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タイトル 「撤退路で襲いくるゲリラ」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~
氏名 藤田 三司栄さん(秋田・歩兵第17連隊 戦地 フィリピン(ルソン島)  収録年月日 2010年6月23日

チャプター

[1] チャプター1 ルソン島へ  08:34
[2] チャプター2 軍票の乱発  05:01
[3] チャプター3 米軍の襲来  04:49
[4] チャプター4 マレプンヨ山からの脱出  04:48
[5] チャプター5 相次ぐゲリラの襲撃  03:54
[6] チャプター6 バナハオ山での孤立  06:44
[7] チャプター7 終戦  07:20
[8] チャプター8 軍旗捧焼  02:52
[9] チャプター9 住民虐殺の罪  02:47
[10] チャプター10 世界は不戦を誓ったはず  02:46

再生テキスト

7月であったな。動員かかったんず、それから遅れたんだよ、2か月ばり(ばかり)。ストップかけられたんだ。どこさも動かしねえじ(から)、ストップかけて、さらに命令が来て、それから行き先わからねよ。それで、分かったやつが、朝鮮さ来てたんだ。朝鮮の釜山鎮というところが在るんだ。釜山の手前に釜山鎮というところに来て、夏服、渡されたんだよ。「おかし(い)な」ってみんなでしゃべってたっけあとに、1か月位あってか「フィリピンに行くらしい」と。だから、水泳の訓練をさせられた。船で。したっけ、何のための水泳訓練だって、船から降ろされた時、そこから脱出するためには、なんぼう(いくらか)泳げねば困るって、1か月間訓練せられたよ。そういう、ようやく向こうさ着いたばって。これもまた、運だ。それさ(船に)軍旗積んだのよ。軍旗。軍旗は飛行機で送る予定で。軍司令部からは、「飛行機で送るから、あんたがたは、あんたがたで、行けば良い」と。言う事だったけども、連隊長は「これはダメだ」と。「軍旗は俺の手から離すわけにはいかない」と。そして、強引に軍旗を一緒に連れて行く事になったわけだ。そうすると軍司令部も、そうなればやっぱり、黙っておかれないって、飛行2機で護衛させて、フィリピンのマニラさ上陸した。で、1回も攻撃も来ねえしな。この前には、かなりやられてるんだ。船さ乗ってって、ほれ、潜水艦でやるやつ。アメリカの。そういう風な状態が続いたもんだ。

Q:17連隊は何で潜水艦にやられなかったですか。

だから、それは、飛行機で護衛したから。何故、飛行機が護衛したかって、軍旗が乗ってたから飛行機で護衛したの。だから、おら(ほ)の連隊長は、強引にやったもんだの、「良い」と「俺は軍旗を手放すわけにはいかないから」って。そうすれば、やっぱりダメだなということで、軍司令部では飛行機2機で護衛してくれたから、13隻の船団が全部無事に上陸した。その後「何隻もやられてるんだ。半分より、100万の兵力を送って50万が海でやられた」と。こういう話であった。ひどい話しだべ?半分だよ半分。

Q:船に乗っている時の気持ちは怖いものでしたか。

怖いっていうか。怖いってば怖いな。みんな甲板さ上がって、潜水艦って思ってれば良い。魚雷もわかってるべ?魚雷の監視を上さ登ってそして、叫(か)ぶの。「右だ右の方だ」って叫(か)ぶ、へば、それを追って、機関士は、こっち行ったり、して。一回「あぶねー」って、これだけ離れて魚雷が抜けて行った時もあった。バンとぶつかってたら大変だったな。だけど、あれ見れば、おっかねぇったな。

Q:フィリピンに上陸した時の気持ちはどうでしたか。

いやぁ。上陸する前に、敵の潜水艦が、さっき、しゃべったように、2機が護衛したべ。2機が護衛したところで、今度よ、潜水艦を発見したわけ、飛行機から見えるものな、したっけ、真っ赤な火柱が、グァーっと立ち上がったんだ、その時だば、皆、バンザイした。日本の飛行機が2機、代わる代わるに、こうやって、敵の潜水艦をつぶしたもの。火柱が吹いたもんだったも、皆でバンザイしたずよ。そんなように上陸した。その前は、前後は、皆やられてるんだ。あれも、おら方の連隊長がやっぱり、軍旗を持って行かねば、やっぱりどうなったかは、わからねえな。

Q:着いた時はホッとしましたか。
ホッとしたな。そんとき、ホッとしたけれども、これから先が今度、あっちは、常夏の国だべ。暑(あぢ)くて暑(あぢ)くて、今度、歩いて、ちょうど80キロか、秋田まで100キロだっけか、こっから(大舘から)。だな、80キロまで歩かねばねんだ。それが、容易でねがったな。だからもう、朝に早く歩いて、今度、暑くなればは、歩かねね(歩けないでしょ)。そして、ようやく、向こうさ到着した。

Q:どこに?

バタンガス。マニラからバダンガスまで、80キロ、100キロあるな。それを何日かかったっけ?1週間以上かかったべ。

軍旗隊という風なものは、結局、「軍旗守る」というのもそうだけども、それと共に、「連隊長な、連隊長を共に守ろう」と、それの、いわゆる守備さ、守備。だから第一線さ出ねわけ。せば(だから)後方まで下がってるわけ。それもほら、人数もだんだん少ねぐ(なく)なってきたどもな。だがら、軍旗隊さ入れば、戦争さねって(しないでも)良いって、昔からしゃべられたもだもんだがな。

Q:どんなお気持ちで軍旗を守っていらっしゃったですか。

いやぁ、やっぱり日本の、軍旗は日本の代表的なシンボルだべ、シンボル。そういう感覚でとらえていたもんだ。あだがた(あなたたち)は、ちょっと、理解へねべ(理解できないでしょ)?理解へねべって。今の感覚でいけば(や)。軍旗っていったいなんだもんだかって、そういう感じさねが(しないか)?

ゲリラはいた、いた、いた、いた。みなゲリラなったった。みんな。ということは。最初は日本さ(日本軍へ)付いてあったのよ。アメリカ人は日本の、そのときは日本はまだ、物も豊富であった(べ)し、面倒見も良かったのよ。ところが、だんだんだんだん、食料が無くなり、そうすれば当然、軍票でもって、軍票って分かるか?軍票でもって買わねばね(ならな)くなったわけ。あのフィリピン人から。米でも何でも、それが今度、フィリピン人から言わせれば、あの軍票はお金だって言うけれど、実際は、こういう風に戦争が逆になってきたたえ(ため)に、あれは、実際はダメだって、今度、フィリピン人も、やっぱり気付いてよ、「これだばいらね(いらない)」と、「軍票だばいらねえ」ったって、「物と物の交換ならいい」っと。いう風に変わってきてあった。そういう点はある。確かに。最初はごまかしだもの。軍票ず(て)やつ。勝ってれば、あの軍票活きてくるべ?だけども、負けらべなったところで、これはダメだってことは、フィリピン人は分かるべな。だから、こっちから軍票出してやっても、「それだばいらね」って。「物と物との交換なら良い」と。こういう風になってきたっけ。だんだんと、アメリカさ協力するようになってきた。それが、それこそアメリカでは、おだてるべしコイン(銭)も、ける(くれる)かもしれねし、それでこら、いつの間にかは、味方が敵になってしまった。弱い国ってみんなそうだ。良い時は良いかもしれねけど、やっぱり当時の勢力に支配されて。日本だって、あのまま勝ってればよ、たいした尊敬された国であったとして、何も物無くなれば、相手だってあれだもな、それさ、頼りにしてだば居られえねぐ(なく)なるやな、やっぱりな。そいで、ガラッと変わった。そして今度、女の人もスパイになった。情報、情報をどんどんどんどんアメリカさ(が)ほら、「ここの兵隊が居たとか、居ねとか」みんな。それで、最初は、男だけであったけど、最後は「女も、皆、同じだ」というので「女でも殺せ」とそういう命令まで下ったよ。

Q:どんな命令でした。

だって、あの、命令って「殺してしまえ」って。「殺してしまえ」っていうに、敵だって。「敵だから殺してしまえ」って、殺してもいいっていう意味だった。それもわが(か)んねくね、分かる。今までは、たいしていがった(非常によかった)やつが、ガラッと態度変わってしまったべ?アメリカさ、なびいてしまったなさ。だから、そいだば、敵だからって。

Q:藤田さんは、誰からどんな命令をうけたんですか。

我々、おらだけでは、命令ってのは、ほとんど受けた事はねわな。「あっちさいけ」とか、「こっちさいけ」とか、場所変えて「あっちさ行け」とかはあるけど、特別な命令という風な事は、ねえな。特別な命令は。

Q:ゲリラを殺せっていうのは誰からの命令ですか。

我々は、ゲリラ殺せなんて、そこまでは、一般の中隊にはそれをやるけれども、あの、軍旗隊とかそういう本部のやる人は、直接に携わらね。敵を殺す、殺したりなんかしたりすることには、携わらねはずだ。一般の兵隊の問題で、処理してしまうのだ。

これは、我々が戦争の本当の、トコトンやる前に「これだば(これでは)、とても、アメリカさも、歯が立たね」と、分かったやつが。ブルドーザー。分かる?あのブルドーザーってやつを、われわれ、見た事もないし、聞いた事も無い、ブルドーザーってやつ。だから、「山崩し」って名前付けたの。みんなして「山崩し来た」って、「山崩し来た」って言ったもんな。こっちからシャベル持って、そして、穴、土あげて、そして、戦車が来れば、通れねえように、ずっと掘ったもんだべし。ところが、いざ来てみれば、ブルドーザーで崩していくもんだもの。ものの5分もたたねうちに、みな平にしてしまうってばな。「あっと、これだば戦争にならね」と。そう我々は感じたものだ。あのブルドーザー一つで。ブルドーザーって名前知らないもんだから、「山崩し」って言ったもんだ。

Q:ブルドーザーで、道を平らにして通れるようにして、そのあとから戦車が来るんですか。

だから、それを崩してしまうのよ。な。日本人がせっかくシャベル持って土あげて、こういうふうにして、やるは。あの、ブルドーザーが来れないようにしておくのは。ところが、これだば、すぐ、あっちからもこっちからも、土持ってきて埋めてしまう。5分か10分のうちに。だからそれ見たっけ(ら)「これだば(は)、戦いものにはなるもんでないな」と。俺はみんなそう思った。飛行機でもそうだもの。どうしてそんな大きいもの。何、飛行機だっけあれ、1万メートル飛ぶやつ。それが、日本の高射砲8,000メートルしか飛ばね(ない)、弾が飛ばねんだやな。なんぼ撃ったって、おっこんねおんなげおん。(墜ちるわけがない)1万メートル走ってるもんだもの。それを見てもや、「こいだばとても(こんな状態でも)戦わねばならねえな」と思った。撃ってるよ。撃つったて、なも、届かねもの。それさ。だから、とても、あまりにも、兵器の差があるもんでよ。

Q:アメリカは攻撃はどう攻めてくるんですか。

アメリカは、攻め方っていう事はよ、とにかく機械な。兵器、兵器。兵器が日本の兵器よりよ、一段も二段も優れてるもんだおん。飛行機なんて本当にだべ?1万メートルも飛ぶしよ。あの戦闘機なんて早いもの。グラマンなんて、日本の戦闘機より速いもの。だから、それ見てるもんだっために。低空もするし、あの飛行機にやられるやつは、おっかねがったなぁ。低空してくるやつみれば。あれ一番おっかねがった。

Q:地上からの攻撃は?

地上から、こっちから、鉄砲撃ったり、機関銃撃ったりして、ほんな(そんな)もんだべし、あとは、野砲はあるったって、歯立たね(ない)な。そして、物が余計あるし、優れてるし、日本のアレだば(は)、とてもな、どうもならねがったな。それを分からなねで、戦争したもんだべがら、精神力で、精神力で戦ったもんだべ。

マレプンヨのアレ(高さ)は、高さがよ、800メートルかそこらの高さでねえが?んだから、バナハオってばもう、アレの何倍も大きい山だわけだ。だから、ちょうどいい、それさ穴掘って、さっきあの穴掘った写真見へ(せ)たべあれ、そこさ横穴掘って、そこに色んな物を貯蔵して、そこを起点にして戦わせたわけや。で、最後になれば、あの山が、マキリン山かあの山が、完全にアメリカに包囲されてしまって、4月29日は総攻撃があると、いう情報が入ったから、今度は、にわかに命令が出されて、9時、ここ出発って。重い物は持たなくても良いと、重い物はみんな置いて、身軽にしてバナハオさ行くと。これで、たった1時間のうちに、あっこから脱出せと。で、もし、体を壊している人、歩けねが(なか)ったり、それからあの、物を持てねが(なか)ったりそういうふうな人は、全部手りゅう弾を渡して、自殺せ(しろ)と。自殺せっていわねけども、そういうふうに、手りゅう弾渡したもんだ。あれはつれ(つら)かったなぁ。俺は1人、鷹ノ巣(北秋田市)の坊沢から来た、キムラってやつはよ、これここ(左胸)やられてるんだよ。「なんとか、俺の事、連れてってけれ(くれ)ねが」っ、俺さ願うったので、んで、「おめどこだって」いったっけや、「俺、坊沢だ」っていうから、したら、やっぱり、坊沢は(自分の)近間だからな。だから俺も里心だ。したら、「人さ迷惑かからね(ない)ように、な、自分の事は全部自分でやれと、それで良いとすれば、弾も持たねっても良いし、鉄砲も持たねっても良い。黙って付いてきても、自分の事は自分でやって、人さ迷惑けんねっていうんであれば、俺ば連れてっても良い」と、こういうことで、連れてきたんだ。薬が何も無いべ、だんだん高いところさ行けば、山の水が、冷たくなってくるし、きれいになってくるし、それをしょっちゅう掛ける、そして、山の頂上のバナハオの頂上さ行って、1晩か2晩か居た、その傷がほとんど治ったけな。そういう風な事もあった。だが、あれはやっぱり、これが治ったためによ、俺、そのとき、マラリアさかかったんだよ。そのときな、熱ぐっと上がった。俺こと(キムラさんは)、寝ねで看病した、朝間まで、水取り替えて、取り替えて、冷やして、そして、そういうこともあった。

Q:4月29日に総攻撃をかけるって決めたんですよね?でもなぜ、総攻撃をかけなかったの?

全滅するもの「向こうから総攻撃かけられる」という、情報が入ってよ。敵の方から。「よしっ、そ(ん)なこったっらココ脱出する」と。いうので、脱出した事によって生きてきたばってな。ただ、ほれ、今言ったように、残された人は、何人かは、自分で自決したかもしれねども。まず、そういう状態だ。

マレプンヨ山のとこから撤退して、そして、5月の3日の日に、この、バナハオまで行く間、10日かかったな。で、夜は歩いて、昼は隠れて、夜這って、そういう行動をとっていたわけ、ところが5月の3日の日に、フィリピンに見っかって見られたわけ。な。そしてフィリピンが戦ったわけ。ほいで、みな鉄砲もっていたわげや。第1回目は、追い出した。俺ほの兵器のほうが、軽機関銃だとか重機関銃まで持っていたもんだから、こっちの方は、はるかに兵器の方は、良いものばり持ってあったから良かったども、ところが、こっちからやられたもんだから、逃げたわけ。そうした後さ、飛行機来たん、敵の飛行機が、観察機、それを観察して、「今、日本の兵隊がどこに居た」ということで、向こうの大砲、大砲の方の陣地さ、皆、連絡とって、そっから撃たれた。それが、その撃った大砲が、みんな、おら居たこの後ろばかりに弾落ちたっけね。これが、こうやられてくれば、たちまち、我々もやられてあったけども。ここで止まってしまったんだな。だからまず、やられねがった。そしたら今度、向こうからまた攻めて来たんだ。それが、フィリピンの兵隊だ。だから、アメリカ人なんで1人も来ね。みんなフィリピン人。フィリピン人に戦わへれえじ(戦わせて)アメリカさ後ろさ付いて、そういう、それさのせられてへった。(のせられていた)。

結局、最後は、フィリピン人のゲリラと戦うばかり。アメリカはズルいもんだもの。そのかわり、負けるようになってくればな、化学兵器でもって、叩いてくるばってん。鉄砲もってあるじだって(鉄砲は持っているけど)絶対自分は出て来ない、アメリカ人なんてズルくて。ところがアメリカ。あの、日本人もや、向こうも鉄砲、こっちも鉄砲ってもいいはずあ(言うけれど)、ここで負けたべな。2回目のとき。あれ、(フィリピン人は)木登りすごく上手だもの。ヤシの木さ、ヤシの木さ伝って、上から、これやられるんだよ。上から。それで、日本人がやられたんだ。本当は。日本人は、伝って歩けない。そういう点で、もっと上ばかり見て、まさか、上からだば来ると思わねがったべ。下ばかり見たべ。したら、上からバンバンバンバン撃たれるに。ヤシの木さ、伝って上から。んで、俺ほの兵隊、3人もよったり(4人)も殺されたんだよ。

Q:ヤシの木の上からゲリラが?

うん。だから、日本人だば、伝えねばヤシの木さ。ほいってばまだ(それって、まるで)、猿っこみたいったもんだいな。フィリピン人はな。ヤシの木さ伝っていくやつ。

Q:バナハオでも、米軍やゲリラの攻撃はあったのですか?

それだばや、「来えね、来えね。来えね」ってことは、分かってあったんだ。

Q:来られない?

どうしてこれ(急斜面)だもの。急で。急で、じったこったら(そんなことなら)、上から撃った方が早えもの。撃たれるもの。こういう急斜な斜面なってるところがあるもんだったために。そこまでは、攻めて来ない。あのアメリカだって。なも、戦、勝ってしまったんだも、もう何も構わないもの。なも、構わなくたって、日本だっけ(だって)、攻めても来れねえし、力もねえし、食う事ばっかりしか考えていないもの。だから、そういう点については、アメリカだば、なにも、全然構わねがった。そして、出して寄こすってせば、まず、ゲリラの連中を出して寄こせばよかった。それさ、おだてたり、じぇんこ(銭)くれたりして戦わせれば、大っきいもんだもの。

Q:バナハオが、そんなに大変じゃなかったのですか?

いやぁ、そこさだば、アメリカ人だって登って来ないって。絶対に。それだげの高い山だしよ、来て何あるって、あれまで登ってきて、なんも収穫ね。そりゃ誰が考えたって分かる。んだがら、(日本に)好ぎな様にさせでも、もう、戦、勝ったてことはアメリカはわがってるもんだっために、しづがわねわげよ。

Q:バナハオ山で、一番大変だったのは何ですか?

やっぱり食糧だな。一番の。まず、塩は無え。まず一番最初はこれは、米は無くなって当然だ。2日3日の間に米は無くなってあった。持ってた米は、みな食べでしまったし。それから、あとは塩。松ねぇ。松、火。あれはしかし、あれ無いもんだなぁ。あの、この石さや、あれは火ださせでやるもんだな、やっぱりな。「窮すれば通じる」てゆうもんだがらな。松無くてもそれは何とかかんとかなって、一火つければ、あと、みんなさ回していぐもんだために。それど、もう一つは、塩。塩の無いのが参った。何食べても、塩無ければダメだもんな。やっぱりな。うん。そして自分の体なめってみでもなんも、塩気なんも無かった。んだども、食べいれば、痩せては行かなかったな。塩気は無くなっても、疲れがくるものな。疲れが。これが一番の切ないのが塩であったな。んだども、もう2・3か月続けば、餓死しなければならなかった。もう、じゃがいも・さつまいもも、だんだんはぁ盗んで盗んで盗んで、無くなってきたっけもの。んだって、向ごうだって、盗まれるつもりであったから作らないもの。ずっと、山の上さ作らないで下の方さばり作るようになったもの。野菜を。んだがら、もう、2・3か月続けば「恐らくって・・・」しゃっべてあった。あど、2・3か月ってば、これあ、大変だなって。そんたとこさ、終戦のあれ(情報)が入ったもんだがら。

Q:食糧はどうしてたのですか?

それでさ、結局、俺も兵隊さいで2か所位、あの~襲撃した、相手をや。相手を襲撃した。夜、夜ばかりな。夜中ばかり行って。それがら、牛でも馬でもいれば、必ず一頭殺してそれから食ったもんだ。骨だげ残してあどみんな食べだもんだ。塩気無くても肉質に少し塩気あるもんだものな。一頭捕れば、あどしばら、生活はでぎたがら。あどは、ミズ(秋田にもある山菜)。あった。ミズってたべでらが?ミズ。食べだごとあるっすべ?

Q:山菜ですか?

山菜で。ミズ。あれがあったばって、あれはダメなもんだな。なんも、あれは腹さ持たない。かえって余計に食べれば下痢す。んで、一番のいいやつが、あれであったな。まず、サツマイモ。その次はサトウキビ。サトウキビは良かったなぁ、あれは一本。ちょっと大っきいやつ一本あれば、一食で体持つな。そうゆう体験した。

Q:本当に餓えが大変で餓死した人はいるのですか?

餓死した人、いるいる。俺の方にはいない。終わってきてから聞いた。聞いたし、のみならず、この骨ど皮ばりになった人が、4千人いたっけ。4千人。骨ど皮。餓死寸前の人、ようやく、山がら下ってきたべ。だから、そういうところで、食糧難で死んだ人は、かなりあるな。餓死した人、かわいそうだ。

歩哨って言葉分からないがな。歩哨って分かるすべ?その歩哨(の人)がさ、俺のところさ来たらや、「戦争負けだ」って。こうしゃっべていた。なして、今、司令部がら白いはちまきしてくれば、これは敵であっても、味方であっても、白いはちまきに対しては、これは国際で決めてるべ。白いはちまきの人がた3、4人来ていたけど。んで、話を聞いたら「戦争負けたどゆうので、山がら下がれ」と、いうので、その日の中に、将校以上の会議を開いた訳だ(べしゃ)。「上の方がら指令がきたけれども、どうしたらいがべ(いいか)」という風にして、連隊長がみんなに、問いかけたけど。そしたら、現役の将校だば、「いや、そいだば絶対、俺だばここで戦う」という奴と、「いや、やっぱり天皇陛下が降伏して、下がれという命令をしたならば、それに従った方がいんでねが」と、意見が2つに分かれた。やっぱり現役だ。現役の将校ってやつは、一つ一つ通すもんだがら。そうしたっけ、こんど最後に、連隊長は、「よしわがった」と。「わがったがら、俺が決断を下す」と。んだがら「天皇陛下の命によってここまできてるんだし、天皇陛下がこれによって降伏せと、山がら下がってこいときたならば、これはやっぱし下がるべきだ」というので、それが結論になって、山がら下がってきたそうだ。2日かかった。その事さ、論破するに。

Q:藤田さんは、そこに、いたのですか?

俺は、別に将校では無えがら、将校会議さだば、なんも、入らないども、そ、俺ほの中隊長が行ってしゃべってきたっけ。2日かかって、下がるということにしたがら、「途中でどうなるがわがらねけれども、そいだば仕方ね」ど、いうごどで、持ってるものみんな、鉄砲もなにもよ、使われね様にしては、空鉄砲にして山がら下がってきた。しったけ、なんと、この山のふもとの学校の校庭の近くまで来たっきゃ、アメリカの兵隊方、銃をこうやって構えであったものな。「抵抗すれば、やってける」ということで。それで、やぁっと気味悪かったっけな、あそこだば。そしてこんど、あそこさ来て、鉄砲を持ったものをアメリカさやって、着てるものも。真っ裸。そして、今度、別の着物を着せてもらって、バスやトラックさ乗せられでロスバニオスさまで1時間半位かかった。そこまで来て、途中で石ぶつけられで「ジャパン、バガヤロウ。ドロボウ」これだげだば覚えてるもんだものな。住民がら石なげられで。アメリカの将校が怖えっすべ。ちゃんと防衛してあったども、上さばり鉄砲むげでばかり弾撃って、相手にしないから、それ分かってるもんだっために、なんぼでも石投げでよごすのや。もう傷ついた人、死んだ人、2人もいた。それで、ようやく、そこ脱出して、カランバさきて、そこで、みんなと一緒になってな。んで、今度、テントにみな分けられで、ここ25人、ここ24人とかって分けられで、そして終わった。

Q:フィリピン人に、石投げられて、どんな思いでした?

いやいや、これはやっぱり止むを得ない。俺らもフィリピン人なら、石投げたくなってくるよ。どうして、何もかにも、みんな取れるやつは取ってしまったべし、山のものは、荒らしてしまったべし、それだば、石ぶつけられるのも当たり前な話でねが。そうゆう風な生活してきたもんだもの。俺らの方が良くないんだもの。なんとされようと、黙っていなければね。して今度、一か所さ全部まとめられて、今度、中隊、中隊ごとにまとまったわけしゃ。

Q:「戦争に負けた」と聞いた時は、どう思いました?

なぁーんだな、まずは、ホッとしたな、まずな。ホッとした。負けだっては、山がら下がるってばホッとしたばって、「これから、どうなるかの問題」これは分からなかった。

Q:悔しいという気持ちは、なかったですか?

いやいや「悔しいというより、終わって良かった」という思いだけだ。終わって良かったって。んだって、生活が困る。なにからなにまで、良いもの一つもねべ。せば、やっぱり「終わって、これからどうなるか」は分からないが、一段階はホッとするっとゆうのは、当たり前だや。さあ、そうして今度初めて、戦犯だじゃ、何だじゃとかって起きてきた話だし「ここで終戦だと、終戦で山がら下がる」とゆう時はみんな、やっぱりホッとしたな。

焼いだよ、軍旗は。

Q:どうやって軍旗焼いたのですか?

火つけて、下からや。こうやって。俺は焼がねがったども、焼く前に房をとったもの。3人で。焼く前に。普通の状態で焼いたはずだ。軍旗祭やったって、こいだば(焼くことは)俺きがねがったな(やる気がなかった)。何人かで、やったべが?

Q:どうして、房をとったのです?

いやいや、これを持っていって、これはまだ死んでね(精神は)と、お守りさでも、なんさでも付けて、それもって行くべ。して(それで)、房切っただ。それ3つ足せば、ちゃんと軍旗なるから、というごどで、あそこ(自衛隊)さ寄付したった。

Q:「軍旗を燃やす」とは、どういう命令が下ったのですか?

連隊長が命令して燃やした。んでねば、「軍旗だば、敵の手さ渡すわけにはいがねもん」焼くより他ねぇ。んで、穴掘って埋めた。焼いて。

Q:軍旗を燃やす、どんな気持ちでした?

どんな気持ちも、何気持ちも「もうこれで、なにもかにも終わりだな」ってゆう気持ちだな。なにもかにも終わったと・・・戦争もなにも終わったし、軍隊も解散だし、国も何も、こういうまぁ、白紙にかえったという気持ちで、みんないた。ただ「家さ帰れるがどうか」は、あとに残った。なんも、その場では、帰るだの帰んねだの、その話も誰もした人も居ないし、その場は、その場では、これから先のこ、分からないもん。どごがでが、殺されるんだが・・・まだな。

工藤忠四郎(大尉)という人が、これが絞首刑になった第一号。絞首刑。ところが、この人は何も悪いことしてねんだ、それで、前に居た中隊と交代したわけ、交代。交代したこの人が、それをやったらしいんだ。それを、今度、向こうの方の人(フィリッピ人)にとってみればや、あれに工藤忠四郎が誰でも良いと、なったふった(どんな)理由であり、無実の罪を着た、あれ。かなりアレだよ陳情書も出したよ、こっちからも、あっちからも、んだばって、絶対に向こうの方で受付ねな。で、一番先の死刑は。だから、「無実の叫び」って本を出してる。俺それに、序文を書いている。

俺はね。首実検はやられた事はない。やられた人は、首実検やられで死んだ人は、何人もある。何人もあるよ。とゆう事は、こうゆうやり方だよ。あれは、アメリカさ移ってからは、そういう事は無かったけれども、フィリピンにいるうちはよ、まず、工藤忠四郎っていう人が、大館の工藤忠四郎っていう人があれも、首実検だったよ。これだって、誰かがしゃべれば「みな、これだ、これだ」って。それでとうとう殺したんだよ。そういう風に仕向けられただもの。誰でもいんだもの。フィリピンの人がたは。日本人であれば。そういう感情があったんでないかな。ただ、アメリカの場合は、そういうわげではない。やっぱり「いいものはいい、いぐねものはいぐね(よくないものはよくない)」そういう風に裁判の方もかなり恵まれだと思ったけれども、最初の人だば、殺されだ人がた何人もいるべす。それを思えば大変だなと思う。

「苦しみ・・・やっぱり残念だな」ど、一人一人の顔を思い浮かべだりするごども、やっぱりあるけれども、運命だば運命だと、やっぱり、あきらめざるを得ないと思わざるを得ねな、やっぱりな。今更、この65年経ってよ、当時のことについて、執着深く物事を考えでみても、そこさ、なんもプラスなるものもないし、時の流れで止むを得ながったな・・・と。

俺も、戦争はねぇ程、良っすよ。んだけども、これはこのような世界状勢の中で、どこかで戦争始まっているべ?だがら、これの続いてるわけだば、「日本だけが、戦争ないからいい」ということだけだば、これどうなるか。片一方がら手出されれば、手出さねばならないし、そうなってしまえば、大変な事なってしまうど思う。んだども、やっぱり、どごまでも、戦争のない国にしていかなければ、意味がないなど思ってる。んだって、当時、第二次世界大戦が終わったとき「どの国の人も二度と戦争してはならねど、どごの国の人もだよ、二度としてはならね」としゃっべたはずだし、その気持ちなったはずだや。それが、今になってしまえば、どういう風になってしまってるもんだんだが、やっぱりあの当時の気持ちというのが、消えてしまった様な気がしてしまって、情けないなど思う。あんだがだ、どう思うげ?な。せっかくこれを機会に、戦争を起こさねように、ひとつになって、がんばっていがねばねってごとをみなの国が誓ったべ。あの時。それが50年ぐらいで、ひっくり返っていぐのは、これはやっぱり、人間そのものが、おかしくなったもんだが、まだ、立ち直していがねばねって、国民がなるもんだが、ちょっと、あやふやだな。しんぺ(心配)だ。本当・・・。

出来事の背景

【ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年、日本軍はフィリピン・レイテ島で大敗し制空権・制海権を失った。援軍も補給も断たれるなか第14方面軍・山下奉文司令官は、ルソン島での持久戦を決断。南部の守備隊10万人のほとんどを、マニラ東方の山岳地帯に配置した。

ルソン島南部の守備に残された秋田県・歩兵第17連隊は、将兵およそ3000人。その多くは戦闘経験のない20代前半の若者たちだった。日本軍が手薄になったこの地域で、米軍はフィリピン人抗日ゲリラ部隊に武器・弾薬を与え、活動を活発化させた。ジャングルに潜むゲリラから度重なる襲撃を受ける中、第17連隊長・藤重正従大佐は、このままではアメリカ軍と戦わずして壊滅すると判断し、ゲリラと協力する住民に対する粛清命令をくだす。9万人以上の犠牲者を出したともされる日本軍のゲリラ討伐により、フィリピンの人々の日本軍への憎しみは決定的となった。

昭和20年3月、激しい市街戦の末、マニラが陥落。米軍は第17連隊が守るルソン島南部に攻め込んできた。最前線に立つのは日本軍への復讐に燃えるゲリラたちだった。包囲され猛攻撃を受けた連隊は玉砕を覚悟したが、方面軍から最後まで持久戦を貫くよう命じられた。やむなく30キロ離れたバナハオ山への転進したものの、マラリアや激しい飢えが兵士たちを襲った。

第17連隊で終戦まで生き延びたのは、およそ700人。その後、20人あまりが住民虐殺の罪に問われ、藤重連隊長以下5人が処刑された。

証言者プロフィール

1920年
秋田県大館市にて生まれる。
1937年
鷹ノ巣高等農林学校卒業。
1941年
歩兵第17連隊入隊。
1945年
フィリピン・ルソン島にて終戦を迎える。
1946年
復員。復員後は農業を営み、田代町議、田代町長なども勤める。

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フィリピン(ルソン島)

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