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タイトル 「ハイラル・迫るソ連軍戦車」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 イ・ビョンジュさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州(ハイラル、大興安嶺) 朝鮮(平壌) シベリア(クラスノヤルスク)  収録年月日 2009年2月17日、2月24日、3月5日

チャプター

[1] チャプター1 皇民化教育  08:15
[2] チャプター2 創氏改名  03:09
[3] チャプター3 満州の公務員に  03:16
[4] チャプター4 日本軍の兵士に  08:21
[5] チャプター5 ソ連軍の侵攻  04:38
[6] チャプター6 民間人の自決  05:38
[7] チャプター7 突入攻撃  08:29
[8] チャプター8 シベリア 収容所へ向かう  06:01
[9] チャプター9 「私たちはカレイスキーだ」  13:09
[10] チャプター10 分断された祖国への帰還  04:11
[11] チャプター11 志願し朝鮮戦争へ  07:56
[12] チャプター12 シベリア朔風会  09:42

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再生テキスト

Q:ピョンヤンで生まれたんですか。

そうです。

Q:小学校のときから、もう、皇民化教育を。

もちろん。小学校のときから、朝鮮語は学校の課目になかったんです。朝鮮語を教える時間は。でも、先生たちがほとんど朝鮮人だったから、朝鮮人の先生は朝鮮語で授業をしたんですよ。国民学校のときはですね。それが、中学生になると、もう朝鮮人の先生も学校では朝鮮語を使えない。授業のときには。教室に入っては、全然、使えなくなった。中学1年のときまでは、1週間に1時間あったんです、朝鮮語の授業が。それも教科書もないでしょ、プリントしたものを分けて、それを教科書にして、それを読みながら学んだんです。2年生に上がったら、それまでもなくなった。1時間もなくなった。本当に抹殺政策をしとったから。1年しか習えなかったわけですね。特に私は、私立学校だったのにも。公立ではずっとその前から全然、中学では朝鮮語は一言も言えなかった。私は私立だから、1年は習ったんですよ。それもなくなった、後でね。日本人の先生も、何人もいなかったんですよ、はじめは。設立者が朝鮮人だったから。キリスト系統で、朝鮮人の教徒たちが指輪とか・・・、(ネックレス)とかを、全部出して、金(資金)をもうけて造った学校ですよ。

Q:軍事教練とかは、あったんですか。

それは、終わりごろ、日本人の若い士官学校を出た者、トヨダ少尉とかいってね、全然、小隊長の経験もない者を、そこ(学校)に配置したんですよ。「軍事教練を受けろ」と。あれは、授業表に軍事教練があったから。ほとんど、毎日、1時間だったかな、銃を持って、本格的な軍事教練だったから。

Q:どんな・・・。

軍人とちょうど同じ。戦陣訓などもみんな覚えなければならないし、日本兵の下士官学校程度のものを教えるから。理論もしたし、実技も軍人と同じく。銃もみんな配ってた。

Q:中学校とか小学校では、宮城遥拝は(しなかったんですか)。

それは、皆した。全国民が。ただ、職場もなく家にいる人だけ除いて、皆した。皆、東に向かって、毎朝、“宮城遥拝”と言ってね。皇国臣民の誓詞というのを覚えながら。「わたくしは皇国臣民であり・・・」なんとか言ってね、「天皇陛下のために、いつでも命を捨てる」とか、そんなのがあったんですよ。それは毎朝、全国民が覚えるんですよ。宮城遥拝しながら。そんなバカなこともした。

そして、学校を卒業するとき、配属将校の「教練検定合格証明書」というのをくれるんですよ。それが唯一の財産ですよ。「(この人は)自分から軍事教練を受けて、その過程を試験を通じて合格した」ことを証明する。それは大した効力を及ぼすものですよ、「軍事教練検定合格証明書」とはね。あれを持って社会に出たら、まず、一般会社でも中間幹部以上として、取り扱わなければならない、待遇しなければならない。軍隊の学校でも。私も、それをもちろんもらった。入隊するときに、防衛官が新京(現・長春)あたりを連れて行くときに、列車の中で防衛官が話したんですね。「お前たちのうちに、教練検定合格証明書を持っている者がいたら、わしのところへ申し出ろ。新京に予備士官学校というのがある。そこへ、私の証明で入校してあげる。入校したら1か月訓練で少尉になれる。少尉に任官することができるから希望しろ」と。誰も希望しない。「日本が負けるのはもう火を見るように明らかなのに、なぜそこへ行って、1か月訓練を受けて日本の将校になるのか」と。解放したら、(朝鮮が)独立した後は、親日派になるんじゃない。そんなバカなことをする者はいない。私も、もちろんそうだった。もちろん、何人かいたかも知らない。何千人も連れられて行ったから、そのうちにはいたかも知らん。

シノザキという日本の先生がいて、日本語と漢文を教えたけど、毎日、教室に入ったら「創氏改名をした人は手を挙げろ。お前は何としたか、お前は何としたか」。それが「良い」とか「悪い」とか、そんなことまで加えてね。「良かった」とか、「お前も立派な学生だ」とか。そのほかは、みんな黙っていた。その翌日にも、2,3名おる。そんなふうに強制にね。そうしなかったら、停学や退学にさせるから。あんなにも強制にされたんですよ。だから、日本の名前が、何が良いか、どんな名前が多いか、それも分からないし。ただ、うちのおやじさんが、どこで、誰かに聞いたかは知らないけど、「“吉原”っていうのが発音がよい」と。「どうせ(改名)しなければならなかったから。吉原としよう」と、学校に通ってたときは、親が決定するがままにしたんだから。それで吉原だったんですよ、ずっと。日本の軍隊にも、吉原として入ったし、ずっと捕虜名簿が吉原となっているし。

田舎で農業をする人たちは、肥料がなければダメでしょう。農業するのに。肥料の一升(ます)の配給を受けるにも、金融組合に行って日本名を名乗らなければくれない。配給の申請書を出すのに朝鮮人の名前で出したら(肥料を)受け取れない。それぐらいですよ。創氏改名をしなかったら、何もできなかった。営業の許可も、商業も、何もできない。どこへ旅行もできない。なんにもできない。どんな書類も朝鮮語で申請したら「これはダメだ」と。だから「創氏改名をした後で出せ」ということですね。「創氏改名をして、郡庁とか、区庁とか、市庁に提出して、そこから許可をもらって、そして、戸籍を直してから書類を出せ」ということです。

学校を卒業したのは1943年12月ですよ。それも、3か月を短くして早く卒業した。人がいないから早く卒業しなくてはならなくてね、私のころから、だんだん縮めて短くしていった。私の通った学校は、5年制の中学だったのに、4年で終わった。私は4年10か月でね、1943年12月に卒業した。卒業した直後に満州の政府でね、満州は日本が作った国だから日本の政府と同じだったけど、公務員が足りなくて、やっぱり、中国人は教育を受けた人があまりいなかったから、公務員ができないんですよ。それで、満州の政府の官吏たちが、朝鮮まで来て、経済部、日本でいえば大蔵省、韓国でいえば財務部ですね、あそこの職員たちが、にわかに、ピョンヤンに来て、私の学校に来たんです。「満州の政府の要員を選ぶために来たから、希望者は試験を受けろ」と。

それで、その試験に応じて合格したんですよ。

Q:どんなふうに「試験に受けろ」って言ってきたんですか。

満州の政府の経済部から。学校の卒業式の日が違うから、それにあてて、満州の政府の公務員たちが訪問するんですよ。訪れて来て、「卒業生のうちに満州の政府に勤めたい希望者がいたら、その試験に応じるようにしてください」と学校に頼んだ。

あの徴兵検査に応じなかったら、家族をもみんな引っ張っていくんです、警察がね。そして拷問するんだ。「お前の息子連れてこい、連れてこなければお前を殺す。」あれは、もう、めちゃくちゃに殴るんです。だから、それを考えたら、逃げられないんですね。逃げようとしても逃げられない。

Q:赤紙が来たのはいつですか。

赤紙に書かれた召集日、召集される日が8月9日だから、その約一週間前と覚えていますかね。約1週間前、配達されたんですね、郵便で。

Q:中、開けてどんな感じでした。

赤い紙で。もう、赤い紙を受けたとたんに、もう、「ブルブル」っと震える。震えないものはなおらない。死ぬから。「お前死ね」という「死亡命令書」でしょ。それを受けて、平壌におるお父さんのところへ、すぐ電話で知らせて。8月9日だった。それで、すぐお父さんが来たんですね。他の人も多かったのに、お父さんが直接、送別のため来たのは、私の親父だけだったです。そして、友達たちはみんな歓迎会をやって、2日間泊まって帰ったんです。あのとき、もう、お父さんは泣きながら、「お前は、どんな命令が出てもその命令に従え。だけど、お前絶対に死ぬな。死ななかったら、生き残れ。生き残ったら帰って、何事であっても、お前はやりたいことができる。死んだらそれですべて終わるから。負傷なんかは、もう懸念しないで生き残ってこい。生き残って帰れ。」それだけです。それだけ、何回も。

Q:イ・ビョンジュさんは、いつ、自分が戦争に行かされると、意識し始めたんですか。

それは徴兵制が出てから、何歳から何歳までが、何年度に該当するということをあらかじめ知らされていたから。私は2期に該当するから、45年度に召集されると分かっていた。
徴兵の命令は新聞にも出たし、学校でも発表したし、みんな全国民が分かるから。

そのときの日本国会は、どれもこれも形式的に・・・法律が出たらそのまま通過させたんだから。全員の賛成で通過できるんだから。それで、全国民が分かってたんですよ。この法律はいつから施行するということをね。

Q:どういうふうに知らされたんですか、個人には。

個人には、先生が教室に入って言うんですよ。「お前らすぐ軍隊に行くから、準備しておけ」と。あらかじめね。法律として出ていたから。「あ、そうですか」ぐらいですね。

Q:割り切ってたんですか。 

既定事実だと、みんな受け取ったから。反対かなんかも考えられないから。まず、召集令状を受けたら赤紙、これぐらいの赤紙ですよ。「何月何日何時まで、どこどこへ集まれ、どこどこへ入隊しろ、入隊部隊はどこどこ」。それは、「お前は何月何日まで生きて、その後は死んだ者と思え」というのと同じですよ。天皇のために死ねって。その赤紙も、少しでも破ったら大変になる。(それを受けた)瞬間、「もう、すべてが終わった」と朝鮮人たちは思ったんですね。「これで、すべては終わるんだ」と。

Q:で、赤紙でどこに行くことになったんですか。

ハイラルという北満州の国境都市です。そこに515部隊、362部隊とか、いろんな部隊があった。国境警備隊ですね、国境を守る。ソ連の侵攻に対して備えるという意味で、国境警備隊と言ったんです。私が入隊したのは、362部隊と言って、連隊規模の・・・。兵舎も大きかったですね、2階建ての赤レンガ建てで。そこで、兵営の中まで、汽車の引き込み線があってですね、列車が部隊の中まで入るようになっていた。それが、歩兵連隊だった。515といって、工兵連隊もおったんですね、あそこに。橋なんかが建て直す、弱いからみんな。そんな部隊で・・・。

Q:8月9日に、イさんは配属になった。

8月9日にハイラル、北満州のソ満国境の近く。いちばん近い大きな都市ですね。そこへ行って中隊の2小隊だったですね。「中隊の2小隊にお前は入れ」と。その日に連れてきた朝鮮青年たちみんな、大隊、中隊、小隊、分隊にみんな、こう分けて配置したんです。そのとき、夕飯もおろかに食べられなかったと、私、今、覚えてるのに。もうハイラルは真っ赤になって。

だから、もう入隊する日に、ハイラル市内は、もう占拠されたんです。ソ連にね。8月9日。もう、だんだんと近くタンクのカタピラーの音が聞こえるんですね。

日本軍としては、関東軍としては、東側はアムール川があってですね、黒竜江です。あそこを最後の阻止線と防衛線として、あそこを守り、中央方面と西満州の方面は、興安嶺を最後の防衛線として、堀を掘って、あそこで、ソ連のタンクを止める。みんな破壊する。そして死ぬ覚悟でここを守る。そこに師団司令部があったんですよ、興安嶺。興安嶺とハイラルは、約88キロの距離ですね。そういう状況だったんです。そして、その晩、もうどうしようもない、逃げようがない、敵の戦車に、もう大砲も一つもない、野砲もない、曲射砲もない、何もないんですよ、武器は。機関銃は、まあ一丁か二丁ぐらいあったくらいですね。それみんな小銃だけ持っておるんです。だからもう戦争はできない。ソ連の戦車が入って来るのに全然対抗できない。1発も撃てないで、「興安嶺まで早く撤退しろ」という命令が出たんです。そして、そこから、行軍形態に部隊を編成して、病気のため痛くて歩けないものは列外に出る、私も列外に出てた。私はあそこで召集令状を受けたとき、尻にですね、このぐらいの大きいできものが、入隊するまで、だんだんと大きくなって、これぐらいになった。もう歩けないので、痛くて。そして、それを分隊長に話したら、「お前は残れ」と。そして残って、健康な者はみんな出発した。

「どこかの南側で、どこかの鉄橋がやられた」との報告があったらしいですね、その将校に。将校が「みんな集まれ」と言って、「もうダメだ、歩くのは。もう機関車が来るのは望めない。橋が壊れたらしい」。それで、そこへ乗っていた軍人家族は「みんな降りろ」と言って、降りてしまった。芝生に丸く、みんな荷物下してそこへ座らせた。そして言うんですよ。みんな女子だから。「ロシア軍がハイラル市内まで占領して、すぐここへ来る。来たら、ロシア軍はケダモノと同じものだから、1人も残さない。みんな殺す。特に、女は年が多く、少なくもう問わず、みんな強姦(ごうかん)して殺す。だから、そんな覚悟をしておらなければならない。」それで、「そんな犬みたいなやつらにやられるよりも、みんな自害しろ。」そしてみんなに配るんですよ。銃とか、日本刀とかね、ここに提げる兵士たちの銃剣とか。どうするかといったら、「これでお互いに刺せ。銃があるものは引き金を、みんなお互いに撃て」と。私はその後ろで、その光景を見たんですよ。もう、ひどいな。でも、そうするよりしょうがないから。その将校も「これから荷物持って、子どもを背負って歩けるものは歩け」と言ったら、「みんな(ロシア軍に)やられるんですよ。みんな死ぬから。その方法しかなかったもしれない」という考えもあったけど。そして「海行かば」を歌わせるんですね。

「海行かば、何を顧みず(正しくは「顧みはせじ」)」とか何とか・・・後ろを顧みないで、命令に従って死ぬに行く。それを誓う言葉ですね。それ、みんな歌うんですよ。子どももみんな歌うから、あのときは、教えたから。おばあさん、お母さんみんな一緒に歌うんだ、あれ。あれ歌ってからもう、(銃を)「パパパーン」と、みんな死んだし。いや、あれ悲劇だね。そんなに処置して、そして、ガソリンが残ったものをみんなぶっかけるんですね。その貨物列車にね。あそこは銃もあるし、爆弾もあるし、いっぱい乗せたから。だから、銃弾が爆発しながら、こう一緒に飛ぶでしょう。本当に危なかったです。それも、みんな真っ赤になって燃える。そのとき、ある者が、二等兵が、私みたいに銃は持っているけど、ウロウロしている。それで、私がよくみたら、そいつも(朝鮮)半島出身らしい。私が呼びかけた。「おいお前、今日入隊した者じゃないか」と聞いたら、「そうだ」と言う。「私も一緒に入隊した」と。その夕方だから、8月9日。「なぜ行かなかったか。なぜ徒歩部隊と一緒に行かなかったか。」 「私も足が痛くて行かなかった、だから歩けない」と。「おい、こうしよう。いま中国人たちが、荷物載せて馬車で帰ってくるから、どんどん出てくるから、それをひとつ捕まえよう。そして、それに乗っていこう」と、私が言った。
あいつに聞いてみたら、満州で生まれたものだ。

Q:中国で生まれたんですか。

父母のときから、あそこで行って住んでおったから。それで、ちょうど中国人みたいに話す。そして2人で銃を持って、道の真ん中に行って、止まる車に乗って。

Q:中国の人を装ってその車に乗って、それで。

それで車に乗った。南に向かって行った。

興安嶺(大興安嶺)で、ちょっと高いところ見たら、ずっと、ハイラルかどうかはわからん。南へ向かって、ソ連のタンクがですね。ずっーと、煙を発ちながら南側に。みんな見えるんですよ。ひとつもない、何もない、大砲も、それを射撃するものが何もない、日本軍には。だから、指揮官たちが毎日会議しながら、あれをどんなふうに止めるか。最後の防衛線ですよ、あの興安嶺が。あそこが破れたら、すぐ南の新京ですよ。そこが破れたら、もう終わりだと。

それで、将校たちが会議して、「特攻隊を編成してあれを壊そう」。敵のタンクを壊そうとしようとして練兵場へみんな集めさせて、「敵のタンク(戦車)を壊さなければ、私たちはこの戦争で負ける。天皇陛下のため特攻隊を作って、あれを壊さねばならない。志願するものは手を挙げろ。」その30歳を超した補充兵たちが手を挙げるはずがない。1人もない、1人も。天皇陛下のために死ぬというのは、みんなウソだ。1人もない。

いや、その人たちは、みんな現役は、みんな務めて家に帰っておるのに、兵力が足りないから再召集した人たちだよ。本当にかわいそうな人だった。30歳、35歳、そんな人もおった。それで除隊して、家に帰って農業するし、自分の奥さんと楽しく、子どもたちと楽しく過していたのに、また召集令状が出た人たちだ。本当にかわいそうな人たちだ。誰も手を挙げない。

だから、将校たちは何回か会議をしながら、「方法は一つある。ここ1週間頃の間に朝鮮人の徴兵者が入っている。うちらに何千名が入っている。そのうちで、健康なものを選んで、特攻隊を作ろう。」それじゃ、みんな反対するものがいるはずがない。みんな賛成して。「お前出てこい、お前出てこい。」興安嶺でどこに逃げるの、逃げていったらそのまま撃つから。それで、特攻隊に連れられて行って、どうするかというと、TNT(火薬)があるでしょう。TNT、爆発するもの。これくらいのものを6つくらい縛り付けるんですよ。その上に雷管をみんなはめ込んで、それを胸にテープで回して、ここへ密着させるんですよ。これじゃ、もう外れない。それで、敵の戦車にぶつかるんですよ。ぶつかると、雷管が爆発しながら、「バッーー」と爆発しながら、人はもうどこへ行ったか。指先一つ見当たらない。みんな。散々、バラバラになって。 それで、タンクはどうなるか。タンクはこうなってるでしょう。ここ(戦車の側面)へぶつかるとしたら、ちょっとこれくらいして、ただこうする。前にぶつかるとしたら、ボンとしてそのまま、また戻る。破れないんですよ。兵隊が乗ったままそのままですよ。いちばん効果があるのは、ここにキャタピラーがあるんでしょう、キャタピラー。それを壊すんだ。それが切れるのがあるんだ、たまに。それ(キャタピラー)が切れたのを、新しいものに変えるのは相当時間がかかる。それを壊すのが、いちばん戦果が上がる方法だ。キャタピラーを切るのが。他のものは「ボン」としてその場で、そのまま落ちる。だから、(自爆した)人だけが死ぬ。その後ろには下士官たちがピストルを持って、逃げ出すかもしらないから、逃げ出すものを撃つために、ピストルを持って後ろで、ついて来るんですよ。それで、何人死んだか、全然、分からない。誰々が死んだか分からない。みんな日本語の名前で呼び出していたから、分からない。そんなことを何回もやって、なにも戦車がもう見えない。戦車がどこかで、「あそこプアドの駅をもう通過した」と、どこかで興安嶺を通過している。低いところ、地形のよいところを選んでから興安嶺を通過している。それでみんな、18日頃だと思うけど、「自分の操具を持って集まれ」と言って行ったら、山を下りるんですよ。下りたら、貨車がある。屋根がない貨車ね。そこへ乗れと言うんだ。「ああ、これはYak(航空機)のため橋が壊れたから、それを直しに行くのかも知らない。もう汽車が通らないから。それかも知らない」と、みんな乗った。乗ったのに、あの汽車が南へ行くんだ、南に。北へ行くんじゃない。北へ、ハイラル方向に行きながら、壊れたところを直さなければならないのに、南へ行く。これはおかしいな。

Q:北でなく南へ。韓国の方へ。

そうです。新京(現・長春)の方面に。ハイラルに行くなら北に行くのに興安嶺から。それで、おかしいなとみんな思っていたのに、日本人の下士官とか、ちょっと高いものが、「おいおいこっち来い」といって話すのを私は聞いた。「おい、戦争終わったぞ。おい、家に帰れる。家に帰れるよ、戦争は終わったよ」。そういうことを話すのが、聞こえてきたんですよ。これはウソだろうと思ったのに、本当に南へ行くんだ、汽車がね。

Q:列車に乗ったのはいつ。

汽車に乗ったのは9月23日のころですよ。

Q:どんなふうに乗せられたんですか。

貨車ですね。有蓋(がい)貨車だけど、荷物だけ載せる。それを捕虜を輸送するために2階に作った、中に板張りして。そして、だから、一所へ10人くらいずつ乗せたら、足を伸ばして寝ることさえできない。だから40名が寝られることになるんですね、両側に。そこへ100名を入れるんですよ、その貨車1両に。だから、二等兵なんかはね、こんなふうにして夜更かしした。脚を伸ばせないから。

Q:それで寝ないといけない。

うん。そんなにして行くようになった。今も覚えてるのは、日本人のクボタというものがおってね。その人のことを考えたらかわいそうでね。本当にかわいそうだった。足が他の人よりこれくらい長い。枠があるので、これくらい出るんだ。普通の人は足を伸ばしてもこれくらいしかないから中へ収まるのに。(その人は背が)高いから、足が長くてこれくらい出るんだ。いつも、起きない。力がないから。乾パン2つくらい、圧さくこう糧、麦を圧さくして作った軍人用の食料があるんだよ。それを2つか3つ、それが食糧の全部だ。目的地にいつ着くかわからないから、それを少しずつかじるんだ、かじる。食べられない。そんなにして行くのに、その人はもう、かじる力もないらしい。

(シベリアに)引っ張られて行くとき、9月23日、あの貨車に乗せられて、40人くらいが乗ったら適当なところへ、100名も乗せられて行ったと言ったんでしょ。それが北へどんどん行って、ハイラルを越え、ハイラルはもうみんな灰山になっていた。そこから満州を過ぎて、ソ満国境を越えてソ連の領土に入ったんですよ。ソ連の領土に入ったらもう風景が違う。まず、白樺がもうこんなのが、こうあるし。家もみんな違うから、満州とは全然。寒いところだから。そこを通じて、ちょっと行ったら「海が見える」。日本人の兵士たちがもう、万歳を叫ぶ。「日本海だ、日本海だ」。バイカル湖を日本海だと言うんだ。私もそこに乗っていて、一緒に喜んだ。日本海に行ったら、シベリアには行かなかったのが確実だったから。日本海だったら、日本に行って朝鮮に帰れるかもしらない。とにかくソ連には行かないことになるから、もうそれはうれしかったんだ。ああ、もう歓声を上げながら、(日本の兵士たちは)あれを日本海というんだ。バイカル湖をね、湖を。そんなに広いから。ずっと、末が見えない。それで何時間も行くのに、そのまま山と渓谷がそのまま続いているでしょう。みんながガッカリして、「おい、日本海じゃないらしいよ。おいおい、これがバイカル(湖)じゃないかな」と言うものがおったんですね。地図を覚えてね。それはもう間違いない。それから、もうちょっと行ったら、イルクーツクという大きな都市に着いたんですよ。

最初の冬はもう――それについて話したら、みんな嘘だと言うんですよ。私の身近なものにその話をしたら、そんな寒さがどこにあるのかと。こう、唾を吐いたらですね、地面に着くや否や凍ってね、ゴロッと転ぶんですよ。すぐ凍ってね。零下40度だから。零下40度なら、その顔がみんな真っ白だ。瞳だけ黒でみんな真っ白だ。街の電信柱なんかが、普通はこれくらいでしょう。それがこんなに太い電信柱になってるんですよ。

そういう状態で、そのまま日本人の名前で、入隊するときは日本人だったから、国籍が日本だったから、 捕虜名簿を作ったそのまま、ロシア占領軍当局に連れられて行ってしまった。だから、「捕虜のうちに、韓国人は1人もおらない」と言うんだ。

本当にバカらしい。そこで3年半もおったのは。そこのコンバイン工場で働いていたとき、ヨシオカ少佐というのが作業大隊長だったのに、毎朝、東に向かって宮城遥拝をするんですよ。90度角度で天皇陛下の無事を祈るようにね。そんなバカなことを朝鮮人も一緒にやったから。作業をやるときにね。そして、作業から帰ったら、掃除当番、食事当番、みんなやるんですよ。私たちより、次に入る初年兵はおらんから。そこで(私たちは)2等兵でいちばん初年兵だった。だから、万年掃除当番、万年食事当番。それで、工場の現場で昼飯を食べるとき、見たら若いものが朝鮮人らしい。で、話しかけてみた。日本語だけ話したから。内務班でも、私のそばにいるのはぜんぶ日本人だったから。「もし、朝鮮から来たんじゃないか」と話しかけてみたら、「そうだ」と。そうして1人、2人、呼びかけて集めたんですよ。6名くらいが集まった。それが1946年、45年10月にそこに行ったからその翌年の5月ごろですよ。ここまで来て、日本の捕虜の、また捕虜になっておるのはダメじゃないか、このままではダメだ。

誰もロシア語をわかるものはおらない。だから、これからいちばん急務はロシア語を学ぶことだ。そして、隣にいるロシア人を通じて、「ロシア語を教えてくれ」と言って、教えてくれたのは、忘れないように手帳に書いてから、ロシア語を習おうと決心した。

約4週間くらい過ぎたかのときに、「明日は収容所長に会う」と。収容所長は少佐ですよ。ロシア陸軍の少佐。現役の少佐が収容所長をやっていたんですよ。それで集まってから、みんな紙を準備して、朝鮮の地図と満州の地図、日本の地図、それをみんな描いて持って行ったんですよ。持って行ったら、収容所長が「会わない」と言うんだ。「日曜日の朝なのに、作業がないのに、なぜ捕虜たちが俺と会うか」と言うんだ、「会わない」と。それで断われたんですよ。そのまま内務班に帰ろうと階段を下りてう行ったら、ロシア兵の下士官が、いつも私たちが作業に行くときに連れて行くし、帰るときにまた連れてくる、カンボイをしているロシア軍人の下士官ですよ。

「お前らどこに行くか」(と聞いて)、「所長に会おうとしたら会ってくれない」と言ったら、「ちょっと待ってくれ」と、自分が上がって(所長に)話したんですよ。「あの人たちはヤポンスキー、日本人じゃないし、カレイスキーだ。朝鮮人なんだ。所長に何か話したいことがあって、さっき来たのに、所長がダメだと言って、今、帰ろうとしています。その人たちと会ってください。その人たちは工場でも、いちばんよく働く人たちだから、一度会ってください」と。そしたら、所長が「じゃ、お前が連れてこい」と。それで一緒に行って、「私たちがカレイスキーだ」と言ったら驚いてね。「この収容所の1200人のうちにはみんなヤポンスキーだけで、カレイスキーは1人はおらない。そんなことは絶対ない」と。「いや、私たち自身がカレイスキーだ」と。そのときは創氏改名したことなんかも全部忘れてね。そしたら、キャビネットを開けて、厚いファイルを出すんですよ。「これがここの1200名のリストだ。名簿だから見ろ、ここに朝鮮人がどこにいるのか」って。「全部日本人だ」と。それで何ページ見たら、すぐ私の名前が出るんだ。日本語で“吉原”っていうのが出るんだ。「これが私だ。私は朝鮮人だ。ここのこの人たちもみんな朝鮮人で、朝鮮人が日本人として出ている」。そのとき、創氏改名したのも思い出したし、植民地として強制に(日本に)占領されたことも思い出されて、みんな手振り足ぶりしながら交代に話すんですよ。そしたらその所長が首をかしげながら、「ああ、これはおかしい、そんなこともあったか」と。「ずっと考えてみよう。上にも、ここに朝鮮人が入っていると上部にも報告してみるから」と。そして、「その次の日曜日に来い」と。で、その日に行ったら、「朝鮮人があるかもしれない。他の収容所にもおると言うから。だから、これを確かめるためにはどうしたらいいか、お前たちの意見を言ってくれ」。これはもう他の方法がないんです。「新しいフォームをつくって、新しい様式をつくって、自分が本当に生まれた所、自分の父母の本当の名前、自分の本当の名前、そして、日本の名前で創氏改名した名前、それを全部書け」と。「生まれた所、どこにある小学校に通ったか、それを全部書いて、身元調査書を新しく作るより他の方法がない」と。そう言ったら、(所長の)頭になんか浮かぶものがあるらしい。「分かった」と言う。「行け」と言う。で、ある日行ったら、練兵場にみんな集まらせて、「お前たちの名簿に間違ったところがあって新しく作るから、みんな作って出せ」と(紙を)配るんですよ。それで、みんな新しく作ったんですよ。日本人と一緒にいた人たちも、みんな初めて本当の朝鮮の名前を書いて。ある日、作業から帰ってきたら、みんな錬兵場に集めて、所長が直接壇に上ってから、「これから名前を呼ぶ者は一歩前に出ろ」と。見たらぜんぶ朝鮮人だ。昨日もあいつも日本人じゃないかなと考えていたものがね、同じ職場でね。見たら113名くらいがおった。相当の数、10%くらいがね。そんなに多いとは全然考えられなかった。それで、「みんな内務班に行って、自分の持ち物を持ってここに集まれ」と。集まったら、「この人たちは朝鮮人なのに、名前が誤って、日本人としてここに来た」と。そこのバラックで、いちばん新しく建てたバラックがあったんですよ。暑くて風がひとつも入らなくて、両側にペチカがあって、ペチカは、石炭をこれくらい入れて真っ赤に燃えて、暑くてたまらないくらいの。「そんなによくなっている。そこを空かしてやるから、そこへ、あんたたちはこれからそこに入るんだ、入るんだ」と。そしたら、あっちから「万歳」、こっちから「万歳」。そこにいた日本人たちは分配して、各小隊に編入させて、そこを空かしてくれた。そこに入ったら、所長が一緒に入りながら、「お前たちの代表が何回も来て、私に、朝鮮人がおるから家に帰してくれ、と言った。家に帰すのは私の権限外だ。でも、私にやることができるのは、あんたたちを朝鮮人中隊として編成して、このバラックは朝鮮人中隊のバラックだ。そして、日本人と作業場を独立させる。明日からは、朝鮮人中隊の作業場を別に与える。そして、あんたたちの代表たちが話したから、上に話して、家に帰るのは日本人より1日も早く帰るように私が措置する」。そしたらみんな一斉に「万歳」と叫んだんだ。朝鮮語で「マンセ」と言うんですよ。そうして、はじめて独立解放感を味わったんですね。それが6か月、7か月過ぎた後ですね、終戦した後でね。本当に情けない。

そんなに表にあげてから差別することはなかった。 警察本部から、現地の住んでいるところの警察に、「この人の行動を監視しろ」、「注意して見ろ」ということは指令されていたらしいです。それも、後で分かったけど。だから、履歴書なんかには書けなかったんですね。

Q:自分たちがシベリアにいたことを・・・。

そう。その(抑留)期間は自分の営業、事業、農業とか商業とか、そんなことに携わったと、そんなふうに書いたんですね。

シベリアの‘シ’字だけ出しても、「(あれは)もう共産党だ」と見なすときだったから、そのときは。「敵性国家に行ってきた」と言うんだ。そこで重労働をしたとは考えないんだ。そのときはね。

Q:帰ってきたその当時の状況が、そうだったんですね。履歴書を書けなかったっていうのは。ずっと、そうだったんですか。

ずっと、そうだったんですね。韓国戦争(朝鮮戦争)が起こるときまでは厳しかったし、起こってからは、もうどのものが赤か、どのものが左か右かは、みんな分かっていたんだ。北の人民軍がやってきたら、あいつらに協力する人がここで出るんだ。「あの人はぜったいに共産主義者ではない」と村でみんな思っていたのに、あれが、あそこ(人民軍)に加担してね、情報を、どれが韓国青年団のなにだの、どれが村の責任者だの、そんなことを告発して、皆、殺されるんだ。それから、韓国軍がずっと、北進したら、その赤者たちが逃げられないで、入ってきた。「こいつが北の赤者たちと組んで、誰々が殺されるようにした」と、また、バレるんですよ。それで両側から、ものすごい若者が死んだんですね。左も右もみんな死んだんですよ。何回も行ったり来たりしたんだから。

Q:そうだったけど、南北で戦うというのはつらいことではありませんでしたか。

それは、民族同士で殺しあうという、そんな戦争はないんですよ。共産主義者たちがそんな戦争を挑発して、他のところではもう。

Q:それは何ですか。ちょっと出してみてください。

これは、韓国戦争(朝鮮戦争)のとき、私は従軍して戦争に参加したんですよ。将校でね。1950年度に起こった、6月25日の朝、金日成が攻めてきて起こった戦争。日曜日の朝、攻め込んできたんですね、 金日成が。こちらではみんな、「週末外泊」といって、平和時代だから戦争の兆候なんかは全然なかった。みんな家に帰って。

Q:じゃ、イ・ビョンジュさんは韓国戦争、朝鮮戦争に出られたんですか。

初めからは参加しない。途中から参加したんだね。1950年だから、私は49年に(シベリアから)帰ったから、もう、また韓国の軍人にはなりたくなかった。でも、向こうは、北は非力だから、北が戦争を起こしたといって、何日がかかったか、すぐ攻め込んできて、「降伏させろ。」兵力が比較にならない。こちらはアメリカ軍があるからと思って(韓国に)帰ったのに、もうアメリカ軍もみんな引き揚げた後で、なんにもなかったんですよ。武器がね。それでやられたんですよ。

Q:じゃ、シベリアから帰ってきて、また、戦争に行かれることになったんですか。

そうそう、私は、全然考えたこともなかったのに。私たちはみんな「もう軍人なんか嫌だ、戦争は嫌だ」、という考えで帰ってきたんだから。なのに、(韓国軍が)どんどん敗れて、玄海灘に入る運命になったんだ。プサンまで行って。もうそこでやられたら行くところがない。そんな状況になって、UNといって、韓国の人として国連軍、連合軍に加入することにした。それを‘KATUSA(Korean Augmentation To the United States Army)’と言ったんですね。KATUSAと。そこの1期生に入ったんですよ。

Q:また、軍人になるっていうのは、嫌じゃなかったんですか。

いやいや、嫌だった。嫌でも、国が滅びるくらいなら、占領されて、負ける一方でですね。洛東江まで敵が来たから。これはもう、国のために出なければならないといって、友たちとみんな相談して、たくさん入ったんですよ。連合軍に。学徒軍ですね、学徒軍の志願兵として。それが後でみたら、KATUSAになっておったんですよ。韓国軍で連合軍の国籍を持つという。

Q:というのは、やっぱり北の共産圏からイ・ビョンジュさんが来たということもあって、「自分は韓国人の1人として戦うんだ」っていうことを見せたかったんですか。

いや、見せたかったんじゃないけど。それはもう、国境を、38度線を越えるとき、越えるや否や、私は南側の、大韓民国の国民になったんだから。自分の国のために戦うことは、極めて当たり前のことだね。

Q:ピョンヤンに行って、やっぱり、北朝鮮は合わないということがあったんですか。

それはもちろんですよ。それはもう向こうから来るときも。スターリンの奴のため、あいつは早く死ななくて、その無頼漢のために、こんな苦労をして帰るということを、帰るものはみんなそう言っとったから。もう3年半もそのまま。苦しみにあって、重労働したんだから。1ウォンももらえないで。私だけじゃなくてみんなそう考えた。 

Q:北朝鮮にお母さんとお父さんがいれば、そのまま、ピョンヤンにいたと思いますか。

いやいや、そうじゃない。私は「行こう」と誘って、南に移ったでしょうね。もし、おったら。

Q:これ、ちょっと、もう1回見せてもらってもいいんですか。どういうものなんですか。これは何ですか。

どうぞ、どうぞ。これは武功勲章といってね。

Q:なかなかもらえないんじゃないんですか。これ、みんなもらえるんですか、行った人は。

いいえいいえ、それは戦闘での功績がなければ(もらえない)。戦闘に参加して、たくさんの敵を殺した部隊にいた人、その功績が認められた人を、いろいろ調査してくれるんですよ。国家有功者に編入させて、国家恩給をずっとくれるんですね。それで生活が出来た。今まで。だから、私はこれを、シベリアでの抑留に対する名誉回復運動をしながら、私は国のために働いたことを認められて、国家有功者になって、国から相当の金を受け取ってるんですよ。生きて行くくらいはね。年金が十分だから。

Q:シベリア抑留の方が堂々と「自分たちがシベリアから来た」って言えるようになったのはいつですか。

1990年以降ですね。90年9月ですね。ゴルバチョフが登場して、ペレストロイカとクラスノスチ、ロシアの改革を叫び出してからそれが実現して、ソビエトの制度(体制)がなくなって、「自由に任す」と宣言してからロシアが変わったんでしょう。それでソ連と国交(正常化に)なったんですよ。日本とはその前から国交があったんだけど。うちらは、国交なんかはぜんぜん考えられなかったのに。ゴルバチョフのため、その当時、ノ・テウ政権のときだね、国交が樹立されて大使も交換し、国交が始まったんですね。それで、国交が樹立されたら、もう敵ではない。敵性国家ではない。敵性国家とは交流できないから、それで、そのときから名乗り始めたんですね。「私はシベリアに行ってきた、シベリアの歌を分かる」と、「ロシア語もしゃべれる」と。そう言いながら、「うちの村にも行ってきたものがおったのに、どこにおるのかしら」って、みんな探し始めて、いちばん初めに集まったのが9名ですね。9名がようやく集まった。同じ収容所にいたものもおるから。9名集まって、「シベリア朔風会」と名乗って、会を作って、そのときは、補償なんかは全然考えもしていなかった。未払い労働賃金なんかも考えない。ただ親睦のため、1か月に1回ずつ会って、あのときに苦しかったことを思い出しながら、あのとき腹が減って、炊事場の残飯を食べに、探すのに歩き回った。そんなこともあったことを話しながら、「木の皮をむいて食べた」とか、そんなことを話すんですよ。「ロシア人の労働者と、どんな間柄だった」とか話し合って。そんな目的でつくったのが「(シベリア)朔風会」ですよ。

Q:シベリア体験は、イさんにとってどんなものだったんですか。

シベリア体験が。

Q:それがなかったら、人生違いました。

それがなかったらですね。もちろん180度違ったでしょう。もちろん。いちばん重要なときの3年間だから、あの3年半はね。36年も間、植民地の生活した国民としては、あれは、もう本当に画期的な契機になったんですね。解放というものは。そうして独立したから。それはもう、ものすごく、180度違った人生になったでしょう。私はもう、正式な大学教育を受けて、社会に学者として進出し、私は本を書きたかった、文学に趣味を持っていたから。学校のときから。もうあの方面とか言語学ね。言語学に趣味を持っていたから、その方面の研究とか勉強をして、なんか後世のために、何かをやらなければならない。そんな立場にあったかもしれない。その方面での達人になっているかもしれないという事は、漠然とした議題ではあるけれど、もうシベリア帰りからの状況とは180度違う。そんな事を想像出来ますね。

地面に着くやツバがころがる。そんな寒さを、寒さは直接体験しなければ、「どれほど寒いのが40度か」っていう事は分からないです。誰もね。話を聞いただけでは、実感が出ないから。そんなひどい目にあって、多くの人が死んだ。これは殺人行為ですね。殺人行為。死なせたから。死ななくても良いものを死なせたから。強制に連れていって。だから、これはもう殺人。ひどい殺人行為ですね。それをやられた。それを考えたらたまらないんです。今でもね。それが二十歳、二十一、二十二、二十三、二十四歳、そのころの事だから、どうですか。それは考えてみればわかるでしょう。いちばんやりたい事が多い年頃を、そのまま無駄に過ごした。無駄なところか、腹減ってあの寒い目にあって、あんな重労働をした。

多くの韓国の人たちは、ほとんど60年も過ぎたから、もうみんな忘れ、もう忘れていますよ。そうして、今、あの60年前の事を話したら、「そんな事もあったか」というぐらいに忘れている状態なのに、このたび、この60周年記念式と・・・会と、そうして、その間亡くなった人たちのための慰霊祭をこのたび行いましたが、それをもって、少し昔のことが再び思い出されて、私たちの苦労が本当に同情すべきだと。本当にひどかったと。そんな同情的な話も聞こえてきます。だけど、私はそんな同情的な事を一言も聞きたくもないし、ただ日本が、ただ日本が、自ら何かを悟って、やっぱり加害者としての罪過があった、悪かった、これを何かでむくいなければならない。という意思を表して、そうして実行にそれを移して、そうして、そのときの被害者たちの心をなだめてくれる。そんな現象が少しでも起きたら、それは私たちは、もうシベリアの恨みは晴らしたと考えるつもりです。もうそれ以上何も望めない。それ以上の何か反省を要求したくない。そんな気持ちでこのたびの行事を終わりたいと、私たちは思っています。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1925年
ピョンヤン(平壌)で生まれる
1943年
ピョンヤンスンイン商業学校卒業後、満州で公務員に
1945年
徴兵で歩兵第253連隊に配属、満州国ハイラルへ 武装解除後、シベリア・クラスノヤルスクの第5収容所へ
1948年
12月、北朝鮮フンナム(興南)へ
1949年
韓国で解放。その後、朝鮮戦争に参加 終戦後は学校経営

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満州(ハイラル、大興安嶺)

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