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タイトルタイトル: 「実情とかけ離れた命令」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 浅見 栄一さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 熱帯への転進  02:54
[2]2 チャプター2 最初の任務  03:37
[3]3 チャプター3 敗残兵の姿  04:10
[4]4 チャプター4 再び湿地帯を越えウエワクへ  04:48
[5]5 チャプター5 乾坤一擲(けんこんいってき)のアイタペ作戦  05:47
[6]6 チャプター6 アイタペ作戦中止   04:09
[7]7 チャプター7 軍刀を持ち飛び込んだ  03:14
[8]8 チャプター8 蛇、トカゲ、サナギも食べた  07:09
[9]9 チャプター9 相次ぐ投降   05:29
[10]10 チャプター10 ビラで知った終戦  02:00
[11]11 チャプター11 ムッシュ島  03:50
[12]12 チャプター12 軍司令官の訓示  01:32
[13]13 チャプター13 刻みついているニューギニアの悪夢  02:22

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月8日

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中国から出発するときね、南方へね。南方へ行くときはみんな喜んで行ったんです。ということは、支那でもうね、飽き飽きしてましたしね。それにね、南方っていうといかにもねこう、気候的にもあったかいし、こうね、いいとこだっていう感じがありましたからね。ただ、ニューギニアとは知らないんです。ニューギニアとわかったのはね、青島を輸送船で出発して、パラオあたりで初めて命令受領でね、行く先がニューギニアだということがわかったんですけどね。ただニューギニアったって、ニューギニアってどんなとこだって全然知りませんからね。とにかくあったかい、あったかいとこ行くんだってみんな大喜びして。
ただね、あがってもうすぐその晩からね、マラリアの蚊ね、これでもうほんとに苦しめられた。マラリアを媒介するのはアノフェレス(ハマダラカ)っていうね、蚊なんですね。でわれわれもね、ニューギニアへ行くのに少なくとも、個人の頭へかぶる蚊帳と、それから一個連隊くらいが寝られるつりの蚊帳と、こう、持って行ったんですけどね、日本の蚊帳はもう全然もう役に立たない。というのは、アノフェレスっていうのは頭から口先が細くてね、日本の蚊帳は入ってきちゃうんですよ、いくらでもね。そんでね、もうその晩からみんなで刺されて、おそらく1週間もしないうちにマラリアの熱発が始まりましたね。だから当時は、もうほんとにもうまずマラリアに対する、なんとか防ごうっていうのが、全員のあれでね。薬はね、キニーネとかね、アスピリンだったかな、マラリアの特効薬が配られて飲んでたんですけどね、どうもあんまり効かなかったですね。

だいたい上陸して1週間くらいしましてね、初めて爆撃を受けたんです。夜間爆撃ね。わたしらが上がったときはね、まだ日本の海軍の航空隊とかなんかが、ある程度、ラバウルを基地にしましてね、援護してましたから。昼間はね、米軍も豪州軍も、偵察機はもう、4千メートルくらいの、航空で偵察機は来ましたけど、昼間爆撃はあんまりなかった、あまりというかほとんどなかった。ただ夜間はね、結局昼間偵察したのにもとづいて、日本軍がウエワクに上陸したってのは向こうわかったでしょうからね。そんで夜間爆撃が始まりましてね。で爆撃ってのはね、支那(中国)ではわたしは全然受けたことがなかったわけですよね。でニューギニアで上がった直後にその爆撃を受けてて、これは初めはねえ、もう驚きましたね。
ウエワクでは、最初上がって何か月の間は、飛行場、まず戦闘機が下りるような飛行場を作らにゃいかんという命令で、飛行場の構築と、でウエワクがだいたい形がついてからは、ダグワっていう、ウエワクよりちょっと西よりですが、そこへ移りましてね。それで工兵隊と一緒にダグワの飛行場の設定と、それから、ダグワから山の中へこう入る道路構築。これはねえ、なんの、どこの命令か知りませんが、ようするに、車両の通る道を作れってわけですよ。ところがね、そんなものできっこないですよ。そんで1か月くらいやりましたが、ほんのわずかしか道はできなかったですけども。

Q:飛行場建設などは通常、工兵の仕事だと思いますが、そういう仕事をやると思っていましたか? 

いやいやそれは思ってませんが、しかし、工兵ってのはもう数は限定されてますからね。で、飛行場の構築なんていうともう人力ですから。ですから、われわれ戦闘部隊は、その間戦闘をやってませんからね。だから、みんなそこへ手伝い、手伝って一緒に、やるわけです。あのねえ、飛行場作るのもねえ、そのヤシ林の中へ作るわけですよ。海岸からちょっと入ったね。するとヤシの木をねえ、倒してね。倒すまではねえ、その、今の工兵が持ってる機械で木を切って、根っこがあるわけですねえ。この根っこがね大変なんですよ。掘り起こしてね、どけるのがね。それはね、結局、人力でやるよかないわけよね。だからねもう、時間がかかりますわね。

ウエワクから本隊は貨物船、徴用の貨物船でマダンへ向かったんですが、途中ハンサってところで、爆撃でね、非常な損害を受けて、みな途中で上がって、あと徒歩でマダンへ行ったわけですね。わたしはそのときね、兵器輸送っていって、今の機関銃だとか大隊砲だとかそういもの、弾薬を輸送するために、ウエワクから漁船、静岡から徴発されたね、漁船が来てたんですよ。漁師の方ですね。それに兵器や弾薬を積みましてね、兵器輸送で直接ウエワクからマダンまで行きました。ただ、飛行機にもういつ見つかるかわからんものですからね、絶えずこう海岸線をこう小刻みに行って、夜は、昼間はもう隠れ隠れ、夜は航行して。そいで、幸いマダンまで、近くまで行ったんですがね、やっぱり最後は見つかりましてね、敵の飛行機にね。それで銃撃を受けて、まあ若干損害を出したんですが、まあなんとかマダンにたどり着けたと。それ以降は、マダンに当時41師団の軍司令部がおりまして、今の239連隊。41師団と239連隊が、マダンのねこう、マダンの、マダン川を見下ろす高台の上に、駐屯というかね、ずっとおりましたですかね。でその間は、わたしらは戦闘に参加しませんが、今の51師(団)は、もうねえ、その、山を越えて、もうやっとのことでマダンへたどり着くと。20師団もフインシハーフェンの戦闘でもう、これは大損害を出して。しかも20師団が後退する途中に、グンビ岬(サイドル)というのがありましてね、そこのグンビ岬(サイドル)にまた逆に敵に上陸されて。だから51師と、40、いや、20師団はね、わたしらがマダンにいる間に、もうほんとに、極端にいえば半分くらいになったんじゃないかと思いますね。ですから、わたしらがマダンに着いたときには、もうその、海岸通りの細い道路をですね、そのような部隊が、まあ悪く言えば敗残兵ですね、もうやっとのことで歩いて後退してくると。そのうち敵もそのような敗残兵の後を追っかけるようにその海岸道路を攻めてくると。それを撃退するために、初めて41師団はそこに立ち向かったわけですね。だけどね、全然もう歯もなにもたたないんですよね。物量が違いますしね、ですからね、もう、どの地点でも、最初多少の交戦をして、損害を受けて退いてくるという状況でしたね。

われわれはね、41師団の、特に、わたしが所属していました第1大隊っていうのは、師団の後衛っていいまして、いちばん最後でね、要するに全部をウエワクに送り出して、最後に敵と接触しながら下がったんですがね。とにかくねえ、マダン(239連隊主力を含む第41師団が駐屯していた場所)からウエワク(アイタペ手前の集結地)までねえ、300キロくらいあるんですよ。そこを徒歩でね、自分の荷物をかついで、携行食糧を持って歩くんですからね。あとから考えるとよく歩いたもんだなと思いますけどね。ちょうどね、その、第1大隊が最後尾の後衛で、ウエワクへの転進する、大隊副官っていいましてね、要するに大隊長の命令をみなさんに伝えたりなんかする、大隊副官をわたしがやらされて、ずっとウエワクまで行ったんですがね。まったくねえ、もう、道のりが長いしね、途中はもう、道、昼間は飛行機に見つかったらたちまち銃撃をくいますし、夜間行軍ですね、ほとんど夜間行軍。で、海岸道を避けて山のほうから行けばいいっていうんですけど、その道はね、もうほとんどないんですよ。ですからねえ、もう、海岸道を伝わってウエワクまで歩くしかないんですね。それで、今の、一人かまあ二人並んで歩くくらいの原住民の道ですからね、もうこの、一個連隊でしてもうものすごい長いあれになるわけですね。それをね、まとめていくのは本当に苦労しましたけどもね。それで、やっとマダンからハンサっていう土地まで来ましてね、そこで例の、大きな川にぶつかるわけです。ラム河とセピック河ね。これがまたすごいんですよ。もうね、川というかね、まあ下流ですからね、もう海みたいなもんでね。もちろん、舟艇、川を渡るのに、工兵、船舶工兵の大発で渡るしか手がないわけですが、ただその大発の、この出発点というのが、このセピック河の川岸なんですね。そこへたどり着くまでがですね、これはもう広大な湿地帯なんですよ。それでこの湿地帯は徒歩で渡るんですからね。それがね、ほんと大変だったですね。だいたいね、浅いとこでひざ下くらいですが、深いとこになりますと、腰までありますし、わたしら、いちばん深いところは胸くらいまでね、湿地帯の中をこう一歩一歩、こう、足を抜いてね、歩くんですね。でまあ、体力の続く者は今のセピック河の、このシンガリってとこなんですけどね、そこまでなんとかたどり着いたんですが、途中まあ体力のない人は亡くなって、湿地帯の中で亡くなると。だからその湿地通過での損害っていうのがねえ、けっこうありましたねえ。

今度はアイタペ攻撃というのに出発したんですけどね。これも、さっき申し上げたように、海岸の道路沿いに、夜間移動でね。昼間はもう敵の飛行機がね、絶えず上を飛んでますのでね、歩けないんだ。まあ、夜間行軍がほとんどでしたけどね。当時ねえ、この、川の増水が絶えず、こう、スコールの加減が、そのときの気象状況かね、ありましてね、陸地をなんとか歩いて行っても、川にぶつかると、それを渡渉するのに、腰まで浸かって、渡らないかんとかね。ですからねえ、なかなか、遅々として進みませんねえ。それから糧物も、途中でねえ、補給は受けたような気もするんですけど、ほとんど持ってるだけのを、食い延ばしていくような状況でしたね。軍のほうもねえ、人間の臂力搬送でアイタペ近くまで、できるだけウエワクにあった食糧を運んでくれたんですけどねえ、とても、全員にはまわらなかったですね。ですから、まず当初の目的だったアイタペの手前にあった、坂東川(ドリニュモール河)っていうところへ着くまでにですね、持ってた食糧はほとんど、まあ、これわたしの手記にも書いてありますが、何日分くらいしか残らないという状況でね。それでまあ、軍命令で、7月の10何日かな、くらいから、攻撃が始まったと。それであの、まあ、坂東川の下流、いちばん海岸から山のほうへ、こう、順番でいうと海岸沿いが40、いや、239連隊、それからその上は237、238、三個連隊ですね。でその上が20師団と。山砲がねえ、わずか、もう、きっと運んどった山砲何本かはその山手にいたわけですね。それでその、237部隊っていいますかねえ、それが、まず坂東川を渡河して敵の中へ入ったと。これがもうほとんど全滅したわけですねえ。それでそのあとに、239、われわれの連隊の第2大隊っていうのがね、渡河して、もうその7部隊の救援っていうことで入ったんですがね。

それまでに坂東川を渡河した日本軍は、ほとんど全滅状態。今のわれわれの1大隊ももう半数くらい。大隊長はみんな死んじゃったと。
だからその、後でその中に入ってきた人の話を聞くと、ものの5分でほとんどやられちゃった。第一、三八式歩兵銃でねえ、もうほんと、そんなもの歯向えっこないですよ。で、日本軍は、あと軽機関銃持ってるんですがね、軽機関銃も、数が少ないし、それから弾薬はね、そんなに続きませんからね。ですからもう歯向うまで行かないわけですよねえ。まあねえ、ほんとね。1大隊も、その原田さんも、わたしの直属の大隊長も、もう、川を渡ったすぐの、あれでもうやられちゃった。

いやもうね、「乾坤一擲」もあれも、これでもう最後だという、でしたね。だって勝てると思わないんですよ。だってもうね、物量が違いますからね。もうわれわれはね、とにかく、敵の飛行機の目を逃れるとかね、砲撃を免れるとか、もうそういう、もうね、絶えずそれで追っかけまわされてるわけでね。対抗の手段がないわけですからねえ。ほんとにねえ、みじめな戦場でしたね。

まあねえ、もう軍隊と言えない状態にだんだん近づいていましたからね。まだ、でもね、その、坂東川の、今の、アイタペ攻撃が始まるまでは、まがりなりにもですね、あの野戦病院とかね、衛生機関がわれわれの後からついて来てね、まあ患者の収容とかね、いうことはまあ、辛うじてやってましてね。それで、いちばんひどいっていうのが、結局、アイタペで、坂東川の猛号作戦が終わって、もう軍もあきらめて山南(トリセリー山系南ろくの密林地帯)に入れと、そのあとが、もうね、病人、負傷兵に対しても、もう処置はもう全然できなかったわけですからね。それがいちばんの意味でのね、3年間のうちでいちばん悲惨なときでしたね。食糧はない、持ってる米ひとつ粒もないんですからねえ。だからまあ、なにしろ、なんとか食べるものを探して、食べて。しかも、その間、遊んでるわけにいかない、敵はね、どんどん、坂東川を渡って、逆に、海岸線をわれわれのところまで攻撃してくるわけですからねえ。ですから、もうそれで対処しながら食料をなんとか見つけなきゃ。食わないわけにいかない。それで、われわれがなんとか動ける、部隊としての編成を保ってるところはねえ、まだ手分けしてサクサク(サゴヤシのでんぷん)をね、作って食べるとかね、まあとにかく、ジャンブツを探して食べるとか、まあ、命をつないでたんですが。負傷したひと、動けない病人は、自分ではどうにもならない。結局そこでみんな、亡くなったと。ですからねえ、その間の猛号作戦での、損害っていうのはですね、まあいわゆる戦闘での損害っていうのは、まあ2割くらいでね、あとの8割は今の、病気と飢餓の損害と。あとから考えるとねえ、そう思いますよ。ほんとにねえ、おなかがすいて、食べ物がないってのはつらいですよ。

アイタペ戦以降は、もう、負傷して歩けなくなったらそれが最後ですからね。もうあの、部隊についていけなければ、もう、そこで、その場でもうね、脱落する。脱落ってことはもう、食糧も得られないし、もう死ぬってことですからね。だから、もう、直接弾に当たってそこで即死しなくても、歩けなくなればもう、死んだと同じと。そういう状況ですからねえ。だから、負傷するしないはもう、全くの運ですね。

まあ斬り込みは、山南(地区)に入ってからね、夜間攻撃で敵陣地奪取の命令で、何回かありましたけどね。まあ、わたしも軍刀を持って飛び込みましたよ。だけど失敗しましたけどね。

Q:失敗というのは?

結局ね、むこうの気付きかたが早くて射撃を、一斉射撃を受けて、途中でとん挫したわけですね。それはね、この中に書いてあるんです、わたしの手記の中にね。しかしね、これもあれですねえ、わたしの経験したことですが、他の、わたしよりまあ、先輩の中隊、共同作戦でね、山南に入ってから敵陣地攻撃の命令を受けたんですよ。それでその人と一緒に出かけましてね。まあ残った兵隊連れてね。そしたら、その人がね、「こんなとこでね、攻撃して殺されたってつまんないからね、射撃だけして帰ろう」って言うんですよ。それでね、この敵陣地と言われたところの、近くの山上からね、そこへ向けて一斉射撃しましてね、いかにも戦闘したような音をさせて、それでね、帰りましてね。それでそれが、連隊長に報告したわけです、わたしはもう、「そうです、そうです」って。そういうような、だんだんねえ、最後はそうなってきましたよ。だって損害を受ければねえ、いちばん困るのはその、一線の人たちなんです。損害、その結局、人が減るってことはね、物資収集もできなければ、もう何にもできなくなるわけですからね。ですからね、もう自分の隊をできるだけ減らさないように、損害を少なくなるように。しかし、命令は命令で、まあ、ある程度は、やらないかんと、もうだんだんそういうふうに、最後はね。

軍紀の弛緩(しかん)っていうんですかね、それは、われわれの段階、もう全般的にそうなってきてるんですね。だからねえ、それはそうですよ、もう何か月間も敵に追い回されて、山ん中、言ってみれば逃げ回るわけですからねえ。それはねえ、上からはねえ、命令なんか来たって、上の人は知らないんですからね、実情を。そんな命令出したって、そんなもの実行できっこない命令がくるわけですよ。「そんなものはねえ、適当にやれ」ってことになりますよ。

塩ほど貴重なものはないですね。で、今のほら、海岸線へ出て海藻を煮詰める時間帯の、余裕のある場合はね、それで多少補充がついたんですけど。山南に入るともう海岸へ出られませんからね。それでね、きっと原住民から教わったんでしょうが、岩塩ってね、山の中の特殊な地層に岩塩があるっていう。でこれをまあ、連隊で探したのか師団で探したのか知らないけどね、何か所かはありましてね。もうこれは、ほんとにねえ、うれしかったですねえ。それで、その岩塩の採取に行って、炒(い)った塩をみんなに分けるわけですね。そうするとね、ほんっとにね、これくらいの缶があるんですよ。信管入れのブリキの。それにね、半分くらいしかくれないんで。ですからねえ、イモをふかしたり、まあサクサクを食べるのに、味がないわけですから、それをね、細い箸みたいな先にちょっとつつきましてね、それでこうなめるわけですね。それでこう食べるんですよ。それでもう、次にこれが補充するまでね、なんとかもたせないといかんですからね。で、しかもそういう塩分不足になると、体がむくんでくるんですねえ。まあ脚気(かっけ)症状、まあ、負うわせられたのか、わかんないですけど、足がもう、こう、腫れてきましてね、持ち上がらんですよ足がね。ですから、この手でこうやって持ち上げながら、こう、木の枝の幹を、またぐんでもね、手でこう持ち上げていかなきゃならんかったですね。もうほんとにね、体力、運動性がもう塩がないともう、だめですね。あとはタンパク質ですね。タンパク質も全然ないわけですから。サクサクはでんぷん質ですよね。であと、もうジャングル草とか、シダの芽とか、あとヤシの幹だとかね、いうようなものは、植物性でタンパク質がなんにもありません。ですから結局はタンパク質は蛇だとかトカゲだとかね、それから虫、それからあの、幼虫がね、木のこう腐ったような木の中にね、何の幼虫かわからんけど、要するにサナギみたいなもんですね。そういうのがねえ、たまたま見つかるんですよ。これがねえ、うまいんですよねえ。うまいってようするに、タンパク質がない、欠乏してるもんだからね、それが食べるともう実にうまくてね。まあ、見つけたらもうね、みんな大喜びです。焼いて食べれば、なお、おいしいんですがね、なにしろ移動間、ほとんど移動中、移動してますから、焼いて食べるなんて余裕もないしね、だからみんな生食ですよねえ。ちょっとねえ、平時の生活から考えると、こう、ほんとかいなと思うんですけどね、ほんとに生で食べる。もう幼虫だろうがね、バッタだろうがね、いやこれにも書きましたが、クモだろうがね、それからチョウチョだってね、みんな生で食べたんです。で、そういうものでも食べればねえ、やっぱりその、多少、元気になるんですねえ。人間の体もねえ、あれですよ、まあ、雑食性に耐えられるんですねえ。

ただね、怖いのはね、そういう雑食ですから、大腸カタルになるんですね。すると、これはねえ、またねえ、なかなか治りませんしねえ。大腸カタルで亡くなる方も多かったですねえ。それから熱帯性潰瘍っていってね。まあ要するに、腫れ、この、皮膚病ですね。この熱帯性潰瘍(かいよう)っていうのが、ものすごい、しつこいんですよ。それでもう、体中がそれで潰瘍になってね、これでもね、しまいには亡くなる。それからその間に、マラリアはもうね、もう全員がマラリア患者ですからね。

それでねえ、この熱、脳の熱に対する、この、抵抗力の強い人とね、弱い人がいるんですよ。弱い人はね、40度がもう3日も4日も続くと、脳症っていうの起こしましてね、それでまあ、一種のきちがいっていう、脳が働かなくなるんですね。それで自分で自決してみたりね、まあね、手りゅう弾で自分で発火させてみたりね、あるいは人にこう、危害を加えたりね、そういう脳症の患者もずいぶんいましたね。これは、もうまったく、病気でそういう症状になってるんでね、その人自体が悪いわけじゃないんで、かわいそうなんですけどねえ。だから、だいたい今のマラリア、熱帯性マラリア、大腸カタル、それから、熱帯性潰瘍、まあそういうもんが混ざり合ってね、それで病死が多かったんですねえ。

それでねえ、その終戦の1週間くらい前ですねえ。今の、ポインっていう部落の先に、敵が近付いてきますんでまあ、タコつぼ掘ってね、われわれはまあ第一線ですから、守備してたんですがね。夜、台上、まあ高いとこにおりますからね、台上から見るとね、豪州軍がこれはもうね、向こうも意図的にもう自分らの損害が少なく相手が降服することを望んでますからね。「ザーッ」と夜その、火を燃やすんですよ。われわれのいる左右の陣地のまわりをね。夜見るとねえもう、「ダーッ」と、敵の、たき火、火が見えましてね。もうほんとねえ、「ああ、もう全くの包囲をされた」と、いう感じでしたね。そこでね、結局、今度は、今の部隊でなくて、投降が出たんですね。これは実際、あのときの、そこにいた人はね、もちろん「死んだらもうしょうがない」と思うんですけどね、まあ、「何のために死ぬんだ」と。もう死ぬことわかってますからねえ。こうね、そこへこの、スピーカーで投降勧告はね、もう盛んにあるわけですよ。まあもちろん、飛行機からのビラもありますね。そのようなもんでね、もう耐えきれずになって、まあ中にはね、もう、出て行ったと。だからわたしらね、考えましてね、もうその人たちを責める気には全然なれないですね。もうね、無理ないですよ、実際はね。もうね。だけどね、そのときに出てった人はね、やっぱ後ろめたいかなあ。全然、戦友会(戦後の)にも出てきませんでしたけどねえ。今の2大隊の中の人は、何人か出てきました。最初のね。

Q:最初のというのは、竹永隊の(竹中中佐が率いる第2大隊が集団投降した事件)?

そうそう。ねえ。

Q:今の「投降」というのは、別の中隊の人ですか?

ええ、ええ、ええ。いや、わたしの、わたしも中隊長でしたから。わたしの中に曹長っていうのがいましてね。曹長が最後に今の、あれですねえ、終戦のほんと前、直前でしたけどねえ。10何名か連れて、いなくなっちゃったんですよ。まったく、わたしがちょうどね、大隊長と一緒にその、アイタタヌっていう前線陣地に出てましてね。その留守の間にねえ、まあきっと誘い合わせたんでしょうねえ。きっとその曹長が、まあ、みんなを誘ったんだと思うんですがね。10何名か連れて、突然いなくなっちゃった。いやー、ほんとショックでしたねえ。ほかにも、2大隊ですねえ、やっぱりね。それは、中隊長もろともいなくなったからねえ、二個中隊くらいね。

Q:どういう意味でショックなんでしょうか?

ショックはねえ、その、ですから投降したこと自体はね、もうわたしらも、しょうがない、気持ちはよくわかるよと、いうところなんですが、こっち、わたしが直属の上官でしょ?その曹長がね、「なぜ俺に言わないんだ」と。「そんな、俺に言えばねえ、もっとなんか考えてやるんだ」と。それを言わないでねえ、その、自分が適当に兵隊さんを選んでですねえ、まあ、投降したと。要するにわたしが信頼がなかったわけですね。それがいちばんショックでしたねえ。まあ極端に言うとね、相談されてね、わたしが仮に説得して、どうしても言うこと聞かなきゃ俺も一緒に行ってやったかもしれん、という気もありますよ。いやあ、ほんとにねえ、それがほんとに終戦のすぐ前ですよ。

終戦、もう、今の、最後、複郭陣地、追い詰められまして、それでまあ「日本負けた」っていうね、むこうのビラがまかれて。はじめはまあ、誰も信用しませんでしたけどもね。ただ向こうの敵の攻撃がね、そのビラが、「日本降伏せり」っていうビラをまいた日から敵の砲撃爆撃がなくなったんですよ。それで「あれこれはほんとかいな」と思って、1週間くらいして、軍司令部と、まあきっと、敵とのね、軍使交換かなんかでわかったんでしょうね。それからその、まあ、ポインってとこの海岸線へね、今度は豪州軍の指示で出てったんですが、その途中でね、わたしは大腸カタルになりましてね。もうだめだと思った。これがまだ運がいいんでね、海岸へ出る行軍の途中でね、衛生兵の人がね、あれを持ってたんですよ。まあ、ズルファグアニジン(腸管内感染症の治療薬)ですね、ズルファグアニジン。たまたまね、よく持ってたもんだと思うんですが、ズルファグアニジンを持ってましてね。それでそれをわたしにくれたんです。それでね、もうね、その薬があれば大腸カタルも、とにかく薬なんて飲んだことないわけだから、長い間ね。それでもうね、やっとこうね、治りまして。だから海岸へ出る間もうね、ほんとね、それがなかったら海岸へ出られなかったかもしれないですねえ。

終戦が、まあ8月、この実際の、終戦が決まってから、われわれが戦闘を停止するまでに1週間、10日くらいのずれがあったわけですね。軍司令部が軍使を交換して、正式に部隊としてね、降伏した、まあズレがあったんですが。その間でもね、日本軍が攻撃したのがあるんですね。向こうはもう終わったつもりでも、こっちは信じませんからね。それでね、それでその攻撃した部隊の指揮官がね、戦犯になった。だからね、その、運が悪いですね。そんなものね、こっちね、信用、敵の、信用しない、ふつう信用しませんからね。それでムッシュ島へ、最後は収容された。武装解除を受けましてね。それでムッシュ島にいる間も対岸のニューギニアの対岸のほうに米軍の基地がありまして、それでその、いわゆる戦争犯罪人、戦犯のね、調査があったんですよ。そこへはね、結局ね、いろんな、たとえば敵の飛行機から降りた搭乗員の行方だとかね、それから土民、原住民に対する虐殺だとかね。いちばん、むこうとして重点は、捕虜の、自分とこの搭乗員、あるいは戦闘艦の、まあ敵の捕虜ですね。向こうでいえば、日本軍にとられた捕虜、それの処置っていうのがいちばん重点でしたけどね。だからね、ほとんど第一線にいた将校はひっぱられましてね。わたしらもひっぱられたんです。それで、取り調べをね。

それでね、こっちはね、その、たとえばむこうはね、「何々地区にあなたいましたか」っていうんですよ。「ああいました」と。「ここで何っていう飛行機の捕虜が降りたわけですけど、知ってますか」って。「いやわたしは知りません。」「しかし、あんたいたんでしょ」って、「いやそこにはたくさんほかにいろんな部隊がいたからね、他の隊、今はほとんど死んじゃって、生きてるのはわたしくらいです」って言うとね、向こうとしてはもう追及のしようがないわけですよね。それで最後はもうね、「カムバック、ムッシュ」ってわけでね。
わたしは、それでもね、3週間くらいその戦犯の収容所に入ってましたかね。逆にその戦犯の収容所に入ってる間はね、給与がいいんですよ、食事がね。だからね、こっちはね、もうこれは、罪にならないんならね。まあね、向こうの残りの食糧をね、たらふく食べて、それでまたムッシュ島に帰りましたけどね。

あの、今の軍司令官がね、もう軍司令官なんてわたしらそれこそね、顔も見たこと無かったんですがね、初めてね、あの人はもうそういう意味じゃ偉いと思ったのはね、もう隅々までまわってね、「本当に申し訳なかった」とね、訓示をして回ったんですよ。それで最後ねえ、わたしが引き上げたあと、全部処理してラバウルでね、自決されたんですけどね。だから、そういう意味じゃ偉い軍司令官だと思うな。ただアイタペ攻撃だけはね、わたしは無理だったなと思いますけどね。

Q:申し訳なかったというのは、何に対して?

みんな、我々に対してね、「無理な要求をして人間の耐えうる限度を超えた命令を出して申し訳なかった」と。「多大の損害をだしてね、若い人を亡くした」というようなことをね、切実に言われましたよ。それで、そのときにね、原爆のことを言ったの。内地にこういう爆弾が落ちたってね。

Q:戦争の経験がなければ、その後の生き方も違いましたか。

と思いますね。ですからね、今でも夢を見ますかねえ。ニューギニアの夢を見ますよねえ。結局ねえ、絶えずその、神経のどこかには、ニューギニアの思い出が残って、まあそれがひとつの、考え方の基礎になっているっていうような感じですね。だいたいね、その、もう、あそこで何万ていう人が死んだわけなんですが、で、わたしらも今まで生き延びたのがね、ほんとに不思議な感じでしてね。絶えず、まあニューギニアにいる間は絶えず、「右に行けば死ぬ、左に行けば生きる」っていう分岐点がね、もう何十か所とあったわけですね。で、それを生き延びたいっていうんで、自分で意図してもね、これはもう、何の効果も。ただ偶然の連続で生き延びたっていうことだよね。それ、不幸にして、生き延びないほうに行った方々がですね、非常に無念の思いを残して亡くなられたわけでね、まあそれを思いますとね、ほんとに、ご冥福(めいふく)を祈るということと同時に、自分が生きてることに対してね、なんとなくね、申し訳ないような気がしますよ。

Q:どんな夢を見るのですか。

いや、それはね、もう絶えず生、いのち、生命の危険をまあね、脅かされてるわけですからね、そういう場面をハッと思い出すわけですね。そんで、「あ、これは大丈夫だった」という感じですねえ。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
栃木県宇都宮市に生まれる
1940年
第239連隊要員として松本第50連隊に現役入隊 北支山西省へ
1941年
保定予備仕官学校に入学 卒業後、第239連隊第2機関銃中隊小隊長を命ぜられる
1943年
ニューギニア・ウエワク上陸
1944年
アイタペ作戦当時、少尉
1945年
終戦 当時、陸軍中尉
1946年
神奈川・浦賀にて復員 復員後は、繊維商社勤務ののち独立

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ニューギニア(アイタペ、ウエワク)

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