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タイトル 「“ゲリラの村を粛清せよ”」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦~秋田県・歩兵第17連隊~
氏名 鷹田 源一郎さん(秋田・歩兵第17連隊 戦地 フィリピン(ルソン島)  収録年月日 2010年6月27日

チャプター

[1] チャプター1 南方への派遣  05:38
[2] チャプター2 フィリピン住民の変化  07:27
[3] チャプター3 タスケテクダサイ  12:25
[4] チャプター4 陣地構築と逃げる日々  04:27
[5] チャプター5 圧倒する米軍の火力  07:04
[6] チャプター6 バナハオ山での孤立  04:33
[7] チャプター7 武装解除  02:33
[8] チャプター8 捕虜収容所  07:15

提供写真

再生テキスト

「戦時体制に編成を替えろ」と言うわけで、わたし、服から何から新しいのと交換させたわけですよ。ところが、新しい服っていうのが「夏服」なんですよ。満州って寒いとこでしょ?で「夏服、あ、これは南方へ行くんだな」と、そういう予感をしたわけですね。で、本当にね、比島に行くってのは、いったん九州に来て、三池港という炭鉱の町があるんです港ね、そこへ来て初めて分かったらしいんですよ、「お前らフィリピンに行け」と。最高の偉い部隊長さんに、そういう大本営の、命令、それまでは分からなかった。よくほら、ドガンとアメリカにやられて船が沈んだりを想定して、1週間ばかり船の高いところから海へ飛び込んで泳ぐ練習、1週間ばかりやったんですよ。

して船に乗って「さあ出港」て時にね、若いお姉さんがたが「兵隊さん頑張ってね」って、こんなに豆粒ぐらで小さい、船は高いから、あの声が忘れられなかったな。年頃だから、そういうお嬢さんがたがら励ましの言葉を、して、行ったんですよ。で、ずっと行って台湾に寄る予定だったんだけど、アメリカの潜水艦が来て、「ドーン」と船が沈められたという情報が入ったので、航路をう回してなんとか比島に、ルソン島に着いたと。

Q.その途中、航海の途中、米軍の潜水艦がそんなにいたんですか。

すぐそごら辺まで、九州の近くまで来てらった、日本の飛行機もたまには飛ぶけども、そのときはもうかなりは、落とされてしまってるでしょう?だがら、夜、行動するしかできなかったわけですよ。本当に緊張の1週間というかなあ。ルソン島でも一番北、手前の北サンフェルナンドってどこさ、たいした港では無いんだけれど、急きょ、そこを港にしてそこさ上陸したんですよ。とにかく船さ乗ってるうちが危ないって。

我々を降ろしたところは港と言っても名前ばかりの港だったんですよ。あどほれ、弾薬とか大きい兵器とかはマニラさ降ろさなければだめなわけですね。で、マニラまで兵器を積んだ船が下がったわけですよ、我々の部隊はなんとかかんとか見つからずにあれだけど、マニラの港の入口で(船が)ドンとやられて沈んだ船が何隻もあったって言うね。わたしは見た事はないけど。わたしなんか北サン(サンフェルナンド)てルソン島の一番北の港さ上陸して、どうして南の方さ行ったかっていうと、果物でヤシの実、の中を採って殻を捨てるでしょ。非常に油気の強いものなんだな、身は採って殻ばり(殻だけ)、それの乾燥したものを燃料にしてね走る電車(汽車)がおったんですよ、ちっちゃいので、それさ乗って50キロか60キロぐらい行ったんじゃねえがな。ああいう汽車…石炭たくのが普通だけど、南方のヤシの実ね、乾燥したそれ燃料にして走る。びっくり…なにも見るもの聞くもの何も、言葉は通じないし、外国だなと思ったんし。

Q.初めて行ったフィリピンの印象て、どんな感じでしたか。

うん、とにかくね、秋田も寒いし、満州も寒いでしょ?もうそこは、パンツ一つでも暑いでしょ?もう非常に開放的だと言うかなあ、開放感があったね、で、向こうに行くと向こうの言葉を早ぐ覚えたぐてね、ある程度自分が覚えた時、街中である女の人と若い女の人と会ったんですよ、ひでほら(そしてほら)覚えた言葉を使ってみたいもんだから、「貴女は、きれいなお姉さんですね」というような意味の向こうの言葉を使ったわけよ、そしたらよ、向こうもさすが負けないな、「あなたも、なかなかの色男ね」みたいな、なんかそういう意味の事を言われてよ、俺初めて顔真っ赤にした覚えがある。まだ女てよ、兵隊さ行くまで女の人と手つなぐごどもでぎないし、並んで歩くごと、そのあたりのことは出来なかったでしょ?なんとところが、比島ってスペインが最初に占領して、そいがら、今度はアメリカがそこを植民地にしていだとこだがら、考え方がまったく欧米のような考え方なんですよ。女の人だって別に特別な目で見たりはしないような。我々は、ほら、まず兵隊さ行くまでは女の人と一緒に歩くなんてこと、まず無かったしね、だがら教養の違いというか、随分明るい感じしたねルソン島というとこは。薄気味の悪い、戦争状態になったがらんだべども、非常に開放的な…あの~。ある時ね一回だけどタールっていう街にね、あの~そこに歩哨で居た時、「お昼ご飯食べに行こう」ってタールの市長さんだっけよ、おんや、余程気に入られたど思ってよ、街角で服装検査どがしてらった時期なわげよ、で、「お昼食べに行こう」って言うがら早速行ったらよ、やっぱり市長さんの家で、娘さんがいてお嬢さんがいて、ピアノ弾いでやってらったのな、ピアノの練習だがやってらっけ、してやっぱり、ご飯はおかゆみでった、ああいう物をこういう洋皿ひとつご馳走になって、それで帰って来たことあったね。で、フィリピン人も親日派と日本に深く親しみ持っている人と、逆な人といるんですよね、それは、我々は全然わがらないわげですよ。

Q.じゃあ上陸したころはフィリピン人の方も結構日本の兵隊さんには…

協力してくれた。

Q.親切に?

だがらアメリカの飛行機が来ないうち、地上は日本軍が占領している時はよ、やっぱり日本人さ気に合うようないろいろだ便宜を図ってくれてそうしたもんだわげです。だんだんにほら、今度、アメリカが空襲で来て日本が散々叩かれて、どうもうまぐねえーそうになった時はもう、ほとんどフィリピンは今度は勝つ方の味方なわけですねとにかく。いやあ…。まず物が無いがらな、日本は。

北サンフェルナンドという港さ兵隊ばり上陸したわげよ、荷物はマニラさ送るな?そして食い物無いでしょ。2人だが1人だが、小銃2つ持って7~8人でフィリピンの部落さ食い物探しに行ったらしいんだな、そしたら根っからのゲリラさ当たってよ、体裁いいごと言って食べ物集めて、帰る(段)になったらよ、これで(銃で)バラバラバラやられだどな。2人だしけな生きて来たのは、それは事件になってよ、書いだものもあるどもよ、そういう根っからのゲリラもいだったわげですよ。それがらどっちでも、うまい汁を吸える方さ肩を持つっていうんたまあ言ってみればね。

Q.ゲリラってのは相当居たんですか。

これはよ、ゲリラってのは増えだり減ったりするわげよ。日本側さついでる時は、あああって日本さ近寄ってうまい汁を吸えるでしょ?段々ダメになって、アメリカが強くなって来ると今度はアメリカの方さつくんだな。だがらゲリラってどこまで本当のよ、日本ひいきなのかアメリカひいきなのかこれは経済的な関係て言うかね、自分さ良くしてけるところについでるのが、まず精神的に、俺は、「アメリカが頭っからだめだ」っていう人とが、「日本はだめだ」っていう人どが、最初っからそういう人って、そんなに多くはいないと思うよ、大衆はやっぱり自分たちさ良くしてけるところさ行って、損出れば後ろ向く、といったそういう人が多くねえがな、と思うな。

「あの部落は、もうゲリラの部落だがら、男でも女子でも子どもでも皆殺してしまえ」というわげよ、そういう指示を受けた事があって、いまは公言されね事だべどもよ、居た人全部、わらし(子ども)の果てまで一人残ったって困るべ?皆殺し。そういう、そういうのは、憲兵隊な、いやああれだっけ、ヤシ林の中でよ、一人居た、隠れていだの(人を)連れて来たって俺のどごさ、あの連れて来た女の人どごよ、連れて来たっけものな、その女の人よ、やっぱりただの女子でねえ、やっぱり…かなりの知識のある人だと思うんだ。俺の手を締めてよ、グジャッと締めて「ニッポン、テンノウヘイカ、アリマス、タスケテクダサイ」って、天皇陛下って泣く子も黙る神様だべった?日本では。天皇陛下があるって事を、皇室があるって事を俺(女)も認めるから日本を分かっているから、理解しているから、助けてくださいと、手ぇギジッ・・・と握ってよ、かなりよ教養のあるような人だっけ。うん、あそこにロスパニオス大学ってあるんですよ、そこの関係している人でねべがな?と思ったっけどもよ。そうやって俺どご離さねども、今度はほら、ヤシ林の方から(兵隊が)迎えに来たわげよ、その女子を連れで行くどって、(鷹田さんに向かって)「連れで行ぎでなら殺す」って言うのや、それでヤシ林の中へ兵隊来て連れて行ってそれっきりだ。だがら戦争て、いかに残酷だがってことだな、その女の人だって捕まえていいばよ、殺されねぐってもいがったべどもよ。三十そこそこだえった、そういう奥さんだっけ、だめだ…。

して、日本人もよ、様々なのいるんだな、こったこと、あまり人さ言われねどもよ、みんな日本の兵隊って男兵だべ?でまだ25,6だべった。珍しいんだろな、まず女を。して女子(縄で)締めてよ、本当は言われね事なんだけどよ、恥さらしだども、「尻を出すべ」と言うわげよ、その女子に、「尻出すべ」って言って、それが絶対よ、他人のかか(奥さん)なばあれだどもまだ生娘だべった、へばやっぱり「はいはい」なんてな言えねえし、「出へば(出せば)助けるし、んでねば(でなければ)殺す」って言ったったってよ、絶対抵抗してよ、して日本の兵隊も日本の兵隊だ、バチッと、殺しちゃってよ、して殺してがらサルマタ開いで見でよ、「け、こったものが(ちぇ、こんなもの)」て革靴でどんとフンマゲダリ(踏みつけたり)してよ、残酷なもんだなと思ってよ。俺らより2年ぐれ古しい(先輩の)兵隊だがら文句も言われねえわげよ。そうだっけ…。たまげた。まず戦争なんてな、良いことひとっつもね。

まずね、最初っからいえば情勢が悪くなったらよ、あすこの部落は皆ゲリラ部落だがらや、全部殺へっていうのよ。命令がな。そういうような命令だったもんだがらよ、なんとすへ(どうしたらいいか)、まさか皆そういうわけねえたって、その部落にそういう人が居ればよ、そう見られるわげだな、日本の軍部もほれ、ひじねぐなれば(苦しくなれば)そういう具合になるべった。ひどかった。

Q.全員殺せと命令を受けてどう思われましたか。

ん~ん、まずとにかく命令はそれこそ絶対絶命なんだがらな、軍隊にいる限り。命令に背くことは天皇陛下に背く事なわげよ、まず。命令ってのは絶対的なもんだ、逆らえねえもんだ、ってえことだがら、まずな。自分の命よりも大事だっていうがらな、そういう具合にまず、日本の軍隊て教育受けてらべった。そういうんだおん、教育の力ってのは怖いもんだな、って思った。なあんと…。

考える余裕が無いっていうか、もう行動が先になっちゃってよ、たとえば一軒の家さよ、そこはあまり評判の良くない部落で、居るものを皆一軒の家さ呼び込める(集める)べった、中さ入れるわげよ、して何するかっていうと「皆殺せ」って言うのよ。たとえばそうなるわげよ、へば俺ひとりよ、「そりゃだめだ」とか「明日にしたほうがいい」だとか、そんな事を言う余裕が、我々には無いわげよ、一兵卒に。ただ上の偉い兵隊さんたちに言われた通りに守らねばよ、自分の首が危ねんだ。そういう事だな、兵隊は。してやっぱりよ、ああいう戦闘状態になると常識がもう無ぐなっちゃってるな。常識があればよ、女子どもまで関係無えべった、うん、もう頭が何もねえな常識もなぐなっちゃってる。ああいう精神状態になれば。

Q.なかなかお話づらいことかと思いますが、実際にある部落があって皆殺しをしろと言われて、具体的にはどういう風にして手を下したんですか。

手を下すって、つまりよ、これはやらねんだ、危ねえは危ねえし、拳銃なり小銃なりよ、ただこれ(剣を突き刺す)。ボロっていうんだ、街の方にジャングル歩くときに民間の人も持ってるけど、ボロって両刃のよ、こういう大きい、皮のさやさ入った、やぶだって全部やるわげよ(現地のナタ)ボロ?ゴロって言ったっけがな…。

俺はそういう事は一回しか体験無えどもよ、「おめえ、そっちやれ、俺はこっちやる」とかってそういった話では…瞬間的だな、わえの脳(自分の脳)もその状態になればよ、これがら何人がの人を殺せってなればよ、これも普通じゃねえ、異常になっちゃうな。いいどが、わりいどが(良いも悪いも)ことの善悪どが考える余裕はないわげよ、ただ命令一辺倒でよ、それだけが至上命令でやらねえわげにいかねえ。やっぱり皆その気持ちだど思う、誰もよ人殺して気持ちいい人はそういねえと思うしよ、もう面でね、普通の面でねえ血の気が無くなったような顔つきしてるっけど、みんな。人殺すのはなんぼこんたわらしだってよ(いくらこんな小さな子どもでも)、大変な事だ。

Q.こういう話はこれまでどなたかに話してこられたことは?

こんなに今話したように続けざまによ、そういう話ってあまりしたごとねえがな。してや、いまの若い人って兵隊の話って「聞きでぐね」って言うらしいんだな。例えば、俺だって俺の息子いるわげだどもよ、兵隊の話なんてしたって耳貸さねな、それがらまたよ、人によってよ、「じい様、戦争の話すれで(してくれ)」といった人もたまにいるらしいんだども、俺の家なまずいね(いない)。

Q.今回テレビの前でね、なかなかお話しにくいことだと思うんですけど、どうして話していただけるのですか。

やっぱりよ、真実に勝るものはねえがら。これはやらねって言ったって現実にやってるんだから、やっぱり真実は嘘こがれねべった(うそつけないでしょ)?だがら・・・なんとなってもよ、そりゃあ裁判のなんてこった別だども、あんたとの場合なばストレートに思った事をそのまま話しても、その方がすっきりするでしょ?

Q.すっきりする?

ん?ん、まず、心の底にあるものを出へばな。なかなかそういうよ、今の若い者は戦争の話なんてのは聞きでなんて人はいね風だよ?あまり、特に若い人だべどもな。うん、そうらしい。

Q.米軍が攻めてくるまでちょっと時間ありますよね。その間というのは、鷹田さん主に何をされてた?

もう兵器から何から、アメリカとは太刀打ちできないでしょ?物が古しくて悪くて、とにかくね陣地構築、つまり穴掘りだね穴掘り。暇さえあれば穴掘って、あっちこっちさ穴掘って、そこさストンとこのぐらい深く入るわげ。穴掘るわげ。で、「ドーン」って来たってそこさ入ってればどうにか防げると、だから夜でしょ、まず、もう家、建物…戦争だがら家の中なんて無えんだがら、で穴掘ってそさ入ってるわげよ、で夜、中さ入ってるどまず最初中さ入ってるどもう、夜蛾(ガ)どが蚊よ、マラリア蚊、マラリア病てあるでしょ?(穴の)中はモゴモゴっとしてる、虫が居て入ってられねわげよ、表いるでしょ、うつらうつらうつら半分寝てる、向こうでブッて来る大砲ブって来る音が発射音が聞こえるわげ「ドンドンドン」日本人みたいに狙って撃つんでねえな、「ドンドンドンドン」てそういう感じなわげよ。そうしてると「ヒューヒューヒュー」と頭の上、5~6発もブアーって行って通り過ぎて奥の方で「ババアーン」とその破裂するんだな。さあ破裂したってんで、まだ穴さ入るわげよ、あ、んでね(違う)、穴がら出はるわげだ、で、まだ居るど、まだ夜蛾とかいると思ってよ、また向こうでぶつ音が「ドドドドン」とすればまだ穴さ入って、そいだって完全な物で無えがら、まずそこら辺さ落ちねがらいいどもな。そうして、やったったな。穴掘って…それが仕事だったな。陣地構築って言ってるわげよ。んだってグラマンどがああいう飛行機、たまに飛んで来るんだな。そうするとやっぱり兵器だって進歩してるべがら眼鏡で見えるわげよ。ああ、どごいら辺にいるがどがね。ああ、酷でがったな。

Q.どんな感じだったですか。

だいたいよ、最初はあれなんだな、比島人を先によこすんだな。鉄砲たがいで(担いで)。フィリピン人。それであんべえ(あんばい)見るわげよ、つまり(日本軍が)どれだけの戦力だが見させるわげよな、そういった点がまず印象的だっけな。そして今度は、いよいよらちあかないと今度はアメリカの本隊が、まずなるべく兵隊が傷まないようにちゅうんで、こういう大砲みたいなので「ドーン」とこっちゃよこすわげよ。で段々にほら、へばこちら側からも抵抗が無くなりつつあるなっていう時に、こう進んで来るっていう無理のないやり方だな、アメリカってな。

斬り込みっていぐあったんだ(よくあったんだ)。なんだがっと言うとよ、夜間よ、5~6人組んで、爆薬たがいでよ(担いで)、アメリカの陣地暗いべ?陣地さ行ってそれを爆破させる、当初は成功したんだ、うんと。ところがアメリカはバカでは無えわけよ、自分たちの陣地さ煌々(こうこう)と電気よ、自分たちのいるより500メートルとか前に電気煌々と点けてるわげよ、だから隠れようが無えわげよ。で、その斬り込みってのはダメになった。逆にやられでよ。5人行ったって1人も戻ってこないという事があったな。俺は斬り込みさは「行け」と言われねえって事はよ、俺、あの重機関銃ってかなり威力のある、それの射手やってらったんだよ。射手ってのは、一番危ない位置にあるがらな、それでよ「おめえ行け」とは言われなかったども、行って帰って来ない人たちも結構いるっけな。してほれ、あれがた「大丈夫だ」っていわねばアメリカ進んで来なかったわげよ。

Q.鷹田さんは斬り込みやったのですか。

いやいや、俺に「行け」って言われた事はねえな。射手はよ、大事なんだまず。その人がいないとホレ、今度はその重機関銃な、1分間に600発出る、だどもいつだが、気持ちのいいっていえば、不調法だども、こういう山よ、300メートルあるべが、一本道ズーッとあるべった、それよ俺がこっちにいだ時、山のりょう線さガラーっと30人ばり並んだっけものな。アメリカ兵。してよ、黙って隠れてそのままにしてらば、その一本道ズーっと下って来たわげよ。全部ズーっと。「撃ったっていいが」って言う人いだっけどもよ「まだ早いまだ早い」って、ズラーっと30人ばり並んだ時よ、この一番下に照準つけて「ダダダダダダ」っと上さ向かってやった(撃った)べった、ゴロゴロゴロっとまぐれて(転がって)、転んで来るっけな。そういう事が1回あった。たった1人、馬さ乗って、向こうのりょう線越えて行ったのがいたっけどもよ、あとはほとんどやってよ(殺して)道路があれへば、今度はてき筒弾って言って「ドーン」っていけばアレするんたのやったりしてよ。それ、我々が、「戦ももう終わりだ」って山さ逃げる時だったわげよ、ああいうアメリカ人は油断したごでな?。道「ダー」っと並んで来たっけおん。あのときぐれえなもんだな。

Q.でもやっぱりアメリカちゅうのは、兵器は日本のとは全然違ったですか。

んだなあ、なんとあまり進歩して。(機関銃の)こうへばよ、「ドドドンドドドン」と出るおの、鋳物なよ(日本の小銃)こうやって一回ギリだおな。全然違う。科学の進歩っていうがな、だってほとんど、ロシアと戦した時の兵器みでった(みたいな)兵器だものな。進歩さねがったわげよ。してただ、進めるばり進めでよ、「進め進め」はいがべども(いいけれど)、やられでまって進まれねえべった。

Q.日本の持ってる兵器ってのは、ジャングルでの使い勝手は?

ダメダメ。ジャングルではよ、まったく用を成さながった。俺の担当する重機関銃てのはよ、60キロぐらいかかるおんな、重いんだ。そういうのはジャングルの中では使えないわげよ。それよりアメリカの小っちゃな「ダダダダ」って(オートマチック・ライフル?)、弾もよ一回に15発ぐらいづつ出はるものな。まず技術面であまりにも遅れて、日本の兵隊は。ただ耐え忍ぶとかよ、なんかそんたことばりさ、重点置いて、兵器の改良なんてもの、やらねがったんだおん。大和魂があればいいんた感情だども(いいと思ってるんだろうが)、大和魂だけでは勝てねえ、やっぱり。

Q.日本は飛行機が何も持ってこない、そうすると補給とかはないってことですか。

補給、なんも無がったべった。ほとんど。えっと、あれだっけど、飛行場、飛行機一機も無くって、飛行機の形をこへで(作って)模型を飛行場に置いたところがあるっけ、リパだがっていう場所で。俺の同級生で秋田工業高校を出て飛行機乗りになったのがいたんだが、兵隊でよ、逃げてばり(ばっかり)いたって。やっぱり飛行機そのものがよ、あまりに比べ物にならねっけ。射撃力も無べし、スピードは無べしよ、やっぱり科学が全然違ったったおんな。

Q.補給も武器も食糧も補給ないと、で、圧倒的にやられていると、鷹田さんどういう気持ちで戦っていた?何のために戦っていると思っていたのですか。

やっぱり自分が生きるためだな。生きて家さ帰るため、まずあえだ、半年山の中、居だ。ママ(ご飯)かねで(食わずに)。ヤシの実とかパパイヤとかよ、たまに野生のトマトとあるっけし、ヤシの葉っぱで家こへで(作って)。たいしたもんだな集まればな、下さあれのあれ、敷いでよ(ヤシの葉か何かを床材にした)、朝間にむくっと起きればよ、シラミなば50、60ざらに居だった、パンツ脱げばな、もそもそっとはって歩いてても気にさねがったおん(気にもとめなかった)、慣れじゃって。明るくなればよ、食い物探し。なるべく危なく無く、下に行かないようにな、山に居だったんだおん、鳥海山みでった山にな。

やっぱり…(彼方を指さし)あんたら鳥海山ってわがらねべが?

Q.わかりますよ。

あれぐらいだね。だいたい高さが。

Q.そんなところへ転進される最後、転進するときにね、負傷されたとき、さっき言ってた兵士とかはどうされるんですか。

んだんだんだ…誰だっけなあ、兵士でねぐ、将校でな、偉い人よ、歩げねでよ(歩けなくて)、当番兵がぶって(おんぶして)登るっけ、山。結核なっちゃって。あの人は隊の中で位の上の人なわげよ、歳もそんなとってなかったがバレデ(おんぶされて)歩ぐっけな、ついに山の中で死んだな。

Q.食糧はどうされてたんですか。

野生の物だね、ほとんど。バナナとか、ヤシの実はもちろんだけれども、あとパパイヤとか、芋類、ゲリラってわげではねえけど、山の手でちょっと生活したった人がいたったな、元な、ところが日本の兵隊が山に入ったから、おっかなくて逃げた人たちが作った野菜とかがあったな。それがら、たまには下さ降りて行ってよ、牛が放牧されでるわげよ、それドンと連れで来てよ、一発で(仕留めて)、それで料理してよ、それだばなんと、水牛って言ってその辺の牛の倍はあるのな、真っ黒い。それを皆さ分けてやるのよ、で、塩が無かったな、今度は塩、海さよ、塩採り部隊が行ったんだ。塩採って来いってな。5、6人ばり離れたところで寝泊まりしてな、塩採って戻って来たりしたし、食いもんはそれこそうめえものは食わねがったども、あったったもんな。

あれ、ビラまくんだな、飛行機。「日本負けたよ」って「無駄な抵抗はやめて武装解除せ」どがってよ、そういう紙っこ飛んで来たらしいんだ、おらあだも見だったどもよ、「これは向こうのデマだな」なんて思ったりしたったどもよ、デマで無がったわげよ、真実だったわげよ、実際な。今度は参謀ってある程度偉い人、兵隊連れて下さ降りて行ってアメリカ人のあれど接触したべった、8月14日だが15日だが「負けたよ」って事を本当の事をつかんだわげよ。

いや、ゆっくりしたっけな(安どしたな)、戦争が無くなったっていったばよ、終わったっていったばよ。それ本当だごって(ホントかって)それでうわさが立ったがら、偉い人が代表でよ降りで行ったわげよ、アメリカの兵隊の方さ。山の上に居たったども、降りで行ってアメリカと接触してよ、本当に負けたって事をつかんだべった、つかんできたわげよ、それで今度は本格的に日本が負けたというわげで「いついつ武装解除」って事で、おもでえんた(重そうな)兵器はみんな沢さ投げて(捨てて)よ、そして降りで行ったわげよ、結構居たっけな、何百人だな。

これで家さ行げると思った。正直言って。負けたって聞いでよ、悲しみに泣いだり騒いだりする人な一人もいねっけ。ああ、これで家さ帰るにいいと、それだげよ。んだたって(だってそうだろう)今暮らしている生活はよ、ボロ着て、格好な見られねがった(見られたもんじゃなかった)。ボロ着て鉄砲だけは、たないでらども(持ってたけど)。そしてほれ、居だったべった。これで家さ行ぐに良いなっていって、みんな、あえしたな(同じ気持ちだった)。

戦争終わって、今度は武装解除ってして全部一か所さ降りるでしょ、山がら降りて来るでしょ?して真っ裸にさへるんだな。パンツも皆取って。そしてあれ、白い粉なんだっけ?バアア…ってかけるわげよ。

Q.消毒かなんか?

そうそうそう、虫のあれ、俺最近まで覚えてらったのに、この辺でも最近まで使ってらった…あ、DDTだな。ほいでよ真っ白だ、体。そしてよ、新しいアメリカの服を、俺はアメリカと戦争したのだがら満州はまだソビエトが、中国がってなってらったべども、アメリカはなにしろ物があるもんだがら、全部洗ってそしてアメリカの新しい軍服をよ、着へるわげよ。してちゃんとこさよ(ズボンの両膝に)「P」「W」ってペンキで書くんだな、太っく。

Q. 「P」「W」?

「P・O・W」ってあの「戦争犯罪者」って意味よ。Oは無ぐしたっけどもこっちはP、こっちはW。ひなか(背中)さも、みなその、いやほれ、アメリカの軍服着てるがら、日本人だが米国人だがわがらねってんであまりうまぐねべがら、と思ったったけど、そいう具合に、いぐまあ揃いも揃えだもんだな、そういうのを着へられで、靴だばこう…大きくてよ、あの山でほとんど衰弱した命からがらのような人はよ、靴履くと重いでしょ?靴たないで(担いで)歩く。その、武装解除した頃は。たないで(担いで)歩くっけな…。

Q. 「P」「W」なんて書かれた時はどんな思いがしましたか。

う~ん、いや、だけどまずよ、後は弾…命取り合いさねていいがら(しなくてもいいから)、もう何書かれても生きてる。生きてるってことは家さ行ぐにいい。家さ帰れるってごどなわげよ。皆明るかった、それ着て。して20名、ひとつのテントさよ皆ベッド、木製のベッド20並べて20人づつ入った。そして最初のあたりは何もしなかったけど、段々に、今度は仕事をさへる(させる)ようになった。ゴルフ場の草むしりどが、それがらアメリカの箱に入れた荷物のようなものをよ、運ばせたり、あの段々に使うようになったんだな。ただでは置がない。食い物はやっぱり悪いなあ。おかゆだっけな、おかゆみんたのかへで(おかゆみたいなのを食わせて)、いや。

Q.収容所では尋問や首実検はあった?

あ、あったあった。俺こそ無えどもよ、フィリピン人の人がら「俺の娘殺されだ、誰それだ」とかいう人どがよ、今度は、フィリピンの軍事裁判てあるわげよ、アメリカ軍でねぐな。名前はなんて人だどが、「佐藤」て人だったら、皆「佐藤」って人が並べられてよ、みへであるったりする(見せて歩かせる)、らしいんだ。

Q.鷹田さん自身は無かった?

わたしはねえなあ、うん。

Q.でも、そのさっきおっしゃった軍事裁判にかけられて、連隊長やいろんな方がゲリラ討伐という名の住民を殺したということで、絞首刑とか罪に問われましたよね。それは鷹田さんはどう思われましたか。

これは相手のあることだし、なんぼがそういう人たちを出さなければ相手の国の人たちも納得しねべった。俺あだ捕虜なってからマニラの大使館の草むしりさ連れて行ったっけものな、したばよ、山下大将居だっけ。階級章は全部取られてただ軍服だけ着てよ、夕涼みって事はねえべども、外さ出て休んでらっけな。まず(山下大将は)フィリピンの総司令官だべった。

Q.連隊長以下いろんな方が虐殺に問われたわけじゃないですか。

んだ、秋田の連隊長、藤重正従も…

Q.それってどう思われますか。

うん、ある程度はやむを得ないと思うな。何百人、フィリピン人だって何百人って死んでしまってるしな、急襲受けたり、いろいろあって、だがら代表する人がよ、ある程度の責任を背負わねばならねと・…まずな。

フィリピンの人がたに対してはよ、多大な迷惑をかけたと思う、「日本」は。人の国さ行って人殺しやるなだおのな(するんだもんな)。自分の国でやるんでねぐ。だがらそういう点ではフィリピンの国民に対してよ、ご迷惑をかけて申し訳ないと思っている、それなば。みんな外地でやるなだおの、中国でやったり、フィリピンでやったり、ビルマでやったりって、他さ行ってやってる、日本の国はほれ、なんでもないっ(日本の国内では無かった)てのはちょっとその辺はな。

出来事の背景

【ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦~秋田県・歩兵第17連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年、日本軍はフィリピン・レイテ島で大敗し制空権・制海権を失った。援軍も補給も断たれるなか第14方面軍・山下奉文司令官は、ルソン島での持久戦を決断。南部の守備隊10万人のほとんどを、マニラ東方の山岳地帯に配置した。

ルソン島南部の守備に残された秋田県・歩兵第17連隊は、将兵およそ3000人。その多くは戦闘経験のない20代前半の若者たちだった。日本軍が手薄になったこの地域で、米軍はフィリピン人抗日ゲリラ部隊に武器・弾薬を与え、活動を活発化させた。
ジャングルに潜むゲリラから度重なる襲撃を受ける中、第17連隊長・藤重正従大佐は、このままではアメリカ軍と戦わずして壊滅すると判断し、ゲリラと協力する住民に対する粛清命令をくだす。9万人以上の犠牲者を出したともされる日本軍のゲリラ討伐により、フィリピンの人々の日本軍への憎しみは決定的となった。

昭和20年3月、激しい市街戦の末、マニラが陥落。米軍は第17連隊が守るルソン島南部に攻め込んできた。最前線に立つのは日本軍への復讐に燃えるゲリラたちだった。包囲され猛攻撃を受けた連隊は玉砕を覚悟したが、方面軍から最後まで持久戦を貫くよう命じられた。やむなく30キロ離れたバナハオ山への転進したものの、マラリアや激しい飢えが兵士たちを襲った。

第17連隊で終戦まで生き延びたのは、およそ700人。その後、20人あまりが住民虐殺の罪に問われ、藤重連隊長以下5人が処刑された。

証言者プロフィール

1922年
秋田県横手市十文字町にて生まれる。
1936年
植田尋常小学校卒業。
1943年
歩兵第17連隊入隊。
 
第3機関銃中隊に配属
1945年
フィリピン・ルソン島にて終戦を迎える。終戦当時、伍長
1946年
復員。復員後は農業を営む。

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フィリピン(ルソン島)

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