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タイトル 「連隊長のゲリラ粛清命令」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~
氏名 金森 俊さん(秋田・歩兵第17連隊 戦地 フィリピン(ルソン島)  収録年月日 2010年6月19日

チャプター

[1] チャプター1 志願して17連隊へ  02:48
[2] チャプター2 南方・ルソン島へ  04:57
[3] チャプター3 ルソン島南部を守備  03:05
[4] チャプター4 兵力欺まん作戦  04:19
[5] チャプター5 抗日ゲリラ  03:32
[6] チャプター6 ゲリラ討伐命令  04:40
[7] チャプター7 命令は絶対だった  02:12
[8] チャプター8 米軍の攻撃  02:41
[9] チャプター9 斬り込み命令  02:10
[10] チャプター10 「転進」  03:40
[11] チャプター11 バナハオ山で生きのびる  03:21
[12] チャプター12 司令官からの終戦命令  02:59
[13] チャプター13 山を下りる  02:29
[14] チャプター14 収容所の3年間  03:11
[15] チャプター15 帰国そして戦後  05:17

再生テキスト

入隊ってのは、わたし志願したから、18歳で。わたしがた入った時から、初めて18歳になって軍隊に一人前になって入るようになったもの。軍拡でか。それまでは、18歳はまだ兵隊さ入れなかったの、若いもんだから。だけれども、軍律を変えて、その年から志願を認めると、18歳で認めると、軍隊に志願するのは、その一番さ志願したわけ。甲種合格だったもの、背は小さかったけど。それは「もっと大きくなるっ」て徴兵官が。おら五尺なんだ、五尺二寸しかないの、五尺三寸以上ないと合格さならないの。五尺二寸しかないの。だけど、まだ18歳だから、大きくなるという見方だったらしいんだよね。それで合格になった。甲種合格だったもの。ということは、わたしは、はじめから九人兄弟の九番目だし、百姓しても、軍隊入って一生軍隊に暮らすと、こういうことだったのや。その時は、まだ戦時中にもなんねえもんな。それで、ここ入って、郷土学校さ志願して、それから合格して、関東軍の延吉(えんきち)陸軍郷土学校に入校して、それを卒業すると陸軍伍長になる。それからトントントントンいくわけよ。だから軍隊のやっぱりそういう形がね、「どうせ軍隊で飯食うんだったら、やはり偉くならなきゃだめだ」もの。そうだろ?

Q:満州でどんな訓練をしました?

ロシアの国境よ。ロシアの国境の第一線にいるの、ずーっと、5年間いたの。だから戦争の対ソ先鋒だった。ソ連のね、ロシアとの戦争の訓練ばかりしてたんだ。兵隊さんもそういう教育させて、いわゆる兵器なんかもソ連の戦車の教育、ソ連の飛行機の教育、砲兵も全部ソ連の物を、相手を、敵国はソ連であると、それを基準にして初年兵教育してたわけだ。

Q:ルソン島への航海は、大変でしたか? 

いやあ、これはね、陸軍はね、船さ乗ってしまうと赤ん坊と同じ、寂しいもんだ。何にも戦闘力ないでしょ。あと「いつかボンとやられるか分からねえ。そのときはどうするか」と、ただそれだけだよ。船乗るってことは、陸軍が船さ乗るってことはねえんだもの。初めて我々は船さ乗って輸送、しかも、米軍のその潜水艦が回来してるところを、行くものでしょ。だから非常に危険だったわけだよね。だから、あなたに話したとおり、やはり17連隊は幸せで、その魚雷攻撃受けないで、まっすぐフィリピンさ上陸できてあったもの。だからあと31連隊、それから青森5連隊、これは全部やられてるわけ。結局、わたしがたより早く行ったんだけれども、実際、ルソン島に着いたのは17連隊がいちばん早かったわけ。無傷で上陸したわけ。だから、非常に師団長は喜んでしまって。結局、その時、既にレイテが破れてるんだから、次は(米軍は)ルソン島に来るってことは分かってるんだから。結局、バダンガス湾の一番の第一線さ、いずれバダンガス湾に来るだろうと、敵は、レイテを陥落させたから。その第一線に17連隊を布陣してしまったわけで、動かされねえわけ。だけど、その後に31連隊来たし、5連隊も来た、いちばん先に発った5連隊、いちばん最後に来たもん。結局、最後に来たために、そのときは既に「今度レイテ戦さやれっ」ていって、「一個連隊やれ」と、大本営から電話きて、作戦文きて、参謀本部きてるからね。で、結局、山下大将から命令きて、17連隊はやらねえで、5連隊がやられたの、レイテに。で、結局、そのために5連隊っていうのは全滅してしまったわけ。連隊長以下、全部。だから戦史も何も無い、どこさ行ったとか、戦史なんかなんにもないんだもの。作られねえ、誰もいねえんだもの。まあ惨めだったわけ、5連隊というのは。だからやっぱり戦争というのは、これは紙一重でね、分からねえよ。

Q:そうやって無傷で上陸できたときは、どんなお気持ちでしたか?

これはすごいと思ったわけ。だから師団長が迎えに来て喜んで、「ああよう来たな、藤重(17連隊長)よく来た」と師団長は大変喜んでくれた。これ、俺、分かってる、自分はなあ。だから、それは、なんていうか、やっぱり戦争なん紙一重なもんだ。運がね、運がいくら、もうほら、5連隊みたいにさ、次から次からやられてるところもあるし、31連隊もやられてるしさ、みんな、片端な連隊になっちまってるわね。兵器もみんな沈んでしまってるし。補給してから連隊も編成してくるんだから、秋田で。だから、秋田の連隊にいた時、満州からそのままの兵器を、そのまま、そっくり持って歩くわけ。だから、戦力としては17連隊いちばん強かったわけさ。だから、もう、17連隊は動かすことできなかったわけ、師団ではね。だから、その南部ルソンの広大な場所を、藤重に任せたわけだ。師団長はね。地図見れば分かると思う。

Q:はじめは、ルソン島でどういう任務をしたのですか?

これは、みんなだからね、あの頃なんていうのは、それこそ、いろいろあるけど、兵隊たちは、ただ命令に従っているだけであって、わたしがたのように、ちょっと階級が上になってくるとね、いろいろ、偉い人がたから話を聞けるわけ。山下大将は、既に、はっきり言ってるんだよ。「もう今は、日本はね、世界を相手にして戦っている。地球上で世界を相手にして戦って勝った国はどこにもない。だから、あんたがたの命は俺さ預けてもらいたい」既に山下将軍は負けることは分かっておったんだな、その頃に既に。そういう話を、うちら聞いてる。

フィリピンのね、全図があればいいんだけど、南部ルソンだけしかねえから、これ。南部ルソンなんだ。これがマニラなんだ。リンガエンはここなんだ。ずっと北部だ。リンガエンさ上陸してるわけ、我々は。北サンフェルなわけ。そこから行軍してきてこの南部ルソンさ来てるわけ。その時にはね、師団司令部はロスバニオス、ここにあったわけ。横山中将は。それで17連隊が来たでしょ。「よく来た」ということで今度、レイテは陥落したから、ここに上陸すると、敵は今度、バタンガス湾。で、ここで、全部配備させられたの、17連隊は。だから、まともに米軍が作戦通りに上陸してくれば、もう、ここで全滅するだけになったわけ、わが兵団はな。ここで2大隊、マコロド山、これは斎藤集成大隊、第1大隊はイムックヒル、3大隊はここナスグブ。こういうふうにして配備して、連隊本部をこのマレプンヨ山に置いたわけ。そうしてここで昭和20年の1月に、この兵団が形成されてるわけ。ここにおった部隊が、全部、17連隊さ配属になって、藤兵団っていう兵団になったわけ。で、ここで過ごしておった。マレプンヨ山で。

Q:ずいぶん広大ですね?

ここはもうそれこそ、秋田県と青森とをくっつけただけの大きな場所だよ。それより、まだここさも入れれば、あれだよ、岩手県も入れたとこの大きさ、広い場所なんでねえか。こっから全部、マニラから南全部なんだもの。ラグナ州、バダンガス州、タヤバス州、これ三州みな全部17連隊が防ぐ。

Q:東西南北何キロくらい?

いやあちょっと分からねえ。実に広大な場所だ。

Q:それを17連隊で守る?

17連隊を基幹とした、あと配属部隊も入れて、いわゆる、その藤兵団というものを作ったわけ。
だから、ここに、飛行機のなくなった航空隊、それから、船のなくなった海軍、そういう連中もみな含めて配属して一個兵団にしたわけ。で、この場所を防御したわけだな。

何しろ、この広いところに兵力は少ないでしょ。たった1万、1万がそこらしかいねえんだから。それを、これ5万の軍隊だとカムフラージュしたわけ、欺まん作戦やったわけ。

Q:欺まん作戦?

欺まん作戦。いわゆる陸軍大佐・藤重正従は、陸軍少将になって、そして、もう、乗用車さ、黄色い旗立てて、これはもう「満州から精鋭部隊来た」と、こういう宣伝したわけ。参謀は参謀長肩章やって、いかにもその新しい部隊が来たようにして、それが当たったんだ、また。いわゆる満州からの書類落としたり、そいつを拾わせて、それをゲリラさ拾わせて、米軍さ届けさせた。そういういろいろな手を打ったわけ。まんまと、米軍はそれに乗ったんだよ。米軍の書類さも本さも書いてある。実に、その藤重の作戦は上手かったと。欺まん作戦は。そして今度もう、昼間、堂々と部隊が歩いていって、夜になれば、また、戻ってくるんだ。同じ兵隊が歩いてるんだけど、いかにも軍隊がいっぱい来てらように見せるんだ。全部それがアメリカ軍さ、ツーツーになってるわけだよ、ゲリラと。そういう欺まん作戦やった。

Q:昼間に移動するのですか?

昼よ。ここからここさ移動するとか、ここからここ移動するとか、そして夜になると、そっと、また元さ戻って帰ってきているのだと、こういうことなんや。だから同じ兵隊が行ったり来たりするわけ。それから、いかにも新しい兵隊が来たように、多くの兵隊が来たように見せるわけや。そういう欺まんだったの。

Q:何を落としたのですか?

書いたものをさ、満州の部隊の名前書いたり、そういうの、いかにも満州から迎撃部隊が来たというふうに見せたわけだ。手帳書いて、その手帳落としたりして。そういうのはフィリピン人さ拾えば、ゲリラさ届ける、ゲリラは、米軍に届ける、米軍はそれ見れば新しい部隊来たなあと、それが乗ったんだな、アメリカ軍。これ、アメリカの戦史さも載ってることだ。これだけは、随分、上手くやったもんだった。

Q:連隊長の呼び方も変わったのですか?

藤重連隊長は藤兵団兵団長。藤兵団というものがきたと、こうやったわけだ。

Q:本当は兵団を名乗るほどの兵士数でなかったのですか?

無いのさ。はっきり言えばな。だけれども、そういうふうに大きく見せておかないと、それが欺まん作戦だったわけ。

俺は、このときは、ちょうど野戦倉庫の警備隊長やっておったから。陸軍曹長でな。だけれども、村長は、俺のこと、星3つあるもんだから、大尉と見間違っちゃってね「偉い人が来たもんだ」と思ったんでねえ。ここで師団と交代した時。

Q:金森さんの階級章も変わったのですか?

変わらないよ。俺は曹長だったんだ。曹長というのは、金の星が3つついてある、3つ。陸軍大尉も3つついてあるわけ。それは、師団の中尉だったわけ。星っこ2つ。それと交代したわけよ、俺と。だけどそこの村長は、俺のこと「キャプテンになってしまった、俺のこと大尉だ」と見てしまったわけ。ハハハ。そういうことだった、その頃は。だから「キャプテン・ハリマ(播磨=金森さんの旧姓)」で通したんだ。

ゲリラというのは、米軍がとにかくね、日本が負け戦に見えてきたところで、どんどんどんどん米軍はゲリラ部隊を作ってきたわけ。給料くれて、兵器与えて、そうでしょ?それから仕事ねえもの。だからゲリラさ入ってもらう、青年部、連中は。それがために、一生懸命当時は、日本が我々が上陸した頃は、教育した、若い者は。みんなもう、アメリカのほう、すぐ入っちゃって、ゲリラ化しちゃったわけ。だから結局、日本の例えば、将校を殺したって言えば、何ドルとかってお金もらえるし、下士官を殺したって、これもって、証拠持って行けば、何ぼって金、兵隊殺したって言えば何ぼって、そういうふうに賞金もらってらんだもん。だから、一生懸命そういうふうに狙ってるわけ、日本軍をな。だからもうゲリラったって。ところが、こっちだってほら、誰がゲリラか一般人だか、分からねえわけ。見分けつかねえのさ。服装は同じだし、でしょ?みんなフィリピン面してるし。どうにもならねえのよ。捕まえようがねえんだよ。だから結局、ゲリラと見なされて一般住民も被害を食ったっちゅうわけ、討伐なればな。これはしょうがないわけ。そういう状態だった。

Q:米軍上陸前もゲリラはいたのですか?

おったとは思うけど、そんなには多くはなかったと思うんだ。日本軍が上陸した頃は。そったにいない(=そんなにいない)、どこ歩いても安全だったもの。だんだんに米軍が攻めてくるに従って、ゲリラも多くなってきたと。あれはお手上げだよ、やっぱり。だから、小部隊で歩かれねくなってしまったの。いず襲撃されるか分からねえもの。だからみんな兵器、米軍から兵器を預けられてるから、自動小銃でしょ?みんなやられちまうわけ。

Q:どんなゲリラ襲撃を受けたことがありますか?

わたしは、野戦倉庫を襲撃されたことある、ゲリラに。だけど、そこの村長が前もって教えてくれたから。「今日ゲリラ来てるよ」と。前もって、態勢したから良かったどもな。ケガは一人もなかった、兵隊も、ケガもさねえし、戦死者も出ねかったけども。まあそういうもんでね、どこから、いつ来るか、分かんねえのさ。兵力は少ないでしょ、こっちが。野戦倉庫、膨大な品物がある場なんだもの。なんと、それ襲撃すればそら、そくっ(そっくり)とみんなゲリラが持っていくでしょ。食糧から何から、それだけ野戦倉庫なんだから。うん。いつかやられるか分かんねえんだもの。

「武装住民は敵と見なせ」ということだ。武装住民ちゅうのはな、フィリピン人はな、蛮刀下げてるんだ蛮刀。ヤシの実割ったりなんだりするのに。だからそれも武装だろ。その蛮刀が切れるんだよ。日本で言えば刀と同じだ。なんとへば、それまでなら住民はみんな武装住民だもの。ああ。鉄砲持ってるばりでねえもの。だから、いわゆるその、「武装住民は敵と見なせ」という命令は一寸強かったかなと思うなあ、いま思えばですよ。だけど、兵団長としては止むを得なかったんじゃねえかな。
ああもちろん、追い込まれてたと思う。それがやっぱり自分として自分の部下がやっぱりそうしてやられるっちゅうことは、やっぱり堪忍袋の緒が切れたっていうような形でねがったかなと思うな。

Q:米軍と戦う前に、ゲリラにやられたわけですか?

いや、だから、米軍が上陸してくる前に、ゲリラにやられる。それこそ、戦力なくなってしまうのでねえかと。わが藤兵団の。それだけゲリラがしゅん動したわけさ。多くなったわけだ。それで、やっぱり兵団長も黙っていられなかったわけだろうな。そういう、傷められた為に。それは確かなんだ。とにかく、ひどかったものゲリラ。まあ、フィリピンでは一番多くなったのがここ。いわゆる、レイテが陥落したあと、米軍が来たってなったら、もう、ゲリラが非常に多くなった。それはまあ、米軍の作戦であったらしいんだものな。やっぱり、その本部を置いて、米軍の将校が居て、してゲリラをどんどんどんどん増やしていったと。
やっぱり、どういう人だって、あれだけの責任を負わせられて、それをやっぱり、やり通そうとやっていけば、それを、いざける(邪魔する)のはゲリラだと、それに対してはやっぱり、報復すると。どこまでも報復するっていうことは、それは、連隊長としては当然だったんでねえかな。俺そう思うな。あの人の性格をいま考えてみれば。あの人は、その頃55歳だ。わたしは25歳だったけれどもな。

Q:住民と見分けがつかないと思うが、具体的にどういうふうに粛正したのですか?

いやあ、服装が皆一般人と同じなんだもの。一般人と同じなんだもの。だから全然判らねえわけ。そうして、兵器さ持ってるわけ。だけども、兵器は隠してるわけ、日本軍が来れば、日本軍が行ったあと、後ろから、バンバンバンやるんだ。全部それ、米軍の自動小銃でしょ。だから痛みが大きかったもの。それであと撃てば、パパッーと逃げてしまうんだもの。

Q:金森さんは、手を下したことは?

いや、討伐は行ったことない。俺はただ、ま、野戦倉庫を守る方だったから。俺の責任の仕事はな。

Q:具体的に、どうやって手を下すんですか?

いや、とにかく、「そこを焼いて、ゲリラがそこから出たとなれば、そこで日本軍がやられたとなれば、そこを全部焼き払ってしまえ」と。そういう命令だわけよ。それで焼き払ったんだ。そして、そこで生きてる人間は皆殺されたり、まあ女や子どもはね、まあ、残されたけど、男っていう男は皆殺されたんだ。そういうことがあったんだ。事実な。負け戦ってのは・・・だけどもよ。

命令は絶対なわけよ。いま、あそこさ行けば死ぬってことが判っていても命令はやっぱりそこさ行く、行かざるを得ねかった。ここ軍人勅諭あるよ。

Q:それは何ですか

軍人、これは軍人勅諭だ。これ、これが基本なわけ。

「下級の者は上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」だこら。ということは、上官の命令は、天皇陛下の命令なんだと、心得れと。な。こういう命令文は。だから上官の命令というのは絶対聞かねばいけねえもの、天皇陛下の命令と同じだもの。こういうふうな教えだったわけよ。

Q:逆らうというのはあり得ない?

ないない。できないわけ。命令になんか逆らうちゅうことは、できなかった。こういうふうな、この戒めの軍人勅諭というものをな、明治15年に発行して、軍隊の魂を入れたわけ、これだ。で、これからで持って日清戦争日露戦争ちゅうものを始めてくるわけ。「日本の軍隊は強い」というのは、これからだったわけだから。

Q:何故、今も持っていらしゃる?

なしてって、これ、俺いたましいから、もうこれだ、これから印刷したものねえから、投げるのもったいねえし、いたましいから取ってあるの。おそらく、みんな失くしたべ、だけど、わたしはもうこれだけはな、別に使うことはねんだけれども、今の時代は、だけれども、昔はこういうふうな教育を受けたって言う、だけは確かだね。ちゃんとあるんだこれで。

最初は、米軍が第一線よ。最初は。だんだん、だんだん、だんだんに、日本軍は、こう、撤退するでしょう、山さ、追い込まれるでしょ。そうなってくると、あとは、米軍はあまり出てこない。(ゲリラが)後ろから、どんどん大砲打ったり、飛行機やったり。そうするとゲリラが一斉にさ、くっと上がってくる。こういう形だったっけな。だいたい見てるにな。

もう休み無しよ。夜から、夜も昼も。休み無しで攻撃してくるから。おらがたは山の中に居るでしょ?だから、山の中もジャングルも油まいて焼いたり、それこそ、そういう作戦やるのよ。だから、山がずっと焼かれてしまうのよ。そうすると、洞くつとかみんな見えてくるのよ。そして攻撃してくるのよ。

Q:どういう風に攻撃してくるのですか?

だから、あったべ?あの穴。ああいう穴が見つかれば、ほら、あそこやられれば、今度ほら

Q:それは、空からですか?地上からですか?

空からとか、砲撃から、やられる。それこそ、米軍は、全くその、砲弾とか爆撃とか、こだわらないわけ。無限に打ってくるわけ。こっちはもう弾が無くなってるんだし。あっちは、いくらでもあるわけだし。打たれっ放しなわけ。

Q:米軍と日本軍の兵器はそんなに違ったんですか?

違ってるさ。向こうには、ほら。我々の兵器には、小銃と機関銃しか無いんだもん。あともう何にも無いんだもん、野砲もやられてしまったし、ただもう、小銃と機関銃ぐらいなもんだもの。軽機関銃どか、重機関銃。米軍は、こういう大砲、ドンドン、ドンドン打ってくるし、戦車砲でドンドン打ってくるだろうし。飛行機は飛んできて、爆撃で、だからもう、雲泥の差なわけよ。赤子をつぶしたようなもんだ。敵から見ると。

Q:日本兵は、どんな作戦で戦ったのですか?

作戦ったって無いのさ、あと、斬り込みだけだよ。斬り込み。夜、斬り込みに行って、米軍の宿舎を攻撃するとか。そういう風な方法しか無かった。

Q:斬り込みってどういう?

斬り込みよ。斬り込みって字の通りや。これはもう、米軍の宿舎を攻撃するな、だけど、それは成功しねがった。

Q:それは手りゅう弾を持って・・・

手りゅう弾を持って行ぐわけ。鉄砲持って行くんだけども、なんと、米軍の防御の態勢が良いもんだから、やられてしまう。二度と帰ってこねがったな。

Q:斬り込みをするようになったのは、いつ頃からですか?

もう、マレプンヨ山さ入ってからよ。そういう戦争しか出来ねがったっけな。ほとんど斬り込みにいって死んでしまった。我が兵隊は。

俺だって命令でだったもの、一回。「斬り込み隊長になって行って来い」と。水杯とって、今、出発するっちゅう時に、参謀長来たんだもの。俺らの参謀長がね。「今日の斬り込み誰だ」って、「播磨(=旧姓)曹長です」ったっけ。「今日は中止だ」って。中止なったんだよ。あれ、1分か2分遅れていれば、出てしまってあったんだけどね。あれは、運良かったんだな、おれは。

Q:どうして中止になったんですか?

分からね。それは。中止だって、やんねがった。

Q:斬り込みっていうのはどんな気持ちでした?

あと、もう帰ってこねえなって思う。そういう覚悟で行くんだ、やっぱり。

転進だよ。退却、「逃げて別さ行けと、どこかさ」。だから、マレプンヨを撤退してバナハオ山に転進したわけ。人畜未踏の山さ入ったわけよ。兵隊長と我々は。

Q:転進とは退却のことですか?

そういうこと。退却。だから、軍隊語では、転進ってうまいこと言ってるわけよ。だけど、それは逃げることなのよ。このマレプンヨから逃げたってことよ。だけど、逃げたって言われねぇべ?軍隊さ。だから転進なわけよ。そういう言葉を使ったわけよ。

Q:バナハオ山への転進というのも、完全に敵に包囲されている中、どのように行ったんですか。

これはね、マレプンヨから出て、昼間は歩かれないの。昼間歩くとゲリラなり住民に見つかるから、夜だけの行動だった。だから、4月29日の夜、マレプンヨ山を脱出して、バナハオ山の8合目さ、集結したのは、5月の中頃だな。半月以上かかったな。上がって行く時に見つかって、戦争してだよ、ゲリラとな、ゲリラと戦争しながらね。そして行った、夜しか歩けねから.地図見て夜だけ歩くっていうんだから、一日3里か4里しか歩けねじ。だから、はかいかねえの(はかどらないの)。とうとうバナハオ山に行ったのは、ちょうど、山さ入ったのが、8合目まで行ったのが、5月の中頃だ。15日頃だったな。そうしているうちに、各部隊の生き残りが入ってきたんだ

Q:夜のジャングルを歩くとは、どんなものですか?

全然、分からねえさ、だから、前の兵隊の後ついて歩くほかねんだよ。だから、一晩に1里2里歩けば、手一杯なんだわ。人のおる部落歩かれねえろ?道路は歩かれねえでしょ?何も道路の無いところ、部落でもないところ。あそこ、犬が多いんだ、犬が、犬に見つかれば、犬が吠えてくるでしょ?夜でも。ほんで、なるべく部落から離れて離れて歩くの。ひどいもんだった。途中でだいぶ死んだよ。ゲリラにやられて。戦争して。戦争で。

Q:転進の途中でゲリラに?

追われるんだもの。足跡見て追ってくるんだもの。足跡が残るんだもの我々。それ、「バナハオの方へ行ったな」と住民が見つけるでしょ?ゲリラが、その後ついてくるのよ。今度、戦争なるのよ。そんなの何回もやってな。繰り返し繰り返しやっていって、そして、バナハオまで行ったんだ。

Q:バナハオ山で、5月から9月まで居て、その間に米軍は攻撃してきたのですか?

いや、米軍は来なかった。鳥海山のような、ああいう山さね、ここに200、300の軍隊が
入ったって、どこに居るか分からないでしょ?ゲリラも来ないし、空襲も来ないし、砲撃も来ないし、全然分かんねがった。だから、その点は心配なかった。敵も、米軍も攻撃辞めてあったもん。あと我々は、もう生きていくことを考えれば良かったもの。食べ物は自分でな、芋とかヤシとかってよ。自分で集めて、現地自活生活だったものな。それしか無い。

Q:一番の問題は、食べ物でした?

食べ物よ。あと食い物だけだもの。いかにして生きるかだもの。それでもまだ、戦闘するって気持ちはあったんだな。「いずれは本土で総攻撃があるだろう」と。「それまでまだ、生きていよう」という気持ち。話の中では、あったな。

Q:飢えとの戦いは厳しかったですか?

それはそうだろう。何にも無いだもん。あとは、野生の物を取ってきて食うだけ。その点は、山が大きいから、その点は助かったもの。さっきいった通り、穀倉地帯だから、ここは。なにかしら食い物はあったわけ。それで、餓死者は出ねがった、うちの連隊では。マニラ島の方では、全部、餓死が出たの、餓死が、餓死して死んだんだもの。食い物無くて。話を聞けば。それだけは、17連隊は、うちの兵団は幸せだったなと思うな。何とかかんとか食い物はあったもん。

Q:盗みにいくわけですか。

盗みに行くの。畑さな。ただ、取って食えば無くなってしまうから、食うだけ苗を植えて来いと。そういう指令を出してさ、兵隊さ、取っただけ苗を植えてこいと、その苗が2か月も経つと、また、食うたけなるんだよ。あそこはやっぱり育つんだ。

Q:盗みにいったら、住民とか、ゲリラは?

住民がたが、自動小銃を持ってくるようになったの。畑さ。だから、昼間は物取られないわけ。山から、こう、昼間、下りてきて、夕方、下へ下りていく、そして、夕方、畑で働いている住民が家さ帰る、帰ってところを見て、今度、畑から取ってくるわけ。そういうやり方をしたんだな。それでないと撃たれちゃうもの。向こうは自動小銃を持っているから。

Q:「終戦したのかな?日本は敗戦したのかな?」と知ったのはいつ?どんな状況でした。

それは軍使。軍使を派遣してあったの。そして初めて、向こうから終戦の、そのとき既に、山下閣下も、横山閣下も、皆、山から下りて、モンテンルパに収容されておったのです。そこへ軍使を出したの、そしたら、みんなそこさ収容されていて、山下将軍から終戦の命令をもらったわけ。「山から下りなさい」と。それで今度、山から下りることにしたの。9月の25、26、27と、3日かかって下りた。

Q:終戦を知った時は?

「とうとう負けたかな」と思った。あと、その後どうなるか知らながったから。

Q:「どうなるかわからない」とは?

いや、米軍の指揮に入れば分からないでしょう。あと、米軍の言う通りになるでしょ?負けてしまったんだから。だから、米軍の処置がどうなるか。あと分からなかったの。結局、刑務所さ、収容されていたのが、兵団長とか、参謀長とか絞首刑だべ。裁判で。わたしなんかは、容疑者として、軽蔑されたんだ。そういうふうに、どんどんどんどん戦争犯罪というものを作っていったんだ。米軍はな。何も悪いことしてねえんだよ。実際から言えばな。だって、負け国は、負けたからしかたないんだ。

Q:軍使を派遣したって、よく、モンテンルパまで行けましたね

だから、タヤバスの米軍の支部隊がいたのよ。そこに司令官さ行ったの。それが、ジーブに乗へて連れてくれたの。モンテンルパまで。参謀長の参謀だ。死んだ伊藤参謀長の、あの人と参謀長と2人行ったんだ。ジープさ2人しか乗られねって言うから。

Q:直接命令を聞かないとだめですか?

んだんだ。命令を聞かないと、我々、山から下りねっってな。んだったの。それだったの。

♪連隊歌を歌う金森さん♪  

Q:それを歌って山から下りたのですか?

山から下りたの。米軍はビックリしたあったよ。ビックリしてらったっけ。ビックリしてる顔だっけ。並んで見てらっけよ。俺がた、下りてくるの。堂々と下りてきたよ。戦争負けたどって、下りたわけでねんだもん。天皇陛下の命令でもって、終戦の命令もらって、下りたんだもん。そう頭の判断だもの。だから、負けたと思ってねえの。陛下の命令でもって山から下りた。それはみんな同じだった。だから、堂々と、この17連隊歌 歌って山から下りてきたわけ。だから米軍ビックリしてらったわけよ。そういうもんであった。

Q:収容所ではどのように過ごしていたのですか?

いまの8兵団が収容になったときは、1か月終わってるでよ、戦争終わって。よその部隊がた、みんながた収容されてしまっているのよ。俺は、一番遅い方だったんだ。入ると同時に、今度、みんなバラバラにされたの。ボッシャが何百 出たっちゅうな。皆、アルファベットにされたの、今度。播磨なら播磨でしょ?いついつ。そしてよその部隊と、九州なんだか、北海道分からね部隊と、みんなごちゃになってしまって。バラバラになってしまう。だから組織、17連隊の組織みな無くなってしまった。あれが、米軍のやり方なんだ。そうして、バラバラにされて、だから、あとは17連隊同士話するってことは出来無くなっちゃったわけ。

戦犯の容疑だべ?呼び出しきたの。兵団長のところの、兵団長だか参謀長がたのこと。全部絞首刑するってやったんだし。それと、あと、結局、俺の事も、それに引っ張っていく形で、俺は尋問されるわけ。中に呼ばれるなやよ。それで結局、昼間は作業されるし、たまに一週間に一回位、俺は呼ばられるの。そして尋問されるの。わたしは、まず、知らぬ存ぜぬで通したけどね。

Q:首実検も受けたんですか?

首実検も受けたな。そのときはまあ、さっき話したみたいに野戦倉庫の警備隊長やってら時の、村長が来て、村長は良い村長でな、「この人は、いい人だから、そういうことはない」と。それであれ、ばつ刑(刑が無くなった)になった。あれが悪い人であれば、俺はコレ(首をはねられる)だったな。そういう紙一重だった。

Q:3年間は長かったですか?

長い。長いよ。あれは本当に。「なんで俺は弾に当たって死ななかったんだろう」って思ったよ。3年間も、本当にもう。普通の3年と違うよ。なんにもならない3年でしょ。だって米軍の言う事聞いているしかねんだもん。あれはつらかったなぁ。戦争よりつらかった。嫌だったなぁ。忘れられないな、ああいうのは。

Q:死刑判決を受けた藤重兵団長は、どんな様子でしたか?

もう、兵団長はもう、覚悟してらったでしょ。ひょうひょうとして死刑を受けているな。あとで聞いた話だけれども。武士らしく。死刑だったってな。んだって聞いた。

Q:自分を可愛がってくれた兵団長が、死刑になるというのは、どういう思いでした?

やっぱり、淋しかったなぁ。だから、未だに、ここに位牌作ってあって拝んでるよ。お位牌。兵団長、参謀長の。毎日お茶あげて、ご飯あげて、それで拝んでるよ。

これは命拾いしたと思ったよ。おそらく皆そうでしょうね。命拾いしたと思った。俺は生きて帰るとは夢にも思わなかったんだけど、やっぱり、生きたんだなと、あのとき、輸送船で船で迎えにきて、船さ乗ったら思ったな、マニラで。船さ乗るまでは、まだ疑心暗鬼だったけど。

Q:戦後65年経って、この65年をどのように戦争というものを消化して過ごしてこられたのですか?

これね。わたしはやっぱり、まぁ、満州、ロシアとの国境で5年。フィリピンには5年。丸10年、外地にいたわけだ。フィリピンの5年っていうのは、そのうちの3年は刑務所だ。2年間は戦争や。でしょ?そういう生活だったんだよ。しからば、それがどうかと、自分の人生に対してプラスになったか、マイナスになったかとなるとね、わたしはプラスになったと思う。俺は素人だし、軍隊で飯を食うつもりで軍人に志願した男だから、これが商人になるなんてことは夢にも思わない。当時ね、勉強もしていないし、ソロバンもうった事ないんだから。それをね、60年間やり通した、この商売を。

丁稚奉公から鍛えあげて、そして、勉強して慣れて、そして、魚屋やって、水産の卸やって、今現在は、あの工場立てて本社を作ってるでしょ?ここだって、それで儲けて買ったんだから。だから、何がそうしたかっていうのよ、それ精神力だと思う。10年間の軍隊で色んなこと教わったわけよ、10年間。でしょ?死ぬ目にもあったし、刑務所さも3年も入ってたべし。その精神力。それを乗り越えてきたんだから。乗り越えたんだから。その精神力ってのは人には負けてねと思うよ。誰よりも負けねえと思う。何やったって負けねという自信はあったもの。それごそ、プラスだったと思う。自分の人生としては。

Q:亡くなった仲間とか部下とか皆さんへの思いは?

本当に、終戦近くなると夢ばり見るよ。戦友の。これ仕方がね、一生おそらく夢見ると思うよ。そしてまた、俺はもう、あなた方が犠牲になったおかげで、俺は長生きしたんだと。俺は感謝の気持ちでいるなや。だけども、死んだ人はな、これ二度と生きて来れねんだから。ただひとつ残念な事にやっぱりね、その死んだ遺骨一つ持ってきてねんだから。でしょ?日露戦争、日清戦争では、全部死んだ人のあれ、一人だって向こうさ置いてこねんだ。みな持ってきてるんだよ。これ太平洋戦争だけは、これ、ひとかけらも、持って来られねかったんだよ。みんなフィリピンの山さ、土になってしまったわけよ。それがかわいそうなの。だからやっぱり、それで、それから、26回もフィリピンさ巡拝に行ってるんですよ。行ってきたんですよ。

Q:今、フィリピンの住民の方への思いはいかがですか?

わたしはね、26回も行ったんだけど、それこそ、フィリピンの村長達とか、偉い人方、非常に、みな友達だったの。でも、みな死んでしまった。だから、今、行ったって、誰もあんべた人(一緒に居た人)は居ねは。だから、なんていうかなぁ、フィリピンに対しては申し訳ない事をしたなぁと思っている、あれは。だから、フィリピンと戦争したんでねんだもん。日本とアメリカと戦争したんだもの。フィリピンは場所貸しただけだもの。

出来事の背景

【ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年、日本軍はフィリピン・レイテ島で大敗し制空権・制海権を失った。援軍も補給も断たれるなか第14方面軍・山下奉文司令官は、ルソン島での持久戦を決断。南部の守備隊10万人のほとんどを、マニラ東方の山岳地帯に配置した。

ルソン島南部の守備に残された秋田県・歩兵第17連隊は、将兵およそ3000人。その多くは戦闘経験のない20代前半の若者たちだった。日本軍が手薄になったこの地域で、米軍はフィリピン人抗日ゲリラ部隊に武器・弾薬を与え、活動を活発化させた。ジャングルに潜むゲリラから度重なる襲撃を受ける中、第17連隊長・藤重正従大佐は、このままではアメリカ軍と戦わずして壊滅すると判断し、ゲリラと協力する住民に対する粛清命令をくだす。9万人以上の犠牲者を出したともされる日本軍のゲリラ討伐により、フィリピンの人々の日本軍への憎しみは決定的となった。

昭和20年3月、激しい市街戦の末、マニラが陥落。米軍は第17連隊が守るルソン島南部に攻め込んできた。最前線に立つのは日本軍への復讐に燃えるゲリラたちだった。包囲され猛攻撃を受けた連隊は玉砕を覚悟したが、方面軍から最後まで持久戦を貫くよう命じられた。やむなく30キロ離れたバナハオ山への転進したものの、マラリアや激しい飢えが兵士たちを襲った。

第17連隊で終戦まで生き延びたのは、およそ700人。その後、20人あまりが住民虐殺の罪に問われ、藤重連隊長以下5人が処刑された。

証言者プロフィール

1921年
秋田県平賀郡睦合村にて生まれる。
1937年
睦合尋常高等小学校卒業。
1939年
歩兵第17連隊入隊。
1945年
フィリピン・ルソン島にて終戦を迎える。
1948年
復員。復員後は水産会社を経営。

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