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タイトルタイトル: 「密林での飛行場建設」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 池澤 嘉夫さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年5月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 密林の飛行場建設  05:02
[2]2 チャプター2 熱帯特有の風土病  01:58
[3]3 チャプター3 集団投降に対し思うこと  04:13

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月25日

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まあ制空権はほとんど敵側にありましたね。制空権が敵側にあるっていうことは制海権も、もう握られてるわけですよ。だからいかに、陸軍が骨を折ったか。もともとね、ニューギニアってところは道路がないんですから。

そして湿地が多いんです。海岸付近がもう密林で湿地で。そして一日に一度ぐらい、先ほど申しあげましたようにスコールがあって、じめじめじめじめしてるんですよ。そういうところで陸軍が満足に働けるはずがないんですよね。

海岸のすぐ近くにこうヤシ林があるんですけど、これをならせば飛行場になるっていうんで。で、あのわれわれはこのヤシの木を切り倒して運び出す。一日2人で2本、と。これがね、木の中までが竹のような繊維がね。竹っていうのは中が空洞ですけど、これは芯まで竹のような。もう重いんですよ。で、もう堅いですからね、それを切れないノコギリでジーコンジーコン切って。

で、切るのも大変だが運び出すのがまた重くてね。で、あんまり短く切るには切るのがまた大変ですから。なるべく長くこう、三等分くらいに。そうするとね、今度は重いんですよね。だから四等分くらいにすれば担ぎ出すのにやりいいんだろうけど。杖をついて担ぎ出すような。

4月いっぱいまでまあ飛行場建設やって。飛行場の爆撃と共にわれわれの天幕のすぐ近くで爆弾が落ちまして。爆撃ってのはこういうもんかなーと思ってね、しみじみその恐ろしさを感服しましたけど。

友軍機は、ゆったりと止まっているのを見たのは2回くらいしかなかったですね。それも戦闘機ではなく爆撃機ですね。戦闘機が来ないとあの、船なんかはだめなんですよ。航行するのに護衛してもらえないんです。もうだから、あの当時、ミッドウェーの海戦終わってますからね。だから航空戦力がうんと低下して、珊瑚海の戦いでも・・だからもう日本の航空戦力はぐっと低下してるんじゃないですか。

だからわたしら兵隊のほうは、これはやばいよと思ってましたよ。こんな状態で勝てるんかなって。

ようわかってたわけですよ、かないっこないのは。わたしがまだ18年の5月ですよ、これはやばいなって思ってたの。これだけの航空戦力持たれて、輸送線断ち切られたらこれはもう餓鬼同様ですよ。腹がもうもたないんですから。それで飛行場作ったり。歩兵が飛行場作ったり道作ったりしてるんだからね。こんなことで勝てるんかなあ。

もうほんとにね、惨憺(さんたん)たるもんですよ。制空権を取られてしまった後の陸軍なんていうのは。動けないですから。で飯も炊けないですからね。煙が上がるとバーってやられる。

それはわれわれが飛行場を建設してるときにそうでしたからね。もう熱帯性潰瘍(かいよう)っていうのは、あの土地の風土病で、内地へ来たらけろっと治っちゃうんですから。で、こういうかゆいところを掻くとそれが元で、どんどんどんどんそれが、ただれてきて。で穴が深くなっていく。で、こういう出ているところはもう、休憩っていうときにははあーって寝てますから、そしたらハエが卵を産みにくるんですよ。で、ウジがわくんですから。

タムシなんかもそうですね。インキンタムシっていう、股(また)からはい上がってくる。皮膚病がぐーっとこっちへこう、背中のほうからこう、おしりから背中へ。で、だんだんだんだん上がってきて今度そこでつながっちゃうの。シャツ、白いシャツを着てるみたいに皮膚が白くなってますから。で、これなんかも、まあカリカリかけばそれで済むことで、別にあの命に関わるようなことはない。今の熱帯性潰瘍(かいよう)と同じように。

風土病てのは場所が変われば治るんですね。だから日本の国はいいなあと思いましたよ。もう現地には、そういう病気がもう山のようにあるんですから。で、デング熱っていうのは知んないけども、マラリアとデングっていうのはまん延してましたね。

これはやむを得ないと思うね。で、やっぱりそういう選択肢はあったと思う。これはもう集団で投降しようという、こうも無謀な戦いをすべきじゃないっていう、そういう将校の判断もあったと思いますよ。わたしがもし現場の将校だったとしたら、そういう考えを持たざるを得ない、そういう場面もあったと思いますね。

だって、その部下には妻も子もいるとか、まだ若い、ほんとに結婚もしてない青年だって、その親たちのことの考えたりなんかしたらね、これは前進むべきか後ろに退くべきか、それはそのときの判断で英知ですね。頭の良さですよ。

Q.それは当時の戦時中の考えであっても?

うん、と思いますね。わたしはニューギニアに行って3月の間に、この戦いはやばいなあと思ったもん。だけど一兵隊ですからね、上等兵ですから。偉い人がもう山のようにいるんですからね。で、兵隊がそういう風に思ったっていうことは、いや同じよう思った人が大変いるわけだよ。

そのアイタペ戦の結果、集団投降した人っていう、そういう人を見るときに、日本の軍規からしたら、そりゃ軍規違反だと、そういうふうになるかもしんないけれども、もっと大きい立場で考えて、人間の生っていうものを考えた場合、そんな狭い考えではいけないと思いますね。生き方はやっぱりいろんな生き方があると思う。

日本の歴史の中には、そんなきれい事じゃないものがいっぱいあるわけですよ。そういうあの、我が師団の恥だなんてのは了見が狭いと思うね。わたしだったら、そういう人も対等に同じように交際しますよ。

Q.投降を決意した方は記録も残ってないですけれども?

残さないから、残さない。で、言い訳になるからね。で、人には語りたくないから。で、またそういう人をなんだかんだ言って、助ける人も言葉を慎まなくちゃなんないからね。239連隊の記録が少ないなんてのは、わたしはそういうのもあるんかなぁと思って。37(237連隊)と38(238連隊)はいっぱいあるんですよね。239がないんですよ。

でわたしも自分が所属した部隊だからと思って、戦友会に行って、カンベさんだの、そういう先輩の人に色々聞いてみたけどもないんですよね。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
栃木県安蘇郡に生まれる
1942年
第239連隊に入隊し、北支河北省へ
1943年
ニューギニア・ウエワク上陸
 
久留米予備士官学校に入学
1944年
宇都宮陸軍飛行学校、陸軍航空士官学校の教官を務める
1945年
終戦 当時、陸軍中尉
 
復員後は、小学校・中学校教諭として勤務
 
校長、佐野市教育長経て退職

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