ホーム » 証言 » 山口 里美さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「百人の部下を失った中隊長」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ブーゲンビル 墓島と呼ばれた戦場 ~都城・歩兵第23連隊~
名前名前: 山口 里美さん(宮崎県都城・歩兵第23連隊 戦地戦地: ニューギニア(ニューブリテン島、ブーゲンビル島)  収録年月日収録年月日: 2010年7月5日

チャプター

[1]1 チャプター1 中国から南方へ  05:34
[2]2 チャプター2 連合軍 タロキナに上陸  04:02
[3]3 チャプター3 連隊長の「撤退命令」  06:09
[4]4 チャプター4 濱之上連隊長  02:53
[5]5 チャプター5 総攻撃  06:33
[6]6 チャプター6 撤退  03:02
[7]7 チャプター7 持久戦  08:12
[8]8 チャプター8 いよいよ玉砕か  08:17
[9]9 チャプター9 戦死した部下たち  05:10

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9

提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ブーゲンビル 墓島と呼ばれた戦場 ~都城・歩兵第23連隊~
収録年月日収録年月日: 2010年7月5日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

船に乗りましてね、それで、パラオに着いたとき、ちょうど18年の1月1日に着きました。僕は31日の晩に当直だったですから、ちょうどパラオに行く前に船が揺れましてね、酔っ払うんで、下番して下に降りてみたら、将校の連中はみんな酔っ払って、船酔いの酔っ払いです。ところが、そこに大きい刺身やらお酒がいっぱいあるのを、みんな船酔いしてましたがね。その日に命令で、あのう、パラオにはやはりジャングルがあるわけですよ、奥のほうに。そこで一応ジャングルの戦いちゅうものを訓練をするということで、逐次やったわけですね。だから僕らは、前話しましたが、わたしの場合は、ちょうど船から降りてパラオの港に着いて、全部、一晩泊まったんですがね。そのときにガダルカナル島がもうだめになったらしいんですよ。それで、すぐに命令が来ましてね、「乗船せよ」と。訓練は中止ということになったんですが、そのとき聞きましたら、やっぱり、ちょうどパラオである程度ジャングルというものを各隊に訓練しようとしとったらしいですね。ところが、全然やらないままに上がったのがほとんどです。だから、そのときにガ島はもう敵前上陸も不可能ということになって、早く6師団を後方に展開させようと。ラバウルからソロモンの線にね。そういうふうに変わったんで、急きょ、もうとにかくすぐ船に乗って、すぐソロモンのほうへ出航したわけです。

Q:実際、ガダルカナル島がそのころ、もう撤退したということは聞いていたんですか。

いいえ、まだそのときは聞いてません。ただ、ガ島が危ういから早く転進しろちゅうだけの、大して情報は入ってませんね、船の上では。

Q:そのときはじゃあ助けに行くという気持ちが強かった。

ええ、まだまだ。ところが、もう「ガ島じゃない、後方に展開」という話が出てましたからね。船の上ではそういう情報開示はないんですよ。明宇丸には、砲兵連隊とそれから、わたしが3大隊、23大隊(連隊)の3大隊。それから1大隊の2個中隊ぐらいで、6000名ぐらい乗ってましたかね。

Q:そのときの中隊の勢力はどれぐらいあったんですか。

百六十何名ですよね。だから、連隊全部で5千何ぼですよね。それがもう4千幾ら死んでますけれども、あのう、上海を出るときには完全な編成だったわけですよ。

そのときはですね、船の上で集まって中隊訓示の話をしたりしますからね。だんだんわかった範囲の情報で話をするわけですけれども、「我々は支那で勝ったように、今度はガダルカナル島で敵をやっつけて、豪州に上陸するかサンフランシスコに行くか、とにかく勝って行かにゃいかん」というふうな気持ち、各中隊はそうですね。それは、連隊長とか偉い人はわからんけれども、僕らはそれくらいしか考えてませんでした。でも、そのころでも、アメリカの今の、あのころのまあ進んだ人たちは、アメリカと戦争するのはいかんという考え方を持ってた人はおりますけどね。僕らはやっぱり戦争の専門教育を受けましたからね、まあある程度頑張れば勝てるという考え方は持ってたんです。

最初のときに来た敵の巡洋艦、それから空爆、これはすごかったらしいですから。

Q:そのときは山口さんはどこにいたんですか。

そのときはまだムグアイにおりました。まだ兵団長と一緒に、まだ全然出ていきません、そのときは。

Q:そのときは、兵団ということは、どんな仕事をしていたんですか。兵団の副官というのはどんな仕事をしてたところだった。

いや、そのころはただ何かあれば「行け」言われますけれども、そのころはやっぱり、まあ、頭は使っておられましたね。敵はどういうものを持ってたらどうしようかというようなことで創意工夫をさせたりしよりましたからね。しかし戦闘はしてないから、第1次(攻撃)の濱之上(23連隊長)さんがやられて、そのあとですから、出ていったのは。

Q:そのタロキナに上陸したというお知らせは山口さんの耳にはいつ入ってくるんですか。

エー、まあ出る前ですね。大体、タロキナがやられて3日ぐらいして連隊長にも、連隊長はタイタイちゅうとこに行っとって、途中で明街道をつくりまして、途中まで行っとるわけで。それで、そのときに3大隊はみんなコロンバン(コロンバンガラ島)に行っておりましたしね。2大隊もチョイチョイ(チョイセル島)とかやって。第1大隊と一部、1個中隊か2中隊しか連隊長は持っちょらんわけですよ。1大隊の2中隊はタロキナにおるわけですからね。で、連隊長はそういうときに、タロキナの兵長か、伍長か兵長ですよ。泳いで帰ってね、報告に帰ってきたわけですよ。連隊の報告に書いてありましたよ。それからわかったわけです。敵が来て全部死にましたというのを連隊長は聞いたわけです。

Q:特に大きな音がしたとか、そういう記憶はないですか。

いやいや、遠いですから。100 キロ以上離れてますから、僕らは。連隊長は近いですけれどもね、全然聞こえません。報告が来るまでは2中隊が玉砕したちゅうことはわかってないわけです。

Q:その玉砕したという知らせを聞いたときはどう思いましたか。

いやあ、どう思うか・・とにかく、僕はまあ兵団長の副官ですからね、兵団がいつ出るか、そういうことしか。だから兵団の中にはあれですよ、通信とね、通信と・・警備兵はおらなかった。通信兵とあれがちょっとおるだけで、実際は80名もおらんとですよ。だから、全然戦力はないんです。

ところが敵は、攻撃して、もう何でも、飛行場をつくり陣地をつくり、迫撃砲をつくり、完全な整備をしてるでしょう。 そこに、もう1日でできますからね。と申しますのはね、米軍の飛行場のつくり方というのは、大きなやつは爆破しましょうけれども、ほとんど重戦車でザーッと木をなぎ倒していくわけです。それでブトーザーでサーッとやって。それで鉄板を、ズーッと鉄板を敷くだけですから、飛行場は。野戦の飛行場はね。1日でできますよ。だから3日後ですよね。3日か4日後ですから、連隊長が出ていったのは。もう完全に敵は待ってましたわ。そういう形で、とりあえずジャングルからホッと出ていったらバーッと撃たれて。ああ、日本軍が来たちゅうてドンドンドンドン迫撃砲を撃たれる。
 そのころ、まあこれに書いてありませんが、わたしが聞いたとこじゃあ、いつも巡洋艦か軍艦がおったらしいですから、軍艦の艦砲射撃も受けますから。これは激しいです。わたしが経験しましたのはね、軍艦が大砲を撃ちますとね、ブーンという大きな音が上を通りますよ。そして、向こうのほうでガンガンガンガーンと、大きな大砲の弾がひとかたまりになって行ってやりますね。そういう艦砲射撃ちゅうのがある。それはすごいです。
 それと、迫撃砲もね、初めに瞬発信管ちゅうのを込めてやるわけです。で、我々がおるところに、ジャングルの中におりますから、瞬発信管でやってきて、木の上で全部破裂するわけです、弾が。そうすると、全部こう木が折れたりして、もう陣地が露出しますでしょう。 そこへ今度は弾を撃ってくる。だから、そこに壕を掘ってあれをかぶせちょっても、敵の弾はブーンと中に入って中で破裂しますから、敵の弾はね。だから、やられるんですよ。

Q:そういう中で、そういう戦いをまあぶっつけ本番で経験して、これはだめだと濱之上さんが判断して撤退したと。

うん、これじゃいけないと。これじゃあむだに死ぬからということで、とりあえず、本人は退却とは思ってられんでしょうね。戦闘にはいろんな駆け引きというものがあるんですから。で、連隊長はまだずっと後ろに2大隊、3大隊を持っちょるわけですから、あっこを退いたって何とも、師団や軍の参謀が実際に見たら当たり前だと思うだろうと思うんですけどね。もう、とにかく田中参謀の報告でもって(上層部は)判断されたわけですが。その後、タロキナにはだれも行ってないわけですからね。

ああいうふうに敵が砲撃してくると、どんどんどんどんジャングルが開けてきますから、あっこもやられた、あれもやられた。「前進」と言っても、誰も立つやつがおらんときに、指揮官はどうなりますかね。師団参謀は後ろにおって「行け、行け」と言う、それだけですよね。ところが、それはね、第一線の戦闘を経験してない人はそういう、戦術を使いますよね。ところが一応、第一線の小隊長、中隊長を経験して、敵と撃ち合ったことのある将校であればですね、理解できるはずなんですよ。ところが、田中参謀はおそらくそういうあれがなかったですね。それで、結局、掌握するにもどうするにも、どうもならんのですからね。で、結局下がって、体制を整えて、後ろからまだ2大隊、3大隊の兵隊を呼んで態勢を整えて攻撃をしようちゅう頭で下がったわけですよね。それをもう命令を聞かんで撤退したということで処罰されたわけです。

Q:やっぱりその当時というのは撤退するというのは許されないことだったんですか、軍の雰囲気としては。

結局、2中隊がやられたから、そのときの師団では、どれくらいの兵力でやられたのか、そんなことはおそらくわかってない。飛行機で偵察しちょるわけじゃないですからね。だから、師団参謀が連隊にすぐに行って「タロキナの陣地を奪回せい」という命令を出したときには、我々の判断でいきますとね、中国におるころの判断でいきますと、すぐに敵を追い落として、連隊がタロキナを占領して、元のとおりになる、それが師団の命令だったと思うんですよ。

これ、濱之上連隊長の写真もここに載っておる。これは、奥さんから何回も返事が来ましてね、亡くなってから。これ、連隊の者に全部これ連隊会・・・だから、わたしはここで取材していただいて強調したいのはね、濱之上連隊長はそういう弱い人じゃなかったということだけは申し上げたいと思うよ。

我々、連隊の将校団の者は絶対にそういう弱気で下がられたとは思ってません。

濱之上連隊長はですね、大佐の序列でも日本でもうずっと上のほうでね。連隊に来る前は戸山学校の教官をしておられて、剣道とか、銃剣術のものすごい、こんな人ですよね。それで、豪放らいらくというかな、本当の侍だったです。だから、師団参謀とかいろんな人たちが行っても、ちょっとやっぱり参謀連中は煙たい人だったんじゃないですかな。

あとで戦記をつくるときに一緒にした前田という曹長がおるんですけど、もう古参の准尉だった。それが1大隊のあとを、中隊長がやられてから指揮してますが、濱之上連隊長は我々のあれでは勇気ある撤退だという。そのままおればですね、連隊長以下みんな死ぬだけ。それも敵を1人も殺さんで死ぬことになりますわ。完全に飛行場ができ、敵は迫撃砲も戦車もおるんですから、そこにこの1個中隊、1個大隊ちゅうてもですね、もうほとんど・・ちょうど表現しますとね、中国におります戦闘のときに匪賊討伐というのをやりまして、敵がどこかでやってたちゅうたら、「それ行け」ちゅうて鉄砲をやって、1個中隊連れてサーッと追っ払うことがある。それに似たぐらいの、とにかくおるやつを引き連れて行ったんですからね。

タロキナへ敵が上がった、第2中隊が玉砕したわけです。それで、第1陣の濱之上大佐が行った。戦争して、攻撃が頓挫した。それで、わたしは岩佐支隊の岩佐兵団長と一緒に兵団司令部を出ていって、そして指揮したわけですよね。第2次からですね。わたしは乙副官で第2次からタロキナ作戦に参加しまして、第一線の戦闘の経験はないわけです。師団司令部の副官業務をやったわけです。

それで第2次、第3次、まあ第3次というのが、タ号作戦といいますのは、軍が総攻撃をやりましてね、タロキナに。そのときの戦闘でわたしも負傷しましたが、ほとんど壊滅状態ですね。23連隊、13連隊、45連隊。それから、砲兵連隊は全部大砲をやられてしまいました、攻撃の前日に。3月16日攻撃ちゅう15日の早朝に全部やられまして、大砲1門もなくなったわけです。それで、攻撃を。兵団司令部は、わたしの岩佐司令部は23連隊の後方の山の斜面におりましてね、もうそれはすごかったです。我々は山の斜面におりましたからよかったですけど、まあそれは轟々(ごうごう)としてる。それで、次の日に兵団長が「連隊から何も連絡来んが、どうか」と言われましてね、そのとき初めてわたしが第一線に行きました。情報がほとんど入ってないんです、13も、23も、45も。それで、わたしは当番1人連れて23連隊のとこへ行きました。とにかくこんなジャングルなんですよ。ずーっとジャグル。それで、完全に隠ぺいして攻撃準備しとったわけです。ところが、わたしが行きましたらね、こんなやつが全部倒れて、赤土が全部。そして、どこへ連隊がおるかわからん。それで、わたしは大きい声で怒鳴りながら行きましたら、そういう木の下に連隊副官が5~6人おりましてね、「山口、やられた」と言うだけで。それは悲惨なものでございました。それで、わたしはすぐ帰って、こうこうでしたと、23の状況だけ兵団長に報告しましてね。そうして、もうそれでも退かないわけです。もう玉砕を覚悟でやった総攻撃だったですからね。だから、何日目ですかね、もう食糧もないし弾薬もほとんど切れとる。それでわたしは兵団副官、乙副官ちゅうのはが後方参謀ですからね、一つの。それで、兵站(へいたん)に行きまして、糧食の支給を確かめに行ったんですけどね、その、もうないんですよ。

45連隊もタロキナで山を越えましてね、飛行場の端に攻撃して、そこで、飛行場を半分占領したらしいですがね。後で45連隊の話、報告を聞きましたときにはね、結局戦車が来ましてね、みんな、戦車と肉弾攻撃で。結局、ほとんど45連隊もやられたと、そういう話を聞きました。

で、わたしは兵站から帰って、ちょうど兵団司令部に帰るときにガーンとやられまして、ここをこれだけやられたんです、ガーンと。ものすごい血液だったですが、もうこれはいかんなと思ってました。まあ、ちょうどそのときに兵団から出とった騎兵の将校斥候がわたしのところを通りましてね、そうしてわたしを助けてくれて、帰りました。それで、軍医が「大丈夫、顔面血液が何ぼあっても、大丈夫。今、止血したから」ということで、兵団長に言ったら、「おお、山口やられたか。向こう傷。帰ってから治療してこい」と言うて、ただそれだけです。そのとき兵団司令部には、師団の参謀と方面軍からも1人ぐらい来てましてね。大きな作戦会議をやってるから、「負けた」って。それで、軍か師団からは、これはあとでわたしは高級副官から聞いた話ですけど、もう玉砕させようと。全部、各部隊に玉砕までやろうというときに、わたしはあとで聞いた、木下という高級副官から聞いたんですが、岩佐兵団長が「ばか言うな」と。ここで玉砕したら何も、敵の思うつぼじゃないかということで、撤退してゲリラ戦をやるのが一番いい方法だと。ここで犬死にしても何もならないと。敵を喜ばすだけだということで、ひどく強く岩佐少将が反論しましてね。それで、師団長も軍司令官にも話して、「よし、それじゃあ一応帰ろう」と。帰ることになったらしいです。

当番を連れて、後方に下がるのに2人でこう下がっていきますとね、そのときにはもう、23(連隊)のところ、それから45(連隊)の方からも来とるところに、野戦病院という名前ですけれどもね、野戦病院、派遣の兵站病院こういうものが出てる。ところが、病院じゃないんですよ。ジャングルの中のバショウの葉っぱをかぶってみんな倒れてるんですよ。みんなここをやられて、腕をやられ足をやられ、全部寝て唸ってるんですよ。それにみんなギンバエがたかってるわけですよ、ギンバエが。

もう手が回らない。薬がない。全部そういうふうに、もう露地に倒れたままですよ。歩ける者は下がれちゅうことで、歩ける者はまだ後方の兵站病院へ下がる。そういう状況でございましてね。わたしはそれを見て、これはもう処置ないなぁと。しかし、いずれにしても、自分は今、兵站まで帰って治療せにゃいかんちゅうて、それを見ながらね、「頑張れよ、頑張れよ」って、当番と2人で、全然知らない兵隊ばっかりですから、下がりました。途中で、ここにギンバエが、すぐウジがわくんです。もう南方の戦場で血液が、アー、負傷して血液があったら、すぐギンバエが。それでウジがわきます。

そういうふうに第一線の野戦病院、それから連隊の救護所、いろんなとこに倒れた連中を、誰れも担げる者がおらんわけです。それで、岩佐兵団長が命じましたように、部隊が撤退をすると。そして、後方に下がって体制を立て直そうということになりまして。まあ部隊は残っておったら引きあげる。ところが、引き上げるときに、担架兵はおらんわけですよ。担架で帰るのは、もう一部、あれぐらのもので、ほとんどの負傷者はそのままそこで、手りゅう弾を持たされるとか、いろんなことで自爆したんですね。それがブーゲンビル島の第3次、2次ごろの戦闘ですがね。それで、兵団の勢力はもうほとんどなくなりましたね。

6中隊長になりましてから、もうあれをご覧になるとわかりますが、プリアカの豪州台の戦闘ちゅうのがありましたが、このときにわたしは23連隊の中で、一番戦力は強かったわけですよ。兵員は40人ぐらいですけれども、機関銃を2丁持った者を指揮しておりましたからね。機関銃隊もなくなってましたから。それで、ちょうど豪州台に行く前に三叉路の攻撃というのがありましてやりましたが、

そのときにわたしは、豪州台の退路遮断と。豪州台を攻撃する、敵がこう来る、敵の後方に行けということで、わたしは1個中隊行ったわけです。それで、そのときに結局、豪州台は後でお話ししますけれども・・また、少ない連隊、13連隊、23連隊、師団司令部の幕僚、みんな戦死しましたからね。その戦闘のときもわたしは敵の後方におった。もう、うそのようですけれども、わたしが兵団副官をやってるときに行った師団の参謀連中はみんな知ってますから、わたしが残るときも、「山口、われ、しっかりやれよ」と。「帰ってきたら必ずおれが感状をもろうてやるぞ」というぐらいの、もう参謀連中みんな知ってましたからね。そういう気持ちで僕は残ったんですが。

それからあとはもう、何というか、持久作戦といいますかね。川を下がってミオ川まで下がるわけ。とにかくそのときからわたしは第一線の中隊長としての戦闘を始めたわけです。

ゲリラ戦ですから、あのう、ミオ川の陣地があります。そこには後方から糧まつの輸送とか、いろんな輸送があるわけです。それで、僕らは隠れて途中に行って潜伏して、それをやっつけ・・1遍やりましたけど、やっつけて、そいつが持っとる糧食とか手紙とか、いろんなものを取って帰ってきて、喜んで食べるわけですよ。そういう戦争をしました。だから、本当にもう向かって戦争のときにはもう玉砕か、どの陣地を攻撃するちゅうときにはこれは組織的な攻撃ですけれども、普通、中隊の任務は、かく乱せいというときには、やっぱり僕らはそういう頭で行くわけです。それで、隠れて行って、敵が通るところに行って隠れて待っておって。そして、やっつけて。それはあんまり武器持ってませんからね、輸送兵ですから。それで、それ、ある程度逃げますから。そして取って帰るわけです。また、優秀な下士官を斥候に出しますとね、これも後で聞いた話ですけど、もう行って敵の天幕、陣地のとこで見ちょるわけですよ。そうすると、どこに炊事場がある、どこに糧食庫があるというのがわかる。晩まで待っちょるわけですよ。で、暗くなってから入っていって、その糧食を、ごちそうをとって帰ってくるわけです。そういうゲリラ戦ですよね。当たり前に行ったら、撃たれたら死にます。

戦ったというよりも、敵をこう止めながら下がったんですね。敵と戦う能力はありませんでした。まあ何とか、兵隊も、小銃に対して弾を30発ずつは持たせてましたからね。それで、弾がなくなったときには何とかして補充しよりましたけど、もう兵隊でも使うたらもうすぐなくなって。あと、補給はないですから。だから、そういう1発でも大事にしなきゃいけないぐらいの弾しか持ってなかった時代ですからね。なるべく弾は使わないで敵を止めといて、ある程度時期が来たら下がって次に止まるという形をとりました。

とにかく、我々は生きてるかもわからんちゅうことは向こうもわかってるわけで。だから、どこにどれが生きてるかわからんですよ。ということはですね、倒れた木に風が吹いたりしてこう動くとね、それを撃ちますからね、わかるわけです。それで、わたしは鉄砲を投げたんですよ、その草のとこに。ババババーッと撃ったんです。で、ポッと止まった瞬間にズーッとやりましてね、飛び込まして。もう飛び込んで木の下に潜って、それでわからんわけですよ。もうどうなったかは知らんですよ。しかし、その次に今度、わたしの当番で、これも死にましたが、清武(宮崎市)のやつですが、うちにいつも来よりましたが、そいつをやるのに、もう投げるものがないからちゅうて、そいつをまた装具をとって装具を投げた。またやっぱり撃ちますよ。そして、やったらそれも飛び込んで、何とか。やられたと言わないから。それから、今度、わたし1人残りましてね。よし、どうしようかなと思って思いましたけど、結局、そのときにもう手りゅう弾がなくなりましてね、てき弾筒の弾を瞬発信管にしまして、それを持ってましたよ。それを持っとって、それで、拳銃、そのときには僕はもう鉄砲を持ってましたからね、機銃を。それをさっき投げましたから、もう持ってないんですよ。それから拳銃を外して、あれだけ、弾だけ持って、それからパーッと投げたんです。また同じように撃ちました。撃ちましたから、止まったときに行って飛び込んだ。同じところに飛び込みましたがね、しかし、頭の上をバババーンと撃ちましたけど、当たりませんでした。それから木の下をずーっと這うてね、上を動かさんごと這うて、やっぱり先に、兵隊が2人行った、それが行ったから道がありました。それをずっと這うて行きまして。途中でやられた兵隊がいましたけど、もうよう助け切らんかったですがね。それで、行って、弾を1発持って出ていって、さて、どっちに連隊本部がおるか大隊本部がおるかわからん。まあとにかくこの川を、小さな溝がありましたから、それをずーっと行った。で、結局、友軍の兵隊に会いましてね、連隊本部に行って。喜んでくれましたが、それで負傷してるから、ちょっと下がったんですよ。

「ああ、いよいよ玉砕だな。なら一丁行きましょうか」と言って2人で、大隊長のとこで2人、3人で話聞いて、そのときにたしか大隊長が・・恩賜のタバコというのがあるんです。宮内庁から出た。あれを1本ずつくれましたよ。あれはたしか師団長に連隊長が命令を受けに行ったとき、もらったんだろうと思う。それで、1本ずつもらいました。それで、それを持って帰ってね、2人でしっかりやろうと言って別れて。それで、僕はそれを帰ってみんなに、「よし、明日朝払暁に攻撃する」ちゅうて火つけて、で、のんで、全部に回して全部でのんで、もう帰ってこないですよ。全部のんで。明日はここだと。それで、みんなそれで、反対だとか、いやだとか言うやつは1人もおりません、みんな。それで攻撃したんですよ。

もうそのときにはわたしはたしか30名ぐらい持ってましたかね。機関銃は持ってました、まだ。大きな機関銃。それで、それはまあ夜間のあれですから全然使用しませんでしたけど、後ろのほうにおりましたから、下がったわけですけど。分隊長のナガトモちゅう立派なやつがわたしの前に兵隊と3人で行きまして、その後ろにわたしが行って。それで、ずっとその後に兵隊が続いて。夜間行進ちゅうのはね、足音を忍ばせながら行くわけですよ、音をさせないように。そんなしてずっと行ったんです。

ところが、木を切って全部落としてますからね、枯れ葉があるわけ。枯れ枝と枯れ葉があるわけです。バリバリ、バリバリちゅうわけですよ。音をさせるな、音をさせると言いながらこう行く。それで、ちょうどわたしの大きな木のあるところの前、30~40メートルのところに鉄条網がありましてね。夜が明けてからわかったんですけど。そこにおったんですが、ちょうどその大きなところの木のとこからこう、敵の陣地との間に鉄条網が張ってあったわけです。それも組織的な鉄条網じゃなくて、1つ柱を建ててこうやって、それにカンカンがつけてあるわけです、触ったらカンカーンというように。それがずっと張ってあったんですね。それで、暗くてわからなかったですが、ちょうどわたしの前の分隊長と兵隊がこう行って、木の前に行ったときにカランカランちゅうたわけです。あ、音が聞こえる。そしたら、バリバリバリーッと来たわけです。それで、「伏せ」ちゅうて僕はもう木のところに伏せたんですが、それで、そばにおったやつは5~6人おりましたが。当番とヤノさんと、それから2~3人おったんですがね。そして、敵の射撃が済むまで待っちょって、「やられた」と言う。軽機もっちょってですよ。取りにいけないわけですよ。

そのときに夜が白みかけて、「玉砕中止」の命令を受けたらしいんです。それで、連隊からのあれが来て、大隊の副官が玉砕しないで下がれ、下がれって言うたらしいです。副官が言うたらしいですけど、僕はもう全然聞こえませんでしたけど、うちの准尉以下は下がったわけです。それで、そのときは2人、3人やられて、僕と当番は生きて帰ったわけですが。まあ敵の陣地攻撃ちゅうのはそういうふうに行くんですね。だから、攻撃中止がなければですね、全部その陣地に突撃してるわけですよ。わたしは突撃させるつもりだったんですから。そうすると、一番先に死ぬのは僕と准尉ぐらいですよね。あとは兵隊が広がりますけど。それはもう死にますよ。銃眼からこう、自動小銃じゃなくて機関銃を撃ってるわけですからね。あとでわかりましたけど。

Q:そのときは死ぬ覚悟で攻撃しようとしてたわけですか。

ええ、もうみんな。大隊長からみんな。だから、恩賜のタバコをのんだときに、これでもう死ぬという考え方になってましたね。

Q:その後に玉砕中止の命令を受けたわけですよね。その受けたときはどう思いましたか。

いや、もうそれから後は、「ああ、助かった」ぐらいの話ですね。で、玉砕中止というと、またまとめて守備はせにゃいかんわけですから。それで帰ってきたら、連隊長のところに行ったんですよ。僕は手榴弾1つ持って。喜びましてね。それで、そのときも弾、ここ受けとるし、ここやられちょるし、まあ張り詰めちょったから全然痛いとか何とかいう考え方はありませんでしたけど。連隊副官が僕のもと中隊長をしとったヤマサキとか、連隊長は福田さんですからね。ずっとうちに来よりました。もうとにかく早く治療してくださいと。連隊本部の当番を僕につけて治療に行ったわけです。治療に行った間に、さっき話しました小隊長アラカワというのが指揮して、ミオ川の陣地と川との間に陣地をつくって、そこで警備しておりました。それで、わたしはすぐ追及してそこに行ったわけです。そのときに1人、敵を殺しましたがね。

そして、その翌々日に僕は交代して。そして1日ぐらいたったときに8月の15日ですわ。終戦。ちょうど帰りましてね、うちの中隊の連中もそのころは、ミオ川の陣地のとこにこれくらい、こう、もうこれくらいの深さの壕を掘りましてね、みんな、そこにバショウの葉っぱを敷いて、そこに寝転ぶんですよ。そこに寝転んでやってるちょうどそのときに僕は、サンノミヤという少尉を斥候で出してましたが、敵が日本軍降伏のビラをまいてきました。「あれ? おかしいぞ」と。それで、何か盛んに拡声器でやってます。まあ、宣伝に乗ってはいかんという頭が僕らはありますから、全然信用してませんでしたけどね。そのときに大体終戦だったらしいんですよ。

マッカーサー司令部では、大体昭和24年にブーゲンビル島は撤退、船を回すと、撤退させるということだったんです。ところが豪州軍の司令官が我々を見てですね、結局、糧食は1食分しかやってないから、このままおったら24年までは保てんと。それで、早く船を回せということで、21年にマッカーサー司令部が変更してね、ちょうど日本の鳳翔という小さな航空母艦がおりました。それが迎えにきてくれました。それで、21年の2月に帰ったんです。

まあ、帰りましたから、そのときに佐世保に上がりましてね。そして、米軍が全部調べにきましたが、結局、連隊は四百幾ら、連隊長以下四百幾らですけども、それ見て、大体港から収容所まで歩くことになってたんですよ。ところが、これは歩かしたら大変だということで、降りたところでDDTをガーッとやってね。それから、トラックを回してくれました。結局、この兵隊たちは栄養失調で歩けないからちゅうことで、おかげで歩かないで収容所に行って、まあ僕らは除隊したわけですよ。そこで兵隊解散しまして。まあ最後まで米軍でも僕らは病人扱いで、それが帰還したときのことです。

わたしのうちにはね、大きな家だったんです。あとで旅館をしたぐらいですから。もう毎日、23連隊から中隊長が帰られたげなということで遺族が来ましてね。おふくろと親父と毎日ひざまずいて対応しました。「中隊長は逃げ方が上手だったから生きて帰ったっちゃろう」と言われました、年寄りから。「はい」ちゅうて。本当ですよ。田舎の農家のお年寄りはね、最愛の息子が戦死してね、どげんじゃったろうかと思うて来られたときには、やっぱり生きて帰った僕らが憎かったんじゃないですかな。そういう気持ちもあるかしらんけど、「中隊長はよっぽど逃げ方がうまかったっちゃろう」と、そう言われよりましたよ。本当です。もうそれがずーっと続きましたね。

僕らには降伏ちゅうことはありませんでした。捕虜になるよりも死ねということでしたから、負傷して敵に収容してもらわない連中は全部、手りゅう弾で自分で自爆してるわけですから。豪州台ではほとんど自爆ですよ。それから、先ほど申しましたタ号作戦のときの病院の連中もほとんど自爆してるし、担ぐ兵隊がおらん、担いでさげる兵隊がおらんのですから、自爆するよりほかしようなかった。まあ一番みじめですね。こういう戦争をやったんですね、やっぱり。小さな島で大きな攻撃を受けて玉砕した日本軍は華々しくパッとやったけど、僕らは長く苦労させられたわけですよ。それがブーゲンビル島じゃあないですかね。まあ結論的に言いますと。

Q:仲間の死に関してはどう思いますか。

戦死した連中ですか。いや、やっぱり名誉の戦死をしたとわたしは思ってます。だからこれに全部収録したわけですよ。はい。だって、この連中が戦争して死んだからこそ、現在の日本があるんじゃないですか。

出来事の背景出来事の背景

【ブーゲンビル 墓島と呼ばれた戦場 ~都城・歩兵第23連隊~】

出来事の背景 写真ニューギニアの東、ソロモン諸島に連なるブーゲンビル島。この島で昭和18年末から終戦まで、強大な連合軍と日本軍の激しい戦闘が続き7万人の日本軍将兵のうち4万人以上が命を落とした。

中国戦線にいた宮崎・都城23連隊は1943年1月、ソロモン諸島の西にあるブーゲンビル島に上陸した。所属する第6師団、海軍陸戦隊などとともに島の防衛に当たった。

1943年11月1日、米軍が、23連隊の1個中隊が守っていたタロキナ岬に上陸。中隊は全滅する。連隊本隊は、米軍によるタロキナ岬での飛行場建設を阻止するため出撃したが、猛烈な砲撃を受け戦車に蹂躙され、戦傷者が続出。そのため、23連隊の濱之上連隊長は、師団司令部に退却を訴えたが、攻撃を続けさせようとする司令部に更迭された。

いったん後退した23連隊は、翌1944年3月、ラバウルを空襲する航空部隊の出撃基地となったタロキナの米軍飛行場を制圧するため、再び攻撃に乗り出した。しかし、兵力も弾薬も十分でなく、米軍の砲爆撃に圧倒され、多くの将兵が命を落とした。その後、1944年末には豪州軍が上陸し、再び激しい戦闘になった。兵力の差もあり、将兵たちは斬り込み攻撃や爆雷を抱えて戦車に飛び込む捨て身の攻撃を仕掛けるようになった。また、絶対国防圏の外側に置かれたため補給もままならず、飢餓で死ぬものや自決する兵士が続出した。

都城23連隊将兵6千人あまりのうち、終戦時に帰国できたのはわずか400人だった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1918年
宮崎県宮崎市に生まれる
1936年
宮崎市立宮崎商業学校卒業
1939年
23連隊に入隊
1943年
中国戦線からブーゲンビル島に転進
1945年
終戦時 大尉
 
戦後 陸上自衛隊に勤務

関連する地図関連する地図

ニューギニア(ニューブリテン島、ブーゲンビル島)

地図から検索

NHKサイトを離れます