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タイトルタイトル: 「自決で責任取らされた軍医」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 生き延びてはならなかった最前線部隊 ~ニューブリテン島 ズンゲン支隊~
名前名前: 林 幸夫さん(ズンゲン支隊 戦地戦地: ラバウル(ズンゲン)  収録年月日収録年月日: 2009年8月4日、2010年5月6日

チャプター

[1]1 チャプター1 ラバウル  04:16
[2]2 チャプター2 ズンゲン支隊  03:25
[3]3 チャプター3 最前線の戦い  02:13
[4]4 チャプター4 戦線離脱  04:19
[5]5 チャプター5 玉砕命令  04:40
[6]6 チャプター6 総攻撃  03:01
[7]7 チャプター7 新たな陣地ヤンマー  02:22
[8]8 チャプター8 終戦  01:58
[9]9 チャプター9 命を絶った軍医  02:48

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 生き延びてはならなかった最前線部隊 ~ニューブリテン島 ズンゲン支隊~
収録年月日収録年月日: 2009年8月4日、2010年5月6日

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Q:ラバウルに着いてしばらくはそういう陣地構築をしてた。

そうやね、陣地構築やね、全部の兵隊がラバウル全体で。

Q:食糧なんかを自分でつくっていたなんていう話も聞くんですが、林さんもつくったんですか。

それはね、結局、作るといって、やっぱ、1日に、おにぎりを1遍食べて、あとは、朝晩サツマイモを1つか2つで、で、午前は、にぎり飯が昼、ちょこっとできただけで、あとはみんな、自給肥料でサツマイモをつくったわけやね。で、向こうでつくると、枝をちょっと挿すと、はあ、2月、3月もたたんうちにはあ大きいサツマイモがとれる。

Q:成長が早いということ。

早いで。それからもう1つは、パピオカといって、こちらの内地で言うと、今の、長芋と同じようなもんですよ。もっとええ、粘りこい、おいしい、タピオカというイモができたわけ。それは、入れてまって(植えて)約3か月ぐらいかかった。4か月。ほうすると、ものすごい、長芋のくらいの大きいやつがものすごくとれたわけね。

Q:3か月ぐらいで収穫できる。

ええ、収穫、とれた。

Q:そういう意味で、農業には向いた土地だったって印象ですか。

まあ、農業に向いた土地じゃなしに、やっぱ、向こうが、黒んぼさんがちょうどつくっとる何で、カボチャんたでも入れてく、サツマイモんたでもこうしてつくるというと、ほんとに早い時間で収穫できたし、それから、果物ではタピオカて、ものすごい、どこまでいっても、タピオカがあった。バナナの木はずーっとどこまで行ってもあったけども。我々はやはりバナナというと真っ黄な、真っ黄で食べるんかなと思ったら、やっぱ、青いやつを切ってね、穴で蒸したわけね。結局、草を積んだり水かけたりして。3日ばかたつとほんとの真っ黄なバナナにできた。

Q:ラバウルというのは、どんなところだと思ってました? 「安全だな」とかありました?

まあ、初めのうちは「安全やな」と思いよったけども、そこのラバウルに10万人からおったという何やけども、陣地構築はものすごい出来とったわけやね、あそこは。

Q:林さんが行ったころには?

はい、わたしたちが行ったころには。ちょっと見ただけのもんであって、「ああ、ここが偉い様がおるんじゃな」ということを思って、ただ、それだけで帰るまで、ラバウル、行ったことはなかったね。

Q:ラバウルはやっぱり、ちょうど城の本丸にいるような、そんな安心感はありました?

初めのうちはあったね、やっぱ。なぜかといったら、やっぱ周囲が、防空壕からでも、みんな機銃掃射のなにが全部備えてあったで。ラバウルで見ただけのもんで、そういう、大きな砲弾とか何とか備えてあるのは。やっぱ、昔で言うとお城、名古屋城みたいなもんじゃなと思ったね。

「おい、おれんたはズンゲン岬へ戦争に行くんじゃぞ」といって聞いたもんやで、「何を言っとるやろなあ」というようなことを思って、まあ不安重ねて、ほんとに、「どこないと行きゃあええ」、「どこでも何でもええわ」と、まあ軽い気持ちでおったね、そのときは。ほって(そして)、知らん間にやっぱ大発に乗って、降りたわけやね。

Q:出身地もいろいろさまざまだった。

ええ、静岡とか、それから、東部とか、それから岐阜とかね、いろいろそこらじゅうから、基兵団(51師団)とか、なにかいっぱい。

Q:基兵団というのはどこですか。

茨城です。

Q:(茨城出身)も結構いたんですか。

結構ござったね。召集兵が多かったね、基兵団は。

Q:召集兵というと?

召集というと、やっぱ現役だけ、時間、年で済ませて、ほして(そして)、うちへ帰って、召集でまた兵隊にとられる、そういう何を召集兵といって昔言ったもんやね。

Q:最初に着いたズンゲンの印象ってどんな感じですか。それまでいたラバウルと比較してという感じですけれども。

まずね、こんなこと言ってなんやけども、水を飲みたいても、飲むものはないし、川が離れていて、山の中にあるわけで、まず、のどが渇いてなにかしたね、結局。向こうへ着いてから、まあ別にどんなような感じといって、あの時分のことを思うと、ほんとになんやね、いろいろのことを話したいと思うけども、思い出せんのや、なかなか。まず、「健康でおりたいな」というようなもんで、まず、「お水が飲みたい」ということが、やっぱ、川が水が出ないで、山の上やで、それが、まず、こたえたね。

Q:水がない土地だったということなんですか。水に不便する土地だった。

不便やね、結局。そして、やっぱ、たき火もすると「敵さんに分かる」で、飯ごうも炊けないし、で、ヤシの木っ端の、ヤシ林の実を乾かしたやつになると燃やしても煙が出なんで、それを根気にヤシの何をとってね、ほして(そして)、ヤシ林を大事にしたことを思い出しますけども、やはり、困ったことは、「戦争にやっぱまあ勝つこと」やし、「負けることはだめや」、「自分の体が大事やなというようなこと」も、まず、そこで思ったね。

曳(えい)光弾といって上から夜、落とす。そうすると、ターッと、ほんとに上から2発ばか落とすと、上のほうから光って、ほんとに、「ここで木綿針が落っとっても分かるくらい」でね。それくらい、明るいんやでね、曳光弾といって。ああいうやつをとったり、迫撃砲といってズンゲンの先へカロライから、シュー、ドーンと上のほうで、迫撃砲が破裂するんやね。下で破裂しやへん。頭の上のほうで弾が破裂して、その破片が当たるようになるのが迫撃砲やでね。で、そういう何が、ほんとに来て、「いつになったら、これ、戦争というのは終わるんじゃな」というようなこともいろいろ考えたり、まず、内地の親のことを思ったり、ほんとに、「あそこにうちの入り口に電信柱があった、松があったが、あそこに厠(かわや)があった」、そんなようなことを思ったりね、「まず、おふくろ、親父のことをまず思った」わけやね、あの時分は。

ほんでね、ラバウルから、師団司令部から思うと、兵隊は「こちらの前線へ来とるのはほったらかしや」でね。「のう(無く)なってもええんじゃ」て、「ご破算になってもええ」、そういうつもりやで、後に応援が来るというようなことはおそらくあらへんで。

Q:ほったらかしいうのはやっぱり感じました?

それは感じたね。やっぱ、「おれんただけ何して戦闘部隊に入っとるんや」が、「ラバウルでも何も、何にも知らずにおるかしらん」
と思うと、ごうがわきよった(腹が立った)ね、そのときに。

その原因はやっぱ、ボウフラがわいてるを知らなんで、ドラム缶の水を飲んだわけで。

Q:ドラム缶の水というのは、ためてたんですか。

ためたった。

Q:その皆さんの宿営地のそばに、飲料として。

はい、飲料として。それを飲んだら、やっぱ、アメーバ赤痢にかかったわけやね。

わたし、自分だけ飲んだんやと思う。ほかの者は飲まなんだ。わたしは、しびれ切らされて、わたし、飲んだわけで。

Q:のどがかわいてたんですか。

ああ、「のどは渇いとった。飲みたくてしょうなかった」。それが、結局、病気の原因の源やったね。

Q:どんなふうになるんですか。

アメーバ赤痢というと、やっぱ、キリーッと痛なって、まあごめんなさい、こういうなんじゃけども、だんだん5回ぐらいチリチリと便が出て、だんだんひどなって、15回、18回というふうにして、順番にやっぱキリキリーッと痛んで、下、出るわけやね。ほいて、熱はたん(多く)と出ないのね。

で、まあ、苦しんどるとこを見られて、「おまえは、まだね、若いで、こんなところで死ねんで、おれが病院に連れていったる」と言って連れて行ってもらった。

一緒に、病気にかかったり、手を傷しとる人を治療に行ったり、ほんで、そのときに、小銃は、わたし、持っとらずに、軍医の拳銃をもらって、いつも、それ、挟んで回って歩いとる。

ラバウルのタノウラ。その病院といっても、やっぱ山の中で、木の葉っぱで編んだ部屋で、寝とっても背中が痛いものはみんな枝がみんなあって、ただ病院というだけで、兵たん病院というだけで、普通と一緒やで、山のね。

Q:そこには林さんお一人だけが帰ったんですか。

わたし1人。あとの者は帰らへん。わたし1人を連れていってくれた。

Q:何日ぐらいそこ(野戦病院)に。

そこに60日ぐらいおったね。

Q:そこにはちゃんとした薬や医療設備はあったんですか。

ちゃんと、医療といって、注射も何回打ったんや知らんが、たんと、覚えがないくらいで、もう、やっぱ、薬なかったね、たんと。「やっぱ自力で、自分の気持ちで、生きる、生けない」というわけやったね、あの時。

それから良くなって、やっぱ1週間ばか、そこでお世話になって、そして今度は、大発で、「おまえ今度は、また、行かんならんで」といって、下士官に言われて、そして、承知しとって、わたし、行ったわけ。

Q:行ったというのは。

大発に乗って。

Q:どこに。

ズンゲン岬。

Q:また病気が治ったら、もうラバウルに留めおきじゃないんですね。

ないんです。で、昔の軍隊は、一応籍を入れたとこへ、負傷しようが、何しようが、やっぱそこへ戻るわけであって、そういうときに兵隊のおって、兵隊というものはなんじゃなというようなことをいろいろ、ええことも悪いことも覚えてなんじゃ、ただそのときでも、本当に生きていてよかったなということ。

Q:成瀬さんはどういう場面で突撃の話をされたんですか。

あれはね、結局、あの時に、めったに、あの顔を見たことなかったけども、ちょうどお話があるといって、集まれといって、ほって、集まったわけやね。そのときに、「総攻撃を明日の朝なにするで、みんなご苦労さんやけども、階級章を全部外せ」と。ほして、外して、「朝何時に総攻撃をするで、ゆっくり休め」といって、言われたよね。

Q:どこに集まったんですか。

それ、山のズンゲン岬のみんなが結局おるとこへ集まったわけでね。

Q:何か広場みたいな。

広場といってあらへんで、結局、区域といって、ここに大体、10人なら10人、こちらに20人なら20人、こちらに50人なら50人というふうにして、まあ山の上やで、ただ、ほんで、こちらに区切ったわけやないけども、そういうとこから連絡でやっぱ集まって、そこで話を聞いたときに「総攻撃みたいなんできるかい」と思って、まず、ピーンと来たね、そこで頭に。

Q:その集まった人というのは何人ぐらい。

そのとき、500人ぐらいおったかなあ。

Q:ズンゲンの人がみんなということですか。

そうやね。

Q:それに対して肉声で、拡声器も何もないですよね。

ええ、何もないです。

Q:その声は聞こえたんですか。

聞こえたよ。

Q:じゃあ、かなり大声で。

ええ、結局。

Q:成瀬さんの顔を見たの、それが、ほぼ初めてぐらいなんですか。

そうやね。

Q:どんな印象でした? 初めて見た大隊長の顔というのは。

やさしい顔をしとらったね。で、幹部でもいろいろきつい人も弱い人もあるで、あったけども、ほんとにやさしい人やったね。

それは、「まあ、総攻撃をやるいうて聞いただけで寂しゅうなってまった」ね。そのときに。「何でこんなとこでそんな突撃せんならん。弾を食らっとる中で、命が惜しいに、何でそんなんもん総攻撃みたいのをやるんじゃなあ」と思った。

Q:階級章を外せというのはどういう意味なんですか。

まあ、結局、わたしんたから思うと、今になって思うけども、やっぱ、偉いやつとか、偉くないやつとか、分からんように、結局、外したわけやわね、ああいう。初めてね、初めてやで。

「総攻撃やりゃあ、命が惜しい、助かるはずがないんじ」で、「弾の中へ入っていくんじゃで、こちらは何にも、小銃もあらへんのやで、何で行くんやしらん」と思って、「何、ばかなことを、ほんとに、あのときに総攻撃って何でやらんならん」というようなことをまず思ったね。今から思うと、それは済んだことやで、さほどに思わないけども、そのときの気持ちということは、まあ人様には分からないね。

「何でこんな突っ込んで命をなくせんならん」と。それから「病院から帰ってきたばっかや」で。

病院の生活を過ぎて退院したわけであって、それから、その総攻撃という話を聞いただけのもんやで、そのときに、「そんなもん、とろくさい、死ねるかい」と言って、

そのときに、わたし、思ったが、「ほかの者が出て行ったっておれは死ねるかい」と、絶対に、そのときに、「総攻撃と聞いたときからわたしは腹決めとったで、こんなとこで死ねるかいっ」て。

Q:いざ、自分が別行動をとるときのことというのは覚えていらっしゃいます? どんな状況だったんですか。

どんな状況って、まず、総攻撃ってみんな行ってまった。そのときに自分にやっぱ、まず、命が儲かったと思って、まず、荷物の置いたとこへ行って、そして、「おれだけかな」と思ったら、2人、3人と姿を現わし出した。

総攻撃が始まったら、どっちへ逃げるということをまず考えとった。ほして、我々が、ほんとに、少ない人員かなと思ったら、徐々に増えていって、100人から110人ぐらいになってきた。

Q:何がですか。

生き残りが。総攻撃しなんで。あと、大隊長やなにかはみんな、まじめくさった人は弾の中へ突っ込んでいったんやで死ぬ。

茨城の東部の召集でね、爆弾やない、迫撃砲でここをめくってまったのね、肉を。それが、覚えとるんは、2里ばかの山道を、(将校を)ほかってたら、将校の拳銃で杖をつけて、ほして、生きるという意気込みで2里ばかを追いついてきた。

その人が、同じ行かなんだ我々と一緒に、2里ばかの離れて1人で孤独で、わたしんたの駐屯のとこに追いついたわけ。

Q:けが人までは連れていかないんですか、総攻撃といっても。

連れていかん。行けるはずがないで。その人が、ちょうど今から記憶に残っとるけども、2里ばかの山道を我々が後退したそこまで追いついてきたわけ。まあ、総攻撃から総じて、感じたことは、今思い出すと、「ほんとにえらい人やったな」ということを思うね。

Q:その人は何か、みんなが玉砕していった音を聞いたとか、そういう話は語ってました? 玉砕した人たちの話は何か語ってました?

別に話さん。ただ、後から追いついてきたということは、生きるという望みがあるし、生命力があったで、わたしから思うと、ついてきたんじゃなということを思うね。

Q:ヤンマーに着いたときには、当然、師団から来た人とかいますよね。

師団が、結局、玉砕したということで我々の冥福を祈ったわけやけど、それに、どっこい、やっぱ、人間がやっぱ浮いたきたというもんで、まあ、のけものにしたような状態やったね、師団司令部の話を聞くと。

Q:ヤンマーだからラバウルよりはずっと前線ですよね。そこにいて、その間、どんな気持ちで、当然、その間に敵が攻めてくることもあったと思うんですけど、どんな気持ちで過ごしてらしたのかなと。

まずね、まあ何や知らん、頭がこんがらがってまって、出てこんわ。

Q:今度こそ戦って死ぬぞ、みたいな気持ちは。

死ぬということは思わなんだね、いくら戦いでも。まず、帰ってからでも、「生きて帰るんや」ということだけは、いつもかも、繰り返しても思い出したね。何せ下のほうやで、将校でも何でもないんやで、上官でもないんやで、下っ端やで、結局、そんな、責任があって責任がないようなもんで、ただ、「帰りたい、無事に帰りたい、任務を終えて帰りたい」、そればっかやね、初めから。

こちらは、ほんとに、「ただ無事で帰りたい、命が惜しいことないけども、やっぱ内地に帰ってもう一遍頑張りたい」と、そんな気持ちでおって、とかく兵隊では、命はとられんということは、まず、頭に初から終いまで頑固であったね、今から思うと、現在の年まで、気持ちで生きながらえとるわけであって。

Q:ヤンマーで結局、終戦を迎えるということですね。そのときのことをお話聞いていいですか。何で知ったんですかね。何日に。

結局ね、あれは、零戦の板張りの飛行機から、1機か2機、まだラバウルに残っとったんやね。その飛行機からビラでまいて、戦争は終わったといって書いてきたけども、何が何やらこちらはわからん。戦争が終わったと、で、天皇陛下の、結局、お話が、ちょこっと、吹き込んだなにが。で、半信半疑でラバウルへ帰ったわけやけども、そのときに。で、「戦争が終わったといって、頭の中にそんな、戦争が終わったでといって、負けたんやって」そんなこと全然思わなかった、そのときに。ちょうどそれからラバウルへ帰ってから、武器返納といって、剣から鉄砲から何からみんな集めて、大発(上陸用の船艇)で海の中へほかったわけやわね。そんな記憶がありますけど。

それから参謀からも、大発で来て、白い旗を振って、まあ戦争が終わったといって参謀が大発で白い旗を振って。

それは、わたしは、考えて、今でもいちばん、この方がわたしを、命を救っていただいて、わたしの身がわりに罪を負うて亡くなってくださった方やで、今現在、わたしが思っておるのには、松橋軍医さんのお力によって、お心によって、現在、この年まで生きながらえておるんじゃ。ほんで、「なかなか、今、早いこと死ねません。松橋軍医殿のほんとにご冥福を、1年でも2年でも生きとってお礼を申し上げないかん」ということを、「松橋軍医殿、毎朝晩、ありがたいといって、おかげです」といって、ご冥福を祈らしていただいとるわけでございます。ほんとに私のために、あの医者という名誉の職を捨ててまででも、自分の体を投げてでも私を助けていただいた、ほんとにありがたいことやと思って、わたしはそれを眼目に念じて感謝申し上げておる次第でございます。

Q:松橋さんのとられた行動のどういうところが、林さんを助けたことになるというふうにお考えですか。

結局、昔で言うと、「前線を後退すると命はない」ということは兵隊に入ったときから聞いておったで、わたしのために、私を病院に入れてくれて、ほして自分に、銃殺(ピストル自殺)まで負うてほんとに命を捨ててくださった方、まず、ほかの人にはわからんけども、本人としては感謝の絶え間がないくらい、ほんとにありがたいことだと思いますね。

出来事の背景出来事の背景

【生き延びてはならなかった最前線部隊 ~ニューブリテン島 ズンゲン支隊~】

出来事の背景 写真勝利の目算がないまま、総攻撃をかけて全員が戦死する「玉砕」。太平洋戦争中、この玉砕で多くの兵士の命が失われた。南太平洋のニューブリテン島でも、この玉砕をめぐって悲劇が起こった。

太平洋戦争中の日本軍は、ニューブリテン島の東端にあった「ラバウル」を占領したうえで、陸海軍の拠点とした。軍港、航空基地として10万人の将兵が駐留、南太平洋一帯の島々を管轄する司令部として機能していた。

しかし、昭和19年にはサイパンなどマリアナ諸島が米軍の手に落ちると、ニューブリテン島は日本軍の勢力範囲の外側に取り残され、ラバウルのある島の東側だけが日本軍の実効支配地域となる。
昭和20年3月、歩兵229連隊を中心におよそ400人で「ズンゲン支隊」が編成され、ラバウルを守るため島の最前線に送られた。
このズンゲン支隊が向かった最前線には、十倍の兵力を持つ豪州軍が待ち構えていた。激しい砲撃に対し、夜間忍び寄る「斬り込み」攻撃を行うしかなかった。戦闘が始まって10日あまり、支隊長の成瀬少佐は玉砕を決意、司令部に「決死の突撃をする」と電文を打つ。しかし、一部の将校がジャングルでの遊撃戦を主張、別行動を取り、支隊長に率いられた将兵は総攻撃に向かった。
 この攻撃で、支隊長は戦死するが、多くの将兵が生きのびた。
すでにズンゲン支隊の玉砕を大本営に伝えていた師団司令部は、将兵が生き残っていることに驚き、再びズンゲンに向かい突入するよう命じた。師団司令部としては、ズンゲン支隊は「玉砕」を果たし、全員が「名誉の戦死」をしていなければならなかったのだ。結局、豪州軍の猛攻で前線にたどりつけずに生き残った将兵のうち将校二人が師団司令部によって自決を強要され、生き残った兵士たちは最前線に留められることになった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
岐阜県揖斐郡川合村字五之里にて生まれる。
1936年
川合村尋常高等小学校卒業。
1943年
中部37部隊入隊。
1944年
ニューブリテン島ズンゲン支隊加子分隊。
1945年
ラバウル郊外のココポにて終戦を迎える。
1947年
復員。復員後は調理師になる。

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