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タイトルタイトル: 「補給途絶えた極限の戦場」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 石川 茂夫さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 密林を切り開く  05:11
[2]2 チャプター2 熱帯の風土  02:57
[3]3 チャプター3 セピック川付近の戦い  08:35
[4]4 チャプター4 断たれた補給  06:32
[5]5 チャプター5 アイタペ総攻撃  03:37
[6]6 チャプター6 密林へ逃れる  02:37
[7]7 チャプター7 自活の知恵  03:54
[8]8 チャプター8 極限の中で  04:06
[9]9 チャプター9 連合軍の投降勧告  02:38
[10]10 チャプター10 終戦  04:34
[11]11 チャプター11 収容所へ  02:31

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月8日

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フィリピン沖でね、魚雷1発、通ったんだが運よく避けてね。それっきり何のこともなく、ウエワクってとこに上陸したんですよ。ウエワクっつうのは大きい港みたいな海岸が、もう浅瀬で遠浅でね。船が岸壁まではとても行けなかったんですがね。ほんで発動汽船ですか、大発(だいはつ)ってやつ。それに乗って上陸したんだよね。それも岸壁まで行けなくって途中で腰ぐらいのとこでね、降ろして。そこで背のう(はいのう)しょって渡って上陸したんですわ。

最初はね飛行場建設ですか。飛行場建設にたずさわったんですね。まぁ一個師団、うちの41師団ですか、ウエワクってとこのやし林を伐採してね。それで飛行場をつくったんですわ。

Q:どういうふうに?

作業はね、ほんとにね原始的でね。のこぎりでやしの木を切って、で、こんな小さい携帯用のシャベルで根っこ掘り起こしてね。こんな小さいんですよね、携帯用だから。だから1 本のやしの木切って、根っこ掘って、平らにすんのには、1本の木で5人くらいで1日かかったんだよね。で、飛行場を建設したんですわ。それが一個連隊で3か月くらいかかりましたかね。一つの飛行場造るのにね。

Q:どのくらいの大きさ?

そうですね滑走路が1500(m)くらいですか、滑走路一本ですわ。最初に作ったのはね。

盆の16日だったと思ったね。われわれ10人ばかり、飛行場へ飛行機着くから、糧まつ拾いに行こうっちゅうわけで行ったんだよね。飛行場の真ん中で、みんなとぐろ組んでしゃべってたんだよ。で、「今日の飛行機の音は違うな」っていうわけなんだよ。そうこうしてるうちに、敵の飛行機が10何機来たんだよね。低空で来て、ほんで爆弾ドカンドカン落とされるわで、機銃でされるわで、もう逃げようがないんだよ。飛行場の真ん中だから。散り散りばらばらになって伏せたわけ。そしたらおれたちの仲間でノザワって言うのとサトウと3人一緒に並んだんだがね、すぐ前へ爆弾おっこたんだよ。そしてたら、今盛岡に行ったノザワってのがいなくなっちゃんだよ。「あれ、これは爆弾で吹っ飛ばされちゃった」と。爆弾でボロンって盛り上がった、土が。その周り、わたしは這って歩いてたんだよ。そしたら、こっから先動いてんだよね。ほんで、「サトウ、ここにいたぞ。ノザワ」って言って、2人で一生懸命やわらかい土だからね、ほじくったらば意識がないんだよ。ほんで、背中バンバンたたいたら意識戻ってね。もう少しで生き埋めになるところだったが、手、こっから先出てたもんだから分かったんだよね。

Q:それが最初の爆撃だった?

それが最初の爆撃だったね、昭和18年の8月だったね。8月のお盆。楽しみにしてたんだが、お盆だからご馳走もって来るだろとか、楽しみにしてたんだがね。とんだ裏目にでちゃってね。

蚊がものすごい多いんですよ。とくにマラリア蚊が多くってね。だからマラリアにはみんなかかったんだよね。

Q:マラリアにかかるとどういうふうになる?

ものすごい高熱が出んですよ。40から41度の高熱が出てね、震えが来て、ご飯が食べられないしね。2日か3日で治るのは治るんだよね。だから何回も繰り返すと体力が弱っちゃうでしょ。

Q:上陸してすぐから?

そうマラリア蚊はどこにもいっからね。たくさんいっから。

土人は年中、掘立小屋の中で火をゴンゴン燃して燻(いぶ)しておくんだよね。燻したら蚊も逃げちゃうんだよね。だから土人はマラリアにはかかんないんですわ。まぁ抵抗力もついてるせいもあるでしょうがね。

セピックって大きい川があんだよ、そこまで行くまで4日、5日くらいかかったかね。ダイハツ2そうでいったんだがね。5日位かかったかな。途中泊まり止り行くにはセピックというえらい川なんですよ。中に島があんですかがね。島へよく露営して、蚊帳を、大きい蚊帳を持ってったからね。蚊帳をつって、中で火を燃やしながらいたらば、大きいワニがね、バッタバッタ入ってくんだよ。こりゃ、たまったもんじゃねえっちゅうわけで、火をゴンゴン燃すとワニは逃げんだよね。火を燃してワニを追っ払って一晩過ごしたことがあったんだけどね、

Q:ワニは見たのは初めて?

ワニはそれまで何回も見ましたよ。大きいドラム缶くらい(の)ワニがいっかんね。長さが5メートルくらいあって、ドラム缶くらい胴の太いワニがいんだよ。そんなワニに見つかったら、一口だよ、人間なんてね。よく川で洗濯なんてしてて、ワニに食われた兵隊もいっからね。

ヤラリワってとこにね、敵の前進基地が進出したと。うちの中隊、部隊命令で4中隊で討伐しろって命令が出たんだよね。そこへ来て土人の情報だと20人くらいしかいないというもんだから、小隊長を長にして25、6人で行ったんだよね。機関銃一丁に擲弾筒(てきだんとう)とそれっか持ってかなかったんだよね、

でヤラリワってとこで、土人を道案内に連れてったんだよね。ほんでダイハツ2艘走でわたしらの200メートルくらい後のダイハツで行ったんだよね。先のダイハツがこう見てたら敵がいなそうだってんだよね。近く行ってもなんのテンピラもないんだよ。船舶工兵が舳先(へさき)の先へ立って。艫綱(ともづな)をもって飛び降りて、向こうへ、ほら、ゆわえんのに。艫綱をもって舳先に立ったんだよね、5メートルか8メートルか離れてなかったね。そしたら今度は敵がものすごい重火器でバリバリやられてね。船舶工兵2人、即座に、運転してたのと立ってたの2人やられたんだね。まだエンジンを止めなかったからよかったんだが、すぐ面かじいっぱいにして逃げ帰ってんだが、船舶工兵5人乗って、4人やられちゃったんだよね。1人が逃げ帰って、わしらの脇を通って下流に逃げてったんだよね。我々もこれはだめだってんですぐ岸につけて暗くなるのを待って、軽機関銃とてき弾筒と持ってたもんだから、二手にわかれようということで、一手は擲弾筒後ろへ回れと。我々は正面から行くと、二手に分かれていったんだよね。それでわたしとユウジという、わしらが少年兵のとき教育してた先輩がいんだけど、その人が班長だったもんだから、「石川二人で行こう」というわけで、いちばん先に行ったんだよね。んでこう見たらばバナナの木がいっぱい生えてるとこ、こうして見たらば、4、5人こう歩いてるアレが見えんだよ。んで班長が「石川あそこに撃て」っちゅうわけだよ、ほんで軽機を下ろして狙い定めてバリバリバリって撃ったんだよね。キャーキャー騒いでんだよ。ほんでそうこうしてるうちに今度は重火器であおられてね、ユウジ分隊長はここんとこぶち抜かれて即死。わたしも軽機こう肩にかけてこう撃ってて、弾倉って30発入るあれがあんですね、それがなくなったもんだから下ろして、交換するのに下ろして、下ろしたと同時に弾倉のとこぶち抜かれてね。下ろさなきゃまともに撃たれてたね。下ろした途端。ほんで弾撃ち尽くしちゃったんだよね、

そうこうしてるうちに小隊長が「突撃!突撃!」ってんだよ。誰もいねんだよな、後ろ見てもよ。おれ1人じゃ突撃できん。小銃でもあればだが、軽機関銃だから突撃したってなんにもできねえんだよ。そうこうしているうちに、後ろから回った擲弾筒が2、3発ぶっこんだよね、ドカンドカンて。そしたら敵が逃げちゃったんだよねだよね。とにかく20人ぐらいそこにいたのが。そこでまぁ色々鹵獲品(ろかくひん)、兵器はもちろんのこと糧まつとかね、それはもうダイハツが沈むほど積んで帰ってきたんだよね。

Q:ジャングルで敵と遭遇するときは見えるのか?

見えるよ。うん。それが2回。3回行ったかなそこにね。我々引き上げてくるすぐ敵が進出してくる。またこっちから攻撃かける。3回そこに行ったかね。そうこうしてるうちにこっちの中隊本部に日本の負傷した人だの病気の人だのそういう人、ずっと奥だったもんだから敵が来ないだろうっちゅうわけで、療養所みたいな形で、日本兵が25、6人いたのかな。そこへ土人が敵を案内して水上飛行機で、セビックって川の縁なもんだから水上飛行機で来て、日本の兵隊20何人がそこで全滅させちゃったんだよね。たった一人それで負傷しながらうちの中隊まで逃げてきた兵隊がいんだよ。その人が(連合軍が来ているということを)報告されたもんだから、敵がこういうわけで来てるってわかったもんだから、うちの中隊総出で行ったわけ。敵の装備がものすごく良くて、どうにもなんないんだよね。2回目行ったときかな、3回目か。2回だめで3回目行った時には、敵が引き上げてった後だったんだよね。そんときに土人を使って、「みんなのことは殺さないから集まれ」というので、全部その、大きい部落だったんだが、チンプンギっていう部落はさ。土人100人くらいいたんだが全部集めて、それ全部後ろで縛って、軽機関銃でばりばり撃つ、日本刀でぶった切るで殺しちゃったんだよ、みんな。たった2人、セピックって川へ飛び込まれて逃げられちゃったんだよ。98人かな、それまでに「日本の兵隊をどこに埋めたんだ」と。爆弾の穴にうずめてたんだよね。それ全部掘り起こさして火葬にして、それからほれ土人みんな殺しちゃったんだよね。それが後で戦争犯罪に結びついちゃったんだよね。そんときにわたしらはヤラリワってとこに2回目行ったでしょ。んなもんでチンプンギに行かなかったんだよね。行かなかったんですわ。

我々が玉砕用にとってあった米1合、その全部各自に分けてやるっつんで。米が1合に岩塩が缶詰缶に1杯。「これがお前たちの死ぬまでの食糧だ」って渡されたのが昭和19年3月10日。3月10日っていうのは陸軍記念日で陸軍が創立した日なんだよね。そんときに、「これがおまえたちの死ぬまでの食糧だ」って渡されたのが、米が1合に岩塩が缶詰缶に1杯。米がね、1回目で食べちゃったんだよ。岩塩だけはね、大事に大事にしてたんだよ。というのは、人間が歩くのに塩分がなくなっと、関節が外れそうになってカタカタして歩けなくなっちゃうんだよね。

食い物もねぇ飲み水もないわけなんだよね。それで、毎日スコールがあんだよ。そうすっと、たこつぼの中へ、たこつぼって人間が入る中へ、雨水がたまるわけ。動くと濁っちゃうから動かないようにして、濁ってないとこすくって飲んで。で、一週間くらいいたのかな、飲まず食わずで。そこらのカエルやらトカゲだの、たこつぼに。夜になると我々も表へ出てあれだから、夜になるとカエルだか何か跳び込むんだよね。それを朝見つけて食べるわけ。燃やすわけにいかないから生のままでね。

Q:食糧は?

食糧はないよ。持ってるものも食べちゃったしね。全然輸送はきかないしね。後方にもなかったし。で、糧まつ基地と弾薬基地が、アイタペっていうとこにあったんだよね。いち早く敵に占領されちゃったんだよ。毎日爆撃でB29 が何十機も来て爆弾バンバン落っことす。いたたまれなくして、敵が上陸してそこが占領されちゃったんですよ。だから弾薬も糧まつも全部そこに、ニューギニア15、6万の兵隊の糧まつや弾薬全部そこに集中したの、いち早く占領されちゃったからね。

食料なくて栄養失調になってね。腹ばかり膨れちゃって、亡くなった人がいっぱいいるよ。おそらくニューギニア戦線で3分の2ぐらいは、その栄養失調で亡くなったよね。とにかく食べ物ないんだから栄養失調にもなっちゃうよ。

今でも考え出したっけさ、ゾクゾクするようなことももあるよねぇ。

Q:その話教えてもらえますか?

もうその話は、もうジャングルの中こう歩くとね、(1人の兵隊が)大きい木の株のとこに腰を下ろしてね。死んでるのかと思ったけど息ついてんいてんだよね。そこへ虫がわいてんだよね。口から目からあらゆるとこへ、開いてるとこにはウジ虫がわいてんだよ。それで死んでるかと思ったけど生きてんだよね。そうかといって、「どうか助けてくれ」って、「助けてくれ」って言われて。こっちもね、助けてるどころじゃないんだ。ようやく歩けてんだから。まったく戦争は残酷っていう、残酷だね。

Q:助けられなかった?

助けることはできないんだよね。こっちが助けてもらいたいくらいだからね。まぁほんとに仲のいい戦友はお互いに助け合うんだよね。我々入隊してからとうとう一緒だった、先ほども話したノザワとサトウとわたしは三バカって言われてたんだけど、ほんとに仲良かったからね。一匹のカエル捕まえてくれば、足半分ずつ分けて食べる、こんなイモでもね半分ずつわけて食べる。お互いに助け合って帰ってきたんだね。だから憎まれるといっちゃおかしいが、あんまり仲がいい戦友がいない人はほとんど亡くなっちゃったね。

向こうは陣地構えて、重機関銃からなにから、山砲からなにから陣地構えて待ってっとこ、鉄砲担いで行かなきゃなんてたまったもんじゃねぇよ。もう、バリバリやられて坂東川(ドリニュモール河)っつう川、ごみ流れるようだったって。人間が流れていくのが。敵にやられて流れるのが。あんな無茶な作戦やったんだよね。そこで大半やられちゃったんだよね。

軍の命令で、なんとしてでも陣地を奪回しろっちゅう命令だから、総力をあげてそこへ行ったわけ。ところが、夜は夜で昼間より明るい電気に照らされて、アリ一匹通れないような陣地を築いておるんだよね、向こうは。そこを鉄砲担いで行くんだもの。ほんで飛行機もどんどん飛んで警戒してる。こっちは飛行機はひとつもない。ただ鉄砲と大砲くらいあったってどうにもならない。んで、高射砲陣地なんてのも日本にもあったんだよね。敵の飛行機が来るもんだから、B29撃つのに高射砲で打ち上げんだってんだよ。1万メートルも高いところ飛んでくんだから。日本の高射砲は8000メートルか届かないっつうんだよな。いくら高射砲で撃っても届かないから悠々としたもんだよ。んで、高射砲陣地があるなんて、すぐ敵の爆撃機が来てドカンドカン攻撃してめちゃくちゃにやられちゃう。

Q:その状況は他の部隊の人に聞いたのか?

そう。うちの部隊は後方の第一線にいたわけ。坂東川でやられて残った兵隊がよれよれになって我々のとこに逃げて来たんだよね。

坂東川渡河作戦でみんなやられたってわけなんだよね。ほんで、その人は、中間に連絡用に残されたんだって。坂東川の手前。「それでおれは助かった」って言うんだがね。

もう被服はよれよれだしさ、編上靴は無くて、はだしで来る人もあるしねぇ。まぁほんとに、浮浪者だってあんな支度はしてねぇよ。傷を負ってる人もいたよ。ろくな治療もできなくてね。

退却しながらでも後ろから敵が追ってくるわけでしょ。それをある程度食い止めて、負傷者おぶって逃げんだからね。だからその当時は、「あぁ今日も誰々やられたな。明日はおれの番かな」って、死ぬ番待ってるようなもんだったよ。

Q:食い止めるといっても弾はあったんですか?

だから弾だっていくらもないでしょうな。まぁその当時は鉄砲は全部持ってたんだけどね。弾の補給がないから、持ってるだけの弾しかないからね。

これが昭和19年の8月ごろだったかね。それからがひどい生活したんだよね。というのは敵にそれまで、ほら、敵に追われるっていっても、敵と相対してるくらいでしょ。それが、敵にどんどん追われながらだから、食糧の確保もできなんですよね。追われてっから。それまではある程度の期間いたもんだから、さつまいも植えたりなにかして、ある程度自給もできたんだよね。それからはもう逃げながらだから、そんなことも全然できないしね。糧まつも、その土人からも集められないしね。で、土人も敵性をおびてきたからね。やっぱり日本軍が負けて逃げてっから、土人も向こうについたほうが有利だから、日本軍から離れて向こうについちゃったわけ。だから土人も怖くなったんだよね、今度はね。

毎日毎日、そうやって逃げて歩きながらやられるんだからね。だから今日はおれの番かな、明日はおれの番かなって自分の死ぬ番考えてるようなもんだったよ。

Q:食糧以外の補給もない?

なんにもないです。だからもう、だんだん鉄砲の弾もなくなってきたからねぇ。だから小銃持ってやってもしょうがない。だから小銃はその油っけがあるもんだから燃えやすいんだよね。イモ焼くときなんか燃してやったこともありますよ。

弾がないんだから持ってても重くてしょうがない。弾がないんだからもう使いようがないんだからねぇ。

Q:通常なら処罰される?

処罰されますよ。軍隊が天皇陛下からいただいた兵器などは何一つ粗末にはできないんですよ。向こうに行っちゃそういうことはないが、兵器検査あり、小銃から何から全部検査されて傷ついたりなんかすると、お目玉をくらってね、大変だったんだよ。

服装もねぇ、ぼろぼろになっちゃって。もうハマノってわたしの友だちがね、洋服屋だったんだよ。その人が考案して、敵の落下傘を拾ってきて。三角でしょ落下傘てのは。、縫い目あるもんだから、そこミシンなもんで、ずーと縫い目をほどいて。自分のシャツを脱いで、折り目をだいたい畳んでね、こう落下傘のあれ拡げて、帯剣の先を研いで切って。で、針作るのがいちばん大変だったよね。あの小銃の弾倉に鋼鉄のバネがあんですよ。それを焼いて伸ばして、これくらいに切って。今度はここへ穴を開けんだよ。これが大変な仕事なんだよね。小銃の弾の先をよく削って、石の上でトントントントンたたいて穴を開けて。先とがらせないとあれだからねぇ。それで針を作って縫ってね、とにかく着ましたよ。

Q:履き物は?

履き物もね、最初は初めは、編上靴履いてだんだんぼろぼろになってくる。そこらの草で縄を結って縛って履いたりね。また死んだ人の戦死した人の脱がして自分で履いてったりして。だからまぁ、人間は窮すれば通ずって言ってね。なんでもありだ。

こういう連隊回報(師団命令か)が出たんだっつうんだ。我々直接聞いたわけじゃないんだが「人肉を食するものは厳罰を処す」と。「ただし敵国人を除く」ということなんだよね。だから敵国人なら食べてもいいってことになっちゃったんだよ。だからいかに糧まつがなかったかということだよね。

Q:命令として出た?

そう命令として出たの。

Q:命令が出たって言うことは、その前から?

やってたんだよね。とにかく、ほらその当時はだんだん少なくなったもんだから、一個中隊じゃなくて一個大隊で行動してんだよね。そうすると分哨出すのに4中隊から1人、大隊本部から1人とか、機関銃から1人とかってプテラプテラとかテデヘで分哨に出されたわけ。で、ちょうどわたしが長になって分哨に出たとき、機関銃の兵隊が「黒豚きた、黒豚きた」って言うんだよね。向こうには黒豚がいるんだよね。黒い豚が出たっていうんで、「取ってこい」って言ったら、「取ってきます」なんて言ってドカーンとやったら、「キャー」って言うんだよ。したら、土人。これで何人目なんべなんて言ったんだよ。

Q:その兵隊は初めて会った兵隊?

そうそう。

Q:そのときは食べましたか?

食べないです。うちの中隊はね、ハマさんって、そのチンプンギの戦争犯罪で、その人いわく「うちの中隊だけは絶対人間の肉だけは食べないでくれ」と。「人生わずか50年の生涯を、おれは、人間の肉は食べるというのは土人といいながら一生頭から離れないだろう」と。「そういう呵責(かしゃく)の念に追われながら生きるなら、みんなで潔く自決するべ」と。「だから人間の肉だけは食わないでくれ」と。だから、おそらく、うちの中隊だけは食わなかったね。部隊長が、人間の肉だって隠して部隊長が(に)食べさせて。そしたら、「こりゃうまい」といって、うんと食い過ぎて、大腸こわして死んじゃったなんて部隊長もいるんだよね。

Q:撃ったという人は?

全部肉にしてみんな持ってった。各中隊へ持ってった。「食べよう」って言って持ってった。飯ごうっていって、ご飯炊くあれがあんだよね。それで十杯ぐらいあるそうだ、肉が。

Q:他にもそういう現場を見たことは?

2回くらい見たね。人間を料理してる現場、2回ぐらい見たよ。

昭和20年になってからはもう友軍の飛行機は1機もなくなる。弾薬も糧まつもなんにもなくなる。これは到底日本はもう負けると。どうせ負けるなら早く負けてくれればいいんだと、そういう考えだったよね。中隊長はじめそういう考えだったよ。

20年になってから特にね。もう敵も日本の飛行機がいないもんだから、悠々たるもんなんだよ。低く飛んで来てさ、ほんでヘリコプターですか、あれも飛んできてね。ほんで「本日の朝食はライスカレーでございます」なんて。その毎日毎日、そういう宣伝ばかり。放送で宣伝してんですよ。

Q:日本語で?

日本語。日本人だよね。もっとも二世がだいぶいいたからね、オーストラリアには。だから二世の兵隊が日本語べらべらしゃべる兵隊がいっぱいいたから。

もう日本軍はどうせ負けんだと。もう一日も早く負けることばかり考えてたよ。早く負けてくんないかなと思ってね。じゃないと死ぬの待ってるのと同じだもんね。戦闘なくたってさ、我々も半年かそこらで死んじゃったよね。土人もそういうわけで全然協力してくれない。土人も怖い。食べ物もない。そういう中で生きてくんだから、あと半年もあのままおかれたんじゃ、戦闘がなくたってみんな死んじゃったよ。

ポツダム宣言受諾と言う放送を聴いたときに、あぁこれで戦争も終わったと。

Q:放送があったんですね?

そうそう。

Q:何日だったか覚えていますか?

そうだね8月の12日だったよね、それが。

Q:放送を聞いた後は?

放送聞いた後は「このままいてもしょうがないから、敵に降参してくべ」ということで。

そのころカキヌマって曹長だったがその人が先頭で、中隊長にこうゆうわけだからしょうがないと。

「うちの部隊も降参してくれ」と。中隊長も初めは「うん」て言わなかったよね。でも、その人が「全員の総意がそうだから、もうしょうがなかんべ」と説得したんだよね。それで「みんながそうならばしょうがない」ということで中隊長も了解したんだよね。

みなさんは、兵隊はもうみんな賛成だったよ。「どうせここで犬死にしたってしょうがない」と。もう犬死ってこともなかったんだよ。その当時ポツダム宣言受諾という報道が入ってからは、爆撃もなければ敵も撃ってもこなかったからね。

Q:反対する人は?

いなかったね。

その状況はとんでもないが、ここに、もう我々も見捨てられたんだと。日本国に見捨てられちゃったんだと。

もう昭和19年になってから日本の国は負けるんだと分かってたからね。負けるんなら一日も早く負けてくんねぇかなと。将校はじめ、みんなそういう考えだったから。

Q:そういう話もした?

したよ。そうでしょ、武器がないでしょ。弾薬もない武器もない食糧もないっちゅうんだから、もう。昔から「武士は食わずも」っちゅうが、そんなことは本当になんちゅうか、ことわざにすぎなくてね。

軍人勅諭そういうことも教育されたが、もうああいう状況になっちゃ誰もそういうこと考えられてないよ。そんなこと、ほんでよくまぁ「死ぬときには天皇陛下万歳って死ぬんだ」なんていうが、「天皇陛下万歳」なんて死ぬ人は一人もいないもんね。ただ子どもさんがいる人、奥さんがいる人は、誰それ誰それ、お母さんとか子どもの名前を呼んで、そんで死んでったんだよね。

Q:戦後、そういう行動に対してどうかという人は?

そうだねまぁ直接聞いたわけじゃないがそういう批判があったということを聞きましたね。

この豪州の人たちは紳士的っちゅうかねぇ、もうほんとに日本の兵隊でも、もうそのころみんな弱ってたからね、歩けない兵隊もいたんだよ。そういう人はもう飛行機で後方の病院まで送って、医者がつきっきりでね。1人の兵隊だよ。日本の捕虜の兵隊一人のために、飛行機で後方まで送ってくれんだもんね。病院まで。

もっと残酷なとり扱いだと思ってたんだよ。だからいたって紳士的でね。食糧だってなんだってみんな向こうの兵隊と同じ給与だったからね。パンが二切れに牛乳がビン一本に、コンビーフって肉の缶詰があんだよね、それ一個。だから十分だったよね。だから体力もみるみるうちにみんな回復してきたね。

Q:どんな気持ちだった?

いやぁ、初めて食べる食糧だからね。だからこんなうまいもん食べさせてくれんだ、たいしたもんだと思ってね。

Q:他の日本人もいた?

いたね。んで我々のその捕虜になったときの大将ってのがスコットっちゅうチリの人。この人が日本語ぺらぺらなんだよね。そしたら聞いてみたら日光に宣教師で19年いたんだって。だからとても日光のことは詳しくてね、栃木県の人は特になじみが深くて。よかったよ。

Q:偶然日光の人だったんですね。

そう。で、宣教師に19年もいたんだって。だからずいぶん年寄りのおじさんだったよね。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
栃木県に生まれる
1942年
現役兵として東部第36部隊に入隊
 
第239連隊第4中隊に転じ、北支山西省へ
1943年
ニューギニア・ウエワク上陸
1944年
アイタペ作戦当時、兵長
1945年
終戦 当時、陸軍伍長
1946年
愛知・名古屋にて復員
 
復員後は、家業の農業に従事

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ニューギニア(アイタペ、ウエワク)

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