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タイトル 「暴力の恐怖の中の訓練所」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 チェ・ナムヒさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州(牡丹江) 朝鮮(京城)  収録年月日 2009年12月9日

チャプター

[1] チャプター1 朝鮮での志願兵制度  07:05
[2] チャプター2 恐怖の訓練所生活  05:58
[3] チャプター3 牡丹江へ  05:12
[4] チャプター4 敗戦直前の満期除隊  02:25
[5] チャプター5 日本の軍隊で捨てなかった魂  03:08

再生テキスト

警察から「君は健康だから、軍隊に行け」と言われた。大東亜戦争のときも日中戦争も、同じように行かないといけなかった。自ら望んで行く人っているわけがありません。労働者の場合もそうです。

Q:行くとき、お母さんは反対しなかったんですか?

母は・・ちょっと待って、私が19歳で行ったから、そのころ、母は亡くなったころかな。生きていたときは、反対してました。

Q:どうやって反対されたのでしょうか。泣いたのでしょうか?

大声で泣いたよ。また、日本人は戦争に行く人の心を和ませるために、例えば、軍人会館などで旗を掲げたり、5、60本も旗を振ったりして見送っていました。(出征)兵士の機嫌をとるために、そのような方法も使われていました。

私は創氏改名をしませんでした。当時は、みんな強制的に創氏改名をさせられたでしょう。チェ(崔)氏でも金田や小山などに。キム(金)氏も金田などですが、私の戸籍をみるとチェ(崔)という苗字がそのまま残っています。
それから、私は今のモクトン(木洞・現ソウル市)にある志願訓練所、今、そこは(韓国)陸軍士官学校になっていますが、そこで6か月間訓練を受けました。

Q:その当時、モクトンで訓練受けたそうですが・・

ええ、モクトン。今の陸軍士官学校がある場所。

Q:6か月、どんな訓練を?

心身の鍛練。雪がすごくても、朝、裸でテゲウォン(退渓院)まで毎日走りました。心身鍛練のために。それに銃剣術も学びました。敵を殺すための技術です。そういう毎日でした。

Q:思想教育をされましたか? 皇軍になるための思想教育。天皇陛下のために戦えという精神教育ですが。

ああ、精神教育ですね。「天皇陛下のために戦え」という教育は、学科の時間によく受けました。

Q:どういう形で。

精神的教育です。「天皇陛下をとことん尊敬しろ」と・・

思想教育というのは、天皇陛下を無条件に敬えという教えです。精神的にそう教えていくんです。教官たちは、毎日、「内鮮一体。内鮮一体」と言ってました。しかし、口では「内鮮一体」と言いながら、心の中では「朝鮮人」と見下していたのです。

Q:そのような精神教育を受けて、どう思いましたか? 朝鮮人なのに、なぜ天皇陛下のために戦わなければならないのか、と。どう考えていましたか?

当時は、身の危険を感じるので、あまり言葉に出せませんでした。私たちが志願兵訓練所にいたときに、日本人が「剣道をする」と言って木剣を持ってきて、ものすごくたたかれました。頭や腰をたたかれました。訓練所にいた人は皆知っていることです。木剣はすごく威力がありました。言葉にできないほど痛い。それが志願兵訓練所で行われたことです。行っていない人には分からないでしょうが。

Q:逃げようとは思わなかった?

逃げたってすぐ捕まります。逃げようと何度か考えましたが、結局あきらめました。

あの木剣は本当に硬かった。バシッと打たれると、気絶してしまいます。腰、足をこうさせて、正座させられて。軍隊で履く靴の名前も忘れてしまいましたが・・ああ、編上靴かな。あれでやたらに蹴られました。死ぬほどつらいですよ。私もソウルの志願兵訓練所にいたとき、気絶したことがあります。あのころ志願兵になった人に聞けば、皆、同じことを話すでしょう。訓練所に入ってやられた人でなければ分かりませんよ。

Q:志願兵訓練所で指導に当たっていた人は、全部日本人でしたか?

はい、全員日本人でした。

Q:名前とか、覚えていますか?

覚えてません。日本人は、本当に怖かった。当時は、私たちも若かったので、打たれても耐えることができましたが、そうでなかったら即死かも知れません。若かったので、殴られても意識も戻り傷も治ったのです。当時、あそこにいた日本人がまだ生きていたら、「ひどいことをしてしまった」と後悔しているはずです。そう思わないとしたら、人間じゃありませんよ。あのときの仕打ちを思い出すと、今でも胸が苦しくなるほどです。

Q:訓練所内では日本語だけ使いましたか?

日本語だけ。朝鮮語は使えません。日本語だけでした。

私たちが分かった日本語は、「貴様」とか「悪い奴ら」くらいです。よく言っていました。当時のことを思い出せば、嫌な気持ちでいっぱいになって、涙が出てきます。あのときやられたことを思い出せば・・当時軍隊に行った人ならば、みんな同じ経験をしていると思います。

Q:訓練所では、日本人は教官のみで、後はみんな朝鮮の人だったんですか?訓練を受ける人は、全部朝鮮人でしたか?

はい。訓練を受けたのは、全員朝鮮人でした。キョンサンド(慶尚道)など、全国各地から集まった朝鮮人でした。「訓練生徒」と呼ばれていて、全員朝鮮人でした。教育する側は、みんな日本人でした。

Q:その編上靴で蹴ったのも日本人でしたか?

当たり前です。日本人です。編上靴、先ほどは編上靴という言葉を忘れていました。覚えておかなきゃ。膝まで紐を結ぶ靴。それから、こんな事もありました。ソウルは大変寒いでしょう、氷点下10度とか20度まで気温が下がるときもあるでしょう。そのとき、外に立たせられて蹴られて、骨が折れるかと思いました。こんなことを思い出すと涙が出ます。

Q:その日本人が、どのように見えましたか?

どう見えたと思いますか。もちろん悪人に見えましたよ。当然、非常に悪い人間に見えました。「内鮮一体、内鮮一体」と口ぐせのように唱えているのに、心の中では「朝鮮人、朝鮮人」と見下して、ひどく殴るんですから。それから、よく「朝鮮人のくせに」と言われました。「内鮮一体」と言いながら、訓練の途中とかに少しでもヘマをすれば、「朝鮮人のくせに」と、また殴る。

要するに、「日本人になれ」ということでした。「朝鮮人の意識は捨てて、日本人になれ」という精神教育でした。でも、人の心が簡単に変わるはずがないでしょう。少しでもミスしたら罰せられました。中でもいちばん怖かったのが木剣でした。

Q:何と言いながら、日本人になれと精神教育をしたんですか?

つまり精神的に、「逆らうのはやめて、精神的に日本人になれ」ということでした。でも、いくら強制されても、それが可能なことですか。

Q:日本人なるためにはどうしろと、具体的に何をしろと?

殴られながら、日本人の精神を持つべきだと言い聞かされました。どんな行動をしろということではないんです。

Q:どんな言い方でしたか?

口ぐせのように言っていました。このように直立して、「賢くも、天皇陛下のために戦うんだ」と。気をつけの姿勢で、「天皇陛下のために戦うのだ」と、「天皇陛下のために戦うべきだ」と、繰り返すんです。
それを繰り返して言いました。「私は天皇陛下のために、命を捧げて戦う」ということを、気をつけの姿勢で言いました。

訓練所の卒業式がありましたが、私たちは卒業する前に赤紙を受け取りました。だから式に出ないで家に帰りました。私たち、関東軍の地域に派遣される者だけが、訓練所の卒業式直前に赤紙を受け取りました。

Q:何人くらいでしたか?

何人くらいだったか、分かりません。第3中隊では、私だけが朝鮮人でした。牡丹江の第3中隊では、朝鮮人は私だけでした。

満州には朝鮮人はいないと思っていましたが、工場には朝鮮人の女性たちがたくさんいました。同郷のよしみでで、その女性たちによく助けてもらいました。言葉が通じるので、同じ朝鮮人だと分かりました。わたしの部隊のそばに小川があったんです。日曜日には、新米の兵隊が洗濯に行くんです。すると女性たちが出てきて手伝ってくれました。同じ朝鮮人でしたので。それから、トウモロコシ。そこのトウモロコシはこんなに大きいんです。彼女たちからトウモロコシをもらって、部隊に持って帰って仲間たちに分けてあげたこともありました。

Q:そこには、どうして朝鮮の女性が多かったんですか?

キョンサンド(慶尚道)の人たちが移住してきたそうです。パイプ工場があって、そこにたくさんいました。

Q:軍隊には朝鮮の人が多かったんですか?

中隊では私1人でした。第3中隊では私1人でした。「サイ・ナンキ」(チェさんの名前「崔 南熙」の日本語読み)の、私1人でした。他の日本人から、「なぜ創氏改名しなかったか」と聞かれたこともあります。私は嫌だからしなかった。「手続きが分からなくてしなかった」と嘘をついたこともあります。満州の牡丹江でも「サイ・ナンキ」で通しました。戸籍にもそのまま残っています。

Q:1人だけ朝鮮人だと、軍生活に苦労したと思いますが?

苦労しました。でもシモイ軍曹が私を気に入ってくれたんです。例えば、食事当番も外してもらったりしました。練兵場を走っているとき上官が現れたら、敬礼しないといけません。あるとき、敬礼したのに他の中隊の伍長から「欠礼した」と言われました。それはつまり、わたしが朝鮮人だからです。それで、呼ばれてひどく殴られました。中隊に帰ってきた私の様子を見て、シモイ軍曹が殴られた理由を聞きましたので、当時少し話せた日本語で、説明しました。するとシモイ軍曹がその伍長を呼び止めて、私の代わりに仕返ししてくれました。それはよく覚えています。本当にありがたく思っています。

Q:軍隊での仕事は何でしたか?

軍隊では砲兵や馬の世話をしました。輜重(しちょう)隊があって、馬がいたんです。私はシモイ軍曹のお陰で、きつい仕事はやらずにすみました。

Q:日本の勝利のために戦おうと思わなかったんですか?

そうですね、振り返ってみると、そんな事を思ったかも知れません。その一方で、よく考えてみると、これは強制されたことだということを思えば、何となく複雑な気分にもなります。一応、軍隊に入った以上、人に負けたくないという思いがしたのも事実です。

Q:1年駐留してから、どこに行ったんですか?

国が独立する前に、南方への派遣命令が出されましたが、そこに行く途中で、B29(大型爆撃機)によって皆殺にされるといううわさが流れました。驚いたことに、わたしの部隊は全員を家に帰したんです。それで、独立を迎える直前に帰ってきました。

少しでも帰るのが遅れたら、ソ連軍の捕虜になるところだったという話を聞きました。私たちが満州を離れた後、ソ連軍が来て捕虜を捕まえたということです。その直前に「家に帰れ」と言われて、満州を離れたのは幸運だったと思います。独立後にソ連軍が来たという話しを聞きました。

Q:数日の差で、シベリアに連れて行かれたそうです。

数日の違いですか。近くの山浦(サンポ)の花池里(ファジリ)に住んでいるカン・ナムジュンという私の友人も志願兵になりました。彼も満州にいたと言ったかな、正確な場所は知りませんが、後で彼に聞いた話では、八路軍に捕まったものの帰されたそうです。私たちは運がよかったのでしょう。部隊が離れた直後、ソ連軍が来て占領したということを聞きました。多くの日本人が犠牲になったそうです。

強制的に軍隊に行かされたのは悔しいですね。自ら進んで軍隊に行ったのであれば、日本人のように天皇陛下のために戦う、命を捧げるという心構えを持ったのでしょうが、日本人とは違いますし、生き延びて幸運だったと思いますね。

訓練所でさんざん殴られ、大変つらかったことを思い出すと、今でも涙が出て胸が苦しくなります。でも部隊では、繰り返しますが、さっき話したシモイ軍曹のおかげであまり苦しいこともなく、殴られたこともなかったんです。でも、ソウルの訓練所にいたときのことを口にしただけで・・あの木剣で打たれたら、倒れない人はいません。誰でも倒れます。それから、編上靴で殴られました。このように正座させられて殴られました。

祖国の戦争だったら、死を覚悟して戦ったと思います。しかし、祖国の戦争ではないし、日本人は口では「内鮮一体」と言っても、本音は違いました。朝鮮人を利用したに過ぎません。悔しいですね。あのとき軍隊に入って同じ経験をした人ならば、「あの人の言っていることは十分分かる。大変だったんだね」と思うでしょう。でも経験していない人には分かるはずがありません。当時、志願兵訓練所にいて、今でも生きている人がいれば聞いてみて下さい。木剣で打たれたことや、どんなに大変だったかを語ってくれるでしょう。聞いてみたら分かる話です。

Q:当時、自分は日本軍の一員だという意識を持っていたんですか?

形としては日本軍隊に入ったので、日本軍の一員でしたが、朝鮮人の精神(魂)を捨てるわけにはいきません。そうじゃないんですか、精神を捨てることはできません。

Q:日本人に負けまいと思ったんですか?

それはあったでしょうね。何をしても、日本人に負けまいという思いを持っていました。常にありました。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1924年
チョラルナムド(全羅南道)ナジュシに生まれる
1942年
警察の勧めで志願兵として日本陸軍へ モクトン訓練所(現・ソウル)で訓練を受け、輜重兵第122連隊に配属
1945年
満期除隊となり、帰国 公務員として働く その後、農業に従事

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