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タイトルタイトル: 「餓死する兵士たち」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
名前名前: 吉澤 健四郎さん(宇都宮・歩兵第239連隊 戦地戦地: ニューギニア(アイタペ、ウエワク)  収録年月日収録年月日: 2009年2月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 昭和10年、戦地へ  03:21
[2]2 チャプター2 ニューギニア  03:06
[3]3 チャプター3 飛行場と道路づくり  02:11
[4]4 チャプター4 アイタペの戦い  02:10
[5]5 チャプター5 生き物はなんでも食糧にした  05:53
[6]6 チャプター6 息絶えていく若者たち  05:22
[7]7 チャプター7 地元の住民に助けられた  05:04
[8]8 チャプター8 復員、10年ぶりの祖国  02:47
[9]9 チャプター9 首相になった教え子  07:37

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~
収録年月日収録年月日: 2009年2月24日

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大東亜戦争のときは揚子江を下っているときね。「いよいよ、日本とアメリカと戦うことになった」っていうニュースを聞いて。

揚子江を下っているときね、やれやれ、これでもう手を上げそうになったんで、「まぁ久しぶりで10年近く、いや、3、4年近く、戦争やったんで、これで帰れるな」と思って。だいたい2年くらいいると、帰れたんですが、したら、揚子江の中途まで来たらね、「いよいよ日米戦争が始まった。」って。「これから上海襲撃。」って。部隊を編成して。古い兵隊はそこで何名か帰れることに、上海着いて。ところがうちの方は、独立工兵っていう工兵だけど、今度は、船舶工兵9連隊に変わる。そして、今度は、いよいよ敵前揚陸作戦専門のあれだ。それで、台湾を渡って敵前上陸の演習をしたり、パラオ行って演習したり、ラバウル行って。ラバウル行ったらもう日本の艦隊がね、帰ってきたりなんかして。たいしたもん。帰ってきて、市内行ったら、今度は、パプア、じゃなかった、「シンガポール作戦に行くんだ」って。で、シンガポールの橋を落とされて。シンガポールはイギリス軍隊がいて、こっちはマレーの方で日本の軍隊がいて、その橋を落とされちゃって。その橋を落とされたのを、こっちはふんどし1つでね、「工兵、前へ橋かけ」。弾がこう両方から「ピューピューピューピュー」飛んでくるとこでね、ふんどし1つでもって、うちの隊でもって、橋をかけてね、船が水の中で浮くような船があるんですよ。工兵には。その船をずーっと並べて、そこへ板を敷いてね、それで、通してやったら背のう担いで、鉄砲持ったの(兵士)がボタボタボタボタボタボタボタ、もう、シンガポールの島、目がけて行くでしょ。それをこう担いで、それがね、痛くてしょうがない。いい加減よそへやってんでね、で、行ってね。「やれやれ、シンガポールもやっつけちゃったなぁ」あのとき、イギリスの飛行機を2機か3機、シンガポールのそばで落としたのを見たの。「日本は強えなぁ」と思ってね。じゃあ、こっちのマレーから、今度は橋もかかったから、いよいよシンガポールでもって、まぁ2、3日ゆっくりしようと思ったらね、帰れば、「これからね、ジャワインドネシアを今度はやっつけに行くんだ」ってわけでね。あそこはオランダの領地。それで、休みもしないで行って。

「引き続き行くよ」ってんで、とうとう10年近く置かれちゃたんですかね。帰る合図がなくってね。

船舶攻撃でもって、もう敵前上陸だから、相手が上陸しちゃったでしょ?だから上陸どころじゃなくて、こっちが上陸されてるからね。しょうがないから、武器とか弾薬をね、陸上をこうやっていくと、みんなやられちゃうから。といって、ジャングルやなんかちょうどね、今言ったとおり、サラワケットっていう山脈があるんですよ。そこずっと行くっていうと、もう何日もかかると。行けないでね。で、船舶工兵が闇に夜になるって、3台か4艇でもって、乗せてね、糧まつと弾薬。で、ラエそれから最後はサラモアっていうとこのね、そこまで持ってってね。だから、こっちもずっと回って歩いたんです。もうだから4艘か5艘でね。夜の、昼間はもう見つかって爆撃されるから、夜になってそっと行くとね、向こうの魚雷艇っていうのがいてね。それがもう待ち受けていてね。そこで「バリバリバリバリ」やられて。それを追い払うか、こっちが、やれるかやられるか、どっちかで。で、最後の「サラモアの戦い」っていうポートモレスビー山脈のそば、高い山のとこにサラモアっていうところがあるの。そこまで糧まつを運んだから。もうそのときは、爆撃や、なんかくってね、船がふっ飛んじゃったこともあります。

まずね、魚雷艇っていうのは、魚雷でもって船をやっつけるやつだから、もう「バリバリバリバリバリバリ」こっちで一発すると百発くれるんだよ。そういうのと戦ってね。それでしょうがないから、陸に近い所に船をつけてね。穴開けられちゃって、ブクブクになって、そのまま食い物だけは持って。それでずーと陸地を行って、自分の隊の方へ帰ったのは何回もありますね。

アメリカの飛行機がね、海、スレスレに飛んできてね、なんと爆弾を「ドンガン、ドンガン」でもって、船は吹っ飛ぶしね。防空壕が、海軍のさっき言った、あれが作った、防空壕に入ったけどね、「防空壕もヤバいな。」と思ってね、ジャングルの奥の方へ逃げた。そして終わってね、爆撃が終わって帰ったら、きれいな、防空壕(ごう)から、何からね、平らな、もう、畑のようになった。ジャングルでも何でも。爆撃をね。まずは、あいつらは本当に物資はうんとあるね。だから、「これじゃあ、とっても戦争はね、やったってかないやしないよ」。1つブン殴るっていうと20くらいおつりが来る、アメリカだからね。

ニューギニアに来て、「どうしてニューギニアに行ったか」っていうと、「あそこでもって、アメリカの軍隊を、あそこでやつけて止めちゃって、日本の国を守る」という作戦が間違ってたね。昔、あの大本営っていってね、天皇陛下を中心にして各大臣が集まって、特に陸軍大臣が主になって。あのときはほら絞首刑になった巣鴨で、ある大臣がね。その連中がね、こう机上作戦といって机の上だけで、「この地区は何万の兵隊やろ、この地区は何万の兵隊。で、これでやっつけて殺せ」って。本当の机の上だけので、実地行ったことのもないところをね、なにして・・・戦っているような気持ちでやってたからね。だから、アメリカがどんな軍備があるのか、どんな力があるのかそんなことはお構いなしで、まあそら無理もないと思うんだ。勝った勢いっていうのはね、ケンカやってても勝った勢いだったら、相手を泣かしても何でもすると同じ様だとは思うんだけど。

マルジップ、ここに上陸したんだ、これからずーっと行って、この辺が飛行場があるところだ。こういう風に全て歩いてきましたよ。

Q:歩いて。船舶工兵でも歩いてなんですね。

船はみんな魚雷かなんで沈められちゃったから。だから、名前は船舶工兵でだけど歩兵と同じですよ。

アイタペのときに、アイタペはイリアンジャヤ(ニューギニア島西部)とニューギニアの間くらいですね。で、その東部のほうにいた兵隊をずっと西に集結させますよね。そのときセッピク河の辺りなんかを発動艇で、兵隊さんを運んだと思うんですけど。

Q:そういうこともされたんですか?

うん。セッピク河の中間ぐらいまで行ったかな。

Q:アイタペ攻撃のときは、どう行動したのですか?

これ山をこう、山伝いにね。もう船はもう全然ダメで。山伝いにね、あの、なんだっけな。なに山つったっけな。その山の下に、あれが、飛行場があったんだよ。そこをやっつけた。そこにはもうみんな、敵の兵隊がいて。これは話だけどね、ある部隊長がね、もう米兵たちに囲まれちゃってね、もはやこれまでってんでね、日本の兵隊のシズラ(士面か、死顔か)を見せてやるってんでね、これ聞いた話だけど、これはね、あいつらが、こうやって腹かっさばいてね、ほんで見てたら弾を持ってる米兵やなんかがね、びっくりしてね、で、弾も撃たなかったっていう話も聞いたけどね。

もう、とてもじゃない1発撃って10発ぐらい飛んでくるから、とてもじゃないぐらいだめだった。で、向こうじゃね、夜サーチライトがね、あれをこう、照らして、こう、夜攻めていこうと思うとね、もう、川を渡ってってるのをちゃんとわかってね、こう照らして、「バリバリバリバリ」ってみんな。だから、行くことも逃げる道だけはわかるけどね。だから、もうこれダメだってんでね。

これは我々が食ったワニですけどね。これがあのラプラプっていうね。このね、大きいカメがね、海辺に上がってくるんですよ。それを数人でね、ひっくり返して、それを肉を食べて。「あぁ今日はカメの肉。美味かったなぁ。」って。

Q:カメは当時、ごちそうでしたか?

大ごちそうだよ。

わたしは船舶工兵っていうのはね、同じ工兵でも、道路を作ったり橋をかけたり、今言った敵前上陸をやったり、色々こうあるでしょ。すると、みんな船舶工兵が船頭のせがれやなんかが多かったのね。そうするとね、船でもって、糧まつ、弾薬を運んだときね、細い縄つけてこうやって、やってるとね、「あ、大将の引いてますよ、引いてますよ」って。「なにが引いてる?」「あぁ、こう、ほら、引っ張ってください」って。引っ張ったらこんな大きいね、カツオが捕れたりなんかしてね、「うめえな」って。また料理がうまいんだ。船頭の子だから。で、偶然、刺身食ってね。だからそのときはまだ船舶工兵でも状況が良かったのね。まだまだ。だから、だんだんだんだん状況が悪くなったら、いずれ話したように食うものも何にも食えなくなってね、本当に。タラップを、迎えにきた船員が、引きづり上げてくれて。「うまそうな手してるなぁ。」って、言ったやつがいるんだからね。「バカ野郎、そんなこと言うんじゃない。」ってね。そういうね。まぁ人間としてはね、とことんまで、こんな生活は出来ないなぁと思う生活をやって。

そんで終戦の1年前かな、ほとんど食うものが無くなって、で、お米を30ずつ分け合って、「うちの部隊もこれで解散するから、仲のいい同士でもって、散々こう行ってくれ」と。「その代わり、また状況が良くなかったらここに集まりましょう」って。マリンベレー(マンバレー)だっけな。集まりましょうって、部隊長が涙を流してね。別れた。で、わたしたちは3人、5人って行って、あてもなくジャングルへこう。

初めこのジャングルの中に入ってたときはね、もうなんにもなくて、もう、草を食ったり、木の根を食ったり、コイムシ食ったりね。ありとあらゆるものを鉄砲で撃ってね、殺す。だから食わないのは人間の肉だけだった。あとはあらゆるものを食ったんです。今、「どうですか?」なんつったら、ブルルルルって震えちゃうけど。

だから結局、その生活が出来なくって、マラリアで亡くなる、あるいは食い物も何にも無くなる、下痢はする、熱はもうデング熱、マラリアでもって出る、栄養もなんにも付かない、で、みんなそれで死んじゃった。僕なんか、だから、まあ要領が良い方だね。蛇なんかいたら、「いやー、いたいた」って。蛇なんかね、首根っこはたくっていうとね、毒蛇なんてコロっと死んだ。それをね、こう、周り見回して、「うん、誰も見てねぇな。」自分でそうっと、枯れっ葉集めて火点けてポリポリポリ食べて。「あーうめぇなぁ」。たまにあの、そういうようなの見つけてね、食べようと思うと、「あ、私にもください、私にもください」って。「おう、やるよ。」もったいないけどね、くれて。そういうこともあった。それから、芋虫っていうか、カブトムシの幼虫みたいなね、こうやって葉っぱ掘るっていうとこう出てくるの。頭の黄色い。あれなんかね、「いたいた」ってそのまま食っちゃってね。そうすると不思議にね、膝のガクガクしたのがね、良くなって歩けるようになるの、よく。やっぱ油があるんだ、ありゃ。だから考えてみると、ネズミ、それからね、コウモリ。コウモリにもね、こんなデカいのがあるの。もう、日本の烏より大きいのが。それがね、夜飛んできてね。昼間、パンの実やなんかの木の横で、あれは逆さまにこうやってね。すると土人がね、「あ、あそこにコウモリが止まっているからね、兵隊さん、落してください。」こっちは鉄砲、狩猟やってたから上手かった。「パーン」と落とすっていうとね、喜んでね、それを肉を焼いて食べてね、骨をね、女の人の細工物にするの。袋作ったりなんかする。だからとても喜んでね。今、コウモリ食えっつったって食えないけどね。

カエル食ったり蛇食ったりなんかして、あらゆる口に入るものを食っていたからね。中にはお笑い茸(ダケ)食っちゃってね、「アハアハアハ」笑って死んでったの。「あれ、この野郎なにした?」お笑い茸がね、お笑い茸食いすぎて、アハアハアハ笑いながらニコニコして死んだの。

Q:そのニューギニアで、マラリアで倒れていく人と沢山見られたんですよね?

マラリアと栄養失調、ほとんどそれです。

Q:そういう人たちの亡くなるときには、どういう状況になってくるんですか?

まあ、亡くなる2、3日前までくらいまでは、愚痴をこぼして、「どこそこの寿司屋うまかったね」、とかね。「お正月のお雑煮はうまかったね」、なんて。亡くなる3日か4日くらい、あるいは1週間ぐらいまではいいけど。それを過ぎてくると、意識がダンダン朦朧(もうろう)としてくるらしいね。最後には、僕の手を握って「吉澤、一緒に連れて帰ってくれよな、帰ってくれよな」って言って。それから半日ぐらいたってから、行ったら亡くなっていた人もいたね。その人によって栄養の減り方が違ってね、コロっと亡くなってね。中にはジャングルに一緒に行って、中に入って、「俺はもう歩くのは沢山だから先に行ってくれよ」って。「バカ野郎、そんなところで横になっていたら、くたばっちまうぞ貴様。」「あー。後に付いていくから」「じゃあ、いいか。木の枝を折ってそれを目当てについてこいよ」って。すると、「どっかの部落に入って行くからな」って。だけど、こっちは、「そういうのはもう死ぬ」って分かっているから、「ああ、あの野郎死ぬのか」って。もう、それから一月くらいたって何かの用で行ってくるって言うとね、もうガイコツになってウジがわいてる。

「あぁ、ああいうふうになっちゃ嫌だな」、そう思うだけ。もうこういうふうになってね、カーカーなんていうとね、「あぁ、ああいうふうになりたくないな」。もう自分自身がいちばんかわいい。人様どころじゃない。最後の所まで行けば。だから、なんとかできるうちはやったほうがいいと思うの。出来なくなったらやらない方がいい。自分自身がもう大事で、「ああ、こいつにバナナの、なんだ山になってるバナナ、食わしてやろうな」と思うけど「俺が食わなくちゃ、俺が死んじゃう」。そっと隠して出て行く。本当はくれてやるのが本当なんだよ。例え半分でも。それが、皮ごと食っちゃったりなんかしてね、「あぁやれやれ」と思うんだよね。

僕だって、今日一日ってのは、何月何日っていうのが、しまいには分からなくなったもんね。10月に日本に帰ってきたら、日本は冬なんだなって、台湾あたりにきて初めて分かったもんね。だから、まあ、頭も使わないで、そうやって生きている人間は早く死んじゃうんだね、きっと。

だけど、生きるなら生きたほうがまだいいかなって思ってね。生きてる同士でもって、「どこそこのあの握りは美味かったなぁ、もう一度食いに行こうや」、なんてね。だからあの草の葉っぱや、木の葉っぱやなんかいっぱい食って、「まぁやれやれ、今日も一日なんとか、でも過ごしたなぁ」って思うと、夢に見るっていうと、ライスカレーのうまいの食ったなんか夢を見て、はっと気がつくと、「あ、そうだ俺、葉っぱ食って、今腹いっぱいにしたんだ」で。

Q:戦争中、夫人のことを思い出したか?

思い出しますよ。やっぱり自分がいちばんね、大事にしたのが。だからね、例え、草の根食っても、木の葉っぱ食ってもね、こう、ヤシの海岸のとこ、出て、ヤシの葉っぱんとこにね、月が出て昇ってきて、月の光でもってヤシの葉っぱがピカピカ、ピカピカ光ってて。「あぁ日本でもこうやって、うちの女房はこうやって月を見てるのかなぁ、一緒に月を見てぇなぁ、兄弟や親たちもこれ見てんのかなぁ。あぁ、こういうふうにもう1回見たいなぁ」と思ったね。それにはやっぱり無事に帰らなくちゃならないから、無事に、体を大事にして帰ろうな、って思ったね。まぁそんなこと言っちゃ利己主義だけどね、俺1人でもいいから帰りたいと思ったね。みんな死んじゃってもしょうがないと。もう食うものもなんにもないから。でも俺一人は帰るって。そういう勢いはあったね。まぁ利己主義って言ったけど、自己利主義だね、本当に。自分自身がいちばん大事よ。今考えるとね、心の中じゃ「帰りたいなぁ帰りたいなぁ」って思いながら、死んだ兵隊もほとんどだと思うの。

あそこだけはね、ニューギニアとは違ってね、たった3日か4日でね、インドネシア、ジャワインドネシアはやっつけちゃったの、日本が。だから、そのつもりでニューギニアへ行って、ニューギニアはその半分の島なんですよね。だけど全然未開の国でもってね、全然もうね、もう、そう3000年ぐらい前の生活をしててね。だから、「これは見当が狂って」と思ったけどね。で、一生懸命、これもう話が出来なくちゃいけないなぁと思って。いつか話した、土人の部落へ入ってね、鼻ね、あれした(鼻輪)、ヤリ持ってね、「なんだお前。」つったからね、「いやオレは日本の兵隊だ。」って。「あ、そうか。あれ、お前さんはなんだ、我々と話が出来るのか、友だちじゃねぇか」「え?本当に友だち?」「そうだ、2、3日少しね、ちょっと疲れてるから」もう、そのときは負けちゃったんだから、「疲れちゃってるから、置いてくれないか?」「ああ、それならいいよ。」「おいっ」と手挙げたら、その裏の草むらやなんかから、怖い顔して弓持ったりしてるのが30人くらい立ち上がったときはね、いくら30の敵、自動小銃でぶっ放したってね、こっちはね、栗のイガみたいになっちゃうと思ってね。「ああ良かった」と思って。だけど、それもこれもね、話が出来るから良かった。「お前さん、日本の兵隊って、話が出来るのか」って。そうだよ「同じ人間で、友だちじゃねーか」って。「ヨシヨシ」ってんでね、で、こう変なほらね、ここに書いてある、屋根の所へね、3人で行ったら、バナナを持ってきてくれる、ヤシの実を持ってきてくれる、パパイヤ、今まで、木の根っこ食ったり、草の食ったりして生きてきたのが、こんな美味いものが。食べたらね、日本の兵隊さんはね、胃袋が大きいって。こんなの食うかってうまくてね。そういうことがあったんだよ。そこにはね、その部落にはね、そうね、2か月ぐらい、1、2か月だったかな。とても長くお世話にしちゃいけないと思って、部落、部落を、話が出来るから、転々として、最後には、キスってとこの部落でもってね。これがいくらか程度が上だったんですね。海岸っぺりの土人で。で、首長と話したら、「あ、いいですよ。どうぞごゆっくり。」ってね。「前にも兵隊さんが泊まったことあるから、じゃあ、このうちを案内します。」で、そこで、5、6人でお世話になったけどね、ああ、このままお世話になってもまずいから、1つ、こうね、(彼等は)勘定もなんにも出来ないんですよ。5つだけは出来るの。

「これは1足す1は2になるんだ。2掛ける2ってのは4になるんだ」っていうのをね、初歩の学問から、教えてやったら、土人が喜んじゃってね。「うちの子どもだ」ってんでね、「お前、いくつだ?」「お前、いくつだ?」「あ、あれと同じだ。」「なんだ?」っていうと、生まれるっていうと、ヤシの実を植えてくれて、そのヤシの実がだんだんだんだん、大きくなって、「うちのおじいちゃんはあそこだ。うちのお父さんはあそこだ。」って。勘定がろくに出来ないんだから。それが今度は5足す5は10、10足す10は20。で、そしたらその首長がね、これくらいの部屋のうちを建ててくれてね、「じゃあ学校ってのを、マスターが言う学校ってのを作りましょう」って。で、それ作ってね。もう床がこの梁(はり)くらいかな。あとは、猛獣、毒蛇が入ったりなんかしちゃいけないから、丸太がこうあってね、丸太をこうチョンチョンと切って、で、丸太は裸足だから、ちょっちょっちょっと。で、寝たり起きて。で、子どもを預けてね、ゴロゴロゴロゴロ寝かして、僕は一団とね、ベッド作って。ベッドだって、丸太のベッドでヤシの葉っぱ敷いただけだけどね、これは先生だからベッドだ。と、「朝起きろっ」てね、“Get up Get up”って起こすとね、「じゃあ庭に集まれ」、で、庭に集まってね、紙も鉛筆もなんにもないんだから、はい、棒きれでもって、「はい、今日は5掛ける5から始まるよ。5×5、25。」それから「これA、B、C。これ1、これがに2。」そういうふうにだんだん教えたのよ。

僕はオーストラリア、だけどね、オーストラリアに連れて行かれて。捕虜の収容所に入れられて。散々使われて、どうのなるかなぁと思ったのが、ムッシュ島に集まって、ムッシュ島でもって、日本へ帰った。だから、うれしくなっちゃってね。もう、本当に地団駄(じだんだ)で喜んだ。

だけど、本当にムッシュ島に日本の船が来たってときは、本当に足がガクンとしちゃったね、うれしくて。「いやー、これで何年振りかで日本へ帰れるんだなぁ、食うものも食えるかもしれないなぁ」って。

(昭和21年)2月に帰ってきた。2月にね、夏の半そでと、半ズボンはいてね、久里浜に上陸した。その当時ね、寝るときはね、

「はい。10円頂きます。」「なに?」「10円頂きます。」って。「冗談じゃねーよ。10銭じゃねーか。」って言ったらね、「いや、兵隊さん、いつごろ兵隊に行ったんですか?」って言うから「まぁ足かけ、10年前だよ。」「世の中は変っちゃったんです。」って。「あんたが出たときは10銭だったでしょう。今は10円ですよ。」って。

だけど、どうして食っていこうなぁ、と思ったら、そのうち家内がね、兄さんの家にいて、迎えに来てくれて。色々話してみたら、世の中は、まるっきり変わったんでね、1か月くらい、バカみたいになってたな。世の中が、まるっきり変わっててね。で、「これじゃいけない」ってんで、まぁ昔の軍隊生活を思い起こしてね、もう、最初の電車が出るころから、終電車の終わるまでね、(働いた)、お客が食い物やなんか食料品なんか、いろいろ買ってくれるから。で、一生懸命、夜も寝ずにね。

これがね、何十年ぶりで出たんですよ。この写真が。お宅の取材でもって。ありがてえなと思って。だから、みんなこんな死んじゃってんですよ、みんな。

Q:もう戦地で?

ええ。戦地で死んだのもいるしね。帰って来たのは、ほとんどいないんですよ。

Q:やっぱりもうそういう気分で?

そうです。もう、なにしろ、兵隊に行ってね。「戦争に行けば、おまえ生きて帰れない」っていうのが常識ですからね。そういう風にしつけられちゃってるからね。で、昔はこれもあれと同じだけどね。これがみんな戦友だけど、全部、死んじゃってます。

日本に帰ってきてから10年、20年ぶりかな、うちに、終戦後、そのころ食うものもなんにもないからね、百姓からダイコン買って、それを売ったり、お米買って売ったりっていうようなことをやっていた。昔でいう闇屋。それで、こうなんとかかんとかやってね、商売やって、今度は闇屋もしょうがないからね、日本の国も落ち着いたんだから、じゃあ結局、食うものに困ったんだから食料品をやろうってんでね、食料品やったらよく売れるんですよ。で、今日もひと儲けしようなんて思ったらね、赤ネクタイのね、男の人が2人来て、「失礼ですけど、吉澤健四郎さんじゃないですか?」「そうです。」「あ、これは闇屋やってるから・・・あれして」と思ったらね、「いや実は、パプアニューギニアの大酋長が、今、大統領(首相)になって、日本の天皇陛下にお目にかかって、独立してやってますが。」それから、あのときは、中曽根っていう総理大臣だった。その総理大臣と会って、通商条約を結んで、パプアニューギニア何もないけど、ジャングルはうんとあるから材木やなんかを・・・そういうような話をした。で、3日目に、あの帝国ホテルでもってね、今言った刑事がね、「帝国ホテルで3日目に待っておりますから」って。で、女房も連れて行ってね、兄弟なんか連れて行ったら、で、帝国ホテルで待っていたら、お呼出があって、上がっていった。そしたら一緒に女房も着いて行ったらね、「あれ、あんた吉澤の家内。いや、ここ1階から4階に大統領いるけど、そこへは普通の人はちょっと行けないんで、吉澤と、さっき言った死んだ柴田(吉澤さんの戦友)、この2人だけお目にかかりたい」って言うんだ。ところどころに赤ネクタイの刑事がいたんで、「吉澤さんどうぞこちらへ」って。で、こう、その部屋へ行ってみた。そうしたらね、正面にひげが生えた立派にね、こうやってて、自衛官がこう、いるんですよ。僕が「やぁ」、こっちも「やぁ」ってって言ったけど、「あれ、誰だろうなぁ」と思ったらね、「どうぞ、こちらへ」ってんで、あっちの言葉がしゃべれるから。しゃべったらね、自衛官がキョトキョトして、随分うまいんだなと思って。で、「わたしはマイケル・ソマレです」って。ソマレ君がこうやって。「いや、おかげで大統領(首相)になってね、こうして日本と通商条約しに来たんです。是非、今度はね、パプアニューギニアにも立派な家が建ったし、もう良いからね、是非来てください。」ってんでね。それで行ってね、柴田と一緒に行って、柴田の家の近所の方も、だいぶ、向こうで戦死した人がいるんで、どうせ行くなら俺たちも行こうってんでね、あそこに柴田の方が、なんつったっけ、あそこは。宇都宮だっけ、なんだっけ。あそこは獅子舞がね、とても盛んなところでね、獅子舞の連中と一緒に行ってね。で、慰霊碑の所でね、獅子舞をしたり、みんなあげてね。そのときのね、わたしがね、代表して読んだ弔辞がこれなんですけどね、急に言われたんでね、慌てて、前の晩書いたんだけどね、これはだから昭和61年の9月14日に行ったんだな。これは帝国ホテルじゃなくて、向こうの、あそこであったんだな。もう立派な家が出来たんで。やっぱりこれ読んでるとね、涙が。その写真がありますよ、読んでるのが。それはもう終戦後、カメラだとかなんとかって持っていったけどね、その当時はカメラもなんにもなかった。これも持っていったのはね、万年筆で書いた。・・・でもってね、ホテルでもって、直した。

で、今の大統領の奥さん、あれ、皇后陛下だ、日本じゃ。あれがね、赤ん坊のとき俺、抱っこしてやったことがあるの。「可愛いな、可愛いな」って。それがこれうちの、吉澤先生にね、抱っこしてね、カモイっつったっけな、「カモイのね、赤ちゃんだよ」って。「うわーっ」て、僕でもそれ聞いて思いついたんだね、きっと。「わー」ってね、握手して帰ったことがあるけどね、まぁこうやって質問されるっていうとね、ひょっと思い出すね。

大統領も裸でもって裸足でもって、学問習いに来たなんてね。今は立派な服着てね、もう天皇陛下なんかと堂々と話して帰るんだからね。

Q:「日本兵の柴田学校で教わった」って大統領(首相)も言ってるわけだから・・・

だから昔話をする、ほら、帝国ホテルで会ったときに昔話したときは、「いや、そんなことがあったなぁ」って大笑いしたこともあったけどね。今は、違うから来てくれって。で、10年ぶりくらいかな、行ったのは。帰ってから。また立派なホテルかなんかで。あれはオーストラリア、アメリカの資本が入ってるのかな。ほら写真があるけど、これでごちそうになったホテルも、あのパプアニューギニアのホテルがこの裏っ側に大きい写真でのばしてあるけどね。

出来事の背景出来事の背景

【東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮 歩兵第239連隊~】

出来事の背景 写真南太平洋に横たわるニューギニア。日本軍はガダルカナルでの敗北が決定的になる中、連合軍の侵攻に備えるため、第18軍を編成し兵力を投入し続けた。

栃木県と長野県出身の若者を中心に編成された歩兵第239連隊がニューギニアに上陸したのは昭和18年(1943年)2月。与えられた任務は、生い茂る密林を切り開き、道路や飛行場を建設することだった。

その後、連合軍は東部ニューギニアで反攻を開始。日本軍の拠点を次々と攻略し、昭和19年4月には日本軍の背後、ニューギニア中部のホーランディアとアイタペに上陸した。239連隊を含む第18軍は、完全に孤立してしまった。

この事態に現地の第18軍司令官・安達二十三(あだちはたぞう)は、アイタペに総攻撃をかけることを決断。将兵は弾薬や食糧の補給がないまま、アイタペを目指し数百キロにも及ぶ行軍を開始した。行く手には幾筋もの河と広大な湿地帯が広がり、多くの者が飢えや熱帯特有の風土病に倒れていった。

7月10、日本軍は3万5000の兵力でアイタペ攻撃を開始したが、連合軍の圧倒的な火力の前に8000を超える戦死者を出し作戦は中止。食料も弾薬も尽きた将兵は「山南地区」と呼ばれた密林の奥地へと逃れ、病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。

極限状態の中で追い詰められる将兵たち。死を覚悟で敵陣に突入する斬り込みが繰り返される一方、昭和20年に入ると大隊の40数名が組織的に集団投降する事件も起こった。

東部ニューギニアに投入されたおよそ15万の日本兵のうち、12万8千人が亡くなり、今も6万を超える人々の遺骨が、収集されることなくニューギニアの地に眠っている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1914年
埼玉県に生まれる
1935年
現役兵として近衛第3連隊に入隊 独立工兵第1連隊に転じ、中国大陸での作戦に従事
1941年
新たに編成された船舶工兵第9連隊に転じる 仏印進駐後、シンガポール、ジャワなどを転戦
1943年
ニューギニア上陸
1944年
アイタペ作戦当時、軍曹
1945年
終戦 当時、陸軍曹
1946年
神奈川・浦賀にて復員 復員後は、食料品販売業を経て、不動産業に従事

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