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タイトル 「ソ連侵攻、シベリア抑留」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 イ・チェソップさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州(ハイラル) 朝鮮(興南) シベリア(クラスノヤルスク)  収録年月日 2010年2月17日

チャプター

[1] チャプター1 皇民化政策  08:56
[2] チャプター2 徴兵  06:44
[3] チャプター3 ソ連軍の爆撃  02:12
[4] チャプター4 戦車への体当たり攻撃  08:36
[5] チャプター5 武装解除、そしてシベリアへ  08:11
[6] チャプター6 クラスノヤルスク収容所  09:19
[7] チャプター7 朝鮮人中隊  05:48

再生テキスト

Q:小学校のとき、日本語ばかりだったんですか。

もう1年生から日本語の教科書で勉強したんです。朝鮮語の教科書は1週に1回。1回は許されたんですね、朝鮮語の教科書が。それが、私が卒業するときには(朝鮮)総督(府)令によって廃止されたんです。全部、日本の教科書で勉強するように、と発表されたんですね。

Q:中学のときの教育というのはどんなことをやったんですか。なんか、宮城遥拝とか。

朝の朝礼に宮城遥拝をして、また天皇陛下の、現在も君が代を歌いますか。

Q:歌いますね。

あれは天皇陛下の歌ですね。それを歌って、そしてまた皇国臣民の誓いというものを。「私は皇国臣民であります」とかね。そうそう、3つがあったんですよ。あれをまた奉唱するんです。そして、朝礼が終わったら、また教室に入って勉強をしたんですよ。宮城遥拝は毎朝しました。

あれは捕虜になっても、ソ連に入っても宮城遥拝したんですね。私は日本の軍隊組織にそのまま入ったからね。宮城遥拝したんですよ。その感慨があるんですね。

Q:そういう、小学校時代の皇民化教育に疑問はなかったですか。

その当時はですね、まだ12、3歳だったからね。特に日本化されるのが当然じゃないかなという教育でしたし、また朝鮮人の先生が、半分半分ぐらいおったんですかね。日本の先生からも教育を受けたし朝鮮の先生からも教育を受けた。これは徹底的ですよ、学校で朝鮮語で話したら体罰されるんです。1回、2回、朝鮮語を2回しゃべったら、もう印(をつけられる)ですね。3回やったら体罰されるんですね、先生に。それで、相互にそれを先生に、誰が朝鮮語でしゃべったと言う、先生に。それで体罰される。徹底的な皇民化教育を受けたんですよ。しかたがないじゃないですか。そしてまた朝鮮には日本人がたくさんおったんですね。日本人が。小さな村まで。ここは、昔は小さな村だったんです。でも、日本人が約10名ぐらいはここにいたんですよ。

Q:中学に入って軍事教練が始まったんですか。

ええ、そうです。あれは、現役の将校が配属されて軍事教育を受けたんですよ。軍人の勅語を覚えるとか。軍人勅語というのがあるんですよ。

Q:どういうものですか。

覚えたが忘れましたね。あれを教練教官が、「あれは絶対的に覚えろ」と、「必ず覚えろ」と教えたんですよ。ほとんど70%は日本化されたんじゃないかと、朝鮮の青年が。そういう教育を受けたからですね。朝鮮語の教育を受けても、話はできるけど朝鮮語を書くのはでたらめだった。日本語の方がむしろ易しかったですね、書くのが、逆に。そういう教育を受けたんですよ。
 
Q:軍事教育って具体的にどんなのがあったんですか。

そうですね、小銃を分解して、またそれを組み立てる教育まで受けたんですね。

Q:それがうまくいかないとどうなるんですか。

教練先生から厳しくいじめられた。中学校を卒業したら、軍事教育はほとんどみんな受けたと言ってもいいじゃないかと思いますね。ほとんど小銃の扱い方もみんな習ってましたしね。正式にみんな教練も受けたからですね。また、軍隊に入ったら、軍人勅語は必ず覚えることになっているんで、既にみんな中学で覚えてたからですね。1週間に軍事教練科目が5時間ぐらいは割り当てらていたんじゃないかと思いますね。現役将校が学校に配属されたんですよ。

軍人の身体検査も受けたからね。甲種合格。甲種、乙種、第1乙種というのが判決されるんですよ。徴兵官によって。その徴兵司令官が大佐ですね。甲種合格して、8月1日に入隊したんです。あれは日本の陸軍省から発布された徴兵令によって召集されたんですよ。

Q:検査の通知が来たときはどんな気持ちだったのですか。

そのときは、私がどうして日本のために戦線に行って命を投げるか、そのときはそんな考えでした。行かなかったら軍法によって、軍人の法によって処罰されるから、あれは厳しかったんですよ。命令を受けたら入隊しなければならなかったのです。

日本人は赤紙を受けたらどんな気持ちで軍隊に入ったかは分からないのですが、私は気持ちが悪かったですよ。受け取ったときは。私はすでに結婚していたんですよ。軍隊に入る前に結婚して、軍隊に行けと。お父ちゃんがいたから、結婚して。それが軍隊に行くようになったもとです。私独りだったら分かりませんが、その当時は妻がいたから、気持ちが悪かったですね。子どもがお腹にいたんですね。

入隊して、軍人になって逃亡するのは分からない。家の方では分からない。既に息子は日本軍隊に入ったから。日本軍隊に入ってから逃亡したのはそれは責任がないですよ。「お前らが私の子どもを召集していったから責任はお前たちにある。親である私には責任がない」。逃亡する者があったんですね。軍隊に入って。そりゃ、逃亡してもみんな捕まるんですよ。

Q: 逃亡したいという気持ちになるんですか。

そんな気持ちはなかったですね。逃亡しようという気持ちは。満州とか全部日本の警察が組織されておるし、警察署があるし駐在所があるし、逃亡しちゃってもすぐ、まもなく捕まるんです。逃亡しようという考えはなかったんですね、私は。軍隊に入ったから、軍人教育を受けて運命に任すと。戦死するとか、生きて帰るとか私は全部運命に任すと。そういう考えだったんですよ。満州の大興安嶺で「お前はその爆雷を持って、ソ連の戦車に体当たりせい」というときは、私がなぜこのような大きな任務を果たさなければならないか、誰のためにと、そのときは情けないかったんですね。私には独立した国家がないから、こんな運命をたどるんじゃないかと。

(8月)6日に到着したんですよ。6日に到着して、整理が約3日。9日の朝に飛行機に急襲されたんですよ。それで、戦争だってことを分かった。

Q:着いた当時、ハイラルはどういう形だったんですか。

ハイラルは分からん。部隊に、あの、当時、約5時ぐらいにハイラルに到着したのに、下車はしない。なぜ下車しないと聞くと、ここは国境地帯だからスパイが多いと。だから兵士が移動するのをスパイが(感じ取るかもしれないから)、日が落ちてから部隊に入ったんですね。下車して、夕方に。

飛行機は低速(低空)に飛んで来たんです。それで投下したんです。それでこっちに逃げたり、あそこに逃げたり。爆弾が投下するときはですね、太陽に映ってね。キラキラキラして。朝飯を食べなかった、昼飯も食べなかった。夕食も食べなかった。1日腹が減っているんです。それで「戦斗が終わったから、今晩は撤収する。全軍この部隊が撤収するから、お前たちはそこにいて、持ちたいものをみんな持って集合しろ、練兵所に」と。

Q:夜通し歩いたんですね。

夜通し歩いた。夜通し歩いて、そうして夜が明けてですね、夜が明けてからはみんなバラバラになったんですよ。もう。バラバラになった。そうして「興安嶺に集結する」と。興安嶺。その話だけを聞いたんです。「興安嶺に行ったら、みんなそこに部隊がおるから。興安嶺で集結しろ」って。逃亡したい考えはあったんですがね、逃亡したら満州も分からん。満州の地理も分からん。

徒歩で、歩いて。みんな支離滅裂にみんな離れて、個人個人で後退したんですよ。部隊が一緒に後退したのではなく、一人一人が後退して、興安嶺の陣地に入ったんですよ。昼は飛行機が爆撃をするし、部隊が一緒に行動することができなかったです。みんな離れて後退しました。

Q:興安嶺に着いて何をしたんですか。

塹壕(ざんごう)を掘ったんですね。それから1日、特攻隊の教育を受けた。約3日間ぐらい塹壕を掘ってから、「お前、星山来い」と。私の創氏改名が星山だったから、「星山、お前はこれから特攻隊の教育を受けろ」と、部隊長から。それで、1日、特攻隊の教育を受けたんですよ。

Q:それは本当の爆弾を持ってですか。

おお、持っておったんですよ。TNT火薬の入ったのを、白いヒモで(肩からつって)持っておったんですよ。重い。(着火用の)ヒモが真ん中に3つあって、マッチ1つと。

Q:それを持つ練習を1日したんですか。

「それはお前が責任をもって持っていろ」と部隊長から言われました。教育はそんなにしなかった。そして、昔は軍隊で使う小さなシャベルがあったんですよ。エンピ(円匙)というのですが、それを持って土を掘るんですね。それを持って、たこつぼを掘るんですよ。「戦車が来るから、その中に入ってから戦車が過ぎたら、お前は期間銃の弾を受けない。だから、そのときに出てヒモに火をつけて、戦車の中に体当たりしろ」と、そんな教育を受けた。

TNTの入った爆弾と、この3つのヒモがあるんですよ。そしてマッチをもらったんですよ。そのヒモにマッチで火をつけるんですよ。それで、戦車の下に入って体当たりしろという訓練を受けたんですよ。これは当たると同時に安全ピンが外れて爆発する構造になっているですが、そのときはヒモにマッチで火をつけて、戦車の下に体当たりしろという教育を受けたんですね。カエルのように泳ぐという教育も受けたんです。そして(戦車の下に)入れという教育だった。タコツボというのは、体を潜める所を軍隊ではタコツボというのですが、タコツボに入って戦車を待ってて、そのヒモに火をつけて、そして体当たりしろという教育でしたね。そんな教育を受けてもですね、私はこんな、教育も受けてない兵士にこんな重要な任務を任せるのかと。それは植民地の兵士だから、日本の兵隊は誰一人もそういう教育を受けなかったんですね。朝鮮人の兵士2人がこういう教育を受けたんですよ、私の軍隊では。各小隊に何人と、指名されたんじゃないかと思うんですね。それで私の軍隊で2人、朝鮮の兵士、青年が。この兵士も少年兵。こういう心情でしたよ、現在考えても。

気が気ではなかったんです。呆然と。これで私は、名もない地名も分からない満州の所で死ぬんじゃないか。私が死んだら、誰がこの死体を埋めてくれるか。どこで死んだのか家族は分からない。情けなかったですね。そんな気持ちだったんですよ。どうして死ななければならないのか。どうして私が爆弾を持ってソ連の戦戦車に体当たりしなければならないのか。これで死んだら、私が死んだのを誰が分かるか。朝鮮の家族はどこで死んだのかも分からない。どこに埋められたのかもわからない。本当に情けなかったんですよ。

チチハルの前にコウコウケイ(昂昂渓)という小さな駅があるんですけど、そこで初めて部隊長の顔を見て、部隊長が日本は連合国に無条件降伏したということを、部隊長が涙を流しながら部隊員に話したんですよ。「日本が負けた」と。そして、約何時間後に、武装解除したんです。銃と手りゅう弾と鉄砲玉と、あれをみんな集結して下ろしてからチチハルに入ったんですよ。夜歩いて、朝頃チチハルに到着したんじゃないかと思うんですね。チチハルの、その部隊は分からない、日本の大きな部隊だったんですね。そこの兵営に収容されてそしてソ連に入ったんですよ。

Q:敗戦のことを知ってどういう気持ちだったんですか。

それは、朝鮮人の兵士は心からは、日本が負けたから家に帰るんじゃないかと。日本の兵士たちは泣く人もいるし、日本がこんなに負けたかと。

Q:敗戦のときに、「これで国に帰れる」と。

そうですよ、私たちはそんなふうに考えたんですよ。国に帰れるんじゃないかと、日本が負けたから。「私は日本人じゃない、朝鮮人だから当然に帰れるんじゃないか」と、日本人たちもそう考えたんじゃないかな、「お前たちは朝鮮人だから、朝鮮はまもなく独立するから帰れるんじゃないか」と言ったんですよ。それで安心していたんですよ。なのに、日本人の軍隊と一緒にソ連に入った。だまされたんですよ。

私たちは捕虜としてソ連に入ることも考えてなかったからですね。日本の兵士も帰るじゃないかと。その当時、軍隊の部隊内の軍人が約80%は満州で召集された補充兵だから、満州に残るか、日本の兵士もそんなふうに考えたんですよ。家族がいるからここに残るか、それとも日本に帰るか、本当に心配したんですね、兵士たちは。「日本に帰っても家族が現在いるか分からないから、私たちは日本に帰れない。家族と一緒に日本に帰る」と、そんなふうに考えたんですよ。とんでもない。そう考えたのは。ソ連に入るとは分からなかったんですよ。日本人の兵士も私たちも皆。

Q:ソ連に向かってるということも分からなかったですか。

分からなかったです。もう当然戦争が終わったから、故郷に帰ると、国に帰るとみんな考えたんですよ。日本の兵士たちが一緒に、この部隊と一緒に日本に帰るか、それとも満州で家族と一緒に残るか、そんな考えでした。

Q:鉄道に乗ったんですか。

そうです。

Q:そのときもまだ分からなかったですか。

分からんない。どこに行くか分からない。

Q:いつ自分がソ連に向かってるって分かったんですか。

もうロシア人がこんなに言ったんですよ。「どこの鉄道の橋が破壊された。あれを修理して、あの工事が終わったら兵士はみんな帰る」と。ごまかしたんですよ、ソ連人が。それでソ連に入った。クラスノヤルスクまで15日ぐらいかかったのではないかな。15日、汽車に乗って、貨車に乗って。15日ぐらいだったかは分からないけど、10日ぐらいは行ったんじゃないかと。

Q:貨車の中はどうだったんですか。

貨車の中は真っ暗でした。窓を開くことができないようになっていたからですね。真っ暗よ。汽車がどこかの駅に止まったときに、そのときは水も配られて、そのときに食事も作ってみんなに配給しました。それ食べてまた汽車で行ったから、約10日以上はかかったんじゃないかと思います。

Q:貨車のその暗闇の中でどんな気持ちでしたか。

そのときは絶望的だったですよ。もう。ソ連に入るのだと分かって、もうどうなるか、運命が。家に帰ることができるかと。この寒いシベリアに入ってから家に帰ることができるかと、もう考えが様々だったんですね。絶望的な考えでした。将来がないじゃないんですか。希望がないから。帰れるかどうかも分からない。

(貨車が)到着して、「クラスノヤルスクだ」と。「ここでお前たちは降ろされる」と。ここがどこか分からないですよ。シベリアだけは分かる。シベリアということだけは、シベリアだろうということだけは分かる。

Q:「貨車を降りろ」と言われたんですか。

はい。夕方に降りたんですね。収容所は昔の刑務所だったんですね。収容所がね。

Q:降りたときにどんな気持ちだったんですか。

気持ちは、ただ考えるのは家にいつ帰るか、その考え(思い)だけなんですよ。いつ帰れるか、ここで死ぬか。約15日間はぼうっとして、自分でもわからずに涙が流れる。収容所に入って約15日間は何もやらなくて、仕事もやらなかったし、(ただ)食べて。食事は3回くれたからですね。泣いたんですね。なぜ涙が流れるのか私にも分からないですね。どうしたらいいか。私は約2か月前後は何も分からなかった。 私の運命がこんなに、遠いシベリアに行って、こんなに収容所に収容されるとは考えていなかった。生きて帰るか、ここで死ぬか。ただきょとんとして涙を、私も分からないのに涙が流れるんですね。で、悩みながら、夜も眠っても眠れないし。約3か月後からは、「ああ、生きて帰ろう。弱い考えはしてはいけない。どんなにしても生き帰ろう」。日本の兵士が毎日死んでいったんですよ。毎日。それを見て衝撃を受けて、「ああ、いかん。生きて帰ろう」って。そんな考えをして、後は、収容所で仕事を変えてからも、健康をどう保つか、どうしたら健康を維持するか、神経を使ったんですね。

食事当番とか、食器の洗いとか。室内の掃除とか、全部初年兵がやるんです。仕事、「お前あれ持って来い、あれ持って来い」と、みんな初年兵に命じられる。 (ソ連に)入ったその年の冬は凄く寒かった。仕事を終えて収容所に入ってから、室内に入ろうと靴を(日本の兵隊では靴を編上靴というんですよ)脱いで入ろうとすると、日本の青年兵士が、九州の熊本から来た兵士が「この野郎、初年兵のくせに分隊長の編上靴も抜けてやらない。ゲートルも抜けてやらなくて、お前1人が室内に入ろうとするか」といじめる。殴られる。凍った顔にね、もう。もう分からない。たくさんいじめられたんですよ。

日本の兵士たちは、工場の仕事をやると旋盤工の仕事とか、技術があってですね。旋盤をやるとか、そんな厳しい仕事はやらなかった。朝鮮人はですね、なにもない、分からない。土堀りとか。春には便所の人糞を掘る仕事とか。あそこは凍るからですね、約5メーターぐらい掘って、冬の間溜まった人糞を春になるとかたづけた。仕事が苦しかったですよ。つらい労働ですね。重いものを運ぶとか、土を掘るとか、夏などは水道管を、3メーターくらい掘って水道管を埋めるとかね。朝鮮人には易い仕事はさせなかったんです。

初年兵にまた、「半島人のくせに」と、色んな人たちにまでいじめられ、二重、三重の苦しみを受けたんです。まあ、入ったその当時の初めての冬は非常に辛かった。本当につらかった。古参兵たちのいじめ、半島人だからまたいじめられた。各種の仕事もみんな受けて1人でやる。仕事場に行ってもですね、悪い仕事はみんな私たちが受け取ってやったんですよ。お前はあれやれ、お前はあれやれと。本当に苦しかったですよ。つらい、本当に。

Q:どういう名前を書いたんですか?

「星山」。星と山と。みんな創氏改名した名前で日本の軍隊に入隊したんですよ。朝鮮人の、朝鮮の名前で入った兵士はいない。

Q:だから、ソ連には日本兵として入れられたんですね。

そうですよ。あそこでは、ソ連側では、これはみんな日本の軍隊だと。この中に朝鮮の兵士がおるとは考えられなかったんですよ。後になって、朝鮮の兵士が混ざっていることがわかって、独立されたんですよ。日本の兵士と分離してから独立に。ソ連にある朝鮮人の兵士は、全部、そんなふうに独立して、中隊を組織したんです。

一収容所の兵士がそれを、名簿を日本側からソ連側にすでに渡したんですよ。日本の名前入れ。そしてソ連に入って、身上調査を受けるときに、日本の名前と韓国の名前とまたソ連の名前と別に名簿を作成されたんですよ。

Q:最初にその名簿を作ったのはいつだったんですか。

約1年後じゃないですかね、収容所に入って。

Q:すぐに日本語の名簿を作ったわけじゃないんですか。名簿っていうか。

名簿は日本語の名前でも書いたし、朝鮮の名前でも書いたし、またそれをソ連の字で書いたんです。

Q:何って言われたんですか?ソ連側から。

ソ連側はソ連側で、「お前たちは朝鮮人だから、朝鮮人だけの中隊の組織を持ってお前たちは生活しろと。朝鮮人の中でも3か月とか4か月とか、日本の軍隊で訓練を受けた兵士が中隊長になったり、小隊長になったり、分隊長になって組織化したんですよ。日本の軍隊のように朝鮮人も組織を持って仕事して、生活したんですよ。
 
Q:故郷に手紙とか書けたんですか?

はい、書けたんですよ。2回にわたって。

Q:2回だけでしたか。

はい。2回だけ収容所で許可されて手紙を書いたんですね。ここからは(許可が)出なかったんですよ。

Q:返事はこなかった?

ええ。その当時、この手紙がですね、北朝鮮に行って、ソ連側と北朝鮮は国交があるからですね。占領下だったから。それで38度線を越えて、南朝鮮に手紙を渡したんじゃないかと思いますよ。収容所には(返事の)手紙がこなかった。

Q:じゃ、音信がないからちょっと心配でしたね。

うん、それから2年後に手紙をやったから、生きているんだと分かったが、いつ来るか、いつ帰るかはは分からない。現在生きている、生存していることは分かっていたんですね。

私が帰ってきたら、(子どもは)5歳だったんですよ。

Q:そういうことも気がかりですね。心配だったんですね。

まあ、シベリアでは、娘だとか息子だとかも分からなかった。帰ってみたら娘だった。5歳になっていた。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1925年
シフン(始興 現・韓国キョンギド)に生まれる
1944年
キョンギド(京畿道)の郷吏に
1945年
8月、徴兵され旧満州ハイラルの工兵第119連隊へ
 
捕虜となりシベリアの収容所へ
1948年
12月 フンナム(北朝鮮・興南)へ 共産思想教育を受ける
1949年
韓国へ帰国 2か月の収容所生活 解放後は商店を営む

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