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タイトルタイトル: “地獄の底を見た” 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 本山 仲治さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月22日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニア上陸  05:04
[2]2 チャプター2 アイタペ総攻撃命令  03:39
[3]3 チャプター3 アイタペ総攻撃開始  05:45
[4]4 チャプター4 密林への撤退  02:07
[5]5 チャプター5 見捨てられた戦場  07:05
[6]6 チャプター6 第2大隊の集団投降  07:45
[7]7 チャプター7 紙一重の生と死  03:25

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月22日

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向こうへ行ったのはね、18年の、1月正月だね。1月、青島港を出て、それからパラオを経由。それで、ウエワクへ、上陸したんだ。それで、パラオから、そこでパラオにおいて、2日ばかり、そこでまぁ、船の水の補給だかなんだか、泊まったんですが、そのときは、もう、我々より先に行った師団が帰ってくる者と、やられて帰ってくる者とあって、我々は、まぁ、例えば「船でやられれば、砲はそのたらいみたいなの持ってそこで縛り付けて浮かせるんだ」なんて言ったら、もうその、おかしくて笑ってるんです。「そんなことよりまず我が身だ」いうような意味でな。ということを言われてました。そのときは、先の部隊はそういう姿で帰ってきた、まぁ、そういう話だけは聞いてきました。

で、パラオから出るとき、もうすでに、敵はパラオのほうにみんな周りに、みんないたんだね。パラオをこう出ると、すぐ、魚雷がね、シャシャシャシャとこう、来て。また船がまた、ギューとこうやってまぁ、やられなかったんですがね。なるほど、といよいよ戦地に来た様な感じを持ちました。それで、魚雷を過ぎてからは、別に、あとからは高いところで、飛行機は警戒してようが、偵察してるようですが、低いような、低空のようなことはなかった。で、無事、ウエワクへ上陸しました。それでウエワクへ上陸して、そこには師団のようにすぐ人家があるわけじゃなくて、何もないんで、すぐ、そのヤシの葉っぱみたいなので自分で家を作って、そこで休まなくちゃいけない。まぁ、忙しいこと。それも、そこで作ったかと思えば、すぐ命令がかかって、命令でブーツって言う飛行場のとこへ行って、飛行場を作るというか、我々で、滑走路があったけど、その飛行機がジャングルへ入って。それを、敵の弾やそういうのを防ぐとは、掩体(えんたい)(壕)という兵器を作って、敵の例えば、弾に当たらないような、そういう、まぁ土方仕事みたいなの、それをエンピ(円匙・軍用シャベル)ひとつです。

一つ弾、穴あけられれば、モッコリいくからそんなもん、どうしようもないですよ。そんな事をするうちに、まぁ、その飛行場も、放棄みたい。こっちで兵、駄目だってんで。敵は、今度は、前進して戦場にしてると言やぁ、そこへ鉄板の、敷いて、それからあとはまたやる、やるんだよじゃぁ、とりあえずお前は鉄板を敷いて。まぁ雲泥の差だね。それからもう自動車なんか、向こうはまぁ海岸端みたいなのを通るためにジープみたいなんで来るんですよ。日本のは、なんか、お上品なね、ですよ。向こう、もう本当に、鉄板で、腹削るようなジープだけど、砂やなんかとか、タイヤがいいんだか、とにかく、速度を出してやってるね。まぁそのうち、こちら、そうなるなんでもねえ格好に、もうなんでも、人力。まぁ本当に、日に日に、敗残兵みたいな格好になって。

Q:命令が出たときはどのような感じでしたか?

あのときは玉砕っていうような、皆の、覚悟みてえな、うわさみたいのが来てね。言い方は、「口減らし」っていう言葉も出てね。誰かが、「現地自活やるったってできない」っていう。そんな、うわさが流れたね。

Q:口減らしというのは、人数を?

減らす。何かな、行っても補給はねえんだから。だって現地も、土民が少ないんだから、同じパパイヤでも何でも、栽培面積が無いってことは、大勢いられないってこと。まぁ支那(中国)は、広いんだから、まぁ、略奪には違いないけど、まぁ、食べていけるだろう。向こう(ニューギニア)は略奪しようが、絶対(土)地が無いんだ。

Q:湿地帯はどういう環境なんですか?

でかいんだな。これの大きいことに、こう人間が入るとね、ジャボッと落ちると、こんなようなの、このくらいまでぬかると、この辺のあのとこに、まぁ、こうやって、(足が)底に着かねえみたいだから、こうやって、落ちればこういうふうに(普通に)。歩けないみたいな。だからあれ、工兵隊も、そういう道を作る。木の所へ、1本か2本こう渡して、縛り付けて、そういうとこがいちばん、ここなら、ここで、底のある湿地帯なら湿地帯でいいけど。そういうとこがね、怖かったな。それで、自分で落ちれば、誰も、手なんか出したって、間に合うもんでもねえ。ダボダボダボダボ。それでもうね、体フラフラしてるからね。それでまた、また、それちょっと川が、また、転進。だって、川へ行くっていうんで、海へ出るときになると、上じゃいかんて行って、広くなって。そしてここ、そこ昔、橋あったものがもう、やられて、無いとか。そこも、もう、皆で手なんかつないで行くけば、皆、終わっちゃう。またこうやって波を、それで、終わっちゃう。

飯食わんで、フラフラ歩いてるんだから。だからそこで流されれば、あれで、「あそこでやられた、誰々やられた」こんな報告を受け、そういう格好になって。

アイタペ玉砕、そのときに玉砕になんなくて、助かったのは砲を持ってったおかげでね。そこへ「1回に、総攻撃やろうが、行け」という命令をもらった。だけど、「こう始めはそこまでは、砲だけは船で送るから、あと一緒に来い」という。船なんかないから、じゃぁまぁ、遅れてもいいっていうのではないんだけど、なるべく早くついて来い。実際問題だから、砲と、2回、歩いたんです。まず、砲をこう先に運んで、こっから、人間が、先行ってから砲を取る。ピストンピストンでやって。その他に・・・が遅れたために、もうその板東川(ドリニュモール河)っていう、あれが、左岸でやったんだ。我々、右岸に行ったときにもう突っ込んで、それでも玉砕でやっぱり、そこに、みんながやられないで、後方でケガした者が帰って来る。それを見届けて、一緒に、(後方に)帰ったの。それはもう、こう血が流れて、傷口からウジは出て、それは見られたもんじゃねぇ。

Q:その総攻撃から帰ってきた人たちですか?

はい。だから、それが、結局、行くっきり、敵だってそれ、それはみんな、すりつぶすとかそういう事はなくて、そこまでその、引き上げたかそこにいたか、っていう、日本のようにグエーっと押してこない。そういうの押して来ると、我々どっちにいてもやられちゃうんだが。そういうところが日本のやり方と違うような気がする。だからまぁ、我々はあのときは、砲を、まず右岸まで持ってったんです。それから、今度、我々が行ったらそこに、誰かが先行ったときは、もう敵が来てたとこで。それ来て、いやぁ、もうそのときは、頭真っ白さ。

そこへまぁ、集結、ともかく集結して。そこで集結して、今度は砲を捨てて、命令、「捨てていい」ってことになって、

だから、砲は捨てちゃえば、またあの大変なんだ、バラバラにして、こう、各、中隊なりの、配分されてね。わしも、そのとき、大隊本部行って、兵隊2人ばかり連れて行ったんだ。あとの者はみんなバラバラになった。

Q:「砲を捨てる」というのは、普通では考えられない事ですよね?

はい、考えられない。兵器なんて捨てるなんてとても、天皇陛下を頂いたとこを、やられるんだから。とてもとても。

だからこう、軍艦に乗ったって、まず人間が、決め手より、砲に決め手をつけろっていう、教育なんだ。だからそういうとこを通ってきてもない。

そんな事言ったって、行かれない。そんな事言ったって。

Q:それ程大事なものを捨てなければならない状況だったんですね?

うん。

Q:そのときは、砲の隊長ですよね?

はい。

砲を別れるとともに、今までいた人間と皆別れるんだからね。これは悲そうなもんだね。家族で別れ別れになったみたいだ。そうなると、また、そういうとこの行動は弱くなって早く死ぬんだ。やっぱりだから、なんでもねえ、出てくけど、名前の「長」でもいれば、皆がそこへ寄ってね、寄る気持ちはある。

Q:そういうふうに団結していたものが別れると、

別れると、他人の家行っちゃうんだからな。悲そうなもんだね。

Q:砲はどこへ捨てたんですか?

いや、海。ただグエーって。そんなような。

連隊が4千もやったのが、帰ってくるとき135名か、なんだかなんだから。まぁその中の一人になったんだから、これも、考えれば、たまげちゃうさ。わたしの助かったのは、その玉砕戦に、砲のおかげで、玉砕にならなかった。

自決するのでも叫んで、殺してもらえる人だって、まだ、あの、「自分で手りゅう弾でやるより、殺してもらいてえ」って言うんで。実際、引き金をおれ引いてやったのある。おれは嫌だから、下士官にやらせようと思ったけど、下士官は嫌で、班長も嫌だっていうから。おれ、こうやって引き金はねて。大した戦争だで。

悲惨なもんだで。ハガネ引いてひくなんて、死ぬ。嫌だで。嫌だで、せっけど、それは生かしておいとくんじゃのぉ、気の毒な。ほんとに気の毒な。まぁ、そんなの、一回かだったね。引き金引いてやんのは。後は、手りゅう弾・・・あとから連れて来いっていうことはあるでな。それで中にはケガしたのについてくるのも、自分の隊にはいなかったけど、ついてくるのもいる、人もいた。そぉいう(よう)なこと、ここに書いてあるの一つあった。「あのときなぜ置いてったんだ」って、なんてな。

Q:最後の補給はいつぐらいなんですか?

まぁ、ニューギニアは、早いもんな、補給ねえやな。だから我々は実際、補給無くなったのは、要は、19年の、5,6月ごろだな。本当に無くなったのは。

もう、どん底だよね。言えばそれだけだけど、それが、ずっと続くんだからね。だから早く死んだ者はその、半年おいて、帰るまでやった者は長いね。それでみんな、「帰る前に、一度、白い飯いっぱい食って、死にてぇもんだな」って、できねぇ話、冗談話、してまぁ、行軍したことあったんだね。でも、一杯も食うわけにはいかなかった。

ここで、みじめなところが、もう糧まつのないっていうところがいちばん、まぁ「人間」っていうところがなくなって、まぁいわゆる「生物「って言うか、「動物」って言ったか、動物っていうかあれなんだね。そこで、こういうところでまぁ、いちばん醜い、「共食い」のような話も出てきた。

いわゆる生物が食べ物取るってことは、いちばんのあれだね、ひでえだね。まぁああいうことを考えると、本当に、なんかなぁ、あのとき、今、じゅんじゅん、そういう気持ちを思うけど、親子でもわからないような感情も持つね。そう、そこまで行かねえうちに、自殺なり、子どもと自殺すれば別だけど。そこずれて、ちょっと脳の方おかしく、動物にかえったときは・・・と、思いたくなるふうな心境だね。

Q:親子でもわからないというのは?

それはまぁ、えぇそれだけでいいから。

Q:そういう理性を超えるということですか?

それがそのときどうすれば、ネズミなんかそうだから。子どもも親も、最後、最後は、自分が生きるために何でもする。まぁ、おれはそこまではね・・・っていうような感じがする。動物から食べ物を取るっていうのは、いちばん悲そうな思い。

ちょうど、昼食か何か食べてたときに、みんな行って。こう、我々が行って、大隊長が行ったら、飯ごうの蓋(フタ)バタバタバタっと(閉めた)。まぁそのときは思わなかったから、後で、だからその、「何中隊は、共食いをやった」っていう。憲兵に通っちゃってね。まぁ、そのときは、すぐは何でもなかったけど、後で帰るような段取りになってから、そういう銃殺になったそうです。われわれは、それ見ねえけどね。帰ってこれん。これがいちばんショックだね。こういうのがあったさ、倒れた者じゃなく、弱ってん者をやったって。まぁあれは、本当に悲そうだったね。

いわゆる我々、「地獄街道」とか、「死の街道」、「魔の街道」、なんてまぁ、自分ながらに胸に、言い聞かして転進してたわけ。ここで、人間の限界を超えてっていうやつで、ここでちょっと、人には口外できないようなところを見てきたりなんか、感じがするね。みんながここをいちばん、言いたいような感じを我々も、こういう本を作って、とったら、ほとんどの者がこのことを考える。それで編纂(さん)員も集めて、「ここだけはまぁ削除しよう」って言うんで。直して、どういうふうに書いたか。「限界を超えた、動物的行動だ」なんて。ゴマすったことを書いたりしたんですがね。これは言いたいのはそこまで、「こんなこと・・・」て言うようなことをやったことが、いちばん、みんなの、頭に残っているところだと思うね。しかしまた、これを言わねえなら、本当の戦争のとこじゃねえような気もする。

だから、自分でだから、「ひでぇめにあった」ってこと表すにはそこまで徹底して(聞いて)もらいてぇような気持ちしちゃうんだね。とてもそこまで追い詰められたって意味の。何かまぁ、「なんとかもっと手段があったんじゃねぇか」っていうふうに考えてもらいたくねぇ。

Q:終戦までもビラはたくさんあったんですね?

時々まくね。いわゆる、「食料もくれるぞ」とかな。そういうのまぁ。

Q:投降勧告?

そうだね。まぁそれでも、団体で行くというのはなかったけれども、一つは、我々の、本当の、始めからの連隊の関係じゃなかったから。山砲って言ってて、またでかい、砲も。そういう山砲が、歩兵の部隊なんかついてんで、ずっと偉い人の、方面軍と軍司令官の直轄になって。でかい、長距離砲みたいな。そういう人が、歩兵部隊来て、大隊長にな、その砲兵の長になった。来たんです。僕は後ろにいて、歩兵なんかも、とんでもねえとこ、山の上に、こっちにいて、うるせえやつ。前線出られたら、上に上がった・・・でも、大佐(大隊長)、手挙げて行っちゃう。これが、まぁ、いちばんの、ニュースだね。

Q:それはどうやって知ったんですか?

それはね、やっぱり、何か命令来れば、そこへ命令に行かなくちゃいけない。行ったらそこにはいないの。「竹永大隊」ってんだ、ここにも書いてある。ここだ、ほら、ここに。「守備してろ」って、やっと連絡行ったらいないわけ。それでまぁ、あそこには我々と同期の、級が上の、人でいたの、県内に。名前は言わねえけど。捕虜に行って、(投降)行った人がいるね。自ら手挙げたの。で、そのときの、親方(大隊長)、やるんよ。親方がまずね、行きたくなっちゃったんだから。「おい、」皆もよして(仲間に入れて)、大してもいねえけど。「おれは、この戦争は、まぁ。他の者だって負けたと思ってるものだと、負けたと。実は、いよいよ、向こうへ手を挙げて行こうと思う」と。そしたら皆、ビヤーっとこう、(手を)あげた。そうしたらまた考えて、「嫌でも無理もないけど、それじゃぁあの、嫌な者と、いい者、は挙げて、いい者だけで行くから」というようなことでやった。それをまぁ、二度三度何回やって、親方はあんなことしちゃ、どうも、あと、どうなるやらって気持ちもできて。まぁ、なんだかんだで、最後は、「みんなで行く」っていうような事になったらしいね。

Q:竹永大隊長が、陸士出の人だからショックは大きいわけですよね?

まぁ、我々はそういうふうに言いたいんだ。だって皆、何とかして虜囚(りょしゅう)死してなんだい虜囚の恥ずかしめることを無かれ(戦陣訓「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を 受けず。死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」という、そういうのに、いちばん敏感でなくてはいけねえな、ばりばり。

Q:戦陣訓ですよね。そういう考えは、食べ物がないような状況でも強いんですか?

まぁ、自ら捕虜になるというのはちょっと、まぁちょっと考えられないような気がしたな。

思想よりも、生き物としての感情だ。思想でなんて、まぁ、ちょっと考えられないけどな。

Q:命が惜しいということですか?

まぁ、怖いという、みたいなんだな、いわゆる。皆だって怖いには怖いけど、そうやって、別に逃げてまで、というのをな。まぁ行かないような気がするんだけどね。

Q:竹永部隊の帰ってきた人の話を聞いたことはあるんですか?

あぁ、あるね。だけどあんまり、それだからそのときの、こう、始め、嫌だって言って別れたって、そして自然に、なったっていう話が、聞いたんだけどね。将校は、2人ばかりとはって言ったな。2人、3人か。

Q:そのお話聞いた方自身は、投降に賛成だったんですか?それとも反対だったんですか?

まぁ言うように行ったんだから賛成だっていう事だからな。だけどそこ、一人で逃げなくちゃいけないから。だから、戦友会を後(戦後)でやったけど、戦友会には来ない。まだ来らんないわ。

我々としては、批判なんかじゃない、その、(戦友会に)来らんねえから、残念やな思ってると思うみんな。

弟(高木貞雄さん):それで終戦の12月に兄貴のとこから手紙が来たんだ。浦賀だやらどっかあっちの方から。

本山:浦賀だやな。

弟:浦賀だな。して、して、して、して帰られるけって。おれが気持ち、声、上ずって上ずっておやじんとこ行って「兄貴生きてるって手紙だ」っつって。おやじ、ただ当たり前の手紙来たみたいに、「あぁそうか」って言ったきりさ。下のおやっさんが「上の仲治来た」って言おうとして、「あぁーっ」てこう、「帳簿になってね、なってたからな」っつって。こっちのおやじな、「あぁそうか。」なんつったきりさ。

ほして、上山田の従軍病院へ入院、入院してたから、それで、きたがらせってあれとやって、あっこの、あの間歩いて行ったんだよ。そしたらみんなが顔な土色してな。

本山:わたし、むくんでた。あのねぇ栄養失調ってだいたいむくむんだ。まず、キンタマこんなでかくなってくる。そして、こういうところへ(鼻や目に)ハエも卵を産む。そしたらこれを(手を振って)追えなくなってくる。その手前でおれ来た。よかった。ちっとむくみが出てた。

弟:それであれ、その年、退院してからって少し身体弱くなって、その年の内にマラリアな。の、あれ起こしてさ。それ、おれ見てたんだけども、布団に、いっぱい、こたつの布団かけられても、「さびー、さびー(寒い、寒い)」って言って、そして今度は、病気治まったら、今度は汗びっしょりかいてこうやって「暑い」って言って、それがマラリアの病気やけど。

Q:びっくりしますよね?初めて見たら。

弟:うん。ほして、真っ黒んなってな、そして、におうんだよ。まぁ、現地でな、兵隊もマラリアになって「あぁそうか」ってみんな我慢で終えたりして、そしてまぁそれが必ずしも死ぬってぇのもないんだけども、よぉみんな苦しんで。でも見てるとさ、ただ普通のと違うからさ、病人になれば大変だで。

まぁ、生と、死の、境は紙一重だ。

Q:よく生き残ってこられましたよね。

あぁ全く。まぁその、アイタペ作戦の、玉砕のとこ、逃れたのが、まず、いちばん良かったな。
まぁ、大した戦争やったおかげで、底を見てきましたで。地獄の底。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
長野県に生まれる
1940年
松本第50連隊に現役入隊、北支山西省へ
1941年
幹部候補生として保安予備士官学校に入学
 
第239連隊第二大隊砲隊長を命ぜられる
1943年
ニューギニア・ウエワク上陸
1944年
アイタペ作戦当時、少尉
1945年
終戦 当時、陸軍中尉
1946年
神奈川・浦賀にて復員

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