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タイトル 「絶対に話せないことがある」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~
氏名 遠藤 仁次さん(秋田・歩兵第17連隊 戦地 フィリピン(ルソン島)  収録年月日 2010年6月20日

チャプター

[1] チャプター1 ルソン島へ  05:07
[2] チャプター2 陣地構築  02:22
[3] チャプター3 ゲリラ化していったフィリピン人たち  02:42
[4] チャプター4 戦死しているはずだった・・・  03:19
[5] チャプター5 抗日ゲリラの恐怖  04:35
[6] チャプター6 語りたくないゲリラ討伐  05:59
[7] チャプター7 米軍の攻撃が始まる  04:44
[8] チャプター8 食べられるものは何でも食べた  06:08
[9] チャプター9 中隊長 斬り込みを命じず  04:27
[10] チャプター10 玉砕寸前に転進命令  05:42
[11] チャプター11 バナハオ山での立てこもり  04:54

提供写真

再生テキスト

Q:入隊されたのはいつですか。

(昭和)17年の1月10日。秋田の連隊へ行って。寒い日であった、1月だから。今の1月と違ってそのころは雪が多かったしね。営庭に並んで特に800人ぐらいいるの、初めての兵隊が。「あなたは1中隊、2中隊、3中隊」なんて、十把一絡げで配られるの。わたしは、たまたま12中隊だった。それが満州へ行って、満州から戦争へ行って、フィリピンに行って、もちろん12中隊でも死んだけれど、とても、運のいい中隊だった。あなた(質問者)が持っている戦争資料にも、多分、書いている気がするが、「女神に抱かれた中隊」、わたしそう書いているなあ。女神、天からの女神。他の中隊は「阿修羅の如き中隊」。わたしの中隊はやさしい、同じ戦闘をしたけれども、とても、良かった。そういうのだ。それはなぜ良かったかと言うと、中隊長が良かった。大体。その人はねえ、秋田の鉄砲町で、あのころは昭和の初めだから、古いしょうゆの醸造元の御曹司だったの。で明治大学を出た人なの。そのころは大学を出たなんてほとんど無いから、学歴も立派だったし、で、そういう人がたのために連隊長のメンコ(イ)、可愛い、可愛いメンコ(イ)、子飼いの中隊長だった。そういう人が中隊長になったおかげで、わたしがたは助かった。

満州から、いっぱい、いっぱい見た事もないような部隊が釜山に集まる、朝鮮の釜山。釜山から船が出るんだから。そうすると「どうせ行くんだったらこんな釜山にボヤボヤしてるより早く船に乗って早く行きたい」というのが皆の気持ちだったけれども、早く行ってバンと潜水艦にやられたり、遅く行ってバンとやられたりする時代に、17連隊だけは「スッ…」と行っちゃったの。一艘(そう)も沈まないの。これを奇跡というか、幸運の女神というか、後から戦記を見ると、台湾の高雄とルソン島の間をバシー海峡と言うんだ、そのバシー海峡にアメリカの潜水艦がいっぱい張り付いてるの。日本が来ればやるわげだ。10杯行ったうち7杯ぐらいやられるの。7杯つったって1杯あんた8千トンから1万トンの船だよ、兵隊が3千人も乗ってるんだよ、そいつがドンとやられるの。そういうやられた経験が無いから「盲蛇に怖じず」でおっかなくなかった、

先に行った5連隊、青森の5連隊は先に釜山を発って、当たり前だけど、先に釜山を発った人は先にフィリピンに着くでしょ、当然。それが海没したりして着がねんだよ。まあ兵隊は命からがら助けてもらったりして裸でフィリピンに上がったけどもね。だがら後がら行った17連隊が、南部ルソンのバタンガスという風なところの配置をするために、先に5連隊が配置になっていなければいけないのに、沈められたんだがら、後から、ノコノコ行って無事に着いた17連隊がそこに配置に着いたわけだ。

米軍が上陸してくるまでは、わたしがたのような、ただ受身の兵隊はよく分からないけれども、(郷里の秋田の地名になぞらえると)秋田港から敵が上がって来るだろうから、土崎に穴を掘ってそこに陣地を作れ、いやあいやあ、そこばり(そこばかりで)は心配だがら、下浜まで行ってそこにも穴を掘って陣地を作れ、それだ(ば)もうちょっと広げなきゃいかんな、道川も守れ、そういう風にしてあっち行ったりこっち行ったり、無駄な労力をいっぱい使ったの。そして、わたしがたの目で見ると、たいしたことねえなあと思うような、これで、立派な陣地を作ったつもりが、アメリカの爆弾一発でみんなぶっ飛んじゃうんだから。くたびれただけ損した。

Q:そんな大変なんすか。

それは大変。あんた(質問者)、どこに下宿してるか知らんが、下宿してる家の裏行って一ぺん掘ってみれ。スコップ1丁で。自分の背丈隠れるだけ掘ってみれ。しかも機銃器でダダダダとやられないように、エンピっていうのな、ちっちゃいスコップ、それ1つでこうして、こうして、土はねてみれ。あなただったら恐らくひと月経っても掘れない。それが俺だは2日、3日で掘るんだがら。もう寝なくたってやるんだがら。命助からなければいけないもの。だがら、あなたを決して冷やかして言ったわけではないけれど、まあ出来っこない。あんなもの。やる人もいませんしね。そういうもんだった。何やったっておめえ、アメリカの兵隊にかないっこねえよ。あまり違うもんで。

Q:みなさんが上陸した時はフィリピンの人たちはどんな感じだったんですか?みなさんに対しては。

「ジャパントモダチ」よ。「ジャパントモダチ」。「フレンド」。そのころまだ戦闘が無いからね。

Q:具体的にはどんな事を?

バナナの葉っぱで丸く、ここいら辺で言えば笹巻、ちまきみたいなのがあるの。それは決して美味しいものではないけどもね、腹減ってる兵隊には美味しいよ。「食べねが?」なんて言われたり、「ジャパントモダチ」で。でも、本当の腹の底は「ジャパントモダチ」と口では言うが何考えているがわからないや。日本の、特にわたしがたの辺にいる秋田の連隊の兵隊なんてのはね、やっぱり純朴なんだね。「オウ、トモダチ」なんて言われると「おう、フレンド」てなっちゃう、「カイビガン」フィリピン語でね、トモダチのことを「カイビガン」ちゅうんだけども、なんとなくそういう片言、片言少しづつ覚えると何か月も居れば、わたしでさえも話通じるがったもの。そういう時代だな。

Q:最初は親しかったフィリピン人の方々が変わって行ったのですか。

変わって行った。見えねね、姿が、あとはどごへ隠れたか?「おう、誰それ、いねが?」「ああ、あの奴いねぐなったな」みんな、わたしがたはわからない、(郷里の秋田の地名になぞらえれば)太平山に逃げたもんだやら、仁川町の方に逃げだやら、仙北平野に逃げたやら、土地のもんじゃなきゃわからないんだけど、とにかくいねぐなったのや。そして後からは、「新屋にあの兵隊居てあったよ」「新屋のどこそこに」って道案内して連れて来るんだよな。

Q:道案内ですか。

道案内。アメリカ兵を道案内して。だがら、昨日の友は今日の敵でよ、「カイビガン」「ジャパントモダチ」一番おっかなかった。

全滅する部隊に配属になったの、「行け」って言われて。「行け」って言われるがら命令だがら行かねばねんだよ。んで、それが全滅する部隊だってのを、まだ知らねえんだよ。まだ、してねんだがら。そしてあそこから3人、こっから5人、そして軍曹の人は何人、上等兵が何人、一等兵が何人ちゅうて、何百人ていう部隊を作るの。ひとつ。作る時に行けって言われて、わたしは小浜って旧姓だけどね、「小浜軍曹行け」って言われて行ったの。桑沢という大隊だったけど、臨時編成の桑沢大隊。で、大隊長になる桑沢って人は知らねえし顔も見た事ね。自分の中隊から出て行かねばね、ていうのはとても悲しい事だ。だけ(しかし)、兵隊だがら泣くわけにはいかない。行けってば行かねばね。右向けってば右向かねばねんだがら。そのときに行ったわげだ。行ったらね距離が遠くてよ、その集まれってとこまで。そこはあなたがたに、今、地名を言ってもしょうがないけど、ロザリオってところで編成してるから、ハイそこの部隊から何名来た、ここの部隊から何名来た、顔も知らない名前も知らない寄せ集めで、桑沢大隊というものを作るの。で、わたしが行けって言われて行ったらね、「おめえ今来たなが?」なんと、逃げてゆっくり行ったわげではねえども、たまたま遅れて行ったば、そこに高橋甚助ていう17連隊の副官がいたのよ。「もうみんな行っちゃったから出発したから、何ボヤボヤしてる、追っかけて行け」って言われれば、わたしは生きていなかった。全員死んだんだがら。1人もいねんだがら。それがよ、その高橋甚助って人はよ、「なんだ、いま、来たなが、行ってしまった、帰れ、自分の中隊さ帰れ」って言われて、その人が、帰れって言おうが、追っかけて行けって言おうが、その人の胸板三寸だった。たまたま、帰れって言われたがら、ま、帰ってがらも戦争はあるがら、帰ったって必ず生きるわけではながったけれども、とにかく全滅、一兵も残らない桑沢という大隊長の大隊の、桑沢って人は戦記をみるとね福井県の人だっけ。福井県で旧制の時代だから盛岡の高等農林を出た人だ。その人が大隊長でわたしは帰されて助かった。

Q:(兵士たちが)食糧取りに行って帰って来なかったり、どんな気持ちでしたか。

そのころはね、どんな気持ちって、あなたから言われても…死ぬのはね、「あ、久木、死んだが、やられだが、どこで死んだ?」そんな程度だ。とてもとても、涙をもって人を葬るというごどはならない。「あいつの履いでおった靴、いたましがったなあ(もったいなかったなあ)」ていうようなもんだ。

Q:どうしてですか?

だって(自分の)靴も破れてしまってるんだ。相手が持ってあった飯ごう、欲しかったなあ、てなもんだ。それは人間の感情、ちょっと言えないね、この辺でよ、知人、友人、親戚が亡くなって涙を流して、「あの人は良い人だった」なんていう、振り向くヒマは無い。「ああ死んだが」で終わりだ。

Q:(抗日ゲリラの)その怖さをもう少し教えてくださいませんか。どんな風に怖かったですか。

だっていつ殺されるかわがらねもの、そりゃ怖いさ。ゲリラだもの。みんなピストルを持ったりライフル銃を持ったりしてるんだから、いつ殺されるかわからないし、そりゃもうなるべく会わないほうがいいだろう?フィリピン人に。だがら、コソコソと隠れるのは比島の人でなくて日本人だ。すれ違ってもコソコソ隠れるのは、おっかなくて。あなただっておっかないよ、いつ、わたしに背中からドンとやられるかわからないもの。みんなそれなば…俺は度胸があるから俺はおっかねぐねがったがら、なんて人はいねんでね(いない)?皆おっかながったと思うよ。

Q:ゲリラがそんなに居たんですか。

全部ゲリラ。全部ゲリラ、フィリピン人は皆ゲリラ。うん。皆ゲリラ。彼らはね、土地の言葉、いわゆる秋田弁みでえな事を言えば、彼らの秋田弁ていうのは、タガログ語という土地の言葉なの。一般的にはろれつの回らない下手くそな、俺らも聞きとれないけれど、彼ら同志でいけば分かる英語なわけだ。英語の国なもんだがら、アメリカの兵隊とはツーカーなわげよ。話しても。だがら、「日本軍がここにおったよ」とか、「昨夜どこに行ったよ」とか、ていう話はなんぼでも出来るわけ、出来たはずだ、彼らは。わたしがたは日本語で、言葉出来ないし、ただただ暗くなれば逃げるというだけで、暗くなれば逃げるったって逃げるどごねぎゃ。逃げるどごなんにもねえんだよ。

Q:そのフィリピン人が全部ゲリラに思えるってのはどうしてなんですか。

フィリピン人が先頭でくるんだがら。アメリカ人の、バズーカ砲であろうが、機関銃であろうが、なんであろうが、迫撃砲であろうがなんであろうが、みんなフィリピン人が戦士だもの。だがらフィリピン人が一番おっかねがった。俺はアメリカ人な見た事ねんだけど、フィリピン人なばいっぱい見た。

わたしの小隊長はね、わたしは軍曹で上の上で准尉、サイトウさんて准尉の人だったけども、それがわたしの小隊長だったの。秋田市の、今、死んじゃった、県庁に勤めた人だったけど。その人が「おい藤重(連隊長)からな命令来てよ、フィリピン人と見たら、兵隊ひとりで千人殺せどや」なんて笑ったもんだ。ひとり千人殺せっちゅう命令だったど。そんなことは出来っこねえってまず。ひとりが3人殺すぐれえならわがるども。そういう風に言われるほどに追いつめられたんでね?やっぱり上の連隊長にすれば。俺がたは、「おう死んだが」「いつ死んだが」「どごでやられた、ああ、そうかそうか」なんて言う程度だったども、連隊長ともなれば、フィリピンはあまりにも憎くて、大変だったでね?

それは絶対言わねごとある。あなたになんぼ上手に質問されても、それは言わない。明日死ぬんだげども、そういうこと書いてもおがないし、しゃべねえんでねえがな?わたしも、あなたと親しくしましたけれども、わたしが、これこれの悪い事をしましたという、わたしはあまり悪い事さねがら(悪いことをしていない)なんてもねえがら(何ともない)な、軍隊の戦闘の真実なんてえのは、まず…語る人、いねんでねえが(いないだろう)?わたしはそう思う。なんぼ突っ込んで聞かれてもわがらないという、わがらないものなば聞かれねべ?わがらなければ。あどは何かありますか?

Q:それはどうしてですか?どうして話したくないと?

どうしてっていう…なんとなくねえ、地獄の話を生きていてしゃべるわげにいかねじゃん?

わたしなば、それこそ人もなにも殺さなかったし。まずね、わたしには妹が二人居たなやな、そのフィリピン人の陵辱・強姦(ごうかん)をするようなのを見るとよ、あの当時は高等女学校って言ったもんだったども、高等女学校にいるような妹もいるし、そういうのが、そういう目にあったらなんぼひでえだろうなと思うと、わたしは女の子を強姦する気持ちもおきなかった。だがら、きれいごとを言ってるつもりではなくてね、そういう人がいたっておかしくはないんだよ、皆が「兵隊悪い事せ(やれ)ちゅった」って、せね人(できない人)だっているんだから。

Q:強姦ってやっぱりあったんですか。

そりゃあった。男はあした死ぬんだがら、女の子なんか見た事もねんだがら、抱いた事もねんだから、21,2で兵隊さとられて、満州の国境におって、女の「お」の字もねんだがら1年いようが2年いようが。それが南方まで来て、女が山ほどいるんだがら、明日死ぬだろう?それで立派な釈迦の説法みたい事言ったって通じねえんだよ、それは。目をつぶらねばねえんだよ。「仕方ね仕方ね」って。でも因果応報でよ、次の日、必ず死ぬ。わたしの知ってる限りは、必ず死ぬ。

やっぱり帰って来て「生きられない」って死んだ人もいるんだよ、連隊でも。帰って来てがらだよ。

Q:それはどうしてですか。

やっぱり、それなりの行動をしたもんでしょ?わたしはそういう人の名前、1人2人聞いたことがある気がする。そういう事もあるからこれは仕方がない。よほど良心のある人だと思うよ。

Q:そういう事ってのはどういう事を…

だがら殺したとか、強姦したどか、そういう軍隊の悪い事ってそんな事しかねえがらな。戦争して弾撃って相手を殺すんなば当たり前だがら。戦闘間の行動なば。

まずなんてったって爆撃。爆弾だ。いま、たまに戦争映画見ることがあるんだげど、やっぱりああいうの上手にトリック使ってるもんだなあて思いますよ、日本軍にはなんにも無いんだがら。飛行機一台も無いし、高射砲も無いし、何にも無いんだがら逃げるより他ないでしょう、逃げるったって逃げるとこがねえ、でも幸いに、空とか離れたところから大砲とか来たから、なんとかかんとか逃げる、逃げたような気が、あのころ逃げたなあと思いますよ。形容の仕方がない。わたしは、学が足りないせいで形容詞を知らない、ああいうの。天地晦冥って言ったけど。

Q:日本軍と持っている兵器が全然違うんですか。

全然違う。全然、見た事無いもん、わたしがたは、自分の事しか知らないから。あんな兵器で勝てるわけ無いじゃん、考えてみると、明治38年に作った小銃だよ?三八式歩兵銃っていうの。三八式、38年。アメリカは小銃をガチャンとやったらダダダダダダと30発撃つんだよ、弾ねぐ(無く)なれば(カートリッジを)投げてまた別のガチャンとつけて、弾倉って、弾の倉庫ね。日本は、こうして、こうして、こうして、(弾は)5発1回に入るんだけどね、コウカンって言ってよ、手で握って、こうさねば(しなければ)ねの。という小銃だもの勝てるわけがない。だがら撃つものがねえんだよ、豚でもいれば撃つけど。わたし撃った事ね。てんで違うんだもの、あまりにも違う。聞くだけ野暮だ、全然違う。見なければわからない。

Q:さっきおっしゃってた「まさに雨あられ」?

雨なばたいしたことはねえ。あの程度、ヤリが降って来るのと同じだがら、当たったら死ぬんだがら、今のトリック映画がうまくやってるけど、てんで形容の仕様がない。さすがの遠藤さんも、なんと誉めればいいか、なんと表現すればいいかわからない。あまりにもすごいもんで。

Q:どう対抗するんですか。

逃げるしかない、対抗なんてない。だから「タコつぼに入って鉄砲構えた」なんてのは日露戦争と同じ。最初はそうしたの。敵が来るがらここに1人、2人、3人、4人、こうして、中に入ってやりなさい、なんて言われたの。でもそんなことやったら命がなんぼあっても足りない。やっぱり退くより他ない。

一番困るのは、逃げて歩く事まではいいんだけども、塩が無いということ。塩。毎晩のように塩の夢見たわたしは。しょっぱい塩。

Q:どうして塩の夢を?

塩欲しくて欲しくて、塩なめたくてしょうがないんだもの。何か月も、塩なめたことないもの、体がこうなっちゃうんだよな。だがら、高い山に登ってるもんだがら、海見えるなや、もちろん行く度胸も無いけどね、「そこまで行って海の水飲んだらどんなにか幸せか」って皆、思ってるんだよな、で、「俺行ってくる」って人がやっぱりいるもんだっけ、帰って来なかったけども。皆、塩ねぐって困った。


Q:食べるものもなかったですか。

食べるものは何となくね、それも人間の、17連隊の運なんだけどよ、フィリピンを頭の中に描いてわかるけどね、バギオなんて北の方、フィリピンの北、ルソン島の北、これは岩山しかないの。バナナの木の一本も無ければヤシの木一本も無いの。俺のところは南の方だがら、バタンガスの方だからヤシの木もいっぱいある、バナナの木もいっぱい…いっぱいでもないけどもある。だがらバナナ食ったりなんだりしても、結局、塩っ気がねえもんだがらな、一番塩っ気が無くて夢を見るほどだったけど、南と北ではそれだけ違う。17連隊は幸せ、それでも兵隊が多いから皆取りつくされてしまうのや、わたしがたなばなんとなくね、「おい食べねが?」なんてそんなでねえ、「かねが?」「かねが?」、「食わないか?」って意味だけどね。秋田弁で「かねが?」「くうくう」そういう言葉で通じるがら助かったんだけども、ほれは、ほれは(それは、それは)大抵なんでも食ったな。

Q:例えばどういったものを食べたんですか。

俺なば、比較的「おおうまいなあ」と思ったのは、カタツムリなば食うよ。火を絶やさないようにね、中隊で、いろりでもないけれど、そこにシュッと置くとカタツムリは熱いもんだがら出て来るんだよな。こんがり焼けて、それをかじるとうめんだよ。あと、沢ガニ、渓流に行ってね渓流でも無いけれど、流れに行って石を動かすとちっちゃいカニがいるんだよ、沢ガニっていって、それをガリガリかじって、結構いけるもんだよ、23歳の肉体だおん(だから)、なんともねがった。

Q:それでも飢えは厳しかった?

飢えは厳しい、だって、何時に朝飯、昼飯なんてねえん(無い)だもん。食えだ(食える)時に食えばいいんだ、見つけたものを食えばいいんだ。

ある晩、いまも、覚えてる、土砂降りなのや、もちろん土砂降りだがら草の上さ横になって寝られねべ?なんともねえば天上みて星空見て寝るんだけどもね、寝られねえもんだから眠てえ眠い眠い、鉄かぶとを逆にしてここにこう置いて、そうすれば鉢が上になるだろう?その上にお尻を置いてこうしてうつ伏せぽくなって(座ったまま)眠って、鮮明に覚えでる。次の朝、見たばよ、なんか目がごろごろするわけだ、おかしいなあと思って隣の奴に「おい、おれのまなぐ(眼)おがしぐねが?」たば「おう、ヒロ」ここらへんでなんて言う?秋田弁でヒロだども、ヒルが目さ入ってよ、痛くは無かったけどグリッと脱いで、そしてそのヒロを、目が3日も10日も真っ赤だった、でも視力は落ちねえんだよな、落ちねがった、だって見えるんだもの、でヒルはごっつおになった。

Q:食べたわけですか。

うん、だってもったいねえもの、そういう風に、なかなか草むらにお尻つけて寝られねものだがら、鉄帽逆さにしてそこへお尻を入れてそういう経験は鮮明に覚えてる。

Q:斬り込みっていう命令が出たと言ってましたが、いつぐらいから出されましたか。

しょっちゅう出る。いつも土地の話で(郷里の秋田の地名になぞらえれば)、例えば、いま秋田市にいますね、わたしがたが、秋田市でね、山の中だ、それが山からみると下浜の方で、電気がいっぱい灯ってジャズレコードをかけて、そして煙草を吹いてウィスキーを飲んで、いるのが見えるわけだ。

Q:米兵が?

米兵が。せいぜい500メーターから800メーターだがら見えるんだ。そうすると「久木軍曹、兵隊2人連れて3人であの幕舎へ手りゅう弾バアンと投げてきて、そして、もし、食い物でもあったらかっぱらって持って来い」ど。それを斬り込みというんだよ。だがら行けって言われれば行かねばねんだよ、さっき言ったろ?軍隊ってな命令だって、命令が無ければ軍隊じゃねえんだがら。その命令のもとに多分その人は「俺、今日で終わりだな」と思って、腹の底はそう思ったと思うよ。行った事ねえがらわからねけど。「隊長どの、行ってまいります」「うん、しっかりやって来い」ていうぐれえなわけよ。それで手りゅう弾も投げる、みんな鉄条網が張られてね,中で、最後には、こういった缶詰の缶こがカランカランと繋いで、鉄条網にぱっと触ればカランカランカランと鳴るわげよ。風鈴と同じで。そこへアメリカがダダダダダダダと来るわけよ。一回で終わりだべ。だがら斬り込みの成功なんて聞いた事はねえ。1組みや2組はあるかも知らん。わたしの中隊は何回も言う通り、わたしの中隊長は、畦田さんて人はそういう命令ひとつも出さない人。出さないだけに、なんとなく薩摩芋食ったりしたもんだけれどね。なんにもしない人。命令系統で軍隊は成り立っているって言いましたでしょ?その中で軍旗。いまは破けて見えないけれど、房っこだけだけど、軍旗は軍隊の命脈なんだよ、「軍旗っていうのは天皇陛下」だわげだ、いうなれば。「この軍旗の元に俺たちは死ぬんだ」と言うのがみんあ持っている考えなの。「お前は軍旗に対して、軍旗に対して、軍旗に対して」と言われるともう二の句がつげない。死ぬ事が無くてもおっかなくなるような、軍隊の中の軍旗というもの。その軍旗が、うちの中隊長・畦田さんて人は「あんなもの、なんだ、旗っこだ」って言うわげだ。「旗っこよりも兵隊の命がいたましいよ(大切だ)」、兵隊の命が大事だと言う人だった。そんなの連隊長や師団長に聞こえてしまったらよ、たちまち銃殺される。ところが平然とよ、「あんなの旗っこだ、旗っこのために死ぬわけにはいかない」というような中隊長を頂いておったから、「無駄な斬り込みもやめろ、逃げるごだあ逃げろ」ってやる人だったの。

マレプンヨという山はね、そんなに高くはないの、鳥海山みたいに、むしろ秋田にある太平山のような山が3つぐらい繋がっているぐらいの、だがら攻撃もされやすいというか、最初は「いい山だな」と思ったんだげども、攻撃されてみると誠にもろがった。だがら今度はバナハオという大きい山に移って行ったわけだ。

Q:マレプンヨ山の攻撃ってのは具体的にどんな攻撃でした?

太平山ぐらいの山が3つか4つ繋がってるような連峰なわけだが、うっそうたるヤシ林とかうっそうたる樹木に覆われた山だがら逃げたわけだそこへ。洞くつ掘って、連隊長もそこにおったし、わたしがたなば、その前に出されているもんだがら、そこに連隊本部があるから連隊本部を守るために、太平山の連隊本部を守るために秋田市内のどっかに出されたのと同じように、前線に出てるわけよ。ところがそこの山はね、「あんなことが出来るのか」とビックリするぐらいうっそうたる樹木が何百年の樹木があるのに、2週間か3週間で、アメリカ軍が爆撃をして砲撃をして、なにをしてか、全山坊主頭になった。全山坊主になった。そうすれば隠れるところねえべ?うっそうたる山だど思って一生懸命穴を掘って、「ここだら、わがらねえだろう」てやったば、坊主頭になったの。そうなったもんだがらあきらめて、あきらめてというか、「ここにいてもしょうがない」ちゅうことでバナハオへ行ったの。

Q:4月の29日に玉砕をしろって命令されたんですか?どういう風に聞かれたんですか?

「今日で終わりだどや(今日で終わりらしいぞ)」ってことだ。

Q:え?

秋田の言葉で言うとね、「今日で終わりだ、今日で終わり、今日が最後だ」なんでよ?「だって逃げるどごもねえねが」へば、敵さ向かって、敵の一人でも殺して、死ぬよりほかねえ。もちろんわたしの気持ちとしてはバカバカしいと思ってらった、ということなの。ところが上級司令部から「玉砕はまかりならん」と、なんぼでも逃げれと、逃げれって言葉でなくってね、「転進」、自転車の転と進むっつう字を書いて「転進」、バナハオに「転進して行け」と、言われて4月の29日行ったのよ。今まで居ったマレプンヨは投げて。

Q:じゃあ4月29日に死ぬ覚悟をされたんですね?どんな覚悟だったんですか?

「俺だけは死なないだろう」と思ってらった、でも死なないだろうなと思ってもわたしの故郷ではないからどこへ逃げて行ったらいいかわからないし、まずガヤガヤと人がいるから。不破大道(付和雷同)して、なんとなく23、4の精神状態であった。わたしは。


Q:そのバナハオに行く途中も大変だったですね。

大変だった、だがらゲリラに襲撃を受けて、こっちは逃げる気持ちだもの、向かう気持ちでねおん(ない)。なんでも「バン」っていえば逃げるんだがら。逃げる気持ちというものは、とても勇敢な気持ちではないものね、逃げる、相手は全身、体出しても、「ダダダダ」とやれたんだがら。逃げる方は、とにかくこうして逃げるんだがら。で、バナハオに入るまでに、何百人も死んだはずだ。無事に着いたなんていうのは、わたしの部隊は途中でなんぼが死んだがも知らんけど、まあまあ無事に着いたほうだ。

Q:それってマレプンヨは完全包囲されてるわけですよね?そこをかい潜って行くんですよね?

あれは奇跡だった。なんぼがは死んだけれど。奇跡の脱出だ。

ほとんど自営農業だったな。サツマイモ植えたり、下りて行って馬泥棒したり、小野田少尉と同じこと。人は殺さなかったけども、牛をかっぱらって来たり、面白いんだよな、親馬、こりゃ今晩食うにいいなと親馬連れて来ると、仔馬がタカタカと着いてくるんだよな?そういうのは本当にあったよ。

Q:盗みに行ってゲリラとか襲って来ないですか。

いやあ、来た場合もあったろうけど、閉じ込めているんだがら(日本軍を)わたしがたがバナハオにいて、バナハオから出て行って部落を攻撃なんてまずねえんだがら。下の方ではもう畑を作っているんだがら。平和で、灯りもついて、それを上の方から見てるんだっけな。

Q:戦況はどうだったんですか。わかったんですか。

わからない。何にもわからない。兵隊ってのは気が楽なもんでよ、言われた事をやってれば、その日暮らせばいいんだがら。

Q:バナハオにいる時に米軍がビラをまいた、それは、いつぐらいから?

よっぽど、前から落ちて来たよ。

Q:いつぐらいですか。

いつぐらいって言われてもねえ、戦争が終わる前からだから、5月ごろからでねえが?終戦後はもちろん「戦争はおわった」ってくるし、でもあんまり見た事ねえなあ、わたしは。

Q:具体的にはどんなビラを覚えてらっしゃいます?

覚えてるのはね、マッカーサーと山下大将が将棋を指してるの、将棋。でマッカーサーが「王手っ」てやってる、将棋知らない人は見てもしょうがないけど、わたしは将棋も少しは分かったから、そういう紙を見たった。「おお、マッカーサーが勝ったな」なんて。宣伝ビラとかっていう認識は無かったね。敵の策略だなんていう考えも無かった。

Q:それ見たときはどう思われたんですか。

んだがら、アメリカ軍が策略でわたしがたを脅かしているんだなとか、という思いは無かった。ただ「おお、こんなようなものがあるのか」ぐらいなもんだ。

Q:負けたとも思わなかったですか。

思わなかった。みんな思わないよ、負けたと思わないよ、で、あんな状態で負けたと思わないのは誠におかしいんだけどね。思わなかった。

Q:日本は8月15日で降伏したと書いてあるんですか。

わたしのところには、あんまり無かったなあ。わたしがたは8月15日の敗戦なんて知らないもの。ずっと9月の終わりでなければ知らなかったもの。

9月の26日だから終戦後、1か月半ぐらい、タイヤ橋という部落があってそこの小学校のところへ中隊ごとに降りて行ったんだが、今も思うんだけどね「あ、戦争終わって万歳」と思った。本当に不幸な、不忠な兵隊だけどね、万歳と思った。「やれやれ死なないで、いままでもって良かったな」と思った。

Q:負けたのが良かったと思いましたか。

良かったと思った。「負けたのが良かった」という表現よりも、「生き残って良かった」と思った。間違わないでくれよ、「負けて良かったと思わないよ。生き残ってよかった」と思った。いつか帰れると思った。なにも強盗も強姦も泥棒もさねん(してない)だがら、「いつかは何年かは帰れる」と思った。本当にそう思いました。

出来事の背景

【ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年、日本軍はフィリピン・レイテ島で大敗し制空権・制海権を失った。援軍も補給も断たれるなか第14方面軍・山下奉文司令官は、ルソン島での持久戦を決断。南部の守備隊10万人のほとんどを、マニラ東方の山岳地帯に配置した。

ルソン島南部の守備に残された秋田県・歩兵第17連隊は、将兵およそ3000人。その多くは戦闘経験のない20代前半の若者たちだった。日本軍が手薄になったこの地域で、米軍はフィリピン人抗日ゲリラ部隊に武器・弾薬を与え、活動を活発化させた。ジャングルに潜むゲリラから度重なる襲撃を受ける中、第17連隊長・藤重正従大佐は、このままではアメリカ軍と戦わずして壊滅すると判断し、ゲリラと協力する住民に対する粛清命令をくだす。9万人以上の犠牲者を出したともされる日本軍のゲリラ討伐により、フィリピンの人々の日本軍への憎しみは決定的となった。

昭和20年3月、激しい市街戦の末、マニラが陥落。米軍は第17連隊が守るルソン島南部に攻め込んできた。最前線に立つのは日本軍への復讐に燃えるゲリラたちだった。包囲され猛攻撃を受けた連隊は玉砕を覚悟したが、方面軍から最後まで持久戦を貫くよう命じられた。やむなく30キロ離れたバナハオ山への転進したものの、マラリアや激しい飢えが兵士たちを襲った。

第17連隊で終戦まで生き延びたのは、およそ700人。その後、20人あまりが住民虐殺の罪に問われ、藤重連隊長以下5人が処刑された。

証言者プロフィール

1922年
秋田県由利郡東滝沢村にて生まれる。
1940年
本荘中学校卒業。
1942年
歩兵第17連隊入隊。
1945年
フィリピン・ルソン島にて終戦を迎える。
1946年
復員。復員後は楽器店経営。

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フィリピン(ルソン島)

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