の見張りで精一杯でね、ボンボンボンボン撃ってたわけですけどね、それはそれで撃ってたわけですけどね。

Q:見張り指揮としてはどういう感じだったんですか、現場でどういったことをやってらっしゃったんですか?

レーダーでは30分くらい前にね、分かってね、何キロと、まぁ200キロと、何キロなりましたって言ってね、科長に報告して、そんな事言ってる間にだんだん、今度はこう自分のもうここに入ってきますからね。気持ち悪いっていう感じだったけれども、それを見ながら艦長は舵(かじ)を取ったりされたわけだけど、航空母艦になると駆逐艦みたいにクルクル回れないですからね、舵を取って回れないですからね、当たっちゃうだけですわね。
       
逃げきれない、それでメガネ(双眼鏡)で見ても魚雷が来ること分かったり、分かりますよ、魚雷が来るのも。分かるけども、逃げきれないからね、それでボーンと左舷に当たったことは覚えてますけどね。
      
見張り所だと、同じように双眼鏡持ってるわけですよ、それで、色々な情報くれるわけですよ、なんとかそういうふうにフワッと位置変わったんですよ、そしたらその場で、弾片が来ちゃってね、それでそこおったんですよ、フッと変わって30秒も経たないうちにそこへ弾片がきて、いっちゃったんです、「おい」って言ったら、もう何も言わないんです。

弾片がね。

Q:どこに当たったんですか?

胸に当たったんでしょうね、おいって言っても…と、こちら双眼鏡持ってるしね、だから双眼鏡片手に心で合掌な感じ。そういう場面がありましたよ、だからわたしなんか生きてる確率ってのは色々なこと考えるとほとんどゼロなんですけど、それでも生きてるのは生きてるんです。不思議なもんですよね。

左舷へ、ぐんぐんぐんぐん下がって、あるいは舵を左に取ったままでも戻らないしね、ぐんぐんぐんぐんなって。こういう形がこうなっていくのかな、こうなって沈んでいくんですね、そんな感じでしたよ。

Q:斜めになった状態で、途中から走らなくなっちゃったんですか?

そうですよ。

Q:いつごろ、こう、もうあきらめたというか、走るの止めたっていうか。

あれはね、4回目ぐらいで午後の2時10分ごろですね。艦長もあきらめて、「軍艦旗降下」、「総員退去」っていう命令を出されたですよ。

Q:「瑞鶴」が止まって、すぐ艦橋からその飛行甲板の方には降りられたんですか?

いや、そんなことはない、飛行甲板なんか行ける状況ではないんです、もう、滑っちゃうしね、飛行甲板は行けません。こうなってって、こことここに艦橋があるわけですから、これ飛行甲板だから歩ける状況じゃ、もうフラットですからね、行かない、この辺だけになっちゃうんです。
      
総員退去でしょ、部下をね、早く降ろそうと思ってね、「早く降りろ」と。そうすると部下の連中、「分隊長、分隊長」って「分隊長早く降りましょう」ということで、やっぱり、サササと降りるわけじゃないんですよね、「いや、僕は、俺はいいからすぐ早く降りろ」ってね、それで降りてしまったなぁと思ったときに今度は、だから僕なんか、やっぱり下に下がっていったんですね、艦橋に艦長がおられたから、艦長の方に「降りましょう」って言ったらね、「俺はいい」と言ってるわけですね、そこに航海長がおって、「艦長のことは俺に任せておけ、早く降りろ」って、その後に何があったか、命令だとこうくるわけだね。で、それで、ちょうど部下がね、わたしに「降りましょう、降りましょう」って言ってる、同じことが艦橋行って艦長に言う、航海長が「早く降りろ、艦長のことは俺に任せておけ、命令だ、降りろ」って、そういう言い方。当時の海軍の命令っていうのは絶対ですからね、もうそういうあれだったんですよ。だから、下のものを上の方が、降りてもらいたいという意志がずっと下の下まで通っておったしね、上の人は「俺はいいから、お前ら先降りろ」っていうそういう間柄ではあったですね。

それで、船がどんどん行くからね、航海長が「早く降りろ、命令だ」っていうからわたしもそれに従わざるを得ないなと思って、降りちゃったんです。そしたらもうちょうど水が、フッとしたらもう行っちゃって。それで、ガーっと渦巻きに吸い込まれたという感じ。ちょうど船がガガガーって沈みかかるときに、バッとわたしは飛び出したというような感じでしたよ、そして、これはいかんと思ってね、船がこうなる、船の垂直の方向へ一生懸命やりながら、そしたらダーって吸い込まれるから今度は逆に手も足もけりながら、上へ上へと行くように、何秒か知らんけど、やって、やったという。それをやったとき、ポコンと水面に浮きあがった、そしたらもう船も何にもいないと、壊れた船の断片が、木の断片なんか浮かんでるという、そういう状況の中だったんですよね。それが、2時過ぎですよ。

駆逐艦が拾いに来てくれるんですよ。しばらく待っておると、シャーっと遠ざかっちゃうんですよ、ふっと気が付くとね、飛行機が来ているんですよ、向こうの。それでしばらくするとまた近寄ってくるから、拾ってくれるなぁと思って段々近づいてきよると、またばーっと離れちゃう、それで要するに敵襲があるんですね。それを何回も繰り返しながら、午後2時ごろから6時ごろまで立ち会って、もうダメかいなと思ったときに最後に拾い上げられたということですよね。

Q:拾い上げられた後っていうのはどういうお気持ちだったんですか?

ロープ下げるんですね、それでこうつかまってロープ上げるですね、そうしなきゃ上げられんけど、初めはね、ロープ下げる、こうしたと思ったら、こう滑っちゃうんです、サーッと、滑っちゃうんです、サーッと、「しっかりつかまれ」って言ってくる、しっかりつかんでると、こう滑っちゃうんです。

体力が衰えているのかなんか、つかんで、こう体を下げられないですよ、滑っちゃうんですよ。そのときにね、上の方ではね、ロープをこういうに垂らしてくれたんです、こういうふうに、そしたらこういうに垂らしてくれたらね、こうできたんですよ、これでやっとバッと、ぐっと上げてくれた。だからこれもギリギリですよ、あのときやってくれなかったらこれはもうダメなんですよ。

Q:みなさんギリギリの状態にあったんですね。

ギリギリの状態。それでね「若月」と「初月」の2隻の駆逐艦が拾いに来たんですがね、わたしは「若月」の方だったんですよ、「初月」はね、わたしが拾い上げられて、「若月」もね、なんかバババーとそのまま戦闘が、走って、ダーっとスピード出して行っちゃったんですよね、それは覚えているんですよ、初月の方はね、その晩にね、やられて沈んじゃったんです。こっちの方にいっとったらおらんですよ、わたし。今の話といい、見張り長のときといい、この滑ったチャンスといい、ほんなのをね、一つ一つ、いい方にいい方にクリアできただけの話でね。何回かもう、僕は終わりというチャンスが何回かあるわけですよ。二分の一、としても二分の一の二乗、四分の一、十六分の一、それまた二乗だったらパッと、何分の一か分からない、生きてる確率っていうのは、数学的には考えられない。だけど、かすり傷ひとつしてない。船は沈んだ。2回も沈んでいる、不思議なことですよ。
     
その後はね、この「若月」で沖縄だったかな、あれを経由して日本に帰って、残務整理やってるとね、同じ、同じじゃない、航空母艦の出動要請があったんですね、これ、天城っていうね、そこで同じ配置で転勤したんです。それまた二月ほどやってたらね、昭和20年の2月の25日になって、兵学校の教官に行けっていう発令があって、それで退艦してね、江田島行って兵学校の教官、それ半年間教官やっとって、原爆もこの目で見たんですよ、江田島から。終戦のときは兵学校の教官だったんです。

やっぱりね、生かされておるということでしょうね、自分の意志で生きるとかそういう問題じゃないんですね、生かされておる。

Q:亡くなられた、同じ船に乗ってらっしゃった乗組員、将兵の方々に関して、いつもどういった思いをお持ちになるんですか?

だから、そういう人の思いというか戦いぶりというのについては、これは大切に。そのために今、自分が生かされているというような感じですね。

出来事の背景

【フィリピン・エンガノ岬沖 ~囮(おとり)とされた空母 瑞鶴~】

出来事の背景 写真瑞鶴は、真珠湾で米太平洋艦隊に大打撃を与えた6隻の主力航空母艦のうちの1隻である。
ミッドウェー海戦で、その6隻のうち4隻が撃沈される中で、その後のセイロン沖海戦、珊瑚海海戦、第2次ソロモン海海戦、南太平洋海戦で活躍し、昭和19年のマリアナ沖海戦までは被弾することもなく、「幸運な艦」と呼ばれた。
 
しかし、日本海軍はマリアナ沖海戦で米機動部隊に大敗し、艦載機と搭乗員の多くを失う。その後、昭和19年10月、日本軍は、フィリピンレイテ島へ向かう米上陸部隊を撃滅しようという作戦を発動。戦艦大和や武蔵といった主力の栗田艦隊がレイテ湾に突入する際、瑞鶴を旗艦とする小沢艦隊は米機動部隊を引き寄せる「おとり」の役割を担うことになった。
そして、小沢艦隊が米機動部隊を引き寄せることに成功した10月25日、瑞鶴は米艦載機のたび重なる攻撃を受け、午後2時過ぎに沈没した。
ところが、栗田艦隊は、レイテ湾目前に「謎の反転」を行い、レイテ湾上陸にあたる米軍部隊を攻撃することはなく、レイテの地上戦で日本軍は敗退した。
このレイテ沖海戦で、連合艦隊は壊滅状態となり、艦載機もほぼ失われた。
こののち、連合軍艦艇に対する航空攻撃は、特攻による攻撃が中心になっていった。

証言者プロフィール

1920年
岐阜県山県郡伊自良村にて生まれる。
1938年
旧制県立岐阜中学校卒業後、海軍兵学校入学。
1941年
兵学校卒業後、重巡洋艦「古鷹」乗艦。
1942年
古鷹沈没後、駆逐艦「雪風」乗艦。ガダルカナル撤収作戦に参加。
1943年
見張分隊の分隊長として「瑞鶴」に乗艦。
1945年
広島県江田島の海軍兵学校教官兼監事として終戦を迎える。戦後は、復員船の乗組員を経て、京都大学入学。その後、海運会社設立。

関連する地図

フィリピン(エンガノ岬沖、レイテ湾)

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