ホーム » 証言 » 北村 芳文さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: “無残な戦争だった” 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 北村 芳文さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月23日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニアへ  02:52
[2]2 チャプター2 突撃  04:49
[3]3 チャプター3 アイタペ攻撃  03:40
[4]4 チャプター4 絶望的な突撃  04:16
[5]5 チャプター5 飢餓  04:10
[6]6 チャプター6 本能に従って生きるだけだった  05:01
[7]7 チャプター7 自活生活  03:33
[8]8 チャプター8 終戦のビラ  04:19
[9]9 チャプター9 捕虜  02:57
[10]10 チャプター10 戦後の生活  02:56

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月23日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

毎日、飛行場の整備ですね、ここでやって。飛行場のこれ作業やって。で、そのうちだんだん爆撃とかやって。それから飛行場。ブーツ、マルジップの構築作業で4中隊がマルジップ周りに行って、中隊が進出。ウエワク、ブーツ、これ飛行場を両方を計画。だんだんだん毎日飛行場を落とされってって。日本の飛行機1機のとこへ敵の飛行機5機が来て取り囲んじゃうんだからも、どうにもならない。

Q:敵の攻撃がこのあたりから激しかったんですか?

えぇ。もう、これを行って、ウエワク上陸してから毎日爆撃があったんですがね、爆弾投下と。ほれから、機銃掃射っていうその、ここら撃つのはね。こっからもう毎日。アメリカを結構よく爆撃と地上攻撃とやってくれたです。飛行機も日本の飛行隊は非常に技術は良かったけど、とにかく1機で、日本の飛行機1機行けば、向こうは50機100機と大量の飛行機送ってくるから、日本いくら頑張っても。ほいで、日本は無くなればやっと1機出す。向こうは爆撃、爆撃されながら増やす気です。こういうの自由になるんだから。結局下で見ててもはらはらする。空中戦ほとんど毎日見てたですが。夜は夜間爆撃。B25か、これ。もう、2000メートル高度から、編隊組んで来たもんで。ドカンドカンと毎日落としてくる、来とるわ。

そこで陣地攻撃やったのは、隊、約200名で行って。その戦闘の、やったのはうちの中隊の、うちの小隊であったから50名ばかりだねぇ。うちらの部下でこのケガをしたときの第1回目の負傷をね、ケトバ作戦ってのは。もっと上にもやってごらん。部隊はうちが多かったんだ、この作戦については。マダン・ケトバ特攻隊、120~130名だなぁ。説明悪くてあれだけど。

Q:この前の話だと北村さんが分隊長だってことで。

分隊長。はい。指揮班長っていう、その名前だったけど分隊長です。

Q:それで12、3人で行かれたんですよね?

せやで、いちばん最前線へね。突撃っていうまぁ、こう。戦争やるには、陣地攻撃するには、全部の兵隊がぞろぞろぞーって並んで行くわけにはいかないですわね。だから、こういう一個分隊前で出たら、小隊って、一個小隊がこの三個か四個分隊で一小隊ですか、ほうしたらこう陣地行って敵の陣地飛び込むんです。
それをよくよく敵の陣地のそばまで、この暗がりを這(は)って上がってってしまったわけですね。ほだから、敵に発見された時点がそれ、よくよく前行ってから発見された。敵はそんとき手りゅう弾と手りゅう弾ってのを投げたわな。だいたいこんなもんですかね。投げたら爆発するんですよ。そいで、それが。「突撃」って、わたし命令をかけて号令をかけて突っ込む際、「突撃―っ」てこうやって飛び出す姿勢をとった時点で、前におった敵の弾が破裂してこうなったわけですね。それで、その後ずうっと人事不省になっちゃたわけです。ほれで夕方、8時ごろか7時ごろ、6時か7時ごろの戦闘だったですね。詳しい正確な時間はちょっとみな忘れちゃったな。それで翌日、目が開いたんですわ。したら、お昼ごろらしかったですね。付き添いの兵隊が付いていてくれて、目覚めたわけですから。「あぁ。」っていうことで。

はじめは2か月ぐらい動けなくて。もう寝て、あおむけに寝たっきりだったですわ。まぁだから、地べたへ戸みたい寝てたら夜だこって、動けないものは、毎日、飛行機の爆撃や銃撃があるのけんども、逃げるわけにゃいかんで。足の動ける人は皆離れた、散らばってでかい木の下やジャングルへ逃げたんですがねぇ。おれの場合もう動けなかったから寝たっきりで毎日銃爆撃もう、自分の小屋の上の屋根、バタバタ焼け飛んだ、撃った機関銃の弾。抜け殻ですね。ガラガラ落ちる。そのくらいの毎日攻撃されるとこの下に、ただ寝てたんだけど、幸い命長持ちして、2か月ぐらいで動けるようなって。また部隊に追及したんです。

連隊本部にいたね。坂東川(ドリニュモール河)作戦は、2大隊ってのがやって。連隊本部からここへおれが撤退命令を持って行ったんですが、最終的にはここでもう、陣地攻撃を、坂東川、陣地攻撃をやったんですが。これまあ早く言えば、ああみんなここでもって死ぬ覚悟で陣地へ入って、勝つ見込みなかったけど命令で、食べ物ありったけ全部食べて、突撃したわけですね。

Q:第2大隊に命令を届けに行った?

そうそう、そうです。そのとき連隊本部にいたからね。

Q:その命令の内容とはどんなものだったのか?

「この陣地を攻撃しろ」ていう、撃滅しろっていうことですね。

Q:命令を受けた第2大隊長の反応はどういったものだったか?

反応ってもう、そのころはみんなもう、「ああわかった」って。それで終わりですわ。もう何もやりようがないです、とにかく。食いもんも何もねえって中で「やれ」って言って。そうして、しかも敵が陣地を敷いたとこやれって言うんだから。悲愴な、早く言えばここで死ねっていうことだからね。

無謀なんてもんじゃないですよ。ずっとね、もう何て言うか、頭が狂っているとしか考えられないね。そばだって、後ろにいたって、それでまた包囲作戦。飛行機、あれは爆撃やそれから重砲攻撃で、すぐ日本軍は全部全滅にさせられる。

敵の陣地は、敵はちゃんとこういう小高いとこへ、こういう陣地を築いて。こういう、こっちでいう鉄条網。こういう針金の角の出るねえ、何ていうの、バリケードってことでそこへ張って。それぞれいい見張り台に、陣地に機関銃や迫撃砲を据え付けて、もうこうやって守ってんだから。日本軍鉄砲持って、ずって、腹ばいで行ったって戦争になりゃしねえさ。いろいろこう、線へ触れれば爆発するようなそういう装置もいっぱいあるから。もう無茶通らないです、日本軍が行ったって。だから特別な・・飛んで飛行機が上を通って、敵の飛行機が。その下這ってるんだから。まあ、偉い人はどこまで考えたか(知らんが)、我々兵隊はとにかく絶対だめだと思っても、「まあ行けば死んで当たり前。うまいもの食べられりゃ、これだけでいい。もうけもんだ」っていうそんなだからもう、よくよくなっちまったんだねえ、みんな。

だって他に方法がねえから、言われた通りに動いただけであって、もう絶対勝つなんてことは考えてきたことなかったから。ただ、惰性で。生きるって本能は、みんなまあ無理に自決するって人はほとんどないくらい、みんな思ってたんですわね。だから中には自決した人もあるけども、これはもうどうにもならないからって自決したんで、体が健康である者は、まあ何とかってのは。それと、もう一つはお国のためって昔っからの観念も頭の中にあったわけですね。何とかして勝ち抜いて、生き抜けて行けば、日本がまた再興出来るんではないかという頭もいくらかあったわけですねえ。ところが、まあ何て言うか、全然しゃばの情報もなければ何にも、食べ物も何にもねえ中から、ただ動物的に生きてく、それだけが朦朧(もうろう)として生きてるっていうそういう、惰性だけで生きてたと言った方がいいかもしんないねえ。

日本軍っていうものはもう力がなくなっちまって食べるもんもねえ。弾もねえ。何にもない。そういうの中で、そんな命令を受けたったって、「はいはい」って動くよりは(方法がない)。で、戦争をしてるからしょうがないから動いてたことで。もう自分でも色々考えて、ああでもねえこうでも、考えることは全然なかったじゃないですかねえ。やっぱただ、まあ、命令をされ(た)ような形で言われたままに動くよりは方法がないということで。とにかく命令に従って動いたという程度だと思うがね。

第2大隊は、それで、そこで陣地攻撃をして。結局、陣地攻撃をしたのは、陣地に入り込むこと出来なくて。そのまんま、結局負け戦で散り散りばらばらに、生き残ってんのは。また、ああ自活って言うか、逃げ回っていただけで、ほとんど全滅しちまったってことですね。まあ全滅しちまったってこと、逃げ回ったのはあのときはほとんど全滅ですね。結局、死の突撃ってことだからね。無残な戦争だったですわ、これは。

Q:坂東川の攻撃をやって生き残った人たちの様子はどうだった?

それの、帰った人ってのはないですね。越えたね。行くまでに倒れた人が、またあの部隊直しで収容されて、そしてまた本部の方の支配下へ入って。あるいは患者隊っていう病人だけの、その名だけでもって、そういうのはもう早く言えばルンペン。自活を求めて動くだけで、改めて部隊編成を出来るような態勢にはなくてね。結局、そこへ来て攻撃をして、まともにみんなと一緒に陣地攻撃を出来なかったですわね。

渡された携帯食料が、渡ってるうちは良かったけど、なくなってきちまってですね。だんだん。自給で、結局、そこらの食べられるの何でも取って食べると、そういう形で、また戻ってったわけですね。その地帯を戻って、そして、今度は食べ物のある、結局、地帯へ、だんだん逃げ込んでいったわけですね。山へまた、海岸から。ウエワクへ帰ってそれからずっと海岸通って山へまた入って、自給自足出来るとこへ。同じ戦闘、戦闘というかっこいい名前だけど、自給自足できるとこへ入って行ったっていうのが、まあ兵隊にはいちばん話しわかりいい話しじゃないですかね。偉いい人はだから、どこどこの作戦どこどこの作戦なんてうまくやってるけども、一般的な我々の様な下層階級は、まあ早く言えば、自活出来る様なとこへだんだんだんだん、まあ山へ入っていったというようなことに、ここら来るわけだな。ハンサねえ。もう自活っきりだよ。ああ日本から来る食糧何にもねえんだから。まあ塩だけでも送ればよかった(のに)。

塩分、この塩分は非常に大事なんで。塩分があれば、ここ(30cmの高さ)まで上がれなかった人が、ちょっと舐めさせるとこの上這(は)い上がれた。そのぐらい良く効いたんですから。

んでも、塩はたまたま海岸行って、海水を煮詰めると少しずつは取れたから。それと、唐辛子っていう、南蛮ですね。テンチ南蛮、小さい南蛮が、これどこへ行っても土人は部落にいっぱいあったから。それがまあ、調味料ってか刺激剤になって、イモでも何でもまあ食べられたわけで。それはいくらでもあったおかげで良かったですよ。何しろ、食料って何でもねえんだから、とにかく原住民の作ったものを取って食べるか、野生の何か見つけて食べるか、それしか出来なかったわけだから。だから健康な者はまあ良かった。病気の者はもう、だんだん衰弱していくってような格好で。まあその、食料の補給も全然無かったわけですからね。結局、敵陣地の中で自活を求めてまわって歩いたという。何て言うんだ、「追いはぎ」っていうか、「泥棒」っていうか、人の作ったものを、あるいは人の野生の何かを探して、それを食べながら生き抜いたっていうだけのもんで、あとは話しにならねえ。生き帰った、生きてたもんが不思議なような内容だから。

それはまあ、海水を煮詰めることによって塩を作るということが出来たから、まあ良かったですよね。たまには、場所によって塩分を含んだ水の出るとこもたまにはあったり。岩の間からね。そういう地点で自活の時期を長くもって、そこで塩を蓄えてくと。蓄えた塩持ってまたその、食料のある地へ移動してくというようなこと繰り返して回ったわけだね。

オーストラリアに連れてかれるにしろ、もう一回、寿命の、待てば何か人間らしく生きられることもあります、あるんじゃないかっていうような希望もいくらかあったからね。そんなようなものを頼りにしたわけで、本能的に生きてくために、ただ動いてたに過ぎなかったないすかねえ。とにかく話しにならねえ内容だったから。毎日悲観的なことっきりで、いい話は何にもねえんだから。身に覚えてのがあれは思い出は食べるものがねえ、毎日敵に、飛行機や砲撃にあって毎日脅かされてるっきりだから。いつ、弾がどこへドカンと爆発して来るかわからねえ。まあ、一寸先はいつでも闇やっててから。もう色々なものをまとめてやんないと、力なんてほとんどなくなったっていうかね、なかったって言った方がいいかもしんないね。ただ、本能的に食って生き延びてるだけの考えですか。最初はまあいくらか希望はあったですね。希望はよくよくなくなって、希望っていうかそのね、まあ何とかして、平常の人間らしく暮らせるときが来るかって言うような希望もあったですが、全然なくなって。ただまあ、動けるだけ動くよりはしょうねえっていう。もう意識が何て言うか、「生きる」って本能だけで、もう、状況の正確な判断てのが出来る能力がなくなってきてたってことじゃねえかなあ、結局。

ねずみ1匹でも、十何人で分けて食べて、1匹のねずみでもね。大体1個班、大体10名前後ですが、ねずみ1匹を取っても、みんな分けて、犬一匹取ってもみんなで分けて。特にそれで経験のある連中は、おれにこんだ、何て言うの「足の裏をください」って言うね。「足の裏が何故いい?」って言ったら、こう足の裏の犬の足の裏ね、あれ皆さん触ってりゃわかるってもんだ、今見たら。あれが、1日噛んでてもまだいかなんですわ。それ、筋っぽくて硬くて。ほんだから、今の流行のチューインガム噛(か)んでるわけで、あれ噛んでることによって飲み込まなけりゃ、空腹をいくらだって補うことが出来る。

人肉を食べたってそういう話は聞いたことあるんだ。結局、弾の撃ち合いの合間を縫って、隣で息を引き取ったのを食糧に生でかじったと。そういうことがあったという。これどういうことだとねえ、それみんなそうやって死んじまったって話なの、どこからどういう伝わったか、ちょっとね、おれもはっきりわかんないけども。まあそれだけ食うものなかったってことだけの話で、どこまでお互いが見ただか話しだか見当が付かないんですよね。誰かの肉を食べて、生きてたかってことが、それもその、一緒に暮らしててやったんじゃなくて、タコツボってってこういう穴掘って1人、ぽつんぽつんとこういって陣地を守ってるとこがあった。それが1人で穴の中にいて、食べるの何にもねえから、まあそういうこと、生のその、お隣の亡くなったのを生で食べたんじゃないかっていうことは、ちょっと考えられるけど、その他に何も考えられないね。そういう話、おらもちょっと聞いたこともあった。兵隊から帰ってからか、どっちだったかちょっとだけ覚えてないけどね。あとは資料はこうだというふうにいったような内容であるわけで。殺しあって食べるってそういうことは絶対ないはずですね。

ワラジみんな履いて、ワラジや草履寄こしてね。もうはだしです、はだしの人が多かったですね、みんな。おれもはだしですわ。だから足がこう、足の裏が丈夫なやつはこう開いて。だからはだしっていうとね、坂行って雨降って濡れてるとこでも、アミの先はこういうふうになって滑り止めになるんですわ。それであっちのいるまで発達してくるんですね。だから結構、みなはだしの人が多くなってたね。自分でもまあ、ワラジをやったわけよ。中に一人いればその人に倣って作って。草、あの草の見つけてくりゃあ出来るからね。まあとにかく、自分で草履を作って履くようなことが、自活の中でみんな覚えてきて。

まあ、同じ自活をしてく。だから何とか、いい地区の土民ですね。土人のとこへ行けば食料、補給も応援も少々に頂いて食べられる時期もあったが、全然食べ物、豪州軍の方に、いくらかでも便宜を図って。日本語、ジャパンソルジャーって、まあ日本の兵隊に毎日大事にしたいけれどってことで、アメリカ、豪州軍の方からまあ色々な、褒美をもらってやってる連中は我々敗残兵には、好意的に何でもくれなかったけど。中には好意的に付き合ってくれる原住民も場所によってはね、あったから。そういったときは原住民の好意によって、もらって食べたけど、あとはもうほとんど自活。原住民の作ってるのを、イモ類とかいろいろ盗んでた。まあ、盗んでたね。盗って、かっぱらってみんな食べた。あるいは野生のものを加工して食べたと、ということで。補給がないんだからね。それでなくなった塩分は海岸へ出て塩水を、カンパンっていう、昔、味噌やかんぱいものを、カネの入れ物について配給になった。そういうのあちこちあったから、そういうもの利用して塩を作ったりね。まあ、ああして塩分の補給をして暮らしていたわけで、自活で。イモが主食になって、でん粉っていう、サクサクっていうこれを主食になって、まあ食いものはなんとか体さえ健康なら自活できる。一年中暖かいとこだからね、よう育ったからまあ良かったんですよね。

Q:その終戦ビラがまかれたときには、皆どんな反応だったのか?

うんやっぱり、その辺が、やっぱり来るべきものが来たなあっていう、そんな程度のもんで。これだあれだ、豪州へでも連れて行かれて、羊飼いでもやらされるかどうなるかなっていう程度のことしか。日本へまだ帰れるってそこまでは考えられなかったね。どうせほら、捕虜扱いで、恐らく豪州へ行って何か、ああ使わせるだろうと、そういうのが一般的な考え方だったよね。

Q:そのとき連隊長はどんな反応をしたか?

連隊長は最初は、飛行機が「日本降伏せり、戦闘を中止せよ」っていうビラをまいたとき、連隊長はこのことについて、「口外、口に出した者は、厳罰に処す」っていうことで。この敵の宣伝、その何ていうんだ、「日本軍に欺まんの宣伝をまいたんだ」と。日本は負けっこねえという、そういう気概を持って、連隊長は中心になってそれだけの兵隊を、それまで毎日生かしておいたわけだから、そこで負けたってことであれば、誠に残念なことであるから「お前たち、おい、これは負けたんだ」っていう、そのことを兵隊に言えなかったわけだね。だからこの、今日の飛行機の「日本降伏せり」っていうこれを、「口にしたものは厳罰に処す」って言うてもう言わせなんだですよ。ところが兵隊の方はそれを感じ取ったんですね。どうして感じ取ったってか、それっきり毎日爆撃に来てた飛行機が1機も来なくなっちゃった。毎日静かな日で、寂しいくらい飛行機が来なくなっちまった、全然来なくなった。ところが1週間かかってやっと、もう無線もだめ、飛行機もみんなだめだから、海岸からこの山へ入るまで足で歩いて大本営の、その命令を届けたと。1週間くらいかかったね。5日くらいかかったかな。これで初めて、「負けたんだ」ということで。それで「日本降伏せり、戦闘を停止せよ」っていう、天皇陛下の命令が初めて出たわけだ。だからそれから、「それじゃあ」って連隊長は訓示をして「負けたんだ」と。「負けたけれども、ここで命を永らえて、日本再建のために尽くす責任はある」と言う。「そのためにはひとつ、陛下のお言葉に従って我々は生き抜いていかなければいけない」。それから自活に移ったわけですね。

軍旗奉焼、最後のときは、軍旗を焼いたときは、27、8人。30人ぐらいかなあ。全然、軍旗奉焼ってのは連隊、1個連隊ですね。まあ4000名からの編成で行った者がその軍旗を焼くときは20人から30人の間だな、生き残ってたのがね。あっちこっち散らばってまあ、寝てたり負傷してた者もあったが、実際軍旗を守ってきて、軍旗奉焼のとき、そこでさったのは30人、3、40人だな。いくら、27、8から35、6までの、そのぐらいの人数ですわ。

はっきりお手上げして、「負けたんだ」って言えば、ちゃんと今度は人並みに付き合ってくれるんですね。そこら非常に、わしは考えられなかった問題だったがね。でまあ、おらは幸い達者の方だったから、ちゃんとみんな作って、食料を。乾燥食料を作って、それでまあ兵隊、一応まあ、幹部の方だからみんなの先立って海岸出る体制を整えて、海岸へ出て。それでムッシュ島へ来て。ムッシュ島へ出て、そのムッシュ島っていう島で初めて人並みな生活と受けられるようになった。そこへ来てアメリカの配給を、ちょっと少ないながらも、うまいものをやっと、人間らしい生活が始まったわけだがね。それでまあだんだん、そうやって付き合ってるうちに、さすがはアメリカ、アメリカはいい面は持ってると。このムッシュ島なんかでも、墓地なんかでも、大した墓地をあげて、何万ばするようなっけのを造ってる。みんなアメリカ兵が造ってくれたんですよ、豪州軍がね。まあ日本人がそこへ行ってお手伝いをしたけど。これがまあ日本の考え方は小さい。アメリカの側とは考え方が全然違うと。名実共に、物質あるいは人間的にも大したもんだってこと、だんだんわかるような、彼らは捕虜対策を、素晴らしい形で進めてくれたんですね。でもここまではみんな体力が衰弱したから、この島行ってもだいぶ多くの人間が亡くなったけれども、生き残った連中は幸いそれだけの健康の素質があったそうで、日本へ帰ってもみんなよくけっこう働いて。今日あるのも、あるいは、往生しながらも出来るだけの養生手当てを受けて亡くなっているが、かえって終戦になって、もう戦争の結果、アメリカってとこはなかなか大したもんだっていう、そんな感覚をおらに与えてくれたですよね。

いずれにしろ、まあ順にこの平和な時代を迎えてきて、まあ戦争はやっちゃいけねえってことだけはまあ、よくよく、二度と繰り返しちゃあいけないってことだけは、身にしみて感じてはいるわけだね。

いい世の中になったもんです。毎日食べるものには不自由なく、贅沢しない限りはねえ、贅沢。毎日まあ、使われるでなくて自分で楽しく働いて、食べ物おいしく頂いて平和の中で暮らしてくってのが、今生き残った価値があったような気がする。まさかこんなに長生きするとは思わなかった。90になるから、よく生きてたもんね。何度も死んだって言われたり、死にそうになったりしたんだけどねえ。たまげてます。

Q:亡くなった部下のことを思い出すか?

ずっとあれだけど、最近はねえ、あんまりそういうこと考えないように考えないようにしてたわ。無意味な戦闘だけは、戦争だけはやっちゃいけないってことだけで、なるべく仲間のことも、線香上げてただ手を合わせて。

それ以外に何もやりようもないもんでね。そういうことだけはまあ、折に触れて頭の中へは出てくるんですが。ただ、おらが元気で来たのが、お前たちの分までやるぞっていうような、出来る限り、まあ国の為にっていうか、生き抜ける、生き抜けるから生き抜くからという、何かそういった何かこう、ずっと頭の中いつもそういうこと出て来ますわね。「お前の分までやるぞ」っていう、そういう、ただ、そういう考える程度で、それ以上のことは何でもやってあげていられないわけだけんどもね。常に頭の中にはそういう考え方がどっかにちゃんと置かれているようです。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
長野県に生まれる
1940年
現役兵として松本第50連隊に入隊
1942年
北支山西省へ
 
師団教育隊、軍教育隊を経て、第239連隊第8中隊指揮班長に
1943年
ニューギニア・ウエワク上陸
1944年
アイタペ作戦当時、軍曹
1945年
終戦 当時、陸軍曹長
1946年
神奈川・浦賀にて復員 復員後は、家業の農業に従事

関連する地図関連する地図

ニューギニア(アイタペ、ウエワク)

地図から検索

関連する証言

関連するニュース

NHKサイトを離れます