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タイトルタイトル: 「迷惑な斬り込み命令」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 小川 孝四郎さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月11日

チャプター

[1]1 チャプター1 密林での飛行場づくり  01:34
[2]2 チャプター2 マダンへと東に  02:08
[3]3 チャプター3 大和魂と水と空気のみ  04:24
[4]4 チャプター4 行く手の難所 セピック河  05:31
[5]5 チャプター5 中隊長の任務  08:15
[6]6 チャプター6 突入の命令  05:58
[7]7 チャプター7 密林への撤退  06:39
[8]8 チャプター8 斬り込み攻撃  05:23
[9]9 チャプター9 消えた第2大隊  05:17
[10]10 チャプター10 投降勧告  04:13
[11]11 チャプター11 終戦  03:39

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月11日

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(両手を広げて)大きいスコップじゃないですよ。背のうにつけるようなこんな円匙(エンピ、軍用シャベル)でもって、本来なら工兵がやる仕事を道路建設だとか、飛行場作業だとかを歩兵の僕らがする。だから、それを言ったんだね。だから、そんなのさしてさ、体力消耗してマラリアにさしてるよりは、そういう仕事、道路作業なんてのはなんも無理してさせる必要ないんと思うんだけどもさ。まったく。

僕はタバコ飲まないけれども、タバコもらってきて、兵隊さんにくれてやる。そうすると兵隊さんは喜ぶ。そういうことで情報収集して、兵隊さんに喜ばれるようなことをして、ということで、日曜日は作業もお休みでしたし、そういうことをしてました。

だからマダンまで行く途中に、大変なわけだ。大発輸送機っていたけれども、日中の陸路も空襲の危険のがあるのを、あることを体験して、船でアレキスまで行くこととなった。マダンのそばにアレキスっていう飛行場があるんです。そこまで船で行くことに。こういうふうに。日中の陸路も空襲の危険のがあることを体験して、船でアレキスまで行くこととなった。夕方行動を開始。接岸航行である。昼間は行けないから。暁部隊(陸軍船舶部隊)の人にすべてを任せて、途中、敵のパトロール軍が。哨戒に来るんだ。飛行艇で「ブゥー」っと。あえば、陸路に強行上陸の体制をとりながら、東進、東に進む。わが軍の輸送船が撃沈され、積み荷の砲弾が一定間隔で破裂しているその場を通過するときの気味の悪いこと。沈んでいたわけ船が。それで「ドオ~ン」。しばらくして「ドオ~ン」って、弾が。気味悪いよ。輸送船のあの砲弾の破裂。アレキスの波止場に着いてやっと陸地の人となった。

アイタペに4月の20何日(連合軍が)あがっちゃってる(上陸している)。だから、泡食って、こっちにあがったから、こっちにいたマダン、この辺にいたのみんな敵に、ほらぁ、ここアイタペでしょ、ここに広くあがっちゃたから、こう、ね。こうあがっちゃたから、で、我々この、ここにあったから、今度これを迎え撃ってね。後ろへ下がれ、下がれって、下がっていくわけですね。

Q:敵がここに上陸するのは日本軍の読みと違ったわけですよね?

まさかと思ったね。せいぜい、ハンサか、この辺ハンサだからハンサあたりかな、せいぜい、ウエワクかなと思ったら、アイタペに一部、主力はホウリャンじゃって。だからもう、これはもうひどいもんだよね。

やっぱり、僕は大和魂と水と空気の戦であって、あれもない、弾もない、薬もない、そして食料はもちろんない。そうすると、何、食ってたのっちゅうたら、その辺のジャングルのあれを、ジャンクルの、ジャングルブキとか、いがらっぽいんですよね。だけども、それは、しょうがないから、1回茹(ゆ)でた感じで、ざっと煮て、水はありますから。だからもう、それでもって食べる。そして、結局あれは、兵器は、死んだ人の持ってたのを、あれです。

しかし、有効に使っておりました。例えば弾。兵隊さんは、「はぁ、ノド渇いた」って言ってね。ヤシの実を、パンって撃つ。そうすると、落ちてくる。穴あいてダダダダダダって流れてくる。それ、こう口やって、そういうことはしない、させない。

そうすると、ちゃんと、弾は使わせないで、僕はもう、ま、英語できるって、現地に英語で通用するもんだから、そしたら、現地の土人の人、ソルジャー、あれだって。「ヤシ、落として」っつうと、落としてくれる。あの人たちもそのほうがいいんですよ。自分の大事なヤシだからね。その実った実、やつね、そして、兵隊さんに飲ませるとか、そういうことはして。そして弾は、「おい、うちの中隊で射撃のうまい、ナンバーワン、ナンバーツーくらいに、弾を与えて、『鳥を撃て。』それから、『あの豚を撃て。』」そして、撃たせて、そうでないとねぇ、弾は、ノド渇いたってバンバンバンバンやってる上に、弾はあの日本少ないのにね、それ、そういう厳しくするけども、喜ばれるようなことはしてました。

我々もウエワクへ行き。ラム河は工兵の船で・・・、最大の難所はセピック越えである。小舟でしんがりから中洲へ、そして対岸へと連日の爆撃。そして、バラバラ、部隊の生き倒れ、わずかの間に乗船人数と上陸人数の差が千人、多くの人々がここで昇天いている。乗せた人数と上がった人数の差が千人ってことは、「船で沈んでる」ってこと。ね、セピックって河。で、ここラム河でしょ。ラム河超えて今度セピックへ、これ超えて今度セピック。セピック大きいからね。

Q:ここの湿地帯がすごく大きくて大変だっていうの読みましたけど。

うわごとのように最愛の奥さんの名を呼び続ける人、天皇陛下万歳で自決する人、沼地でコト切れて手だけが流れのまにまに動いている人。河の中で死んじゃってね、そして、流れにね、手だけこうして(ひじから先を揺らして)、流れにこういうふうになってんね。ひどいや。あんまり気分よくねぇや。「我々にかまわず早く行きなさい」ともとれるしね。これ(手の動き)ねぇ、「早く行け」っていうふうにもとれるし、逆に「知らんふりして通ったら、ただでおかないぞ」ともとれるし、とにかくすべてが地獄であるって書いてあるんだよね。
『生きるも地獄死しても地獄と、何のための戦いなのか。連隊本部が空襲され間一髪無事であった。連隊本部に僕行ってて、そいで、空襲されて、日中は密林湿地帯に分散して夜間渡河。』
とにかく、大変なくらい昼間はもう黙っているんだよね。
『とにかく渡河完了。対岸の部隊に、対岸の部落はさすがに平和。温かに迎えてくれた。』
ウエワクに潜水艦が迎えに来てるっていうデマがあったんですわ。ええ、ほんとう。まことしやかに流れた一縷(いちる)の希望。

Q:潜水艦は何しに来るの?

もちろん、我々を日本へ送ってくれる。「日本へ帰る潜水艦迎えに来てるんだぞ」って言うてデマがとんだわけよ。ウエワクに。「よぉし。」そしたらデマだった。
『セピック沿いに海岸に、ウエワクへと兵は進む。途中、力尽きて泥にのまれ、こときれる人、励ましのことばもうつろに病と闘う勇士たち。食糧さえあれば、全員が元気で進めるものを。残念である。我々も毎日食さがし。インド兵の首つり自殺者あった。』
インド兵首つんだよね。日本人と違って膝立てて。こう、中座してね、日本だったら、こう中座してね、こういう格好ね。

Q:インド兵もいっぱいいたんですか?

インド兵ちゅうのはね、シンガポールで、日本の捕虜になった人が、飛行場作業に、ウエワク、マダン、あの辺の飛行場作業に連れて行かれて、そして、その人たち、だから、こっちにも来てたのかな。

『我々指揮官の睡眠時間は1日3時間。敵が後から追ってくるという観念が急行軍にも文句も言わず、黙々とついて来てくれた。わたしは完全な、安全な所、物資のある所を選定して休ませる。そして食わせる物を探してある。なんか安全な物資のある、だから物資ないんだ。ハマダラ蚊、軍は、ウエワク集結、アイタペ進攻と、来る日も来る日も中部隊、バラバラの連中と通過して行く。銃を忘れおく者、帯剣、遺骨、毎朝の巡察で珍品を発見。生き倒れの人々。夜半の騒音、タバコの火で魚雷艇の銃撃を受ける部隊と様々な連中が通過していく。』

Q:いくつかまた質問があるんですが。マダンまで行ってから、51師団のサラワケット超えて帰ってくる人たちの様子は?

いやー。銃持ってる人持ってない人。帯剣はつけてあるけども、飯ごうをその辺のジャングルの蕗(ふき)をあれする飯ごうを持ってる。そして、あれですねぇ、もう疲れ切った形でもって何人かに、乱丁。1丁とか2丁とか、銃持ってふらふらふらふらと帰ってきて。あれは、サラワケットも、でもねぇ、かわいそうに、サラワケットをして帰ってきた人たちはご苦労さんでねぇ。すごい哀れな格好でした。

Q:けがしてる人なんかも?

そうですねぇ。

Q:ニューギニアに行く前はそういう姿に日本兵がなると思ってました?

いやいや、思ってませんよ。このラム河渡河っていうのも大変だったね。
『ラム河渡河点、馬の処理が大変。野戦道路隊の馬、射殺して肉の供与あり。馬部隊が馬肉食わない由、我々は生きるために何でも食する。』
馬部隊は馬の世話になってるから馬肉は食わないわけですよ。で、歩兵の人すいませんがこれうちのあの馬たちの肉だから食べてくれって。我々は喜んでいただいたけれども。夜間巡察で、各諸廠を確認するとき、死臭、屍(しかばね)のにおいが目当て。人のにおい、馬のにおい。こう、夜巡察するのに、この辺まで来れば死人のにおいする。人のにおい、死んだにおいと馬のにおいと微妙に違いますからね。馬がにおいは、チョッとしつこいようなにおい。「異常ないかい」って言って、ちゃんと回ってくるわけです。とにかく今でも鼻につく独特のものであると。

自分の兵隊さんが殺されて、その小指を切って、そして何かにあれして、イモ煮たりなんかするときの残り火で遺骨にして、僕の背負うわけだ、中隊長が。

実際、自分の兵隊が、部下が殺されてみて、「畜生、よくもよくも、うちの大事な兵隊さんを殺しやがった。ヤロウ」っていう形になりますよね。初めは、「おれ、なんでこの人と利害関係も憎しみもないのに、でも、このアメリカは、僕を殺さなければ、僕が殺さなければ僕を殺すんだから、あぁ、なら先に殺そうか」なんて言って、戦争やってたけど。自分の兵隊、死んだの見て、「畜生、このアメリカ」って。

だからほんとに、戦争ちゅうのは、ほんと極限状態になってくるとね、兵隊さんも、なんだと。まぁ、食べ物です。「弾を使って、そして、鶏を、あの鶏が、あれ取って、あの鶏を、そして、てめえだけで食って、非道な中隊長だ」って言ってね、そういう人もね、中には指摘されて、あれした人もいますしね。やっぱ食べ物です。そういう意味ではね、僕なんてのは割合に、よしんば、校長(士官学校の)がね、「飲みたい食いたいときは、いちばん最後にあれすればいいんだ」っていうことをね、それを、ちゃんと守ってて。どうせ、てめえは自分の意思で来たんだけどもね、兵隊さんは、国家要請で、来たくねえんだけども戦争に連れてこられたんだと。おまけに食う餌もないんだから、食いもんもなくてね、気の毒だからっちゅう形になってけば、兵隊さんなんかもね、同じ、あれです。死ぬなら一緒に死のうちゅう感じで、そんなに、兵隊から悪く思われてなかった。あれはなかったです。いや、自信みたいに申し上げるけども、たぶんそうだったと思います。

「これが最後」っていう感じだったと思います。というのは、実は、僕は、新しく中隊長になって、そして、どういうわけか、1中隊と3中隊と機関銃と、第1大隊はその3つで行ってるんです。僕は2中隊長で、速射砲の警備を命ぜられて、速射砲と一緒に行ってるから、後から行ってる。したがって、乾坤一擲の、斬り込みには参加してないわけです。よくわかりませんけれども、小川で、先輩が「貴様、あれだから、後から来いや。チョコレートとって待ってるぞ」言うて、「死に急ぐんじゃねぇぞ」っちゅうなことを言うてくれた、機関銃の中隊長さんがおるんですけどもね。すると、その人たちちゅうか、結局アイタペの第1回の斬り込みでこれ玉砕しちゃう。で、後どうするかっていうことの考えてのあれだったと思うんですが。僕は行ったときには。

『坂東川、川中島の渡河作戦、18軍が最後の賭けであったと。41師団20師団の主力、51師団の一部使いうる全兵力で最後の攻撃である。7月十何日、渡河作戦開始。原田敬策大隊長、原田さんが大隊長だ。で、大隊長も、花木さんは第2大隊、各中隊長も戦死。原田敬策さんも花木さんも各中隊長も戦死、また戦死。239連隊も238連隊も237連隊、すべて壊滅的打撃。かくて41師団も名のみの部隊となった。』

『7月27日密林内は、密林内に陣地を作り敵を待つ。軍主力の北上を援護する任務である。各中隊に出された斥候と敵の接触はないが、妙な予感がしてわたしも単独で陣地を離れて偵察行。変なものを発見した。火食鳥でもない。土人でもない。よく見ると迷彩施した大きな米軍ではないか。一瞬ぎくり。腰の拳銃を抜き、安全装置をはずして構えて撃った。一斉に反撃された。わたしも撃つ。夢中で1人2人、敵、わたしの潜んでいるやぶの後は、水たまり。わたしが移動するたんび水音がする。その音めがけて敵が猛射。撃つ。撃ち返される。移動する。蜂が飛んでる。振り返ると大きな蜂の巣。あわてて逃げる。水音にまた敵の猛射。中隊の兵隊さんも我々の銃声に次第に集まってくるっていうて。敵の兵力もまた多くなり、密林の不期遭遇でわたしの実戦が始まった。初体験、にぎやかである。敵の指揮官もわたしのように初戦なのだろうか、だれそれの軽鋭機関銃の弾着はそれている。もっと右を狙えとか、誰は姿勢が高すぎるとか、うるさい指揮官だ。敵も英語で米語でペラペラ。あぁ、戦いとはなんとうるさいものよ、と感じた。このとき僕は、初めての戦だった。敵の兵力が増えてくる。イシカワ、エズラともう1人一等兵3人が撃たれた。初めての戦死者に大ショック。敵との間20メートル。お互いに木の陰から撃ち合う。死体収容をしなければ。まず、兵器弾薬認識票そして小指、今までどこに潜んでおったのか衛生兵、雑用鋏を持って小指を切断してきてくれた。』

だんだん日本の情勢が、誰それが、誰それ准尉死んだ、誰それ、少尉、中佐、中尉が死んだとかっていう情報が入ってくる。連隊長に、「状況はこの通りです」って、だんだん不利になってきたし朝になったし、っていうて昼過ぎになって、撤退命令が、こう、出して。で、そのとき僕ら士官学校の、校長は牛島満さん、鹿児島の人ですけども、「貴様ら、若くして戦争に行くときに、下級将校が守んなければならないことは次の通りだ。『前へ行くときはいちばん先、下がるときはいちばんケツ、最後。そして飲みたい、食いたいときには、兵隊さんに与えてから、最後に将校が、飲み食いするもんだ』と。それを守れば戦地の下級士官は務まる」と。

下がる訓練をしてなかったから日本兵は、日本の歩兵は。だから、退却がいちばん憂うつだったんですけども、しょうがないから、「おい、いいからよく見てろよ」と。「サーッとおれが合図したら、ここに、お前の1小隊は来るんだぞ」って。「で、お前下がったら合図せい」と。「そしたら、おれはまた、お前、
2小隊に合図するから。そしたらここ行け。」交互に下がっていく。さ、こういうの、ちょっと予行演習みたいのしながら、敵の目の前ですよ、そういう意識でやって。「いやぁ~、退却訓練すればよかったな。」と思いながら、戦をするんですよね。

結局、患者のみんな、僕120名のうち、45人離して、そして、あれですよね、山南のマリン地区の椰子の数も少ない。少なく乱獲して、そして、海岸に近くしてたため、アメーバ赤痢が大流行して、そして、体力回復しても病気になったり飢えたりして、最悪の結果になってニューギニア最大の痛恨事。1か月、食うものなくて最大の痛恨事。みんなマラリアで患者隊あれすると半分以上患者なんだもんね。だから、ほんとに戦争しに行ったのか、病気になりに行ったのか、分かんねぇくらい戦争もしねぇで死んじゃったとか、そこだと思いますけどね。

Q:45名を残して?

残して。残りの者で、75名で、中隊で行くわけですけどね。

患者を、「患者があったら心配しないで、患者収容所を設けてるからそこに置いていきなさい」って。「元気な人だけで戦闘しなさい」っていう参謀軍の、参謀の指示なわけです。その中身はなんだかっちゅうと、ただ、軍員が、衛生兵が、薬が、そういう体制はほとんどなくって、ただ、この辺にこうして患者を、たむろ、滞在さして、で、「邪魔者はここに置いてけ」って。「あんたがた、自由に行動しなさい」って。だって、患者隊にあれする(手間をかける)と、元気な人も置いてかねばなんないし、大変なんだけども。そういう事をさして、そして、(置いて)行った患者はみんな倒れて死んじゃって帰ってこないんだから。

そんなんであれば、逆に僕らにすればね、一緒に戦(いくさ)した仲間だから。倒れるまで、僕らが肩貸してやっても、一緒に動いたりなんかしながら、息を引き取るのを看取(みと)ってあげたいなという気持ちはよかったなと思いました。「患者隊にあれ(救援)するから、大丈夫だよ、出しなさい」っていうから出したっけ。あと、1週間か10日ほどたって、ちょっとした連絡したら、なんも皆バタバタ倒れて、もう全然だめだっちゅうんだから。だからね、参謀いらねことしたってっつって。だまされたっちゅうか。

孤独になった兵隊さんたちがね、勝手な行動をね。その、したってうわさがあるけども。僕らは確認したわけでもないしね。だから、困った次第だなと思って。箱根の山の山賊みたいになって、こういう山のとこでね、登っていくと、そこで、そういう山賊めいたのがいてね。「脅してね、さあ、ものを盗る、塩を盗る、芋を盗る。あれしなければ(言うことをきかなければ)さぁ殺すぞ」っていうのが、そのいたとかいないとかって、そういううわさが流れた。

そんなに毎日毎日あれしたら、迷惑もいいところですよね。「そんなに斬り込みしたくないけども、しょうがない。斬り込みせぇっちゅうから、行く」だけでね。兵隊さんも、怒ってましたけどもね。「なんなんだろう、一体」って言って・・・だって、最後に、今度は、「明日この方面から突っ込んで、斬り込みしていけばいいですよ」って付け加えんだから、そのとおりにしないといけないっちうんで。だから連隊長は、なんと、報告のね、自分の点数を上げるために、こんなに、239連隊は突撃して、もうちょっとして、またもう次突撃するって意識の強い。意識の強いったって命令、してるのは、命令文章書くのはあれだけども、やるの僕らだしね。そうすると、まったくね。ほいで、僕らまじめにこうやってるから、それが今度、たとえば、行かない、行ったふりをして、あれしたら、嘘(うそ)の報告をしたら、どうなるかっていうことになるけどもね。それはもう、ちゃんと音を聞けばわかるんであって、そういうことは、僕らはすべきじゃないし、してませんけどもね。

この辺に、破片あるのはこれは、昭和20年の2月の、あれなんですよ、あの斬り込み、なんですがね。

2個大隊でもって、あの執よう攻撃を、イロップっていう部落を払暁(ふつぎょう)攻撃するときにね、うちの連隊っていうのはあんまり攻めたくないけども、軍規が大事だからちゅうて僕を、連隊の執よう攻撃の指揮を命じられて、わたしは上級し、そのとき陸軍中尉なんですよ。僕は「少佐だとか、中佐を上級職の人を指揮して、斬り込みするわけにはいきません」と、連隊長になった。「いや、そうじゃなくて、おれは軍部のそばにいるから、貴様が行って」って。結局、そんなんで「わたしは2個大隊をあれして、最後、両方の大隊の伝令を将校に、僕が軽機関銃を持って真ん中から行きます」と。「両サイドはこう、両大隊はこんな山を、こう行くとき、僕が撃った軽機関銃で突入の時期、朝、何時、3時半4時ごろね」ということで打ち合わせして行きまして。そして最後は、敵が、朝、将校斥候みたいのが、4,5人5,6人、軽機関銃を肩にして、自動小銃を肩にして、こうぷらぷら出てきたんで、「あ~悪いやつ出てきたな、困ったな」と思って、そうすると、見てたらますます来るんです。「もっとゆっくり来いよ」っていうと思って、心に祈っていたけれども、どうしても、もう少し、つまり早く準備してくればいいけども、まだ準備できない。そうしてるうちに朝のうちに、朝にアメリカ軍の巡察が来た。そして僕が、号令を、突入の号令をかけなければならない。時間がほしい、でも残念ながら敵が目の前に来たんで、撃っちゃった。そうするとアメリカの、あれした、死んだけども、迫撃砲がドン、ドンとね、いった。そして、あれ、僕が夢中になって戦闘を指揮していたもんですから、なんか目の前に来たんでさっとこうやって、ここから入った。そしたら、僕の、将校の人は、当番ちゅうのを持ってますから、うちの当番が、「隊長やられましたね」って。「え、本当?あ、血が付いてる。やられたんだ。」で、それどころの騒ぎじゃないんですよね。

いや、「まさか、まさか」と思いましたけどもね。「あれー、なんぼ言っても、連絡出しても、なしのつぶて」なんですよ。んなもんですからね、「ああ、どうしたのかなぁ」と思っていましたら、そういうこと(集団投降)でもってね。残念なことは残念ですけどもね。

Q:昭和20年の1月の編成替えがあって、山砲の部隊長(竹永中佐)が配属になったときに、小川さん反対されたそのときはこういう予感みたいなものはあったのか?

いや、あんだから、あのそこらあたりも含めてね、僕だったら、大隊長にしないで、連隊本部付きの人を置けばいいんだもん。遊ばせておけばいんだもの。そんなのさ。そういって、大隊長は誰か大隊長にして、あれすればいいんだもの。

山砲の人は、弾のあるうちは砲兵だけども、弾がなくなれば普通の兵隊さんで、もうなんか、お役御免の、になっちゃうという。そういうなんちゅうか、日本の、砲兵なり、なんなりの特科部隊のね、あれがあってね、そこらが、我々砲兵と違うから、しかたないのかなとは思いますけどもね。そこらはよく、わかりませんけども。

山砲の人は、あれした。そしたらこんな「弾もないし餌もないし、こんなので戦せぇったってできないから。もう、こりゃ日本長いことないから、悪いけど、兵隊さん連れて逃げようじゃないですか」いうようなことになったんじゃないと思うよ。それは誰でも、僕らでも、考えないわけじゃないけども。しかし、しからば敵にあれして、我々はこっ恥ずかしい、敵に、あれ(投降)するんだったら、僕だったら、てめぇは腹切って死ぬんで、そしてその代わり、兵隊さんは、敵に(投降させる)、兵隊さんは罪ないし、自分の意志で戦争に来たんでなくて、国家要請だから、だから、しょうない。兵隊さん手上げさせても。僕だったらね、兵隊の命を大事にして、その変わり僕は責任とって国のために命捧げるから、別の兵隊さんたちは何にも、あれだから。しばらく、アメリカ預かってて、終戦になったら、日本へ帰れるから、帰してもらえるはずだから。っちゅう気持ちにはなると思うけどもね。だけども、今そういう気持ちになるんで、そのときはそういう気持ちにはなれない。

もう、この戦争なんてどうせ負けるんだから、我々もこの戦争から身引くべ、遠慮するべ、っちうような感じでね。もう、行った人の半分、ほとんど山砲から来た人たちが、思って。あの生き残りの239連隊の人はそんなに行ってないんですよ。そこですからね、やっぱし僕はよくわかんないけどね、きっと、山砲的な考えでもって、歩兵の大隊っていったって弾もないし餌もないし、これで戦せぇったって、どうしようもないし、なら少し、身を隠して、休ませてもらうしかない、しょうがないじゃない。どうする。そしたら、ちょっと、離脱するかっちうかんじでね、なんぼ連絡出しても、僕そのころ連隊本部におりましたからね。てんで言ってもね、もう帰って連絡つかない、連絡つかない。そしてるうちに、連絡つかないよって言って、帰ってくる。いやぁ困ったなぁ、どうするって言ってるうちに、やっぱし、逃げたって
ことになってね。

敵の方からビラみたいなのがぱっとまかれて。して、「日本軍が集団で投降してきたよ」ち言うて、んで、「あんたがたも、チョコレートやらカレーライスなんか待ってるから、来て」って。来るときには、「明日、8時から大爆撃あるよ」っち言うて、とにかく大爆撃わぁーっとやるわけですよ。そしてね、ぱっとあれすっとビラまいてね、それで、白いやり(白旗)を持って。来てっちゅうて、さかんにそれしきりにやるから兵隊さんたちはもう、なんちゅうか、それで、だんだんなじんできてね。ほんとに。我々みたいに、暇なく戦してんのは、投降するしまもないけども。案外、そうでないところは考えて、いろいろあれなんでね。

Q:ビラが落ちてくると、見たときにその内容を信じました?

そりゃ、信じますよ。うん。

Q:そのこと以外にもいろんなことについて、ビラをまかれたんですか?

そうですね。終戦のときのビラもね、あれですし。それから、こういうことを夕方になってきて、敵とこう対峙しているときに、ジャングルから、同士であれしてるとすごくカレーの匂いがしたりするんですよ。「あぁ、アメリカの野郎カレーだな畜生」って。いうことになってくると、日本の捕虜に対して、原稿を書いて、「おーい。今晩のおかずはこれこれだど。すんごくうまい、いいにおいするだろう」って。そして、「明日大爆撃があるぞ」って。で、「悪いこと言わないから、白い旗持って、何時から何時に、どこどこ、どこどこってかこう、来てくれればいいよ」って。っちても、「こっちの生活は楽しいし、あれだよ」ちうて。そういう、その投降の、シガウト、(現地の言葉で「シャウト」の意味)叫び、をするわけですよ。やっぱりね、相当、脅かされてしゃべってる人もいるし、もう慣れたのはね、俳優さん声優さんのようにね、堂々としゃべってくのもいるし。あれだけども。まぁ、だけども、僕らはそういうことはあれすると、弾いたましい(もったいない)けども、僕、小銃一発こう入れておいて、終わったあとね、パーンって撃って、「この国賊め」って大きい声でしゃべって、そうすると、兵隊さんもね、「うーん、そっか。あんなことすると国賊なんだ」って。中隊長はこうして怒って、鉄砲撃ったから、それで、けじめつくわけですよ。それで黙ってれば、なんかあれですからね。そういうことは、しましたけどもね。

僕らに来たのは15日が終戦だっていうことでね。で、残念ながら、僕ら陸軍は「刀は折れ、矢は尽きた」感じでもって、ビラは完全に正しいと。したがって、おい、僕みたいに、とたんに熱が四十度何分も出た人間もいるし。うちの親分みたいに、とたんに元気になって、日本国は神国だから絶対に負けるわけないなんて、おお、こんなに・・・なった人もいるし、いろいろですけれども。

ニューギニアの山を、海岸で戦して、それから今度追い込まれてって、山南地区に逃げていって、山奥に行ってくんのにすごくあれして、行き倒れになって死んでいく。それから山にいっても、今度は、薬が無い、餌が無いでマラリアで死んでいく。まぁ、だから半分以上は・・・戦死三分の一で、三分の二は、あれですかね、病死、病餓死、病餓死だと思います。だから十万人が病餓死で、4、5万が戦死だと思うね。

今、考えてみても、いいのか悪いのかわかりませんけども、すごい、まぁ国のためには、いささかでも、ご恩返しっていうか、国のためにはなったかなっちゅう感じはしてますけどもね。だからって言って、戦争はすべきではないと思いますけども、それと、それから反戦者では、僕はないんです。つまり、日本の国は誰守るのかっていうことになってくると、我々が守んなければなりませんので、あ、だから、今でも、五体満足のうち、「はい、あんたに、この小銃を与えるから敵が来たら撃ちなさい」って、命令があれば「ハイ」って、撃つかなと思うくらい国を守るっちゅうことについては、今もね、あれですけども。今の日本の人たち、なんか戦争反対っつうのと、アメリカが守ってくれるのか。アメリカ守ってくれやしませんしね。そういう意味では、今でも、愛国主義者って言うよりは、国を守る主義ですね。そういう、人間でございます。だってね、誰守るったってね、僕らが守らなきゃしょうがないんだもん。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
北海道に生まれる
1941年
陸軍士官学校入学
1942年
第41師団歩兵第239連隊に配属
1943年
ニューギニア・マグファインにて連隊赴任
1944年
アイタペ作戦当時、第2中隊長 中尉
1945年
第2機関銃中隊長として終戦、陸軍大尉
1946年
神奈川・浦賀にて復員
 
海産商などを経て、文具・化粧品店を開業

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ニューギニア(アイタペ、ウエワク)

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