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タイトルタイトル: “その指揮官は情に負けた” 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 堀江 正夫さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月26日

チャプター

[1]1 チャプター1 「ニューギニアの戦い」とは  03:59
[2]2 チャプター2 繰り返された転進  04:38
[3]3 チャプター3 アイタペ作戦  03:54
[4]4 チャプター4 攻撃の出遅れ  04:06
[5]5 チャプター5 終戦  10:12
[6]6 チャプター6 捕虜になるということ  06:46
[7]7 チャプター7 集団投降で捕虜になった部隊  03:47
[8]8 チャプター8 「ニューギニアの戦い」とその後の人生  03:35

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月26日

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「その戦いというのは、もう人間が耐えうる限度をですね、はるかに超越したような、厳しい環境の中でですね、軍司令官以下がですね、一丸となって最後の最後まで戦い抜いた戦いだ」と、わたしはそのように思っております。そして、「連合軍のですね、陸軍の日本に対する進攻をですね、我々が1年半にわたってですね、その進攻を食い止めたんだという自負をですね、持ってます。」こういう戦いです。

初めてニューギニア本土に陸軍がですね、手を染めたのが17年の3月なんですよ。3月の初めですね。南海支隊、ラバウルを攻略しとった南海支隊がですね、サラモア、ラエに上陸したんですね。ところが上陸直後にですね、大東亜戦争開戦以来初めてというね、機動艦隊、米国の機動艦隊にですね、爆撃を受けて、大変な損害を生じとったわけですね。それで、そのような状況下でですね、やはり、「なんとかモレスビー早くとりたい」ということで、南海支隊を乗せてですね、海路直接モレスビー攻略、その向かって、途中で海戦が行われた。それが「珊瑚海海戦」なんですね。これは大体、引き分けに終わってですね、陸軍部隊そのままラバウルまで乗せたまま船は引き返していったんですけどもね、それで陸上作戦ということで「ポートモレスビー作戦」が7月の初めから、ガ島(ガダルカナル島)が上陸するのと同じ時期ですね、ガ島は7月6日ですからね、17年の。でニューギニアの南海支隊がポートモレスビー作戦で上陸した、バサブアってところに上陸したのが7月の、あれは7日ですか、(南海支隊主力の上陸は8月18日)そのころなんですね。それで始めた訳なんです。で、大体そのころはあれですね、連合軍の反攻がですね、まだまだ先だ、1年くらい先だと読んどったようですね。ところが、あれですね、1か月後ですよ、8月の初めにはですね、まずガ島に米軍が上陸してくると、いうことで、例のガ島の激戦が始まったわけです。ニューギニアの方はですね、まあ、ほんとにニューギニアの方で作戦するなんて夢にも考えていなかったわけですねえ陸軍そのものは。したがってもう準備ももう何にもなしで飛び込んでいったわけですが。

「ニューギニアのポートモレスビー方面とガ島方面と、両方、同時に作戦することは不可能だ」ということで有利な方は、「ポートモレスビーから作戦を断念して、軍は上陸したブナ地区バサブア、ギルアまで撤退せい」ということになりましてね、そのへんからニューギニアの本当の苦しい戦いが始まってきたわけです。

初めからね、計画的にね、しっかり準備を整えてやった作戦ではないんですよね、これが。それでまあ思いつきとは言わないですけどね、「とりあえず、今の間にここ取っとけ、これだけの兵力でやっとけ」ということで始まったのが、ニューギニアで言うとポートモレスビー作戦ですよね。で、そのときに指揮しとったのがですね、第17軍っていうのがニューギニアとガ島、一緒に指揮してたんですね。その後、両方はとっても出来ないというんで17年の11月にはですね、第18軍っていうのができて安達軍司令官を、安達中将を軍司令官とする第18軍が出来ましてね、ラバウルで執権を発動してニューギニアだけを作戦を主宰するということになったわけ。

第18軍に与えられていた作戦の地区というのは、いちばんその東南は、ブナ、ギルワですよね、それからいちばん西、北のほうはですね、ホーランディア、当時でいうホーランディア。その距離はですね、函館から岡山、函館から岡山なんですね。しかもその通じる道路ってのは何にもないんですよ。自動車道はですね、たとえば、ラエっていうところ、それからマダン、これはですね、ドイツが移民統治しとった当時からですね、行政の中心にしてましたからね、その町だけには自動車道がありました。後はそれだけの長遠な距離をですね、通づる道路なんてのはもちろんありません。川が無数にありますけれども、それを通づるような橋だって全くないわけです。ですから、ひとつ移動して部隊をですね、たとえばウエワクからマダンにある、マダンから今度はたとえばあれですねフィンシハーフェンにある、1つの部隊が行くのにですね、起動するのに、2月も3月もかかるわけなんですね。

さっきの道路がない、だから、命令でもってる兵力が限られた兵力しかなかった。だから、後の手を打つことが出来なかった。いうことがですね、先ほど言われました、後手、後手になって逐次、逐次兵力を投入していってということにつながっていったわけですね。

Q:18軍と他の軍の指揮系統が、錯綜しているような気がしたが。

いやいやそれはね、大本営がありますね、南方総軍があって、それから南方総軍の下に東南、だからニューブリテン島からブーゲンビル島、それから東部ニューギニア、を統括する第8方面軍があったわけですね。それから今度はその中でその下でブーゲンビル島をやるのは17軍である、それからニューブリテン島は方面軍が直轄して、東部ニューギニアは第18軍がやる。で今度は西部ニューギニアの方は新しく阿南大将の、第2方面軍ていうんだ、それでもってやる。そういうふうに地域的にはそういうふうに分けてあるんですよ。分けてあるけど、作戦については、いちいち上からの命令によって「ここをとれ、ここをとれ」まるでね、師団以下の作戦みたいなことを強いられちゃったんですね。

軍司令官はですね、そんないろんな上からの考え方を示されたことに対してね、本当に沈思黙考をされたんですね。「どうすべきか」ということ。何しろ、もう兵は疲れて、戦力も、もう大した戦力はない。しかし、このまま大本営が言うとおりね、そのままその自活をするってことになればね、いわゆる、「これから祖国が、本国に戦場が逐次北上していくとー。そうすると、日本の本土そのものを戦場下にしなきゃいけないかもしれない。それをね、ただ、我々が座視しておるわけにはいかない。少しでも戦力がある限りはね、祖国のために我々だって尽くすべきだ」という考え方を持ってました。

軍がですね、1つの地域に集結をしてですね、主力を持って作戦が出来るという状況になったのはですね、その19年のその時期なんですね。初めてウエワク地区に20師団も41師団も51師団も全部集結してきたわけですからね。それで、先ほども言いましたけれども、そのまま、我々が、まだ、幾分かの戦力でも残ってるときに、そのまま、「自活をしてですね。命を長らえる」ということに対しては、「祖国に対して、祖国の危急のときに対してですね、そんなことあるべきはずはない。何としてでもですね、祖国の危難に尽くしたい。最後の最後まで尽くしたい、というのが我々の本分だ」ということでですね。軍司令官は「本当にもう、ほとんど戦力のない動けなくなった兵を駆ってですね、大勇猛心をもって決心された」わけですね。それに対して「将兵もみんな応えて本当に最後までよくやってくれた」。わたしはそう思いますですね。軍司令官はね、そのころからね、「本当は自分は仮に戦いに勝って、その第18軍が内地に凱旋(がいせん)するようなことがあっても、わたしはもう帰る事はない。わたしは、わたしの命令によってこのニューギニアの土になった、たくさんの部下と一緒に、わたし自分はニューギニアの土になるんだ」という思いをね、決心をされた。その当時からしてこられたんですね。

大本営も総軍も第2軍も、みんなこれを認めてですね、いよいよ決行するということを決心したのが5月の上旬ですね。それから、実際にすぐ攻撃したいんですよね。ところが、今のようなことですから、地形と部隊の疲労状況、やっと攻撃が始められたのは7月の半ばですよ。7月の半ば。で、そのために部隊をですね、集結できたのが、その遅くなったのはですね、部隊の集結だけじゃなくって。で、戦闘するためにはですね、糧まつ、弾薬を絶えず補給しなければならない。そのルートが欠けていた。ルート。その場合、制空権は全部とられてるわけですね。だから、例えば、船で出来るだけ近くまで輸送して、後方まで、第一線の後方まで、輸送したいわけですけれども、夜しか航行出来ないわけである。弾や糧食はですね、集積してあるのはウエワクまでですね。で、船は、結局、昼の間、空にさらしとくとみんな爆撃されますから、・・・熱帯植物なんかが、生えてるところにストックしとって昼間は。夕方から出て行動しなきゃ、その行動距離の範囲から第一線まではですね、みんな兵隊が担送してかなきゃならない。というようなことで、航空関係の部隊とかですね、後方関係の部隊とか、そういうものでみんな地域を分けましてね、それで担送して第一線に送る。そういう体制をとり部隊が集結してやっと戦闘が出来るようになったのがその7月の半ばなんですよね。そのときには、もう、向こう(連合軍)はすっかり準備を整えて待っとったわけです。なにしろ4月の22日に(連合軍が)上陸して、3か月余裕があったわけですから。しかも、それに対して攻撃していくのに、こちらはですね、砲と名のつくのはですね、山砲が数門あっただけなんです。あとは機関銃以下でおってやる。ということだったんですから、大変な苦労、苦戦をしましたですね。ただ苦戦をして、結局8月の初めまでやって、ある程度、陣地を奪取したりしてやったんですけれども、もう糧食が尽きちゃったんですね。実は19年の8月の初めから以降は、もう、軍司令官以下、終戦まで、というよりも終戦になって、豪州軍に強く要求してですね、米を補給してもらったんですが、その時期まで米粒一粒も食べてない。というような状況下でですね、結局「もうこれ以上は戦闘できない」ということで後退をして、邀(よう)撃体制に移る。いうことになったわけですね。

18軍は東部ニューギニアのその陸上作戦を担当させられたわけですから、その命令に基づいてやるのが当たり前のことですから。その中で、最大限の努力をするのが当たり前です。ただ、最大限の努力をするにはですね、その地域に対して与えられた兵力はわたしは少な過ぎる。それから、あまりにも先ほど言いましたが、ブーゲンビル、ニューブリテン方面との作戦に引きずられて、一令一動でですね、動かされて、軍が思うような兵力運用ができなかった。地形がまた、機敏に部隊を運用することを不可能にしとった。いうようなね、色んな悪条件が重なったと思ってますけどね。しかしねぇ、「よくやったと思いますよ、わたしは、本当に、本当によくやった」と思う。最後の最後まで。

軍は最後はですね、だんだんだんだん追い詰められてきましてね。軍司令官は20年の7月ですよ、7月の初めですね。もう「玉砕命令」を出されました。「だいたい9月末を目当にして軍の主力が玉砕を、大胆に玉砕をする」と。しかも、病人が全部ずうっと集まってありましたセピック周辺は、新しく軍の参謀長で「吉原兵団」っていうのを作りましてね、「第二段の玉砕をやる」っていう命令を出して戦闘をしとった状況下ですね。

セピック地区にはね、病人でもう役に立たないようなね、戦闘が出来ないような人員、部隊をどんどん収容してましたからね。それらを、玉砕のときに、9月の末の玉砕のときに、軍の玉砕をする場所までね、連れてきて、一緒に玉砕するってことはもうとても出来ない。そういうことで、「二段玉砕部隊」として、部隊を編成したわけですね。その吉原中将(吉原矩、第18軍参謀長)に、わたしはね、派遣されてついて行ったわけです。吉原中将の膝元の参謀で行ったわけですね。そこでまぁ、終戦までは考えてみるとひと月ちょっとしかなかったわけですが。もう部隊の状況把握をして、それから、「いざというときに、どうやったらいいか」っていうことで忙殺されておりましたところにですね、ある日、8月15日ですね。それまでは我々の上空にもね、盛んに、米軍機、豪州軍機が飛んできて爆撃をしたりですね。それから、最後の段階ではチラシを。「降伏せい」と。「日本はもう負けるんだ」というようなチラシをまいたりしてましたけどね。15日の朝からね、一枚も、飛行機が一機も飛んでこないわけです。静かになったわけです、戦場が。我々のところも。それで「おかしいな」と思ってましたらね、軍司令部から電報が届きましてね。で「吉原兵団長と堀江参謀は、ただちに軍司令部に帰還せい」と。「後々の、後の部隊の事はこうせい」という命令が来ましてね。ほんで、ただちに軍司令官と参謀長と参謀長の副官とわたし、それに伝令、5名ばかりでそこを発って。そうですね、歩いていくんですからね、毎日。一生懸命歩いていきましたけど3日目だったんですかね、軍司令部の東の方の隣の部落に、軍の通信部隊がおりましてね。そこに着いたときに初めて「終戦」と。わたしは、そのときまではね、「あるいは終戦かな」と思ったりね、「戦争が終わったかな」と思ったりね。あるいは、その前にですね、軍司令部と、第一線の20師団、41師団との間隙(かんげき)をぬってね、豪州軍の有力な部隊がね、中間地帯に入り込んできたんですよ。それで軍司令部がね、ガタガタやってましたからね。あるいは「どっかの師団司令部がね、襲撃を受けて、師団司令部が壊滅をした」。で、その後にすぐ補充するために呼ばれたかなと。「どっちかだな」と思いながら行きましたら、その軍司令部に着く手前の部落で「終戦」を知りました。

今度、軍司令部にはね、終戦になりまして豪州軍のほうからすぐね「降伏式、それをやりたい、段取りを決めたい」いうて、何度も連絡あったんですね、軍司令部に。軍司令部はですね、そのときにはまたね、第2方面軍からですね、昔の8方面軍の隷下(指揮下)に入っていたんです、アイタペ作戦が終わったあとは。というのは、もう第2方面軍とは関係なくなりましたからね、どんどん戦線が動いていって。で、「上からの命令が何もない。直接、降伏せいという命令がなにもない。だから、それが来るまでは降伏には応じられない」で、頑張っていたんですね。それが、命令が来まして、出かけて降伏式を、豪州軍の司令部、ウエワクでやったのが9月の16日だったと思いますね。1か月後。

僕は、若いころ中国戦線3年間、戦場にいましたがね、そして、ニューギニアに行ったわけですけども、戦場におってね、意識的にね、「やっぱり生きたい」とか、「生きるためにどうだ」とかそういうあれはないね。もうそういう戦争の渦中におれば、そういうことは度外視してるというか超越してるというか。しかし、心の隅では「やっぱり生きたかった」っていう、人間の本能ですから、あったろうと。いうことですよ、それは。心に出して、意識的にそういうことがあった、というわけではありません、それは。しかしね、アイタペ作戦終わってからですね、もうね、みんな深くとりあえず苦労しながら、割り当てられた部落に分散をして、原住民の人たちに助けられて、体力回復をする、で、一方、第一線の方で戦闘が始まる、いう中でね、そのなんとなくね、「誰か故郷を思わざる」というね、歌がね流行りましてね。僕なんかそんな歌知らなかったのがね、誰か歌ってるのを聞いてね、僕も一人でおるときなんか、こう歌ったりもしたことがありますけれどね、やっぱりもう、いよいよね、なんですね、やっぱり望郷の念というのはね、そういう戦陣の間でもね、もちろんありますよね。みんなの気持ちの中にね、そういう気持ちがずーっと浸透しとったんでしょうね。その歌が伝わったっていうことはね。

で、終戦になったときの兵力がですね、大体1万3千名。終戦になりまして、あれですね、ウエワクの奥のムッシュ島に全部集結を命じられたんですが、命じられて、11月の末ごろから、20年の1月の末までの間に内地に送還をされましたが、そのときに内地の土を踏んだのは1万と16名ですか。1万ちょっとという状況で、終戦後、やはりたくさんの人が亡くなってしまいました。

まぁ言うまでもありませんけれども、「わたしたちは捕虜になることが、いかなる事態においても、捕虜になることだけは、いちばんの恥である」という気持ちが強かったわけですね。それが身にしみていたわけですね。その人に対して本当に同情しながら、やっぱりあれですね、もう戦争終わったし、「そんなことは、もう、まったく懸念しないで帰って、国に帰りなさい」とは言い切らなかったということはね、今でも、時々、思い出して胸を打たれてます。

Q:当時の「捕虜になってはいけない」という気持ちはどれぐらい強かった?

捕虜になったら。捕虜はもう最大の恥辱だ。ニューギニアでもね、本当にね人事不省で、捕虜になった人がたくさんおります。終戦後、わたしは帰ってからしばらくの間、残務整理をやってるときに、豪州から東部ニューギニアで捕虜になった人が帰ってくると。そうすると、1人ずつ面接をしたことがあります。そのときも、本当に、1人ずつかわいそうですよね。本人の全く意思じゃなくて、ほとんどの人が捕虜になってるんですから。もうそのときにおいては、もうわたしも気持がだいぶ変わってましてね、戦争直後とは違いますからね。内地の土を踏んでしばらくたってますから。そういう人と接することができましたけれどもね。ウエワクで接したその将校に対する思いはねぇ、今でもねぇ本当にわたしの心の中に傷を残してますねぇ。もう、顔ももちろん名前も聞きませんでした。向こうも言いませんでした。出生も何も言いませんでしたし、わたしもあえて聞きませんでした。ですからそのまま何も知りません。どうなってるかも知りませんですけれども。心の中では、そこまで言いませんでしたよ、もちろん言いませんでしたが、心の中では、どんな状況であっても捕虜になって、将校として、生きて帰れるかと。そういう思いがありましたからね。わたしは。

Q:そういう思いとはどこから生まれてくるものなんですか?

どこから・・・それはもう軍人として当たり前だと思ってましたからねぇ。そんなの。「捕虜になるほど恥辱はない。」と思ってましたね。「捕虜になるならもちろん自分で自決する」と。そう思ってましたから。それは、ほとんどの当時の日本人に共通した思いだったと思いますよ。

わたし自身はね、あのときにね「はっきり胸を張ってね、ちゃんともう戦争は終わったんだから、それであとは、人事不省のところをそういう不幸にあったんだから、胸を張って国に帰りなさい」と、はっきりそこまで言い切らなかったっていうことに対してね、わたしはやはり。一方においてねぇ、当時の軍人、一般の考え方からいえばねぇ、当たり前といえば当たり前なんですよね。それは当時。けど、今にして思うとね、酷だったな。本当に。

Q:その終戦後の残務処理のときに、お話された何人かの人たちは、どんな状況であったんですか?

ぼくが会って話したのは、たとえば、いちばん最近は当時の最近はアイタペ作戦の坂東川(ドリニュモール河)Sでね、そのままで、重傷でおって、そのところを豪州軍に収容されたってのがあったんですね。それからそうですね、やっぱりあれですね、行軍中に落伍(らくご)して、それでそこで何と言いますかね、倒れているところを土民軍に収容されてそういうのが多かったですね。ニューギニアに関する限りではわたしは、自ら進んで捕虜になったというのは聞いていませんから。だからね、わたしはね、あれだけの苦しい戦場でですよ、あれだけの苦しい戦場でそれがいなかったことについてはわたしは誇りに思ってるんですよ。軍人として。当時の軍人として。

Q:お尋ねしづらいのですが、41師団の戦後の記録にアイタペ作戦の後、山南邀(よう)撃作戦に移ってから、大隊長ごと戦場逃避事件というのが記載されているのですが。

僕はあまり聞いていないですけど。

Q:竹永中佐っていう人のことなんですが。

僕は聞いてませんそれは。もしそれが本当だっつーと僕が、僕の思いは違っとった、裏切られてる。僕の思いが裏切られてる。ということになると思いますけれどね。

Q:戦史叢書の中にも、名前は伏せられているんですが記載があるのですが。

そうですか。じゃあそうかもしれません。そうならば。わたしは「今までおらなかった」と信じてましたからね。

やっぱり当時の軍人の気持ちから言ってですね、捕虜になることはもう、絶対にでも恥ですから。自ら捕虜になることはですから。人事不省でなる。これはやっぱり不幸。本人にとっては運命。不幸な運命を負わされた。というふうに思ってますからわたしは。当時、思ってましたから。今も当時のことを考えるとね、そういう進んでね、そのしかるべき指揮官がですね、投降したということ。本当に残念ですね。わたしは残念です。東部ニューギニアの13万人の亡くなった人たちの思いを考えると本当に残念です。

みんな生きたいですよ。苦しみから逃れたいですよ。しかし軍人として、そういう環境に置かれて、そういう使命を帯びてやっとったならば、あるときは、心を鬼にして、やっぱり大義に生きなきゃいけないと僕は思いますね。

だから、情に厚い人だったんでしょ。というか、まぁ何て言うか、情に負けたんだと思いますね僕は。部下の苦しみに、耐えかねた。まぁ、自分自身の苦しみに耐えかねた、とは思いたくありませんけどね。みんな頑張ったんです。

ニューギニアの作戦は60年前の戦いですけれども、同時に、現在の戦いだとわたし自身は思ってるんです、というのは、先ほどから言います、やっぱり亡くなった13万名の人たちに対する思いですよね。軍司令官も、そういう強い思いを持ちながら、ニューギニアの土に自ら進んでなられた。みんなもう、わたしの周辺の人たちも、亡くなってしまった。本当に13万名亡くなった将兵のことを残った一人として強く深く思わざるを得ない、ですからわたしは、靖国神社の問題、それから慰霊、遺骨収集、まぁ最後のご奉公と思ってやってるわけですけれどね。

遺骨収集は政府の手で44年から始まって、12回行ってますけど、まだ我々の手で戦後収集した遺骨が2万体になっていないわけです。現在でもまだ、原住民が畑を作ろうと思ってクワを入れるとそこから、遺骨が出てくるというような状況がございます。

「遺骨は何とか内地に持ってきてあげたい」と。こういう思いは恐らく死の床につくまで消えないんじゃないですかね。わたしなんかは、それと同時に、先ほど言いましたけど、本当にニューギニアの原住民の人たちはよくやってくれます。わたし共から見るとね、「(原住民の人たちは)原始的だけど、その、静かな生活をしとったのが、我々が行ったために、戦場になって、本当に、巻き添えをくって生活は乱される、それから、物資は吸い上げられる、それから、場所によってはですね、そこにおりました兵隊がね、赤痢になっちゃってね、それが伝ぱしちゃってね、で村が全部他の所に移るとかね、いろんな状況になったわけですけれどもね、本当によく尽くしてくれました」ですね。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1915年
新潟県に生まれる
1931年
東京陸軍幼年学校入学 その後、士官学校入学
1943年
陸軍大学卒業 東部ニューギニア赴任、第51師団参謀を経て第18軍参謀
1944年
アイタペ作戦当時、陸軍少佐
1945年
終戦
1946年
神奈川・浦賀にて復員
 
復員後は、陸上自衛隊に勤務、西部方面総監などを歴任

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ニューギニア(アイタペ、ウエワク)

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