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タイトル 「日本兵だったことで迫害」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 呉 雄根さん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州(ハイラル) 朝鮮(興南) シベリア(チタ)  収録年月日 2008年12月23日

チャプター

[1] チャプター1 徴兵され、関東軍に  06:30
[2] チャプター2 ソ連軍侵攻直前にハイラルへ  02:23
[3] チャプター3 銃殺を覚悟し、目をつむった  06:24
[4] チャプター4 シベリアの収容所へ  05:43
[5] チャプター5 密告を迫られた  04:45
[6] チャプター6 強制された思想教育  03:12
[7] チャプター7 故郷へ  07:08
[8] チャプター8 文化大革命の苦しみ  06:31
[9] チャプター9 ニッケル鉱山での糾弾  05:49
[10] チャプター10 徴兵・シベリア抑留の償いは  01:48

再生テキスト

先生の大部分が日本人です。国語の先生、それから数学やその他の科目もほとんどが。朝鮮語はぜったいやってはいけないのです。 ほとんどないです。

Q:じゃあ、ずっと日本語が主体で。

ずっと日本語です。日本語一点張り。それで朝鮮語は絶対話さなかったです。そうなんです。

Q:日本人である意識、日本人だっていうふうに感じられてたんですか。どういうふうに感じてたんですか。

本当に心の中から、「俺は、もう日本人になったからいい」と、そういう考えはないんですね。俺の祖先は朝鮮人であると。私も朝鮮人であると。しかし、学校の中では、日本語を強制的に教えるから日本語を学ぶと。そういう意識なんです。やはり、民族としての考え方はそのまま残っているんです。東京に行って、1年ぐらい勉強したんですが、そのときもやはり「俺は朝鮮人だ」と、そういう意識があるんです。「俺はもう完全に日本人になっている」と、そういう考えはないですね。

Q:当時は、日本のために戦おうというふうに思われたんですか。

それはもう強制的に。行かないと、日本人が兵隊で日本軍に入らないと、憲法に違反、軍事裁判にかけられて死刑です。ですから、もうしかたなく軍に入るだけで、心の中では、本当にまだ何ですか、「これはいい子になっておいたほうがいいよ」って考えを持ってたんじゃないですか。ですから、別れるときに、日本人の方はどうなるか分かりませんけれども、母と別れるときに涙を流しながら、軍隊に向かって入ったんです。それが本当の気持ち。そのときの本当の気持ちです。日本人の方も、別れるときは同じ気持ちなんじゃないかなぁ。「本当に俺は、国のために戦争に行くんだ。喜んで行くんだ」と、そういう人は何人いますか。いるんですか?

Q:呉さんは、そのときは、もうそういうに?

私の考えはそうです。やはり、私の祖国は、日本人に、日本人が占領して、もう私はしかたなく日本国民になって、戦闘帽をかぶって入隊するんだと、そういう考えで。別に行きたくて、本当に行きたくて行ったんじゃないんです。そういう仕組みになってるんですから、しかたなく行くと。それが本当の気持ちです。

Q:行かざるを得なくて。

行かざるを得ません。

Q:そのときは、どういうふうに思われましたか。

行ったらば、運が良ければ生きて帰れると。でもまあほとんど死んで帰るんじゃないかと、そういう考えですね。最後にお母様とお別れをして「私、戦争に行きます」と。生きて帰るとは思わなかったんですよね。

満洲、当時の満洲の吉林省のギョランケンに中央訓練所というものがありました。それは部隊に入る前の訓練です。いわゆる予備訓練ですね。指揮班は朝鮮人もいて、大部分が日本人で。もちろんいちばん上は日本人です。そういうところで、2か月間訓練をして帰ってくると、赤紙(召集令状)がもう既に届いているんです。家族とはその10日間いて、それから部隊へ行くんです。

Q:訓練を受けてから合流するんですか。

ええ。帰ってくるともう家に来ているのです。赤紙が来ているのです。

Q:赤紙が来たときには、どういうふうに感じましたですか。

もう来るべきときが来たなという感じですよね。最後、これで最後になるんやないかなという気持ちです。

何と言いましょうか、そのときの気持ちと言えば、まあ、「制度がこういう制度になっているから、しかたなく行くのだ」と。「しかたなく戦場に行くんだ」と。しかし、この戦争は、本当に朝鮮のための戦争ではなくて、「私たちは犠牲になって行くんだ」という、そういう思いですよね。それからまあ、行ってまあ、生きて帰るとは思わなかったんですね。「死にに行くんではないか、帰ってこれないのではないかな」と思って。最後に、そんなになって部隊に行くときには、お母さまと駅前で泣きながら別れて、それから部隊に入るのです。

撤退です。撤退撤退。部隊から逃げるんです。後ろの方に。戦争が始まったら、日本軍は何もない。武器もあまりない。それらしいものはない。だから撤退するんです、全部。

Q:9日にハイラルに配属されて、それで何があったんですか。9日にハイラルに着いてそこで戦いがあったんですか。

午前の10時頃、配属部隊に入ったんですが、そのとき部隊長が出て来て、部隊長と言っても本当の部隊長じゃなくて、残留部隊の部隊長です。それが中尉と思います。その人が言うのは、「すでに戦争が始まった」。遠いところで砲弾の音、大砲の弾の音が聞こえて来るんです。それから機関銃の音も聞こえて。「それを聞け、戦争はすでに始まっている」。そう言われた。それから白飯を食って、それから逃げるんです。夜暗くなっても暗がりを利用して後ろへ撤退するんです。それで14日に、5日目、14日の朝、10時頃ソ連(軍)とぶつかるんです。そこで戦闘を交えて、300,400人ぐらいの我々の部隊が全滅。15,6人を残して全滅したんです。

俺、耳がとれたんですよ、そのとき。鉄砲が当たって、自動小銃が当たって、ここがとれたんです。それから、左耳も大きなのがある、それから右腿を鉄砲で。それから、手りゅう弾の破片がここに入ったんです。

そのときの場面は非常に惨めな場面です。そこにはあまり書いていない。捕まって数珠つなぎにつながれて、14人の人が捕まれて、それからちょっと北の上に行って。小さい丘があるんです。そこで少したつと、今度は丘の上に連れて行くんです。そこにヒザを組ませて、座らせるんです。それから前に機関銃を据えて置いて、それでソ連軍は全部俺たちの捕虜をまた集まって、それを石を投げたり蹴ってみたり、子どもの遊びです。冗談で。それでも捕虜ですから何も言えないんです。これで銃殺されていくんじゃないかなと、目を開けて見ると、真ん前に機関銃を据えている。彼らは何を言っているのか分からないんです。で、しゃべっていいものやら全然分からない。そういう状態で目をつぶって弾の当たるのを待っていたんです。これで死ぬから、おばあちゃんにおじきをしてお別れ、「こうして私は死んでいきます」、心の中で叫んでそれから目をつぶっていました。いくら待っても弾が当たってこないんです。それで、また下の方に引き連れて、今度は下の方に。その前だったか、丘の上に上がる前に下の方に1列か2列か人を組んで、座らせて。それから銃剣で、その直前の戦闘で、日本軍の銃剣を引き取ってきて、それで次々、刺して殺しているんです。2人か、2人か3人突き刺されて死んでいったんですね。私たちの目の前で。 

そのときにちょうど将校らしい者が、ちょっと太った方が来たんです。それで肩をたたいて「殺すな」って、ロシア語でしゃべるんです。で、そのときにその太った方が日本語がちょっと出来たんです。それで話が通じた。だからそこで言ったんですね。「私たちは昨日入隊したばっかりで、兵隊になった事はない」。そこら辺の方の事情も聞くんですね。「ここら付近にどこに部隊があるか」「いや、それも分からん」と。「来たばっかりで、昨日来たばかりで何も分からん」と。それから、もちろん「朝鮮人だ」という事も言ったんです。で、「殺さないで下さい」と言ったら、そうしたら言うんですね。「コロサナイ、コロサナイ」、こう言いながら(ソ連兵の)肩をたたきながら「殺すな」と、そういう事を言って。それから丘の方へ上がってから、やはり機関銃を前に据えておきましたが、やはり撃たないんです。撃たないで笑いものにしている、足で蹴ってみたり石ころ投げてみたり、そういう事をしたんです。

痛かったのですが、この骨たちは残っていますから、骨に弾が当たっていないのですね。ですから、それは歩けることは、びっこを引きながら歩けるんです。歩けないともう鉄砲でその場で、鉄砲の一発でもう最期ですから、それが怖くて、それでもびっこを引きながら歩いていったんです。それでときには、馬の尻尾を引いたり、つかんだり、そんなにしてチャラントン(札蘭屯)まで来るのです。チャラントンに来て見ると、日本軍はそのまま、辺りの日本軍全部収容されて、敗戦になって収容されて、そこでもう既に捕虜になっていたんです。その中に加わったんです。加わって、約10日ぐらいして、それからソ連に向かうのです。ソ連に向かって、そこで手術を受けて、そこで、2か月ちょっと、2か月半ぐらいで、まだ完全に治療が・・完治されて、それから日本軍の捕虜部隊にそのまま入っていくんです。

戦争が終わって辺りを見ると全部死体ですよ。日本人の死体や将校の死体や、あるいは戦友の死体が、その一面に、ばらまかされているんです。そうすると涙が自然に出て来るんですよね。今まで一緒に歩いて来た人が、今は何とも言わないでここに寝ているんだなぁと。昨日一緒に歩いていた若者たちも全部死んでいたのか。それから、もちろん日本人の方たちがアンチョーイです。背の高い非常に立派な方が、指揮していた班長も死んで今は起きようとしない。それで涙が出て。泣いたんです。

ソ連に捕虜で、ケガ人とか、負傷者だからソ連に連れられて行って病院に入ったんです。病院に入って手術を受けました。そこで、破片を取り出して。それからこっちも、ケガがあまりにも大きいから、胃(腹)の方から肉片をとって、こっちを埋めて、それでようやく治ったんです。

Q:抑留中も朝鮮人であるっていう事で、差別を受けたりそういう事はありましたか。

それが、他のところでは、やはり日本人と朝鮮人との間に、やはりもめ事があったらしいです。でも、私の行った収容所は朝鮮人も(は)私1人だけです。それから私は通訳を、まずいながら通訳をしていたんですが、日本人から来る差別、あるいは圧力というものはなかったんです。

Q:むしろ上官が部下をこき使うっていうんですかね、そういう日本軍のそういう組織的な秩序みたいのは、そのままシベリアでもあったんですね。

そう。初め、1年目、2年ぐらいはありましたね。で、3年目から、3年4年目からその後になっては、そういうのはなくなったんです。民主運動というものがソ連で始めたんです。それは後になってなくなったんです。

Q:民主運動っていうのはどういうものだったんですか。

民主運動っていうのは、簡単に言えば洗脳運動ですね。頭を洗う。今までは皇軍の思想でなんと言いましょうか、いっぱいになっているんですが、その頭を取り換えて、ソ連式の共産主義の頭に取り換えるという運動。一言で言えばそういう運動です。ですから、ソ連のマルクス、あるいはレーニンの学説とか、党員は働くものはやはり、働く者としてブルジョアを倒して、自分の国を作らなければならんと。簡単に言えばこういうものですよね。これが民主運動です。

Q:民主運動に触れたときに、呉さんはどういうふうに思われたんですか。民主運動のことを。

やはり私は「これはいいな」と思ったんです。「我々下っ端の兵隊たちを解放するのは、やはりこの道を行かないとだめだ」と。昔の皇軍正統のそのやり方で行けば、上の、いくらばかりの将校たち、やはり将校たちの暮らしはいいと思いますが、下っ端の多くの兵隊たちは、生活苦しいのは改善されないと。これは、民主運動、本当だなぁ。本当にこれはいい運動だと私は思いました。

民主運動が始まって、ときたまに講演会をやったんです。収容所の中で。で、弁士が日本人の方も沢山いたんです。あとは朝鮮の人(は)1人です、私が。私も弁士として、「私はなぜ朝鮮人でありながら、日本名を名乗っているか」、そういう題目をつけ、発言するんです。やはり講演したんですね。それが、第二収容所のときです。それが。

Q:なぜそういうスピーチをしようと思われたんですか。

いや、彼等に、やはり朝鮮人として、どういう境地に立っているか。私は日本人でもない。その事のためにここにやってきたんでもない。大体、そういう者がどうしてここに入っているか。それを強調しながら「自分は朝鮮人だ」と。そうして「名前もしかたなく日本の名前を名乗っている」と。こういう事を話したんです。別に賞というものはないんですね。捕虜ですから賞はない。司会者から、やはりご褒美の言葉をもらいました。その方が、「今、呉さんの話を聞いてみろ」と、「どうしてこういう事になったか」と、そういう事を言ったんです。それは今も頭に残っているね。

それは機関車修理工場にいたとき、民主運動が6,7月頃に始まったんですが、そのちょっと後、ひと月ぐらいして、政治将校が私に言ってくるんです。「お前、一つ任務がある」と。どういう任務かというと、「お前のこの収容所の中で、昔特務とか、あるいは憲兵だったとか、そういう仕事に従事した者をこっそり調べて言ってくれ」と。これが問題です。一つは「私は全然そういう事したくない」と。そういう事全然したくないです。まるきり反対です。したくないです。俺の性格と全然合わない。そういう事をするような性格じゃない。それが一つです。それから二つめは全然知らないんです。誰も言わないんです、そういう事を。「私は憲兵だった」とか、「私は昔は何だった」。俺の、私の前でそういう事、誰がそういうバカ言うんですか。

で、「俺は知らん」と「分からん」と。「探すことは出来ない」と。政治将校はいつも私に怒るんですね。怒る。どうして知らないんだ。私たちは本当に分からない。でもやりたくないという事は話せないんです。ただ「分からないから、しかたがないじゃないか」と。最後に、処罰です。やはり処罰。処罰は11月前半に収容所を出る。追放するんです。「第2収容所に、お前行け」と。で、行くときに、そのときの11月の革命記念日に、ソ連はその日を記念日として重視していたんです。11月の革命記念日に新しい服に着替えるんです、私。履き物とか、全部新しいものに履き替えて。それ(着ていた物)を全部のかせて(外させて)、「お前はこれだ。これを着ろ」と。それで私は全部脱いで、それを着て、第2収容所に来た。そこで初めてよくよく考えてみると、あぁ、これは一種の処罰だな。そこで第2収容に。労働。労働に、まず山の中に入って伐採をするんです。そこにいたんです。それで山の中に入って伐採しても、そのとき私は若いんですから仕事が何でも出来る。山の中で伐採していると、いちばん初めにノルマを完成するのが、私。

それからそのときに、時には、(零下)40度になったときも、ほかの人は休養させながら俺を引き出して、ある日、チタから約200キロ北のほうに小さい駅があったんです。そこへ行って何を取ってくる。なにか機械ですね、ポンプかなんかがあって、2人で、捕虜2人を出してくれって。その中に私はあるんです。1人はほかの人で、1人はクレハシ(呉さんの日本名)。で、(零下)40度というと、すぐ犬は凍って死んでしまうんです。そのようなとこでテントを被ってトラックの上に座って、それから北に行くんです。200キロくらい北のほうに。そのときは、ひょっとしたら、この命がなくなるところでした。

やはり1つは、ソ連の、まあ結局は、最後の目的はソ連の思想化、赤い思想化。赤い思想に頭を洗おう(洗脳しよう)ということではないかと思います。よく働くものの社会を作ると、天皇制を打倒すると、そういうことで。いつも「天皇制を打倒する」と、そういう、そのスローガンを叫びながら行軍なんかするんです。市内行軍といっても、収容所の中で行軍をしながら、仮想の敵を作ってそれを攻撃していくと、そういう運動もしました。それから理論的には、「レーニン主義」という本があったんですが、そういうことも勉強して。それから毎晩討論するんです。まず自分がどういうことを、どういう目にあったか。俺は主人がどういう施設だと。討論もするんです。それから今の、昔の将校たちはどういう命令をしてきたかという、天皇制のいわれを、そういうことするんですね。

Q:それは、それまでずっと日本部隊にいて日本軍の中にいて、ある種、ご自身の祖国じゃない国に動員されたという思いとか、いろんなその複雑な思いがあったと思うんですけど。そういう部分に関しては、むしろその反軍闘争とかいうのはご自身の中では、どういうふうにそれを受け止められたんですか。

反軍闘争。私はそれを、そのときの考え、今の考えじゃなくて、そのときの考え方としては、ソ連軍の宣伝のほうにやはり惹かれていったんじゃないかと思います。やはり一理はあると思う。労働、働く者の社会を作るというのはいいんじゃないかと思いました。それで、昔の指導者を追い出して新しい人たちは民主選挙で当てること。そういうものの1つずつでも賛成という状況だった。やはり自分の出身と関係があるんじゃないかと。小さいときからやはり苦しい中で育ったと。そういう関係もあるんじゃないかと思います。

ソ連のナホトカを出て、ナホトカ小さい港ですが、そこで船に乗って北朝鮮のフンナムに着くです。着いてから4日目に着きましたが、船から降りるときに、ソ連軍側から1人の将校、それから北朝鮮の政府から1人の方、2人が立って、降りるときにいちいち点検するんです。1人2人、3つ、2人で数えてやります。着くとすぐです。今覚えているのは、2100、2362人かな。

Q:そのときですけど。例えば、帰国はどこで申し渡されたんですか。チタですか。

チタです。チタで申し渡されて、それから車に乗ってナホトカへ着くんです。そのナホトカに着くのが、汽車でそこまで帰って行くんですが。やはり遠いんです、距離は。チタはいちばん北、それがナホトカはいちばん南のほう。それが満州国境いっぺんするんですね。7日かかったんです。7日かかって、それからナホトカに着くんです。ナホトカで約2か月ぐらいいたんじゃないかと思いますが。それからまあ、そこで船に乗って帰ってくるんです。

機関車の大群はそこのナホトカに行っても、集められて、そこに待機、待機命令。帰国を待機するんですね。朝鮮人は朝鮮人の収容所で、それから日本人の方もたくさんいたんですが。日本人の方はその日本人の方の収容所。また別に作って、そこで別々に待ってたのです。

私の父はもう満州から北朝鮮に行って、フンナムの北に、ちょっと北のほうにカン・・・、なんと言ったかもう忘れたね。カンナン。鉱山です。鉱山で働いているという話を聞きました。そのときにどうして収容所に父がやって来たかと言えば、そこにケンザンというところがあるんです。ケンザンに出張にきたんです、らしいんです。それで出張先で新聞を読むと、見てみると、「ソ連から捕虜たちが帰ってきた」と。「何人があるんだ」と。「どういうふうに帰ってきた」と。それで訪ね、ケンザンからホウナンまで近いんですから、歩いただけできたんです。それで再会したんです。

Q:そのときに呉さんは、北朝鮮に行ったり韓国に行くとか、そういう祖国という選択肢もあったと思うんですけど。なぜそのときに中国に。

というのは、理由はこうです。そのときはこの北朝鮮と南朝鮮、朝鮮半島は2つに分かれてお互いに攻撃をしてます。口げんかをして悪い宣伝をするんです。南はこの北が悪いと。北のほうは南のほうが悪いと。だから頭にいい印象は残っていません。それで北に行くとか南に行くとか、そういう考えは私は全然持っていなかったんです。 それから父が言うのには、母がまだそこに、「おかあちゃんが昔のセッケンに残っているから、早くお前が帰っていって暮らしを楽にしてやれ」という話を聞いて、早く向うのセッケンに帰って行きたいなあ、という考えで中国に帰ってきたんです。

Q:それは中国に一緒に帰ったのは何人ぐらいいるんですか。

302名です。そのときに帰ったのは302人。

とにかくそのときは302人が帰ってきたと。で、北は、南が約500人、あとはもう北朝鮮です。ですからいちばん多いのは北朝鮮。北朝鮮が約800人ぐらいじゃないかと。南は500人、中国は300人。

Q:戦後シベリアから帰ってこられたときに、朝鮮民族として、朝鮮の国での国民になりたいという思いはなかったんですか。

それが、今、言うと、あります。そのときはまだ若いです、そういう考え持っていません。それから2年前に考えるのは、やはり自分の母をなんとかして楽にさせようと、そういう考え方でおると。それから問題なのは、北朝鮮は非常に苦しいんです。暮しが苦しいんです。今ひと言でいえば、あまりよくないと、将来がよくない。それから南のほうは分からない、どういう状態か。北のほうは南が悪いというし。だからどこへ行ったらいいか、南へ行こうと・・2年ぶり人、どうしますか。ソ連には行かれない。北にも。北の状況はよくない。だから早くに中国に帰って母でも助けてやりたい。そういうので帰って。今、考えてみると、北はやはり昔と別に変っていない。だから北には行きたくない、全然行きたくない。 南はその当時はちょうど、ものすごく発展しているんです、南は。だから南へ行きたいんなら行けと言ったら私賛成します。でも行かれません。南へ行っても何も頼るものがいない。1人ぼっちで行って何しますか。

私は貧農出身です、貧農。ここでは主にこの階層にいるんです。なんの階級もない。そして昔なにをやっていたのか。うちでは、なんのうちの身内なのか。私のうちは貧農です。貧農がどうして文化革命のときに対象になったのか。 主な理由は、日本軍になったからです。日本軍に行った、1日か。捕まったときは、「行ったのは1日だけです」と言ったのに、全然彼は聞いてくれません。「1日でも2日でも同じだ」と。「だからお前は日本。日本は中国人の敵だ」と。「敵の軍隊に入っていったじゃないか」と、「お前は、当然、この文化革命の対象」と。それでリンチです、リンチ。(罪状を書いて)リンチが始まるのです。

Q:どういうふうに始まったんですか。

札は、ここに針金を通して、針金と言ってもこの糸のような細い針金を通して、それを首に掛けます。太さは板の太さは2~3センチぐらい。このは幅は、約これぐらい、30センチ、35センチぐらいありますね。長さはこれ50~60センチ。これくらいで板というよりも鉄のように重いんです。そういう板。鉄のように重い板です。それを(首に)かけて半日間、日照りの中で、日照りの中で立たせておくんです。それで最敬礼をした格好をして、それを首に掛けて立っているのです。それがリンチです。

Q:どういうふうなことを書かれる、どういうふうなことを書かれたんですか。

「日本関東軍。」

Q:大きめに。ちょっとこれが札だとすると、どんなふうに書かれていたのかを、ちょっと大きく見せてもらえますか。

横に書いたな。

Q:どういうふうに。

これが文化革命のときの、いわば彼らが私になすりつけた、なすりつけたと言っても、つけた罪名です。罪名。「日本関東軍思想反動分子」、こういうんです。これを針金を通して糸のような針金を通して、首にかけて半日間、日照りのその中で立っている。

Q:これを前に。

ええ、これ前ですよ。それでその板の厚さは2~3センチ、縦が約35センチぐらい、横は約50~60ぐらいになります。それでこの重さが鉄のように固いんです、重いんです。だから半日間立たされると本当に困るんですよね。それでも私は残念だった、立たされる。それだけならいいんですけど、それだけで済むんじゃないんです。午前や午後になると、午前でも時間が数時間あれば、この町に引きずり出して、もちろん私1人だけではありません。女の人もこういうふうに、なんですか、手枷(てかせ)され、された者を、町に引きずって町のほう歩くんです。立ち回る、歩き回るんです。歩き回ってそこでもう、こういうこれを見て、・・・、これ地方議員なんて通ってくるんですね。そうすると殴ったり、あるいは石ころを投げたりする。あるとこへ行ったら、座ってこんどは、なんですか、大会を開くんです。「こいつは、過去、どういうことをした」と。それはどういうことをしたと。私はこれが罪名です。どうしてこういう罪名をつけたのか。1つは日本軍に行った。「1日しか行っていない」と言っても駄目です。1日でも行ったから行ったのは行ったと。それから「思想反動分子」というのは、当時、思想反動。朝鮮に帰りたいと言って申請書を出したことが、今でもいたんです(とがめられた?)。

それが済むといちばんひどかったのは、この町へ行くときは、横には木刀、日本軍刀をかたどった木刀をつるします。頭には地質調査隊の使っているいる兜(かぶと)、屋根のような兜を紙貼って、それを被せているんです。日本関東軍の鉄兜のように。それを頭に乗せてそれで横には軍刀、木刀をつけて、それで町へ行くんです。それが私1人でと、だけです。ほかの人は罪名があっても、全部このような体面は、こういうのを被ったのは私1人だけです。だからここに行くのも、私が1人行くんです。ある日この隣にニッケルの鉱山があったんですが、私たちはそこの地質調査で鉱山に行ったんですね。引率者が連れて鉱山に行ったんです。鉱山に行って、人の前に座らせて、これを見せるのが、「こいつはこういう者だ」と。ところが鉱山のこの労働者が門をかけている、こんな大きな棒で殴るんです。殴って殴って殴られて、もう死に目に。「もう死んでいくんだ」なんて、生気がなくて、もう呼吸がなくて。これ生きながら、目をつぶって待っていると、引率者がちょっとやはり見て、様子を見るとよくないから、「もうこれで、これぐらいにしましょう」と。それでそこで帰ってくる。でないと、その場で棒で殴られて死んでしまう。そういう場面もあったんです。そこで殴られて家に帰って、家というもんじゃない、宿舎ですね。家に帰ることができません。宿舎に帰っても今度ほっぽっておく(放っておかれる)と、歩くことができない。殴られてもう歩けないんです。歩けなかったらしかたがない、こっち腹ばいで宿舎の部屋まで中に入って、毛布にくるまっていたと。そういうことなんです。どうにかうちに帰って、その翌日にこの腿(もも)を見ると、腿の両腿のここからここまでは全部のナスの色に変わってしまったんです。ナスビの色に変ってしまった。

Q:紫色にですね。

そうです、紫、それから真っ黒にですね。紫ならまだ良いほうです。真っ黒な紫。そういう色に変ってしまった。で、彼らも見て、あんまりひどかったと言って、町で休んで何日じゃ休んで、それで命を助かったと。そういうこともありました。これが文化革命です。

Q:それは自分の意思で関東軍に加わったというふうに思われているんですか。

彼らの言い方はそうです。結局、「お前、加わった。関東軍に加わった」。加わったと言って、「自分で行った」というふうに説明するんじゃないかと思います。実はもう、しかたなく行かないとクビになりますから。一般の人にそれ言っても駄目です。

「お前何人殺したか、中国人に何か悪いことをしたことはないか」と。そういうことを聞いたことは、聞かれたことはあります。何もしていないのだから、「私は中国人に何をしたこともない。そういう時間もなかった。」と。「部隊に入って、それからソ連に捕まえられて、それからソ連に拉致されて行ったんですから、そういうする場がない」と。言われた罪ですね、人民に対する罪はないんです。それをそのまま言ったんです。やはり通ったんですね、それが。

Q:そのときに精神的、肉体的にもね非常に苦痛を与えられて、職場も失うんですか。

職場は失わないんです。職場は失わないんですが、革命のときになるとやっぱり医者の仕事は辞めさせられて、毎日今度は石炭の積み上げとか積み下ろし、そういうことをさせるんですね。毎日労働です、やはり。病院に入って患者を診たりそういうことはやっていけないのです。

Q:その文化大革命のときに攻撃の対象にされてしまったと。そのときにはどんなことを感じていましたか。

やはり私はここ、地理的にこういうところに、朝鮮人のあまり多くいないところに来て仕事をしているから、こういうことになったなあという感じを僕は受けました。もしか私が延辺(朝鮮人自治区)にいたら、朝鮮人がそこには多いから、私の子どもも通わせているから、こういうことになり得ないと、そういうふうに考えたのですが。

日本でどうして自国の国民には、兵隊に行ってソ連に行って拉致されてくれるのに、多くはないけれどもいくらかやっていると。まあ10万円、それに銀杯、それから全国旅行、いろんなことをしています(*2007年から抑留者に贈呈された10万円相当の旅行券等のこと)。金は多くないんですが、やはり自分の自国の国民にはこういうことをしながら、同じくシベリアへ行って、日本の国のために働いていた他の国の人に、慰労も慰謝の言葉もない。そこが私は非常に残念です。そこはこういうべきではないと思います。日本政府でも、やはりお金はくれなくても慰謝の言葉でもいいですよ。お前たちも非常に苦労したと、ありがとうと。そういうこともないんです。これはおかしいんです。

結果としては日本の国のためにやったんです。だから日本政府、政府同士が、やはり同等に、別に日本の方より俺のほうにずっと良い、そういう待遇を要求しているんじゃないです。日本人と同じく扱ったらそれで済むんです。それしないんです、日本は。だから今でも心の中ではそうやっておりますよ、私。私の考え方ですよ。考えて欲しいのはそういうことです。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1926年
旧満州(現・中国東北部)に生まれる
1945年
徴兵され関東軍・515部隊(ハイラル)に入隊
 
8月ソ連軍により捕虜となりシベリアのチタ収容所へ
1949年
1月、旧満州に帰郷 医学を学び内科医に
1966年
4月、文化大革命の際「反動分子」として糾弾される

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