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タイトルタイトル: 「極限状況の兵士たち」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 小林 久光さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニア上陸  05:23
[2]2 チャプター2 マダンへ  06:58
[3]3 チャプター3 山越えの行軍  03:01
[4]4 チャプター4 連合軍についた地元の人々  05:05
[5]5 チャプター5 アイタペ作戦  03:21
[6]6 チャプター6 飢餓のなかの戦闘  04:23
[7]7 チャプター7 極限状況の兵士たち  05:31
[8]8 チャプター8 終戦  03:42
[9]9 チャプター9 終戦4年後の戦犯容疑  09:32

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月19日

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ハンサへ入るその日だったな。4月の11日ごろじゃねぇかと思うんだ。そのときに、朝、向こうの哨戒機に発見されたの。そう、「だから、今日、早く降りちゃうんじゃねぇか」ってそんなこと言っててけども。わしら、それでも10時ごろ、船が出ることができたからね、よかったんさ。それで、上陸してみたけれど、やっぱり体弱ってたなぁ。上陸して、そこでひとまとめになって、ちょっと休憩したら、20師団の師団参謀の高田さんっていう参謀が来て。そして、「いちばん東のはじの方の取り締まりやって」って言われて、おれ行ったわけ。そこんとこは、「しどにい丸」っていう船の荷物を主に下ろしてたね。そいで、「しどにい丸」の船を下ろしてたり、その周辺に土民部落もあったし、それからその手前に、荷物の置く手前くらいのところに、高射砲陣地なんかあったんですよ。そいで、おれはまぁ、取り締まりだからその辺をぐるぐる回っておったときに、午後2時だったな。「敵機襲来」っていう情報が入ったのさ。そしたら、そばにおった前から来てた兵隊、そして、「あと20分たてば来るぞ」って。確かに20分たったらね、山の向こうの方にね、点、点、点と3つ。黒い星見えるん。「おっ、来たぞ」ってわけだ。そして来たらねぇ、ハンサでちょうどに20分ばっか、かかりますからね、そいで、そのいちばん東のはじの、わしら(が)いた頭の上をぐーんと飛行機が、三機編隊でね、スーッと飛んだ。

そしたら「しどにい丸」のとこに爆弾落としたもんだからね、水柱が「シャーッ」とあがってるの。そいだから、あれは3機で飛んでった真ん中のやつが落としてったんだな。真ん中のが命中して、その機関部からはもう、水蒸気が「ダー」と上がってるじゃないかね。だから両はじの方から落としたのは船を外れたけどもね。それも、水柱「ズーッ」と上へ上がってった。それで、落としてしまったら、そのまんま帰って行っちゃたけどもね。そのとき、そんなふうになったもんだから、とても、高射砲なんか、ずいぶん撃ってたらしいからね。その辺の船のあれですねぇ、煙でもってね、見えなくなっちゃったんです。そうだなぁ、30分くらいたったら、海が、だんだん煙が見えなくなくなってくるとね。そしたら、我々の護衛艦出すって行ってくれた駆潜艇が、海軍の駆潜艇ですよ。どこ行ったやら、さっぱりわからない。ただ、哀れに思ったのは、あれだけ、護用船だ、民間から徴用した、そうした貨物船ね。それが、一、二、三、四、とあって。5つ目のが、あれさ。水蒸気を「バーッ」て上がりっぱなしになってるな。そして、同時にやね、こんな丸太で作ったな、どこで作ったやらと思うような担架な。担架ったって、普通の布張った担架じゃねぇんですよ。あ、ツルで、こう、からいで(絡ませて、編んで)あってね、そして、丸太が、このくらいのを両方に置いてね。そして、そこに担架に戦死した者ば乗っけて来たんです。それで、どん、どん、どん、どん上がってくるでしょ。それがずーっと3列に並んだのが80人ばかりある。

それから今度は雨、まだ、そのころ雨季ですからねぇ。雨降って困ったけれども、「船でマダンへ行くか」「歩いて向かって行くか」とみんなで協議したんさ。だけども、船で、いっぺん、そんな経験したからね、兵船おっかなくて嫌だからね。「歩いて行こうっ」ていうこと。「まぁ歩いて行こうっ」ていうことになったら、ニューギニアっていうのはあれねぇ、雨期になると道路が川になっちゃうんですよ。そしたら川歩いて行くんだからね、まぁ、ドブン、ドブンしてさ、とってもやない、そばに車(大八車)あったから、車につけて上がれたんだけど、とってもじゃない。車の方は骨折れたように。しまいに今度は、あのウリンガンまで歩いて行ったけど。ウリンガンからもう、とってもそんな車なんてそんな引いていかんねぇから、そこに置きっぱなしにしてさ。そして、みんなで、自分の荷物は自分でしょって、そして、マダンまで行きましたよ。

Q:マダンへ行くときはどの部隊と一緒に?

部隊と一緒なんかはないです。その部隊っていうことは自分たちの8方面軍から、18軍に配属になって。18軍の一部として前進したから、わしらは、わしらで行ったんですがな。そのときそだねぇ、20人、30人くらいで一緒に行ったかなぁ。

Q:18軍の司令部も一緒?

いえ。司令部はもう先に行ってた。後をわしらは追及して行くようになったね。

夕方って夜だからさぁ、もう寝ようと思ってた。そのとき4人か。5人くれぇいたかなぁ兵隊飛んできてな。「小林兵長殿。司令官側の支隊長がお呼びでございます」って。支隊長におれが呼ぶなんて、「おれのなん、知ってるはずがねぇ」と思ってたわさぁ。だけど、呼ばれたんだから「そんじゃあ行ってくる」と。で、おれまぁそのとき、そんとこで軍装して行ったん。ほんときに、そうだなぁ。これどのくらい、200メートルくらい歩いて行ったか。100メートル歩いて行った。とにかく歩かなくちゃいかねぇし行ったら、そしたら支隊長がそこに立っててね。そこで、「小林兵長が参りましたっ」つったら、「御苦労さま」って、せって言ってくれた。そのまぁ、おれ「御苦労さまっ」て言われたのが、おれがいちばん、感激してるとこさ。だっておれ軍隊に入ってな、「御苦労」って言われたことは数あるけども。「御苦労さま」って言われて「さま」付けで言われたとかそのとき初めてだよ。だから、なんだ。御苦労さまって言うのは「将官級じゃなきゃいわれない」なんて思ってたんだよな。そのぐらいなんだよ。そして、「命令は副官から聞いてくれ」と。そして、その大御所行って。そして、命令おれ聞いてたんだけれどさぁ。そしたら、お前そこんとこで12月、8日か9日だな。そのころ、先の攻撃あるってんだな。その攻撃あるっていうので、おらが、戦死者がどのぐらい出そうだ、負傷者がどのぐらい出そうだっていうような計算してた。「あー。戦争だなぁ」って思うな。そいで、おれのとこへ受けた命令は、「これからすぐ出発してくれ」と。それで、「コパっていうとこに急ぐ」とかな。「コパんところへ軍が集結するからな。コパんとその付近の、謀諜と、謀諜っていうのは、謀諜とその土民の保護とな。それをおれに担当しろ」って言われて、おれはその日に出てったんだよ。出てったって、ニューギニアで、夜出て行くなんて、真っ暗なんだからねぇ。だから、薪(まき)2本持ってさ。そして、薪に炎が出ちゃうっちゃいけねぇから。それ持って兵隊を1人は連れて。そして、歩いてジャングルん中に行ったんだけれども。

Q:そのあとはコパ?に行かれたんですね?

ええ。コパにも、コパにはわしらの方の、部隊の分隊、分隊つって分隊の長がいたわけです。コパから・・・ていうのはそうだなぁ。4キロ、5キロばかりじゃねぇなぁ。5キロくらいあったかな。そのぐらいの距離のところへ行ってきたわけです。

Q:そこではどんなことしてたんですか?

わしが?そのとこは、結局、対峙してる向こうには連合軍がおるでしょ。こっちは、日本軍がいる。その、中ですからね。その、土民をだね。なるべくこっちい引きつけとかんじゃいけないのが、わしらの仕事ですわね。

Q:途中補給はあったんですか?

ええ。そのころだって補給っていうのはねぇ、わしらでもらってくるからね。あるんだけれども。まぁ、そのころだって、みんな十分にもらってるわけじゃないからね。まぁ、ニューギニアに上陸すると同時に、軍から受けるの、三分の一て、三分の二程度っての、一応、あれですね。軍が計算する量の三分の二を食糧としてもらってたわけだからね。だから、もうどっちにしたって現地で、食糧見つけなきゃしょうがなかったです。

Q:その後はどうしたんですか?

それから、また前線出て、今度は南海支隊はいつだって前線だからね。わしらもそ、のあとついて、そして、前線へ出てって。そして、50師団は迎えたわけだよね。

Q:前線て言うと東の方ですかね?

はい。東の方、東の方ね。

Q:50師団は戻って来たんですか?

うん。戻ってきました。なんだ。高い山(を越えてね。あれ何だ、4千メートルばなしてせった、峠超えてきたわけですよ。

Q:敗残兵ですよね?

ひどい格好ですよ。そのときねぇ。わし道で会ってね。いちばん先にあった兵です。タノっていうのね。あの峠超えて来たうちでね、いちばん初めにあった兵隊は、「どんな格好してたかあんたわかるかい?」裸だった。裸でがってね。それを、土民が担架にのっけてね。担いできてくれた。

Q:下着もないんですか?

下着もない。よくまぁしかし、おれたちと、すれ違ってから後、「いったいどういうふうにしてくれるかなぁ」と思っておれはそのときいたんですけどな。よくまぁ、土民がね、見てくれたと思ってる。

Q:担がれてきた人は病気?

いやいや、病気って、歩けるって程度じゃないものね。歩けはしないと思ってるんだけど。それでも、みんなそこまで担いできてくれる。

土民のとこ入ってな。だから、はやく、土民んのが、向こう行って、今までどおりに「こっちへついてるか」、「連合軍につくか」、だから、「どっちになびくかっ」ていうのが、早ければ日本軍が不利になるし。遅ければ自分たちはひどい目に逢うしな。

それ細かく言えばさぁ。「この部落がアメリカ軍につくか」、「もうちょっと日本軍についてねかっ」ていうときにな。これを見極めんのはそこにいた、あの見極めんじゃいけねぇからさぁ。そこにいた連中っていうのを、ヨコヤマってういうのと、それがその、アメリカから、連合軍の中にな。土民の軍と、土民兵がいるわけだ。そしたら、土民兵っていうの、ちょっとわからねぇんだ。その土民兵がへって、一緒にこうやって話してるときに、こう、後ろから頭、はたかれっちゃった。それでも生きて帰って来たけれどもな。

Q:日本軍からアメリカ軍寄りになってる部落に行ったときは、雰囲気でわかったりするんですか?

うん。するする。雰囲気でね。まぁ、おらの見方としてはね。夜、夕方になるってとね。そうすると年寄りのもんが違うんだよな。(土民は)年寄りが絶対権持ってるから。だから年寄りの動きをよく見てて、「これはもうアメリカにつくんだ」とか、「これは、まだ、日本についてくれるんだ」と。そういうの判断するのはやっぱりあれだった。あの、年寄りのを見てる様子だったな。

Q:動きが変っていうのは?

そのねぇ、こっちだってあるけど、年寄りがひとところに寄るんだな。寄って話するんだから。だからその、寄り具合を見てるわけですよね。そして、寄ってその話で判断して、そして、「そいじゃ我々引き上げようか」。そしたら戦闘員だ。わしらそこで、1人や2人で戦闘できるもんじゃないんだから。そこで引き揚げて。今度は歩兵部隊がそこの陣地で守ってるようになる。

Q:陣地で守るのは占領ではなくて?

日本軍の占領地域を守って、その先端にはあれがいるわけね。歩兵部隊がいて。その先には、我々みたいのが調停して、土民をこちらの方へ引き寄せとくん。

(土民が)食事の用意、炊事やんのがいちばん下っ端なんだよ。そうするとそこへ、子どもが来てくれるわけだ。子どもが一緒に手伝ってくれるときに、一応言葉交わすだろ。そすると、「これなんだ、これなんだ」って、単語覚えるんだよ。それ、だん、だん、だん、だんやってくと、子どもと仲良くなる。それからそうするとその母親がな、うまく来てくれる。そうすると、今度、年寄りも、大人も来てくれるっていうふうにして、村の人と仲良くなんの。やっぱりその下っ端なんだよ。上の人間は、ただ、寝ころんでてさっぱり出て歩かねぇんだよ。こっちは、そうやって仲良くなってるからな。だから、状況よくわかるん。だから、土民の文字ってゆうのは、いちばん知ってるのが下。下の人間じゃねぇとダメなんだな。それでも、言葉だってあれだべ。終戦ごろになって、一通りあれだもの。みんなと別れるときは、そうだなぁ。3分くらいしかねぇけども、あいさつだけはできたで。

Q:アイタペのときの小林さんはどうしてたんですか?

そのときは、歩兵部隊と同じ性格でもって山の上をずっと行きました。

Q:どこの部隊と?

いや、部隊とかでなく、憲兵隊は憲兵隊だけで。

Q:山の上って、坂東河(ドリニュモール河)の上流?

そう、あれの上流になるね。

Q:実際戦闘もされたんですか?

おらはその、戦闘はしなかった。ただ、戦闘はしなかったけど飛行機に襲われただけです。

Q:アイタペ作戦の命令が出たときのことは覚えてます?

アイタペ作戦かい。アイタペ作戦そのものはおれらに、命令はわからなかった。やるんだってことだけは聞いてたけれどもね。

問題はね、おらの聞いてる話だが、今度の作戦はな、「人減らしだ」って聞いてだっていう話は聞いてた、な。「その、ここらの現地民と、それから兵隊の数とどっちが多いかっていったら兵隊の数のが多いんだ。だから食って生活するだけのことができないんだって。だから口減らししなきゃいけないんだっ」ていう話も聞いた。

Q:それはうわさですか?

んーまぁ、うわさっていうことじゃないだろうけどな。そういうこともきいた。そして、軍司令官は「湊川の戦い」(南北朝時代の合戦)のようなことをよく言っていた。「負けるとわかりきっていることをやったっ」とな。それをよく言ってらっしゃったっていう話は聞いていた。

そして、山の上をね。普通、他の連中は海岸ばっか行く。おれらは山の上へ行ったんだ。

Q:それも、その先の何か目的があって行ったんですか?

結局そ、とこ通り抜けて、アイタペで、向こうを倒して、それより向こうに突き抜けようとしてたけど、突き抜けられねんだものな。何しろ、向こうの連中の方は、よっぽど陣地作るのが、上手だもの。

Q:その後の状況ってわかります?

アイタペ作戦かえ。その後は、悲惨なんだ。それで、わしらも山の上行ったけど、そこでダメだから、一度引き返して来て、来たところが、今度は、坂東川(ドリニュモール河)の方へ行った連中な。海岸伝えに行ったものが、これも食糧なくて帰って来るんですけど。向こうへ突き抜けられればどうだか知らんけれども。突き抜けられん、帰って来るんじゃけの。

兵隊がね、小さい小川で、そうだな、浅瀬深さこのくらいで、浅いそんなに広い河じゃないんだけどね。そこで、一人の兵隊が飯ごう洗ってたの。その側に、このくらいな(5cm立方ほど)缶があったんだな。その中に塩が、塩が入ってることを他の兵隊二人が見たんだ。「あの塩とってやろう」ってわけで、その兵隊に手りゅう弾投げつけたの。手りゅう弾投げつけて、そうしたところが、手りゅう弾が行き過ぎちゃったもんだから、ケガはしたけども死にはしなかった。それを海軍部隊のもとに、顔を真っ赤にして逃げ込んだんですよ。それで、海軍部隊っていったって、何人もいるわけじゃないんだ。おれが見たときは5,6人しかいなかったんじゃないかな。そういうことでね、おれは逮捕に行ったことがある。そしたら、そこの准尉さんに一応あいさつして、それで「明日捕まえてくるから」って言ったら、そこに一晩泊まってね、朝になったら、おれ顔洗いに出たんだ、その河に。そしたら、またバーンっていう小銃の音するの。「あ、やったな」っていう感じしたな。そしたらまたバーンってやったから、「あ、これで終わったなっ」て思ったら、また音がする。3つするとちょっと変だなって思ったんさ。そしたら、そこに、兵隊飛んできてな、「今、その兵隊が自殺したっ」て言った。ああ、そんなふうに、そんなころの考え方はね、命なんかさっぱりどうとも考えてないんだ。「死んだって、例えば、ちっとも楽になったほうがいい」と思って、食い物が無いんだかからな。だから、「いつかは死ぬんじゃないか」と。ただ、骨を折ってね、いるだけのもので。これで、内地に帰れるなんて見込みは全然なし。

「ジャワは極楽、ビルマは地獄。生きて帰れぬニューギニア」ってな。だって船もないしさ、食い物もないしさ。それだから死ぬよりほかしょうがないんだよな。それで、身体がどうかっていうと、ここんとこ(胸)洗濯板なんだ。ここんとこ洗濯板、洗濯板っていうんだよな。洗濯板って知ってなさるでしょうけど。皆そんなになってってね、それが、その後、うっかりしたら3日くらいたったら駄目だなんて、そういうようになってたからさ。だって食い物ないからだめなんだよな。それだからね、人間の方の格好は頭がこうあって、これが、こうへっこんで、これが、こうなって。それで胸がちっとなって、それ腹と横隔膜あたりがぐーっと細くなって。それでまた、広がって。そして、今度はひざのところに来ると膨らんで、また細くなっているんだからね。それだから、まぁ、復員船に乗って浦賀に着いたときなんかは、出迎えに来た人は「本当にこんな兵隊っているもんかなっ」て思ったくらいだと思う。

Q:これ、アイタペ終わって山南に入ったんですよね?

それでね。一応、ウエワクっていうけど、もっとこちなんですよね。こっちにいたんだけれども。そこへ引き揚げてきたんだが、全部が全部ここへ来るわけじゃないんだわ。食糧無くなってきてるからね。だから、行くときは何とか持ってったって、帰りはねぇわけだわ。だから人肉食うなんてのが出てきた。

Q:それは情報としては、それに対して軍の方から?

うん。そこでね。軍からね。ここ(昔の資料)に、出てると思うんですがね。参謀なんだかね。緊急処断令っていうのこれどっかに書いてねぇかったかな。おおこれ、緊急処断令ていうのて、軍で日本人が死刑をやるにはね、裁判にかけられなければ出来ないわけなんね。だけどそんなことしてられねぇんだ。そだから緊急処断令っていうので、出たん。緊急処断令がね。それは命令だからだけれど、法律じゃねぇやな。

緊急処断例っていうのは、早く言えば、「人肉を食った者は銃殺にするっ」てことだな。それは、その前にね、ラエサラモアの方に、そういう話が多分にあったの。そのころから、もう緊急処断令も出てたんじゃないかな。

Q:人肉食の問題で、小林さん自身は、それに対して調査に行ったことはあるんですか?

あります。はい。

Q:そのときの話し教えていただきたいのですが。

そのときはね、そうだね、アイタペ作戦終えてからさ、こう皆ぞろぞろ引き上げてくるときにね。そのときにアイタペから直接…アイタペから、ここまで帰ってくる間だからね。こんな辺じゃないかな。ここまで来たときに、人肉事件ってのがね、頻繁に聞こえるようになった。それで、軍司令官は「兵隊は1人で歩いてはいけない」というな、1人で歩こうとすると、後ろからこれ(銃撃)やられるからね。だから、それはいけないと。そのころ、憲兵隊もこっち来ておったから、ここんとこに、行けってやられたんですよね。それで、ここで取り締まりやれと。そのときに、わしがね、ちょうど熱出しちゃってさ。それで1日遅れて行くことになった。それで1日遅れで行ったものだから、先に行ったものは調査に行ってさ、そして犯人は捕まえてきてさ。どんなことをしたかっていうとね、その…連中もね、一つ小屋作ってさ、人肉食うのな。そして小屋作って、そこんとこで生活して、そして前線から帰ってくる兵隊をな、捕まえて、まぁ殺して食ってしまうと。

向こうの連合軍の戦死者が出たときに、あれするわけ、足かなんか切ってな、食ってしまうんだよ。そうすると、あとで、今度はまた引き返したとき、向こう側来て見るでしょ、そうすると足がなくなったり骨削られたりしたのがいるでしょ。そうすると食われたってことがわかるわけ。

8月の15日にあれですね終戦ですよね、わしね、「20日になればわしの戦死する日じゃねぇか」と自分ではそう思ってた。というのは、20日の命令で、攻撃部隊の命令が来てたから、15日で終わりって言うから。その終わったってこのへんにきてたから。そして、そしたら下から、衛生の軍医さんと2人で来たんだな、「こんなビラ拾ったが、あんたどう思う」と聞いてきた。わしがそのとき答えたのは、「アライっていうおれの先輩がな、この下へ命令受領に行ってると。その命令を持って、それをとりに行ってるから、今日か明日帰ってこれば、このビラは本当だ」と。「帰ってこなかったらウソだ」と。その日、それはひどい雨が降ったんだよ。そのひどい雨のなか帰ってきてな、だから、だいたい本当だなと位置づけちゃったのさ。

Q:ビラにはなんと?

「日本国、降伏す。」ってそれだけのもんです。

Q:そのとき参謀長は?

そのときは参謀長は一緒にいなかった。

Q:アライという先輩は一緒に帰ってきて、

一緒に帰ってきて、結局。泊まる場所は100メートルくらい離れてるのな。

Q:どういう命令?

だから、その命令は受領されなくて、攻撃命令じゃねぇからな。終戦になっちゃったんだから。

Q:個人的にはそう思った?

個人的な感情っていうのは、「生きてるんだなっ」と思った。

Q:最初ビラを信じた?

だから信じるも信じないも「帰ってくるか、こないか」ってことだった。こればほんとだってことだし、来なければ間違いだってことだからな。

Q:終戦後は巣鴨に?

えぇ行ってました。

Q:そのときの話は?

そんときの話はね、そんときの話はさ、捕虜問題はね、「18年の8月31日かな、アメリカ軍の、ノースアメリカン(B25中型爆撃機)に乗ってきた飛行士を斬ったっ」ということなんだけども。わしにも「斬れ」という命令がきたんだけども、それがきたのは夕方の6時ごろきたのかな。そして7時ごろになったら「お前、それやらんでいいから、他の糧まつの被服受領をやれ」って別になっちゃったんだ。だから、それには関係なかったの、それでひっぱられたんだよ。だから、おれは全然斬ってるわけじゃないし、なんでもねぇんだけどな。ところが、8月31日だから、1日の日はうちのほうでは、そのときアメリカ軍のね、でかい爆撃があったんだよ。だから(仲間が)戦死しちゃったから勘定あわねぇんだよ。それで、結局、勘定あわなかったから、おれは捕虜をつけたんじゃねぇかな。もうひとつは、さっき言ったみたいに憲兵っていうのはさ、一匹狼の場合が多いんだよな。人はかばってくれねぇんだよな。自分だけ助かればいいって、そんな感じがするんだよ。それで、おれひっぱりだしたんじゃねぇかと思うんだよ。憲兵隊はね一応そういうのに携わっていたからね、アメリカ軍としてもそれを狙ったんじゃないかい。だから、わし、巣鴨に入ったときだって、そうだね、ほとんどおれら仲間として入ったのが憲兵だったと。そうじゃねぇのもいることはいたけども、80パーセントはわしらの仲間だね。

Q:容疑というのは?

容疑ってのは「捕虜を斬ったっ」てことだよ。おれ斬ってねえんだし、関係性ねぇんだから。

Q:どのくらい入ってた?

400日くらいじゃねぇかね。

Q:取調べもうけたり?

いやいや。未決だけ。

Q:未決というのは?

裁判までいかねぇの。

Q:尋問はしなかった?

中に入ってから全然ない。

Q:容疑かけられたまま?

うん。そして容疑かけられてて、あれがでてきたんだ。朝鮮戦争が始まったの。始まったからアメリカの極東軍事委員会っていうのはね、「戦犯なんてやってる暇ねぇの、早くやめちゃえ」と。それで巣鴨の兵隊もね、アメリカ軍なんだけどもさ、朝鮮戦争で出てっちゃってるから、中まるっきり、スキになっちゃってるの、「早くやめちゃえ」と言われたんで、やめるようにやって、

中に入ってる連中はね、「絞首刑にさえならなきゃな、みんな出るときゃ10年だろうと20年だろうと一緒だ」と、って「一緒だっ」つってたんだよ。だからまぁ3年くらいであったらね、3年の間に講和会議あるわけじゃねぇからさ、5年だったらその間に講和会議あるから講和会議あれば出られるんだと。すぐ出られたわけじゃないらしいんだけども、日本管理になったら、夜は巣鴨ん中で泊まって、昼間はそれぞれの仕事についてた。仕事ってな、クリーニング屋に行くとか、それから店のどっかに勤めるとか、行ってて、夜になると巣鴨に来て泊まって、また、昼間になると行ってたんだ。

(昭和25年)3月2日で(巣鴨プリズンを)出たからね。

Q:講和会議が開かれたら大丈夫というのはわかっていた?

そのころにはそんなことは言ってた。

Q:自分がどうなるか、不安もありますよね。

だけど、出てこられねぇってことと、自由を束縛されてるってことね。

Q:無実の罪でも絞首刑になる可能性もあったわけですよね。

そんなのは、どう転ぶやらわからねぇんで。まぁ先輩の話聞いてるとね、「だいぶ人数あわせでやってるみたいだった」。おれは、今だからこそ、こんなのんきなことして言ってられるが、そのころは、だいぶ、間違いであろうとなんだろうとな、よくそれで有罪になってるのいた。

Q:反発する気持ちはありましたか?

おれは日本政府には反発するよ、おれは今だってだから国旗だけは立てねぇよ。いったい政府は何をしてくれたんだってな。

Q:それは巣鴨にいるときの感情?

そうそう、そうだって、おれは、それなりに天皇陛下に忠誠をつくしてきたつもりなのにな、結果は何だ。巣鴨に入れられたんだもの。

Q:自分の容疑のことで国際法にのっとってないと?

国際法ね。なにしろね、おれ巣鴨に入ったときね、あのガリ版刷りだけど国際法を書いてあるのがこれぐらいの厚みになってるの。野球だってルールなくしてやったらどうなる、ルールがあるから野球になるんで、そうじゃなかったら野球なんかできねぇよ。

Q:そのとき初めて捕虜の取り扱いを知った?

そのときはね。だけんどもある程度はわかってた。捕虜と捕虜に対する取り扱いね。

Q:憲兵の学校では?

憲兵の学校ではね、わしら東京で教わったんだからな、国内法をよく教わったよ。だけれども国際法については教わってない。ただ船の中でね捕虜に対する取り扱いはちょっと教わったっきり。だけど、やっぱり、それじゃものたりなかったな。だけど、また、軍としてはそれを守るというのではなかったもの。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
長野県に生まれる
1941年
現役兵として三戸工兵第51連隊に入隊
1942年
憲兵に転科、陸軍憲兵学校に入学
 
卒業後、東京憲兵隊に転属
1943年
第6野戦憲兵隊に転属 ニューギニア・ハンサ上陸
1945年
終戦 当時、憲兵軍曹
1946年
神奈川・浦賀にて復員
 
復員後は、農業、土地家屋調査士、不動産業に従事

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