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タイトルタイトル: 「低下した搭乗員の技量」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・エンガノ岬沖 ~囮(おとり)とされた空母 瑞鶴~
名前名前: 田中 義信さん(空母・瑞鶴 戦地戦地: フィリピン(エンガノ岬沖、レイテ湾)  収録年月日収録年月日: 2009年11月12日

チャプター

[1]1 チャプター1 16歳で海軍へ  10:37
[2]2 チャプター2 第2次ソロモン海戦  03:44
[3]3 チャプター3 南太平洋海戦  02:05
[4]4 チャプター4 マリアナ沖海戦  01:32
[5]5 チャプター5 終戦  02:12

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・エンガノ岬沖 ~囮(おとり)とされた空母 瑞鶴~
収録年月日収録年月日: 2009年11月12日

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その時分はまだ戦争、支那事変だけやったからね。土佐沖で訓練やね。それで、別府へ帰ってから、今度またあくる年の6月ごろかな、今度飛行機の整備のほうへ行け言われて、それで横須賀海兵団に入ったんですわ。

海兵団の中に、横の方に学校がありまんねん、普通練習生の学校は。そこではもう、兵科は別でみんな集まって、それで一応整備の、実習とか訓練、あんなんをしてたんですわ。そこでやっぱり、半年ぐらいおったんかな。それで今度、大分航空隊行って、そこで半年間、また「赤とんぼ(練習機の通称)」の訓練してて、整備してて。それであれ、瑞鶴は珊瑚海の海戦(1942年5月)済んでから、内地に帰ってきたんですわ。そのときに乗ったわけです、わたしは。

Q :「瑞鶴」っていう船は、ご存じでした?そのとき。

いや、そのときはあんまり知らんかった。「瑞鶴」って初めて聞いた名前やからね。やっぱり、航空母艦言うたら、「赤城」とか「加賀」とか、あんなんばっかりやからね、大体。「瑞鶴」いうのは、大分航空隊におったときに、通達あったわけですわ。

Q :初めて、「瑞鶴」をご覧になったときというのは、どんな印象でした?

いちばん大きいからね。航空母艦でその時分は、「瑞鶴」、「翔鶴」言うたら、いちばん大きかったんですわ。それであとでまた、「大鳳」や何か造ったけどね。

Q :「瑞鶴」を一目見たときって、どんな。

すごい、大きいやったよね。われわれは乗るときは、一応ボートで行って、それで乗るんやからね、舷側からね。そやからアンタ「わあ、大きいな」思うたですわ。ただそれだけ。大きいやっちゃな思うて。

それで、もう乗っていくなり、わたしらは一応九七艦攻(九七式艦上攻撃機・海軍の主力雷撃機)部隊へ入ったんですわ。配属されて。船のいちばん後ろで生活してました。

Q :整備、九七艦攻というのは、どういう?

大きい800(キロ)の魚雷抱いて行くんやからね。800トン(キロ)の爆弾か。大きい爆弾積んで。発進いうたらいちばん後ろでね、もう航空母艦はこうなって、いちばん最後はこう下がってるわけですわ。着陸しやすいようにね。そやからもう、あそこは大きなもんが抱いていくから、もう真ん中ぐらいからは飛ばれんわけ。戦闘機とか、あんなんは真ん中からビューッと飛んでいきますよ。艦攻は、あんなん積んでたらいちばん最後からビューッといかんと。それは、一応海戦で航空機がみんな出発するときはね、いちばん前は戦闘機。その次は艦爆。それで艦攻はいちばん後ろに。いちばん後ろで2機並んで、それから1機か。それで3機。それは後ろからビューッ行ってね。わたしらそやから整備員は、もう飛行機飛び出したら今度は飛行機帰ってくるまで、待っとらんといかんのやから。そやからもう、ビューッと出発したら、発着甲板がずっと下のほうへ下がりまんねや。重たいから。それで、沈んだかな思うたら、途中でブーッと上がってく。だいぶんしてから上がっていくんですよ。艦攻は。

Q :大きい飛行機だったんですね。

大きかったですよ。翼、こうやって折っておくんやから。格納庫へ入るときは。

Q :なるほど。

うまいことね、こうバッと折ってね、それでスーッと中へ入っていきまんねや。

Q :整備兵は何人ぐらいいたんですか。

何人ぐらいおったかな。整備兵でも、戦闘機、艦爆、艦攻って分かれてるからね。わたしらのほうは、班長は3人ぐらいおったんか。それでその下が5、6人かな。みんな。そやから、18、20、いやもっとあるかな。

まあ大体エンジンの調子ですね。エンジンの調子を見たり、あるいはあんまり機体のほうは、一遍戦争に行って帰ってきたら、やっぱり調べるからね。それで悪い翼があったら交換するけどね、もうほとんどそのまま、また行く。エンジンだけやね。

油が漏れるとか、エンジンのちょっと調子が悪いとか言うて、よう帰ってくるもんもおりました。

Q :九七艦攻というのは、性能というのはどうだったんですか。

われわれにしたら、どっしりして、乗っててもまあ安心やわね。搭乗員が操縦士やられると同じようにやっぱり沈んでいくからね。後ろの偵察員とか機銃撃つ人がおるからね。その人がみんな同じようについていくから、戦闘機よりは。まあ戦闘機もええけど、やっぱり九七艦攻のほうがよろしいな。われわれ整備員は、ときどき後ろに乗せてもらいまんねや。エンジン交換したり、翼交換したらね、試飛行言うて一遍飛ぶわけですわ。そのときに「おい、乗れへんか」言うて、乗っていくことがある。まあ艦攻はそんな空中戦せえへんからね、ずっと飛んでて、一応急降下で海面すれすれまで行ってずっと飛ぶからね。まあ、カッコよかった。

一等駆逐艦(天霧)のときは、ハンモックで寝てたけど、瑞鶴行ったらね、飛行機の下で寝るのよ、普通、航海中は。もう自分の居住区いうのがあんねんけど、そこ行って寝たことない。みんな飛行機置いてある格納庫でね、みんな翼の下で寝るわけ。毛布敷いて。

ハワイからずっと行ってく人は、やっぱり乗ってたからね。やっぱりその人らは、操縦もうまいし、みんな下の航空兵によう指導しとったわね。そら、あの時分の人はみんな死んだからね、ミッドウェーで。ハワイに行った人らはね。みんなミッドウェーでやられて死んでるわけ。そやから翔鶴、瑞鶴、あるいは出航前に下りた人ぐらいは、ハワイ行った人は率先して、よう訓練してたわね。

そのときは、わたしらはもう一応整備やから、まあ現地行けへんし、うちの船は空襲あったら、それはわかるけど、空襲あまりなかった、うちらは。そやからわたしらの配置も、飛行機が飛び出したら、機銃のほうへ行く人と、それから格納庫で消火訓練してるとか、そんなんに分かれてたからね。わたしは下におったわけ。そやから新兵らと一緒に消火器を用意したりなんかしてね。

Q :そのときは、第2次ソロモン海戦のときは艦攻は全機出撃したんですか。

そうです。一応みんなね。

Q :何機ぐらい乗ってたんですか。

大体1つの班で3機から4機持ってたからね、受け持ち。それ3個班やから、大体12~13機かな、多かって。

Q :その艦攻が全部出撃して、第2次ソロモン海戦のときは全機戻ってこれたんですか。

いや、全部帰ってきえへんかったわ。半分ぐらいかな、帰ってきて。それでまた行ったけどね。やられたんか、どこへ不時着したんかわからんけどね。なんしか、船へ帰ってきても、船に着艦せんで、水上の上へスーッと下りる人もおる。もう順番待ってても燃料ないようになったやからね。もういっぱいいっばい帰ってくるから。そやからもう、着艦でけへんで、まあ、横でスーッと下りていく。ほなら、あとで一等駆逐艦がバーッと来て、搭乗員をすくうだけやね。

それで内地帰ってきたときは、わたしらは内地の航空隊へ飛行機と一緒にまた行くわけ。大分とか鹿屋とかね、あそこらへよう行って、練習してたわけです。それで、出航前になったら、また飛行機を乗せて、わたしらもトラックで志布志とか、ああいうところまで走ってきて、それに乗って、また行くわけです。そやからわたしは休暇なんかなかった。兵科とか、船に乗ってる人は、もう飛行機修理しとる間は、みんな休暇を持って帰ってやんねん。そやから3回も4回も帰ったいう人もおる。われわれ整備員はあかんかったわ。全然休暇なかった。

一遍出撃したら、ほとんど飛行機帰ってきいへんね。一遍出撃したら。そうすると、もう飛行機ないから、航空母艦はすぐ内地へ帰ってくる。内地帰ってきて、飛行機収容して、新しい搭乗員なんかをみんな乗せて、それで航海中に訓練して、それでまた行くわけ。

ほとんど帰ってこないね。もうあの時分から、ミッドウェーから大体みんな、敗戦みたいな感じやね。行ったらもう帰ってこないわ。途中でエンジンに油が噴いたとか、なんとかいうもんは、また帰ってくるけど、あとはもうほとんど帰ってきえへんね。そやからもう、一遍行ったら、あと搭乗員と飛行機収容、内地で集めて、それで行くわけですわ。始めだけはよう帰ってきてたけどね、みんな。そやからそんだけ、腕が落ちたんか、みんなね。新しい人ばっかりやから。何しろ航空母艦に着陸するのが難しいからね、やっぱり。そやからよう落ちる人もおるわ。船からあんまり勢いようブワーッと来て、フックが引っ掛からんで、そのまま海に入る者もおるしね。

それで戦闘機分隊で、まあ出撃したけど、戦闘機分隊もあまり大したことなかった。もうほとんどやられてもう、おれらの知っている同年兵でも、飛んだらもう、油が出た、油が出た言うて帰ってくるの、風防にかかってね、油が。エンジンの油が風防にかかってね、前見えへんからって帰ってくるんですわ。それであれ、3回ぐらいに、もうええ加減にせえよ、油、ちょっとやんかいな、言うてて、また出したんや。ほなそのまま帰ってこんかったからな、ああ、こら悪いこと言うたな思うて。同年兵やから、なんぼでも言えるからね。

Q :その当時はもう、同年兵ぐらいになってて、腕も落ちてたっていう感じですか。

そうですね。みんな。そんな時分はもう、ハワイ(真珠湾攻撃)行った人おれへんもの。えらい人ぐらいなら、それはおるかもわからんけど、えらい人と話したことないものね、われわれ。同年ぐらいじゃないと話、でけへん。

「瑞鶴」はもう、安定しているから、大きいから、あまり大きい波受けたことないしね。「瑞鶴」ではもう、発着甲板で寝てて、たばこ吸うたとか、そんなことばっかりしか覚えてへん。ほんまに。飛行機が出ていったら、もうあとは格納庫を見回るだけで、中にはよう、何や、機銃とか、あんなほうへ行ってる人がおったけどね。弾庫とかね、あんなやね、みんな。

Q :瑞鶴にいたときというのは、魚雷とか受けたっていうのは。

全然ないです、わたしのときは。そやから、「瑞鶴」でよかったなあ思うてるだけで。わたしが下りてから、ようやられたらしいけどね。

やっぱり戦争いうたら、大勢人が死ぬし、嫌な感じやね。ただそれだけや。あんまり、第一線でバンバンやられたことないからわからんのや。みんなよう、映画なんか見たらね、よう負傷兵を抱いたりなんかしてるけど、おれらあんなんしたことないから、わかれへん。戦争って嫌やな、思う。殺したりな、すんのやから。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・エンガノ岬沖 ~囮(おとり)とされた空母 瑞鶴~】

出来事の背景 写真瑞鶴は、真珠湾で米太平洋艦隊に大打撃を与えた6隻の主力航空母艦のうちの1隻である。
ミッドウェー海戦で、その6隻のうち4隻が撃沈される中で、その後のセイロン沖海戦、珊瑚海海戦、第2次ソロモン海海戦、南太平洋海戦で活躍し、昭和19年のマリアナ沖海戦までは被弾することもなく、「幸運な艦」と呼ばれた。
 
しかし、日本海軍はマリアナ沖海戦で米機動部隊に大敗し、艦載機と搭乗員の多くを失う。その後、昭和19年10月、日本軍は、フィリピンレイテ島へ向かう米上陸部隊を撃滅しようという作戦を発動。戦艦大和や武蔵といった主力の栗田艦隊がレイテ湾に突入する際、瑞鶴を旗艦とする小沢艦隊は米機動部隊を引き寄せる「おとり」の役割を担うことになった。
そして、小沢艦隊が米機動部隊を引き寄せることに成功した10月25日、瑞鶴は米艦載機のたび重なる攻撃を受け、午後2時過ぎに沈没した。
ところが、栗田艦隊は、レイテ湾目前に「謎の反転」を行い、レイテ湾上陸にあたる米軍部隊を攻撃することはなく、レイテの地上戦で日本軍は敗退した。
このレイテ沖海戦で、連合艦隊は壊滅状態となり、艦載機もほぼ失われた。
こののち、連合軍艦艇に対する航空攻撃は、特攻による攻撃が中心になっていった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1924年
大阪府大阪市住吉区にて生まれる。
1938年
住吉尋常高等小学校卒業。
1940年
志願で呉海兵団に入団。機関兵として駆逐艦「天霧」乗艦。
1942年
艦上攻撃機の整備兵として「瑞鶴」に乗艦。
1944年
戦闘機の整備兵として空母「千歳」乗艦。その後、富高海軍航空隊(宮崎県)に配属。
1945年
同航空隊で終戦を迎える。戦後は、バスの運転手として勤務。

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フィリピン(エンガノ岬沖、レイテ湾)

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