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タイトルタイトル: 「マラリアと苛酷な行軍」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 神谷 克己さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニアに上陸  05:21
[2]2 チャプター2 過酷な熱帯の環境  03:54
[3]3 チャプター3 連合軍の上陸  02:28
[4]4 チャプター4 「乾坤一擲」の攻撃  04:08
[5]5 チャプター5 大砲も塩もない軍隊  03:17
[6]6 チャプター6 攻撃失敗  03:16
[7]7 チャプター7 終戦のとき  02:49

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月19日

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(ニューギニアに)上陸したのがね、ここに書いてあるわ。支那の青島から出てね、パラオ諸島で2週間くらい様子を見て、あの年からもう敵の潜水艦があって危なくてこれなかったんですよ。だから様子を見てね。それからニューギニアへやっと来たんです。だからその、兵隊、兵隊ってのはどこ行くかってことも、わたしたちにもね、下級幹部にも知らさなかったんですよ。青島出るとき、ガダルカナル行くのか、ニューギニア行くのか、どこ行くのかわけがわからない。それでもその、兵隊ってのは感覚でわかるんですね。それでもう台湾の沖まで船が来たときにね、輸送船が来たら、もう海ん中に飛び込んで自殺する人が出てきた。もう苦しいより死んだ方がいいってことだ、そういうことですね。えらいことですよ。そして今度はパラオ諸島に来たところが、これ、戦時中だってのにもう半ズボンで植民地でしょ。半ズボンでテニスやって遊んでるんですよ、みんな。戦争なんかそっちのけで。そこで初めてパパイヤだとか、ヤシの実の中の実をね、飲んだとか。それが初めて南方行って、「やぁ、ヤシの実ってのは、おいしいもんだ」なんて言って、みんなと話をしてそれでいたんです。それで結果的にはここまでは無事に来たですけれども、ウエワクって町ってことになってたんですけどね、サンゴ礁、リーフがいっぱいでね。1万トン級、7、8000・・・2、3000トンでもだめだな。桟橋着けないんです。リーフきれいで、下が。それですからね、4キロ5キロから6キロ、小さい桟橋から離れたところに船が泊って、そこから小さい船でもちっちくち荷物を運んだり、人間が上陸したりするわけなんです。

それが18年のね、2月の2日に、初めて一歩、ニューギニアに踏みしめたと。そうしたところがね、わたしたちの船団が41師団だから、1万トン級ぐらいのが3隻くらいで行ったかや。大勢行くんですよ。それがね、みんな敵に分かってたんです。もう暗号はもちろん、解読されてたし。

だから、飛行場のそばで天幕張って、そしてまず一応寝たんですよ。そしたらもうそのとき飛行場の爆撃ですよ。

だから我々を狙った、狙っただか、飛行機を狙ったか、まぁ思うのは飛行機ってことなんですがね、人間がいくらいたったって、飛行機をやってしまえばいいからね。

そんなとこでもって、中国にそんな爆弾を落とすとこだとか、高射砲撃つだとか、あるいはサーチライトで照らすなんてことがいっぺんもないでしょ。仕掛け花火を見てるような気がしてね。みんなで出て、危ないこともほったらかして見てたんですよ。

「なんで空襲なんて、屁でもねぇ」とかなんとか言ってたんですが、そんなこと、空襲を受けたことないからね。それから上がって、ウエワク。あ、この、どこだや、ウエワクは。あぁ、ここだね。ウエワクで上がって、それからブーツってところがあるんですよ。すぐそばにね。ウエワクのどっかこの辺に。ここに飛行場がありましてね。一応、戦闘にならないんで、そこを整備するってことで。だから飛行場の整備作業をやってたんです、歩兵がね。それが約8か月やってました。

飛行場っていっても、あれさね、掩体壕(えんたいごう)、つまり、あの土手をつくったわけ。飛行機が爆撃で直撃弾でやられりゃぁあきらめるけれども、横に撃ったときにいいように、こういう、そのくらい高い土手をつくったわけ。そんな作業。簡単な作業さね。そこへ飛行機を入れとく。入れとくわけだ。だからまぁ、原始的な仕事をやってたわけさね。道具も何もなくて。田舎の土方と同じでモッコかついでやってたわけだ。8か月くらいやってたなぁ。

それでマラリアと熱帯熱ってやつがあって。マラリアっていうのは、4日熱が出れば、3日休んで、また4日熱が出るってやつ。それが4日熱。5日熱っていうのは、5日続いて熱が出て、4日休んでまた出るってやつね。そのほかにね、熱帯熱ってやつがあったの。熱帯熱ってやつはそんな区別がなくて、出たら出っぱなしなんですよ。だいたい41度、42度近く上がるとね、黒水病(致死型マラリア)っていって、しっこが真黒になっちゃうんですよ。そうなれば助からなかったんですよ。それでまだ食べ物があるときですら、これだけもう、何もしないでただ飛行場の整備をやってるだけで2000人いなくなってるんですよ。えらいことじゃないですか。

よほどその、なんだ、人間が住むのに環境が悪いってことです。湿度が多いんですよ。湿度がまぁ、90何パーセントっていうことですから、だから水の中に入ってるのも同じなんですよ。

そこでもう、狂ってるのが何人もできてきてる。えらいことじゃないですか。ここには、8か月いたんです。ブーツってとこに。その間に狂ってね、雑嚢(ざつのう)ってやつがあるんですよ。軍隊でいえば、いろいろのものを入れる雑嚢ってやつ。まぁ、雑の袋ってことですね。かばんみたいなやつがあるんだ。小学校の生徒の。そこへいろいろ入れる、入れてくんですよ。弾薬はこれ、弾薬嚢って言って、前に2つ後ろに一つやってるけど、いろいろのものはそれ入れるんです。それが兵隊にとっては、どれだけありがたいもんだか懐かしいもんだか、わからないです。それで、狂ってもその、雑嚢だけは離さないんですよ。それで、「母さん、ただいま参りました。」なんて言って、うちへ帰ったようなこと言って、狂ってる。気の毒なもんさね。そして若い、20歳から30の間でしょ、わたしなんか現役だから。それで頭を、自分の頭を、鉈(なた)でたたいてさね、頭中血だらけにしてるのもいたしね。まぁえらいことですよ。将校で狂ったなんて言うのは、刀振り回して危なくてしょうがないんですよ。わたしの同期生のやつも野戦病院へ入れられてたけど、担架へ体全部縛り付けてさね。そうでないと暴れて、暴れてしょうがないわけだ。刀も取り上げて。何するかわからないから、振り回すから危なくてしょうがない。

まぁそんなようなことで、8か月くらいいて初めて、この、マダンを目指して行ったんですがね。これで、その時分はね、200トンから800トンくらいの漁船があるんですよ。徴用して取ったのが。それを、海上トラックって言ってたんです。海上トラックってなんのことなんだって、トラックが海ん中歩くじゃねぇかと思ったら、そういう漁船を称して海上トラック。で、だいたい、200人から300人乗れるんですよ。その海上トラックで、このハンサってとこあるんですよ。ここがウエワクかや。これがマダンだから、これがハンサってとこあるでしょ、ハンサ。ハンサってとこあるでしょ。そこまで船で行けたんですよ。18年の暮まで、12月ですがね。まぁまぁ、どうにかこうにかハンサで上陸して、あとは陸路を歩いてここへ行ったんですよ。マダンへ。

マダンを取ろうと思って、ここへグンビ岬ってとこへ敵が上陸してきたんですよ。そのときの、書いてありますね。239i(歩兵連隊)の森永大隊と、ミンデリーのを挟んで、敵が数百名の敵が来たと。それを、一人だけ待っててね、川を渡るやつを待ってて、そして川の渡りかけたとこから、鉄砲撃ちゃ逃げちゃうでしょ。そうだから、うんと引き寄せて、それで数百名殺しちゃったんです。そしたらおどけてねぇ、はじめて、ここで日本軍がアメリカ軍を阻止したっていう、ことになったんですよ。これは、軍司令官が方面軍司令官の賞状をいただいたりして、まぁ内地まで伝わったそうだ。3大隊っての活躍がね。森永大隊ってのが。

ここはマダンが、軍司令部がいるでしょ。師団長もいるし、連隊長もいるし、みんな幹部が集まってるところでしょ。それで食べ物はあるっさね。弾はいくらでもあるし、元気はいいだでね。そういうわけでここはだめですよもう。ラバウルから持ってきて、食べ物なくなっちゃっていけないに、ここはいくらでも食べ物あるでしょ、元気のいいときだもの。それで大戦果をあげたんです。それっきり今度は敵は驚いちゃって、こっち来れないんざね。これはマダンはなんともとんでもない話だと。日本の兵隊今、いちばん元気のいいときだでね。そんなとこ行ったったってだめだってわけで。それでこんなに後ろに上がられたんですよ、アイタペの。それでこの辺から西部ニューギニアになるんですよ。イリアンジャヤってやつですね。東がパプア・ニューギニアで、こっちはイリアンジャヤで今のインドネシアに入ってます、この半分はね。そんなところに上がられたら、袋のねずみにされちゃったんですよ。こっちが、こっちだけ。

実距離にして500キロあるんですよ、500キロ。500キロはね海岸線を歩くと魚雷艇にやられるんですよ。500キロってものはね、だいたい1500キロになるんですよ。ジャングルを、暗がりを歩くから。だからえらいことなんですよ。そんなのそれも3分の1定量くらいの食糧しかもらわなんで行くわけでしょ。そんなもの、疲弊困憊してフラフラして行くんですよ。

「乾坤一擲どうのこうの」ってね。乾坤一擲どころじゃないですよもう。うらぶれて、乞食のような姿になって、食べるのなくてフラフラしてそこまで行って、行くの。だから、話にならないですよ。そして、制空権は取られてるでしょ。どうにもならんです。

飛行機の、航空戦で勝つことが戦力なんであって、いくら兵隊が何十万いたって、1台の飛行機にやられちゃうんですよ。そういうことをこの将軍たちは考えないですよ、馬鹿な話だ。愚将ってやつですよ。

そしてフラフラしたすぐ攻撃なんて言ったったって、僕はね、うんと鉄条網もあって3か月もここで準備してるんですよ。それは攻撃するってことはもうわかってるから、暗号を解読されてるからね。だから今にか日本軍が来たら痛めつけてやろうと思って待ってるんだ。

それでこれも(軍司令部は)1月半ぐらいで行くくらいな気持ちでいたらしいんですよ。ところが100日かかってるんですよ。3月とちょっと、10日くらい。100日。だから例えば500キロものものが3倍になれば1500キロでしょ。それを100で割れば、100日ですから1日にどれくらい歩いたってや、15キロですよ。ね、それしか歩けないの。普通の兵隊の歩く距離はだいたい40キロから60キロくらい歩いたんですよ。中国大陸じゃあね。ヨタヨタなんですよ。それもしかも、この大湿地帯があるんですよ。ウエワクに着く前にセピックとラム河との湿地帯。このくらいの沼なんですよ。それがね、このくらいのマングローブの根ってのは、うんと丈夫なんですよ。それがこう、あっちこっちこう生えてる。その上を辛うじて渡っていくわけなんです。それより恐ろしいことは蚊です。蚊がね、ここには書いてないがね、飛行機が上に10台くらい唸ってるくらいの蚊の「ウワーン」って音なんですよ。えらいことじゃないですか。うウソのような話なんですよ。蚊が飛行機と同じ唸(うな)りをあげてる。何億だか何十億だかの蚊がいるだかね、その沼の中に。ほれで1秒でも手を離せばほっぺたにすぐ飛んでくる。じっとこう手を動かしてなきゃ。そしてその沼へ落ったったら助けられないんですよ。いや、このくらい落ったって自分じゃ上がる力がないんですよ、もう。服が濡(ぬ)れるし水が入って。それで引っ張るためには足場をしっかりしなきゃ引っ張り上げられないでしょ。足場がやっと渡るような足場でもって2人も3人もそんなところにいたら、マングローブのこの根が切れちゃうし、共に死んじまうんですよ。だから何何人落ちてそこで亡くなったか分かりませんが、ある程度の人はもう死んでくんですよ。それで「死の街道」って言われたんですよ。

大砲というか大きな砲が一つもないじゃないですか、日本には。だから山砲なんかも捨てちゃうんですよ、持ってけないんですよ。野砲だってあるでしょ、12頭くらいの馬で引っ張る野砲ね。野戦重砲だってあったけれどもどうにもならない。トラックもあったってどうにもならない。輜重隊なんかどっかこのハンサでもってね、トラック何十台って海ん中入れちゃたんですよ。道路がない。それからありとあらゆる河に橋がないってことですよ。えらいとこで戦争始めたもんです。橋がないからどうにもならないんですよ。だからセピックなんて、こんな信濃川の倍もあるような大きな河を、渡渉なんか、歩いてなんか渡れないんですよ。

三八式の歩兵銃ってのはね、400mくらいでチントウテキって頭のやつを置いてね、それを何秒間で打てなんてやつ。

それを削ったんだから、えらいことだね。木を「重い」って言って。あんなもの内地でそんなことすりゃ重営倉ですよ。その菊のご紋があるわけだ。その裏にショウビアンってとこの裏にね。天皇陛下からもらった菊のご紋を削ったなんて言ったらえらいことさ。

Q:どうして削るのか。

軽くするために。空気銃のように軽くするために。持って歩けないだろ、重くて。だから捨てるものは、万年筆だって捨てたんですよ。鉛筆だってなんだって。とにかく戦うものっていったら、いうならば小銃しかないから鉄砲の弾。それとあと、飯ごう。飯ごうだけは離さないだ。飯ごうはあれだ、ご飯がなくてもね。

まぁそんなことで、これから行くってのはいちばんの問題はね、ご飯がないってことだし、いちばんは調味料ですよ。塩。塩はねぇ、途中でね、経理部の将校が行って、塩を分けてもらったような気がするだいね。塩ってのはこのぐらい持ってくりゃね、なにしろね、この親指のこっから先ぐらいの塩で、1年間我々暮らしてきましたから。ほれで弾薬のね、瞬発信管ってやつがあって、まぁそんなことみなさんに言っても分からないが、まず鉄砲でもなんでも、擲弾筒(てきだんとう)ってやつがあっても、その信管ってやつがあるんですよ、爆発するやつがね。それを囲む、金属で囲んだもの、そんなものが一杯あるんですよ。そういうものの中に入れて大事に持ったりしてたんだ。

それから中国なんかでも、暑いときはそうだ。それで汗かくとほれ、白い塩が溜まるじゃないですか、背中に。全然塩がたまらないだもの。えらいことじゃないですか。塩気がないんだもの。こんな切ない話はないんね。

それで「標定射撃」って言ってね、迫撃砲でも大砲でもね、ここで鉄条網の前へ来たらマイクがこうしてあって、ザワザワ、ザワザワって日本が入ってくのが分かる。そこへもう、あらかじめ撃つ方決めといて、それで全滅させられちゃったんですよ。ここをうっかり、ゴソゴソ、ゴソゴソ行くもんだで。それで突撃でね。

これ見れば陣地の一角を取ったなんてとんでもない話だ、一角なんて取れるなんて。ピアノ線から何から張ってあって。それで崖(がけ)があってね、この陣地の前に。それで三月も準備して、日本軍の来るやつ待ってるんだもの。
そこへ何にも、無手勝流で行くだもん、火器がないんだから。「蟷螂(とうろう=カマキリ)の斧(おの)をもって牛車に向かうがごとし」って、それと同じことですよ、話にならない。

ここで戦いが終わったのは8月の2日なんです。2日、19年の。そしてね、9月10月までこの辺にウロウロしてたんですよ。そのときに敵が出てくりゃ、みんな、一人だけ殺されたんです。ところがアメリカも豪州軍も勝ったっていうので、夜は・・・ひと戦争終わればそれであれでしょ、ひげでもそって、カードでもいじくって遊んでたじゃないですか。気楽なもんだね。それで助かるんですよ。追撃ってことをしないんですよ。

腹いっぱいご飯食べて死にてえなあってのが念願だった。だって、生物の本能で生きるために飯を食う、それが断たれちゃどうにもならねえじゃん。えらいよ。

夢でもいいと、何しろ食べたいと。それとちゃんと、「竹乃家(?)」ってのがあってね、中華丼で松本に。それで子どものときに、「竹乃家」の中華丼ってやつがうまくてねえ、「今夜は中華丼の夢見るぞ」って言って寝ると、中華丼の夢見るの。おかしいもんだなあ。夢で見て、それで満足してるだ。せめて夢で見るだけで。えらいことじゃねえかい。こんなバカな話が。蛇だってねえ、鉄砲で撃ってとれる蛇もあるだよ。こんなでかい大きな蛇、ニシキヘビ。ありゃあ鉄砲で撃てるもの。そりゃこんな小さいのはだめだがね。このぐらいの鉄砲で撃てるようになると、蛇の皮むいたって肉がついてるからね、薄い肉が。普通の蛇じゃだめだ。ウスイ中尉が食べたような小さい蛇じゃあ。しっぽ耳に巻いてるだもの。それを、クチャクチャ食って、「おい神谷さん、食べねえか」ってって。俺は嫌だって言っただ。そんなものどうしたって食べれねえって。

Q:終戦のときはどういう風にわかったんですか?

ああ、それはビラ。このぐらいの大きいビラをまいたこともあった。「日本降伏せり」ってわけだ。「戦闘停止すべし」って書いてある。

「日本へ帰りたくないか」とか、「腹が減っては戦ができねえ」だとか、「降伏するのが当たり前だ」とかって。そういう簡単なものがしょっちゅうばらまいてた。このでかいやつはさっき話したように、きれいなやつで刷ってさ、地球をこう丸く描いて、ハーケンクロイツの旗から煙があがって、「ドイツ、敗北せり」とか言って。宣伝だでね。

Q:それを、連合軍の謀略とか、そういう風には思わないんですか?でたらめだとか。

いやそれは思わなんだな。それは思わなんだ。それは本当だろうと思ってた。だってミッドウェイでやられたってことも、うわさで誰ということなく知ってたし、わかってきたしね。

携帯天幕ってのがありましてね、それをつなぎ合わせるんですよ。

10人ならつなぎ合わせれば1つの大きな天幕になるんですよ。それでもって野営することをしたんです。それは南方ではゴムでできているんです。キレ(布)じゃだめなんですよ、ゴムじゃないと。それでゴム天ってのは例えばあれでしょ、100人のうちに2人か3人しか生き残ってこないでしょ。あとの人たちは野たれ死にするか、遅れるかそういうものがいっぱい落ってるんですよ。

それで前掛けを作ったんですよ。それクイズじゃないがね、この間も遺族の人が集まったときにわたし話したんですよ。「その前掛けはどういうふうに使ったか知ってるか」って。

前掛けってや、前に掛けるもんでしょ、後ろへ掛けたんです。「休憩」って言ったらすぐ座らないと1秒でも早く座らないと体力の消耗しちゃうんです。休憩ってやどんなところあったか。例えばよほど汚いものがあったったって、後ろへ前掛けやってればいいでしょ。だからその前掛けを最後まで前掛けやって歩いたんですよ。それでアメリカ軍、豪州軍が驚いたでしょ、ムッシュ島行ったときに。こじきの集団ですよ、で軍隊なんていう名前じゃないですよ、恥ずかしい。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1918年
長野県に生まれる
1939年
松本第50連隊に入隊
 
幹部候補生として盛岡予備仕官学校に入学
1940年
第239連隊第6中隊小隊長を命ぜられ、北支山西省へ
1943年
ニューギニア・ウエワク上陸
1944年
アイタペ作戦当時、第12中隊長 中尉
1945年
終戦 当時、陸軍大尉
1946年
神奈川・浦賀にて復員

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