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タイトルタイトル: 「中佐が率いた集団投降」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 山川 勝雄さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月17日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニア戦線へ  03:55
[2]2 チャプター2 兵士を襲うマラリア  02:13
[3]3 チャプター3 アイタペを目指し行軍  07:43
[4]4 チャプター4 アイタペ攻撃の失敗  06:21
[5]5 チャプター5 中佐が率いた投降  04:47
[6]6 チャプター6 大隊長の死  10:35

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月17日

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ウエワクってとこに上陸したんですが、上陸すっときは、敵の飛行機も来なかったから、うまく上陸できて。で、すぐに今度は荷揚げ。一緒に積んでった食糧とかいろんな材料とかね、ああいう物を降ろすのに。で、大きい船から直接揚げらんねえから、それに荷物なんかも、まぁ大体膝あたりまで水ん中入って。そんで、1つずつ荷物担いで、そんで陸揚げ作業をやったんですけども。そんで、その日に終わんないで、次の日やるわけやったんやけど、船のほうはそんなに長くいらんないって、荷物まだ積んであったのを全部降ろしきれないで船は出ちゃったんすよ。だから荷物それだけで降ろすのが少なくなっちゃったわけですね。んで、降ろした荷物をヤシで包んで、シートかけて。それを分かんないようにカモフラージュ、木の板とかでカモフラージュしておいたんですが。

わたしらの部隊は歩兵でも、機関銃中隊の大隊砲小隊。だから、写真にあるような、砲の方なんで、小銃はあんまり持たないからね、あれなんですが。拳銃と帯剣だけ腰にかけて。

飛行場造りたって道具がないから。みんな持って行ったスコップだとか、ノコギリだって小っちゃいノコギリしかないからね。そんで、みんな手作業でやって。どうにか7月、8月ころ完成して、飛行場が完成して、味方の飛行機が入ってきたんすよね。

こんで安心だってわけで。そんで、今度はそのブーツから飛び出してまぁ、爆撃なんか行ったりなんかやっていたんですが。

そのころ今度、部隊は前進ってことになって、

ハンサを越えて、その先のマダン(239連隊を含む41師団の駐屯地)か、マダンってところまで前進して行ったんですが。あそこは約200キロくらいありますか。800キロかそこら。そこ行軍でね、

Q.船は一切使わないで。

途中まで船で行ったんですが、船は危ないんで、それからまた、陸を歩いて。
そんで昼間あんま歩くと敵に見つかるから、夜行軍して夜通し歩いたりしてね。昼間はジャングルん中潜ってったりして。そんで、マダン行って、マダンに1か月くらいいたんですか。

海岸からちょっと奥へ入るとジャングルだから。ジャングルだから蚊が、ニューギニア蚊がすごいんでね。そんで蚊にくわれて。そんでその蚊が普通の蚊じゃなくマラリアの蚊なんですよね。

マラリア菌持ってる蚊で。そんで、マラリアにかかって。早い人は20日くらいたってもあれやったかな、マラリアにかかちゃったかね、「あれ、なんだか体が変だな」ってわけで。で、軍医さんに聞くとマラリアって。

初めは熱が出て、マラリアにかかるとね。初めは寒気がするのか、寒気がしてガタガタガタガタ。1時間はたつと今度は、温まってくるというか、熱がでてカッカカッカ。40度くらいの熱がでて、それが2時間から3時間くらい続くんですよね。

そんで、夕方になって熱はスッと下がって。で、平常になるんですが、

それが3日くらい続くんですよ。今日、熱、マラリアがおこると明日また同じ時間に、大体3日に続くくらいだから、3日ぐらいは。そんときはまぁ、仕事になんないわけで。

だから、ほんとに病気になって、内地では助かるなあと思う人が、そういう薬もない、手当ての方もアレで亡くなったのが、結構多いんですよ。ニューギニアは戦病死がね。まあ、戦死って書いてあるのは、ほとんどまあ、戦争をやって弾に当たって死んだとか、そういうのが戦死になってっけども、戦病死ってのは、結構ウエワクとかブーツで亡くなったのは戦病死。多い、これね。

そんでアイタペ行く途中、やっぱり毎日のように砲撃や爆弾はあるしさ。海岸線歩くと、艦砲射撃。船から日本軍がいるのが分かって、で、艦砲射撃くったり。だから昼間はあんま歩けなかったすよね。夜行軍して。

やっぱり、移動中っていうか、戦闘をやってるときなんだけども、移動していて、そういうときに爆撃があるわけだよ。爆撃だって編隊で来るんだから。大体、3機ずつこう並んだのが。そう、3機ずつ三つばかり来っと、9機の飛行機が一斉にこう来るわけだよ。で、その後ろからまた、敵がどんどん来る。多いときは300機くらい来っから。ぐんぐんぐーん、話がもう聞こえないほど。大編隊で。ダンダカバカンバカンバカ爆弾落っことすでね。

いったんマダンの方へ行って。今度はアイタペの方へ、今度は「移動しろ」って言われた、そのころだったな。だからアイタペ作戦前だったよ、その大編隊で来たのは。

だから、貨物廠なんて一気に爆弾でやられて、糧秣きれいにね、吹っ飛んじゃったり。
ほんで、兵器の方が、向こうと比べっと雲泥の差だからね。戦争じゃねえ、戦闘じゃ勝ちっこないわけだよね。

食糧は2年分ぐらいあるって予想で、向こうへ揚げたんですよ。ジャングルの中積んだりヤシの下に積んだり。そうしたところが、爆撃されちゃって。

そんだから、米でもなんでも麻袋もカマスなんて白米で持ってったやつ、みんな爆撃でやられちゃって。そうすっと夕方になって雨降っから、雨ざらしになって。だから米が雨ざらしになったらカブレちゃって食べらんなくなって。そんでだから食糧はなくなっちゃうね。

そんで内地からの輸送は途切れちゃって。全然、もう状況悪くなっちゃったから、糧秣でもね、輸送できなくなっちゃって。だから、しばらく米なしで。半年以上も米粒1つも食べずに、島民のイモだとか。

それとあの、ヤシ、サンゴヤシってのがあるんですけど。その中にでんぷんがあるんですよ、ヤシのでんぷん。それをヤシの木を倒して、中のサクサクしたところをザクザクザクザクやって、水で漉(こ)してでんぷん取って。そのでんぷんをパンだとか、いろいろうどんなんかりしたり、代用食で食べたですけども、そこに、一時は食べられっけども、移動中はそれがないから、

だから、移動中は畑行って、島民にイモもらって。それを飯ごうで炊いて食べたり。だから食べ物はないから、もう栄養失調になって。マラリアで熱は出る、だから力はなくなる。そんで、病気で亡くなったのはずいぶん多かったすよ。マダンからウエワクへ行ったりする途中、ハンサ湿地帯があるんですけども、セピック川の。そこを越えんのが、グチャグチャぬかって。相当の距離あんですよ、1キロの余も。そこ越えんのがなかなか骨折れてあれだったすけども。そこまで来たらば、河さ足突っ込んで、で、顔つけて水飲みながらそのまま死んじゃったりね。ザーッと並んで死んでたすよ。その水を「あそこにいい水がある」からってんで行くわけですよ、その河のとこへ。「これはうまい水だな」と飲んで。その川にそって進んで行くと、ドザエモンになっちゃって(死体が並んでいる)。「ありゃ、この水飲んだんか」なんて、つば吐いたってもう間に合わないけども。そういう状況のとこも随分あったけど。

それから、アイタペ行く途中、夕方海岸線を7,8人、わたしらの大隊砲小隊だけだから、小勢だから分散して行軍するから、7,8人でこう海岸線を歩って行ったんすよ。

そしたら敵の飛行機が低空してきて。高いとこ飛んでれば、ブーっと音聞こえんだけども、低空しってから、近くまで来るのを音が聞こえないんですよね。そんで低空して来て、あっと思っているうちに爆弾落とされて。そんで、破片だけども足あたってね。ま、たいして大きい破片じゃなかったけれども、靴の上から当たって歩けなくなっちゃって。で、近くの野戦病院担いでいってもらって、そこで弾を、破片を抜いてもらって、そしてそれから今度は本隊に追及するわけなんだけども、本隊はなかなかやっぱり、砲を引っ張ってたから、思うように小銃隊みたく普通に歩けないから。そんで、本隊とはだいぶ遅れちゃって、そんで本隊に追及したときには、普通の歩兵部隊の方も、小銃隊もだいぶやられて、戦死者がですね。で、それまずいってんで、だからまぁ後退することになったんですけども。

われわれの部隊は大隊砲だから。小銃隊とは一緒に行けないから。小銃隊は小銃一丁担いでね。どんどんと行ったんだけど。だから危ない思いすんのは小銃隊だ。小銃隊はその坂東川(ドリニュモール河)越して、敵の陣地突撃するわけなんだけど、夜になるの待っててそんで小銃で川を渡るわけなんだよ。そうすると敵は照明弾つーかそれをあげて、そうすると昼間のようになっちゃうから。パーっと一発上げられると。だからいくら這ってってもわかるわけだよね、敵は。そうしてそこまた撃たれっから。で行く者、行く者ほとんどあそこで、坂東川で小銃隊はやられて全滅しちゃったんだよ。われわれは小銃隊じゃなかったから、まぁね。小銃隊はほんとにすごかったぜ、アイタペ作戦じゃ。

Q.撤退してきた人たちの様子は見たんですか。

見たよ。やっぱりもう、体一つでさ、着るものだって切れちゃってね。ボロボロになちゃって。暑いところだからあれだったけども、履物だってもう靴だって亡くなった人の代わりにもらって履いたり。

で、我々が大隊砲転がして行ったときには、もう負けて、撤退してるとこだったんで。だから、その坂東川の側まで行って、坂東川は渡んね。

大隊砲は、負けちゃって持って歩いてもしょうがないし。兵隊も少なくなっちゃったし。大隊砲小隊も60何名いたんですよ、それが10何名になっちゃって。みんな途中でね、戦死したり病気で亡くなったりして。それで持って歩いてもあれだってんで。で連隊のの方に話して、砲は捨ててもいいってことになって、分解して砲を捨てて。それから山に入った訳なんですが、途中まで戻ってニワトリ川って川があって、そっから今度山に入れば、その、山へ行った我々部隊の自活するその場所へ行くわけなんで。そんで今度は山へ入った訳なんですけども。今では、大隊砲小隊に一緒にいたんだけども、大隊砲小隊も今言ったように8人か、10人くらいになっちゃったんで、どうしようもないんで、他の部隊編入ちゅうか転属ちゅうか、それで、3大隊の本部へ私らは回ったんですよ。

Q.大隊砲を捨てるという命令が来たときはどういう気持ちだったか。

そりゃまぁ、楽になる反面もあるわな。重たいもん持って歩かんですんだと思ったけれども、長いこと大隊砲まぁ、それが我々のいちばんの命だからね。それを捨てるってのはつらかったよね。で、持って歩っても、もう体力がもうあれだから、捨ててもいいって言われて捨てたんですけども。

Q.どこに捨てたか。

海岸線の草原っていうか、原っぱみたいなとこあったんですけども、そこへ捨てて。ばらして車輪は車輪、砲身は砲身で、別にこう分けてさ。ばらばらにして。だから砲がなくなったから今度は体一つになってね、楽だったですけど。

アイタペの作戦終わって、終わってアイタペから撤退してくるのに、アイタペの作戦参加したのは、何万人かいたわけだよそんときはまだね。三個師団だから。

基部隊(51師団)とか。朝部隊(20師団)もそんときは、20師団もまだ、相当いたわけだかんね。それと、河部隊(41師団)と。それ山へ入ったころは2千人。山へ入ってからも戦闘やってたから、結構。土人じゃなく、豪州軍とね。

それから、何千人になってたからあれだども、相当少なくなっちゃったわけだよね。終戦になってから統計したのが百何名だなんてこれさあ、百六十何名だなんて。

我々そんだけの本部だから、その2大隊の5中隊、6隊のとこへ伝令だとか出したんだよね。何かの用があって。そしたらどこそこにいるってやつが、その部落にさ。そしたら火で燃した跡があって、まだ火(の跡)は温かいんだけども、誰もいねえんだってわけだよ。どこ行っちゃったんだべってわけで、ほうぼう探したんだけどいねえんだよ。それが投降して行っちゃったんだよね、向こうへ、敵さんの方へ。

Q.山川さんは本部いたから、そういう伝令のアレでそういう事実を知ったんですね

その、アレか。本部にいなくっても大体その、いないってのはわかってさ。部隊の方へ来ないっていうことになればさ。ほら、村に逃亡したってことわかっちゃうべね。敵などは「早く降伏しろ、降伏しろ」って年中宣伝ビラまいて来たんだから。

隊長以下40名ぐらいだと思ったね、降伏してって。その後、また宣伝ビラで「友達は我々の方へ来て、うまいもの食べて、のどかに暮らしてる」とかなんとかって。

「白旗立ててて、我々の方に来れば、こういうものあるだ」なんて写真で、写真付きでさ。カレーみたいのもあるし、好きなもの食べられるんだとかなんとかなんて、デマ、デマで。我々のとこに来てて、「うまいもの食べたり、暮らしてるのが大勢いるんだ」って。「皆さんも早く降伏して我々の方へ出てこい」って、そういうビラまいたんだから、何回も。

Q.その中隊のことも具体的に書いたビラってあったんですか?

そりゃあ無かったね。そりゃあ無かったわ、そのビラには。名前も何もねえし。で、写真なんかもあんだけ写してあんだけどさ、顔のとこだけ隠しとくんだよ。まあ日本軍に見せちゃまずいってのがわかってんだべね、向こうでもね。写真だけは写して、顔だけこう隠して、そういうビラまいたったもん、随分。

Q.実際そのビラ見ると動揺するような気持ちってあるんですかね

そうねえ、我々は冗談でも言ったことあったけどさ。「こんな苦しい思いしてんだ。ふんどしでも外して、白旗出して、敵の方へ降伏して行っちゃおうか」なんて言ったりしてたことはあったけども。降伏しちゃいけなかったよ、なかなかね。

「捕まるならば、自分から死ね」ってさ。「捕まって捕虜になる、そんな惨めな、辱めを受けたらあかんべ」と。「そういう辱めを受けんならば、自分から自決しろ」と。そういう教育受けて来たんだもの。それが、簡単にそうやって降伏して行く者いたんだからね。まあ、命は一つしかねえんだから、生きてればいつかいいことあっから確かに。あるだかしんねえけどね。死んだっていくら立派なアレだって言われたってね、アレだけど。

我々みたいさ、下の方のてい(人間)は、そんな捕虜なんかあれだって、死んでも捕虜になんねえなんて、思ってたんだべけどさ。隊長の命令だから一緒について行って。そのまま助かっていいと思って、最後にはついて行ったんべけどさ。

上官の命令はな、絶対服従なんだからさ。なんて言われたって、上官の命令はな服従しなくちゃなんねえ、だから。そこんとこがあんでやっぱりね。

Q.終戦はどうやってわかったのか。

終戦は8月15日なんだよね。そうすると前の日まで爆撃もある、戦闘もやってたんだから、小銃隊なんかは結構。そうすると遠くから砲撃される。日本軍がどこにいるつっとでっかい砲でさ、ぼっかんぼっかん、砲撃があるんだよ。砲撃があるからそういうときはジャングルん中へ縮まってるわけさ。大体向こうでもどこらにいるってのわかっから砲撃してくんだから。ところが、15日だったんだね。われわれ、日なんか毎日覚えてられんから、8月の15日だったってわけで。そしたら朝静かなんだよね。飛行機も来ないしさ。毎日朝、大体時間で爆撃があんだけどさ。編隊で来っからガンガン来っからわかんだよ。それがその日は1機の飛行機が低空して、うちに爆弾落っことすわけでなく、何もするわけじゃなく、低空してきて行っちゃたんだよね。そしたらビラまいてったんだよね。ビラだから音もなにもしないから。ジャングル中だから、いちいち飛行機なんか見てないから。そしたら「ビラが落っこって来た」ってんで、そのビラ見たらば「日本軍降伏せり」。「速やかに降伏してこい」ってそういうビラなんだよね。デマだってわけで、その前も何回もそういうビラまかれたから。「だけんど今日はてんで爆撃もないし、デマでもねぇんじゃないか」ってわけで。「日本軍が負けるか。昔から負けたことないんだから」てなこと言ってたわけでね。「日本は神の国なんだから戦争で負けっこないんだから」って言ってたところが、22日、15日が終戦で22日に連隊のほうから連絡があって。軍司令部のほうから連絡で「終戦になって、戦争は終わったんだ」って、そういう連絡なんですよね。あんだから敵ももう攻めてこないし、よかったってわけで、戦争で負けたんじゃ軍旗もなにもいらないから軍旗を焼くってわけで。8月の23日だったかな。それも、われわれ宿舎の隣の小っちゃいところへ、連隊の旗、軍旗ってのはね、連隊の旗、いちばんの旗だもんね、印(しるし)だもんね。だから連隊全部集まるわけだ。生き残りは全部集まって。そんときにわたし大隊長の当番してて、大隊長が弱っちゃって危篤状態だったんで、「山川、隊長があれだから隊長のことみていてくれ」ってわけで。全部まぁ何人かいたわけだったけどさ、それが全部隣の、隣たってまぁ500mくらい離れていたかな。そこで軍旗を焼いたんだけどもさ。で、おれは軍旗焼くとこ行けなくなっちゃって、隊長みてたんだけども。そしたら隊長もなんだか様子が変なんだよ、弱っちゃって。みっともないのもいけねぇから土人が作った、丸太のあれが並ばってるだけで、そこに寝といてさ。で、「隊長いかがなんですか」なんつって。「うん」なんて初めのほう言ってたけが、その日の朝っぱらは返事がないんだよね。「隊長がおかしいぞ」ってわけで。おおんぶ、おれ一人でしょうがないから、軍医もそっち行ってるから、そんで軍医のほうに連絡しなくちゃってんで、急いで駆け行って、そしたらちょうど焼き終わって、あの軍旗をね、そんで灰にしてそれを集めているとこだったんだわ。そこ行って、隊長の様子が変だから、明日連隊長もそこにいたから、連隊長と軍医、連隊の軍医、フジカワ大尉かな、フジカワ軍医さん。それと連隊副官の7中隊の中隊長やった、なんつったけかなあれは、どこかに書いてあったかな。アオキさんだ。アオキさん副官。アオキ副官だから、それが駆けつけてくれたんだわ。「息、もうついてない」ってわけで、そこで今度は一応埋葬、仮埋葬つうか埋葬して、そんで全部焼くたってあれだから、小指だけ切って、小指を切って小指を焼いて。そんで大隊の軍医さんがやっぱり九州なんですよ。九州の大分かな。そんで、大隊長は佐賀県なんだよ、九州の。で、「同じ九州だしおれが預かってくから」って。オオクボ軍医が、その隊長の預かってくれてたってわけなんだわ。焼いてね、骨皮になちゃって、本当に何もなかったけど、気の毒だったよ。こんな状況じゃなければ42、3で死ぬっこないんだけどもね。だから生きて帰ってこれるあれだったのに。優秀な隊長だったんだわ。その前の戦闘んときは感状もらったんだから。

Q.大隊長もあと、何週間まてれば日本に帰れた。

そうそう。軍旗焼いたのは、あれ軍旗焼いた日に亡くなったんだよな、隊長は。大隊長は。

それから、そこの場で、その場で「向こう、敵から海岸に出てこいって命令があるまで現住所つうか、その場所で自活しろ」って、向こうからそういう命令なんで。だからイモ採ったりなんかして、そんで、海岸にでるのなんか食糧もいるってから。で、イモなんかももらえたんだらえな。イモを今度は薄く切って乾燥イモにして、「10日くらいかかるから海岸出んのには、10日分の糧まつだけは用意しろ」って言われて。で、イモだからこう袋みんなに渡してやって、そいついま乾燥イモだけ。そしたら10月に「海岸へ出ろ」って命令が下ったわけですよ。そんで海岸へずうっと、10日くらいかかったんだわね。海岸へ出てウエワクの先のボイキン、ボイキンってとこへ、集結したんだけどさ。そこでまぁ、「小銃とか持ってるやつは武装解除だからそこへ置け」なんて言われて。みんな重ねて置いて、だからそんとき敵の靴なんか履いてると、これは誰の、なんと言われっから、敵のものは全部捨てっちゃえってわけで、そんで靴なんかは最後まで持ってる人はいなかったけれども、小銃とかそういうものは武装解除でね。武装解除してボイキンの先のムッシュ島ってとこへ送られたわけですよ。

Q.ニューギニアの戦争中のことって今でも思い出しますか?

うーんまあ、特別には思い出さないけども。思い出せば、ずうっと、分かってくんだよね。どこへ行って、どこからどっちへ、こう移動したとかなんとかってのは、ずうっとつながってくんだけどね。忘れねえんだよ、その当時のアレってのはね。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
栃木県下都賀郡に生まれる
1942年
東部第36部隊に入隊
 
第239連隊第2大隊砲小隊に転じ、北支山西省へ
1943年
ニューギニア・ウエワク上陸
1944年
アイタペ作戦当時、兵長
1945年
終戦 当時、陸軍伍長
1946年
神奈川浦賀にて復員
 
家業の農業に従事

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