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タイトル 「日の丸振って送り出された」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 キム・サンヨンさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州 朝鮮(羅南)  収録年月日 2009年12月11日

チャプター

[1] チャプター1 皇民化政策  04:00
[2] チャプター2 創氏改名  04:16
[3] チャプター3 甲種合格  06:32
[4] チャプター4 陸軍訓練所  03:36
[5] チャプター5 関東軍に配属された  02:52
[6] チャプター6 武装解除  06:44
[7] チャプター7 日本軍の兵士だったこと  01:16

再生テキスト

皆苦労しましたよ。その当時、キョンサンナムド(慶尚南道)は日本と近いので往来があったんですけど、北朝鮮のピョンアンプクト(平安北道)のような所では日本人の存在も知らなかったんです。

Q:当時、村には日本人が多く住んでいましたか?

いいえ、役所とか学校の校長先生、支署の巡査とか、そのような所は日本人が多かったんです。その他には全部朝鮮の民間人でした。

Q:朝鮮の人ですか?

はい。あの人たちはみんな法を握っていて、命令が下りたら、それに従わなければなりません。

Q:キムさんは普通学校を卒業したんですね。入学したときはいくつでしたか?

12歳のときです。12歳のとき、この辺では青(チョン)徳(ドク)国民学校(=小学校)しかありません。

12歳で入学して18歳まで学校に通って、卒業してからすぐ軍隊に入りました。だから、あのとき、世の中がどう変わって行ったのかは全然分かりません。今日は放送やテレビでも流されるのでいいけど、その当時は外部の人の話を聞けなかったので、本当に未開地でした。

学校では朝鮮語を教えたのは教えたんですけど、あんまり充実してなくて、その後は全部日本語でした。カタカナ、ひらがなを勉強しました。

Q:学校に入って初めて日本語を学んだんですか?

そうです。
とにかく、日本語で「天皇陛下に忠誠を尽くす」ということと、「東洋の平和のためなら命を捧げても惜しむな」、といったことを教わるばかりでした。大東亜戦争がなぜ起きたのか。戦争に参加して死んだとしても命を惜しむことはない。名誉なことだ。東洋の平和をもたらすので、命を惜しむことはないと20歳のころから耳にタコができるほど教わったので、それに従わない理由はないでしょう。

一番記憶に残っているのが志願兵。私は志願兵だったので。その当時は、「志願」というのは、強制よりもずっと恐ろしい制度でした。表では「志願兵」というもっともらしい名称を付けて、裏では強制的に韓国人を軍隊に行かせたのです。誰が(自分から)行こうとするものですか。

Q:キムさんの日本名は?

ここに書けば、いいんですね。

Q:何と読みますか?

かねひこそうよう(金彦相容)です。

Q:「金彦」という名前は誰が考えたんですか?

「金彦」というのは、こういうことです。韓国には「○○(地名)金氏」といって本貫(先祖の発祥地)というのがあります。新羅時代の敬順王の息子である「キムソン」という始祖が彦(オ)陽(ニャン)で生まれました。名字が「李」であれば、どこの李氏でしかと聞いたら、「慶州(キョンジュ)李氏」とか「釜山(プサン)李氏」、「陜(ハプ)川(チョン)李氏」というふうに答えます。私たちは「彦陽金氏」です。「彦陽」の「彦」と「金氏」の「金」を合わせて「金彦」になったんです。

Q:キムさんのお父さんが考えたんですか?

先祖代々から。韓国には族譜(一族の系譜)というのは、先祖代々に受け継がれるものです。

Q:「金彦」という名前をつけたのはお父さんですか、日本人ですか?

その当時の「彦陽金氏」が、皆、こう付けたんです。本貫が「彦陽」である人は、「金彦」にしなさいというふうになりました。

Q:本来、キム・サンヨンという自分の名前があるのに、「金彦」という日本風の名前になったとき、どんな気持ちでしたか?

その当時は幼かったので、何も知りませんでした。もし、戦争で日本が負けなかったら、私たちみんな日本人と化していたと思います。あのときはみな日本語で話して、法も日本が作っていたので従うしかないでしょう。

Q:あのとき、キムさんも日本人になると思っていたんですか?

私たちは何も考えなかったんです。ただ、生きていくだけでした。16,17歳で卒業して、軍隊に入ってしまい、日本人がたたき込んだ教えを全部受け入れたので、そうならないはずがないでしょう。違う思想など持てません。朝鮮は以前はどうだったとか、話してくれる人はいなかったんです。

Q:軍隊に行った経緯について話してください。強制的に行ったという話しでしたが、その当時のこと話をしてください。

その当時、わがチョンドク面(=面行政単位。日本の「村」に当たる)の場合、最初17、8人ずつ募集しました。応募した人の中から選び出します。郡(=「町」に当たる)でも選んで、また道(県に当たる)でも選び出して、結局、1人か2人が行くことになります。

Q:キムさんはどうやって行くことになったんですか?

そういう過程を経て、私より体が丈夫な人がいたにもかかわらず選ばれました。私が最終的に合格したのはテグ(大邱)です。以前のテグ駅前には、大きな建物がありました。そこに行ってみたら、日本軍がいて、赤い帽子をかぶっており、憲兵かどうか知りませんが、とにかくそこで私は甲種合格しました。幼かったにもかかわらずです。

Q:学校を卒業して家にいたとき、どうやって軍に志願することになりましたか?

それは誰も志願兵に応募しなかったので、結局、この村では、誰が学校を卒業して、学校の成績はどうだったとかというふうに調べていって、(条件に合う人を)選り分けました。 今でも区長や里長のような人がいますが、当時も、そんな人たちが選別したと思います。そうしないと、誰も自ら軍隊に行こうとしなかったからです。

Q:誰が家に来て軍隊に志願するように、ご両親に話しましたか?それともキムさん本人に直接話しましたか?

親にも私にも話しました。それから、その当時、巡査は刀を腰に吊っていました。日本人の巡査が刀をつってこうして近づいてくると誰もが驚きますね。また、私の父や周りの人々は、皆、無学だから何にも知りませんでした。軍隊に行けといわれたから、行くしかないと思うばかりでした。

Q:行きたくないと思わなかったんですか?

行きたくなかったんです。軍隊に行きたくて行く人は誰もいませんよ。日本語の歌にこんなのがあります。「人も嫌がる軍隊に志願で出てくるバカもいる」という歌を、日本人も歌っていました。日本人は、皆、忠誠心を持っているはずだけど、それでも、このように韓国の野党と同じく、反抗的な人も多かったんです。

Q:キムさんが行かなければならなかった理由はなんでしょうか?

刀を突きつけられて、「出て来い」と言われたらしかたないでしょう。何か文句を言えるような雰囲気でもありません。私は4人兄弟です。私が長男です。男の子が4人なんですけど、弟たちは学校に通わなかったんです。軍隊に行かせたくなかったからです。なぜかといえば、学校に通ったら、軍隊に行かなければならないからです。

(軍隊に行きたくないのは)言うまでもないんです。軍隊に行きたくて行く人がどこにいるんですか。この時代、軍隊に行けと言われたら行きますか。このころは、ある程度の歳になって行きますが、(私の場合は)まだ幼いうちに、親兄弟の下を離れて死にに行くことだと観念したんですから。

Q:面(日本の「村」)から出て行ったとき、皆祝ってくれたんですか?

盛大な歓送会を行ってくれました、面で。

Q:どのようにですか?

豚をふるまってくれました。面の有力者も偉い人たちも、全部招いて盛大に祝ってくれました。チョンドク(青徳)面では私を含めて4人が行きました。そのうち、3人が死んで、私1人だけが生き残っています。

Q:出て行ったときは、人々が国旗を振ってくれたりしたんですか?

そうです。旗も振ってくれて、餞別(せんべつ)金ももらいました。
国に忠誠を尽くす者なら誰でもいいという時代だから、引き止める人はいないでしょう。

Q:旗を振ったというのは日の丸でしょうか?

そうです、日の丸です。その当時、韓国の太極旗などありませんからね。私も韓国が独立してから初めて太極旗の存在を知りました。独立して朝鮮戦争が勃発してから知りました。

朝になれば起こされ、夜になれば寝かされます。体を鍛えるのが訓練です。精神統一させるのが訓練です。朝早く起きて、砕いた氷で顔を洗ったりしました。

Q:軍事訓練を受けましたか?

6か月間、軍隊に行くために訓練を受けるわけですから、当然でしょう。

Q:どんな軍事訓練を受けましたか? 銃の使い方とか武術とかですか?

はい。それは基礎訓練です。銃は軍隊に行ってから配給されるものです。何丁かありましたが、少なかったんです。

Q:銃に関する訓練を主に何でしたか?弾丸を込めたりするようなことですか?

その当時の銃は、全部三八式でした。

Q:精神教育にも力を入れていたたそうですね?

精神教育は臣民であれば、誰もが受ける。それは当然なことです。国民に対する精神教育が、国の存在を左右するんですから。国の興亡や盛衰を左右するんだから。日本人の心の中に刻み込まれていることだから、それをないがしろにするようなことはないでしょう。それはどの国でも同じでしょう。

当時は、大変つらい思いをしましたが、私は我慢強い性格なので、他の人に比べてよく耐えることができました。

Q:そこでは、ミスした人を殴ったりしたんですか?

当然、殴るでしょう。先ほども話したように、ミスしたら罰を受けるんです。ミスしたら、上官が殴るんじゃなくて、一緒に訓練を受けている仲間に殴らせます。強く打たないといけないんです。このように立たせておいて、代わりばんこに頬を殴ります。手加減したらいけないんです。そうしたら、自分がもっと殴られることなりますから。強く打たないといけないんです。そうすると、ここが腫れ上がって青黒くあざができます。頬を何回か殴られると、このように青黒く腫れ上がります。そしたら、卵で撫でさすって眠りにつきました。それはそれは、つらいことです。団体生活だから厳しくしないと、規律が乱れるから、規律は厳しくする必要があります。

ラナム(咸鏡北道・羅南)の山砲兵としていきました。山に登って砲を撃つ兵士。山砲兵として行って、そこで訓練を受けてすぐ野砲兵に選ばれて行きました。それでソ・満国境、ソ連と満州と朝鮮の国境地帯に行って勤務しました。ソ連のウラジオストック近郊の高い山に登って、望遠鏡で監視して、その情報を報告すればいいんです。

軍隊に行けば、日本人1人に韓国人1人が1組になって、2人は戦友だと教育されます。日本人が1、2年先に軍隊に入り、韓国人が後で入隊してくれば、まるで兄弟みたいな1組になります。戦友になった日本人が、一つ一つ教えてくれるんです。

Q:そこで歌も習ったんですか?

歌も先輩の兵士に教わりました。軍隊では先輩の靴も磨き、洗濯もしてあげます。最初、軍に入れば、もし先輩の兵士が黙って足だけ差し出せば、後輩は靴下を脱がして足も洗うのが当たり前でした。最近のことは知りませんが。

Q:ソ・満国境では警備勤務をしていたんでしょうね。どんな仕事をしたんですか? 戦ったりしたことはありませんか?

警備をして、その情報を報告しました。敵軍の移動とか、重火器の移動などの情報を報告するだけで、戦闘はなかったんです。

Q:ソ連軍がどこに移動するとか。

そうです。ソ連軍がウラジオストックからどこに移動したなどの情報を報告するだけで十分でした。夜は警備に出ました。

山に兵舎がを建っていたんですけど、その日の12時頃、便所に行きたくなりました。そこでは、外に出てだいぶ歩いていった所に小屋を建てて、トイレを作ってあったんですが、そこに行って用を足している時に、非常ラッパの音が響きました。それは戦闘の開始を意味します。ラッパで全部知らせます。軍隊では起床や就寝を知らせる時もラッパを使います。非常ラッパを鳴らしてから約5分後非常勤務体制に入りました。

Q:それで、ソ連軍と戦いましたか?

戦うことはありませんでした。その翌日の朝、ソ連軍から攻撃されました。私たちは戦おうとしても何もありません。実弾も持っていないし。先方は飛行機を飛ばして兵舎を見つけたら、兵舎に向けて撃ちまくりましたので、外にも出てこられないんですよ。それで、夜になるのを待って、フェリョン(会寧)まで後退しました、ラナム(羅南)じゃなくて。日本人の多い、北朝鮮の港なんですけど。

私たちは(祖国が)解放されたことも知りませんでした。最初は飛行機がさかんに爆撃したんですけど、数日後は飛行機は静に飛んでいました。そのころ独立したみたいです。独立したということで、朝鮮に戻ってフェリョンの橋の上で、ソ連軍によって武装解除されたときは、すでに独立してから数か月後でした。民間人に接触する機会もなく、軍隊では上官たちが黙って何も言ってくれなかったので、何も知りませんでした。日本が負けたかどうか、朝鮮の解放も私たちには言ってくれないんです。かん口令です。彼らはすでに知っていたのでしょうが。

朝鮮人は日本人と分離して、別の場所に収容されることになりました。フェリョンのボンオ山、ムリョンなのか分かりませんが、そこで、20日間ぐらい滞在しましたが、そこでは野菜を食べなかったら、体がむくみました。野菜は人間の体に有益なものです。それで、体がむくむのは野菜を食べないからということで、かぼちゃの葉をむしって食べたりしました。外では、朝鮮の解放を祝ってお祭りみたいに騒いでいたんですけど、私たちは閉じ込められていました。そこで、同胞が多く死にました。

Q:捕虜収容所にですか?

捕虜収容所に閉じ込められて。逃げたら銃殺されます。そこで、何か問題が起こって、今日もだめだ、明日もだめだ、明後日もだめだ、1か月後も2か月後もだめ、といつになっても出られないので、待ちきれず逃げます。逃げたら、撃ち殺されます。その死体を私たちに埋葬させました。埋葬して何日かすると、地面がへこみます。

Q:収容所では、朝鮮出身の兵と日本兵が分離されていたんですか?

分離されて、私たちと日本人はそれぞれ分かれて生活しました。

Q:日本人をどこかに連れて行ったんですか?

どこに行ったのか、一度連れられて行ったら、会うことがないので分かりません。

中には朝鮮の通訳官もいました。朝鮮人は日本兵とは立場が違って、軍隊に行きたくて行ったわけではありません。それで、朝鮮人を捕らえるのは不当だと訴える文書を繰り返して出しました。それで分離されました。そこで捕虜になっていた時は、着替えたら面会を許可してくれました。母親が面会に来れば、着替えて家に帰ることができました。近い地域からは皆便りを聞いて面会に来ましたが、キョンサンナムド地域やそれ以南の出身の人は、1人も面会に来ませんでした。ここに閉じ込められているという情報が伝わらなかったのか、それとも交通が途絶えたのか知りませんが、私たちは、一番最後に釈放されました。

Q:収容所ではどんな仕事をさせられましたか?

何もしなかったんです。

Q:今、あのときを振り返ってみれば、どんな気持ちですか?

バカだったなと思います。私のしたことは、祖先に対してとても失礼なことをしたと思います。私が無知だったのでしかたなかったと思いますが、今からでも謝りたいんです。そうじゃないですか。

結局、息子に話したら、バカだと言われました。

Q:なぜですか?

行かなくてもいいのにと。志願してまで行く必要はないんじゃないかと言われました。今では、それはとんでもないことです。

Q:選択の余地はなかったんですよね?

もちろんです。それはしかたないことだったんですけど、最近の若者に聞いてみてください。「志願」という言葉が何を意味するのかを。志願して軍隊に行ったこという事実を。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1923年
キョンサンナムド(慶尚南道)ハプチョンに生まれる
1941年
志願兵として日本陸軍に テヌン陸軍訓練所にて訓練を受ける
1942年
野砲兵として関東軍へ 独立混成第101連隊所属
1945年
武装解除を受け北部朝鮮のハムギョンド(咸鏡道)ブリョン収容所に入り、6か月後解放される
 
帰国後は牧畜と農業を営む

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