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タイトル 「捕虜としてシベリアへ」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 ファン・ソクチャンさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 朝鮮(興南) シベリア(ハバロフスク)  収録年月日 2010年2月23日

チャプター

[1] チャプター1 徴兵され日本軍へ  10:33
[2] チャプター2 複雑な思いだった終戦  07:16
[3] チャプター3 ソ連軍の捕虜となる  02:31
[4] チャプター4 危険な作業  06:02
[5] チャプター5 シベリアで日本人と歌った  06:57
[6] チャプター6 世話になった日本人分隊長  03:29
[7] チャプター7 シベリアから北朝鮮へ  04:20

再生テキスト

当時は、軍隊に行かないと、完全に日本人になったとは言えないでしょう。徴兵のための身体検査を受けましたので、当然「行くべきだ」と思うだけで、「逃げる」とか「軍隊に行きたくない」とか思いませんでした。軍隊に好きで行く人などいません。でも、行かざるを得ません。ただ、指示に従うだけです。軍隊に行くのを、うれしがっている人はいないでしょう。そうでしょう。韓国の軍隊に入るのでさえも、皆が忌避しているほどですから。そのときは1期徴集(昭和19年9月)があって、私たちが2期徴集(昭和20年8月)でした。「軍隊に行きたい」という人は誰もいませんよね。でも、それが政府の施策ですから、それに従うだけです。それだけです。それに従わなくてならなく、「軍隊に行きたくない」といって逃げるということは、想像もできないことでした。それだけに、監視が厳しかったです。警察では、特に徴兵対象者に対する監視は、徹底していました。どこに行くにも、許可が必要でした。だから、そのときは、反日感情というのを持つ余地もなかったんです。それは、当然、私たちの宿命だと思っていました。

率直に言って、そのとき、軍隊に行くと、もう二度と帰れないと、死を覚悟しました。軍隊に行ったら死ぬと思ってたので、だから、母にはうそをつきました。幼いころに、父が亡くなって母子家庭で育ちました。だから、母にうそをついて(軍隊に)行きました。軍隊の服務期間が4年です。だから、母には「4年間だけ待っていれば私は帰ってくる」と、言いました。でも、家を離れたときには死を覚悟しました。そのころは、日本の本土が爆撃されたりしていましたからね。その当時、サイパンでは玉砕もありました。そして、私の故郷にはB29が飛んできたりしました。とにかく、死を覚悟して軍隊に行きました。家に、また、帰れるとは思いませんでした。それは、すでに覚悟済みでした。ですから、捕虜になることさえ想像していませんでした。その当時、「軍隊に行って生きて帰ってくる」と思った人がいるかもしれませんが、その当時の状況から判断すれば、軍隊に行くことは死を意味していました。

日本人としてという認識もなくて、ただ、命令に従って動くしかなかったので、簡単に言えば、連れて行かれたんです。日本の天皇に忠誠を尽くそうとは思わなく、私は「軍隊に行きたい」という思いもなく、ただ、命令どおりに、地方で訓練を受けて、召集令状を受けて軍隊に入隊しました。つまり、しかたなく、命令に従っただけです。

その当時は、完全に日本人の何といいますか、彼らの指示に従わなければならなかったです。その当時は、幼かったので、当然なことだと思いました。それで、地方での訓練も真面目に受けました。さらに、新兵訓練を私の地元で受けました。故郷の郡で受けましたが、第2期徴収の私たちは、全部一つの学校に集められました。訓練所長は日本の中尉でしたが、現役の中尉と下士官1人が来ました。各校にはそれぞれ教官がいまして、訓練教官を全部動員させて、私たちは、1か月間訓練させられました。

最初、軍隊に入る前の1か月間受けた新兵訓練は、主に基本教練でして、そのときは鉄砲も持たず、基本教練を受けました。基本教練というのは、主に、軍隊精神を頭に植え込むのが主な目的です。それを、1か月間受けました。それが、軍隊に入ったのが8月ですので、7月のことですね。7月の1か月間、そこに行って訓練を受けました。そこでは、主に基本教練を受けて、それから、ソ連・・・いや、中国に入ってからは、鉄砲を支給されました。しかし、訓練を受けられる時間もなく、出動命令が出されて、すぐ出動しました。

Q:訓練所で、軍人精神を高めるために強制されたことは何ですか。

強制されたのは日頃の行動です。あとは、話し方とか。話し方もこうです。「そうですか」とか、一般人では「ポケット」と言いますね。それを「ポケット」と言わず、軍隊では「物入れ」と言いまして、また足に巻く「ゲートル」というのがありますね。それは「ゲートル」ではなく、「巻脚絆(まききゃはん)」です。そういう言葉も一般人で使うのと全く違います。主に、日本軍隊で話しているのは「・・・であります」、「そうであります」。「そうですか」といわず、「そうでありますか」。こう言います。「そうじゃないんであります」。「そうじゃないんです」と言えばいいのに、このように言わず、「そうではないんであります」。軍隊で使う言葉は、一般人とはだいぶ違います。主に、「・・・であります」を使います。最初、行ったばかりのときは一般人の言い方をしていたため、分隊長とか上官から、もう一度、聞き直してきました。同じミスを繰り返す場合、それを諭すということで、「そんな答え方ではダメだ」と言って、「そうであります」、「・・・であります」と使って答えるべきだと。

Q:朝鮮半島出身者に特別な任務を与えたり、感情的に何かさせたりしたことはなかったですか。

部隊に入ってからは、朝鮮人だからといって差別されることはなかったです。それで、言葉も変えましたね。「朝鮮人」という呼び方から、「半島出身者」という言葉に変えましたね。それは、日本人のそのような感情(差別意識)をなくすために、言葉も変えたのです。日本は「内鮮一体」というスローガンを掲げていましたからね。私たちを「朝鮮人」と呼ぶことはできませんでした。軍隊ではこの言葉を使ってはいけなかったんです。「半島出身」という言葉を使いました。

ソ・満国境近くのジャムスに、鶴岡という部隊(満州鶴岡の独立歩兵第728部隊)がありました。そこに配属されました。ナニワ部隊とも呼んで。鶴岡に駐屯していたので鶴岡部隊とも呼んで、「ナニワ」、728(ナニワ)部隊に配属して、そこでも、ソ連が宣戦布告をしたため、数日しか滞在しませんでした。ジャムスから出動しました。

軍隊では出動するときに、新しい服を支給します。軍隊に入って着た服も、数日しか着なかったものです。新しい服に着替えたんです。そのとき、名札とか、階級章を古い服からはがします。私は、自分で新しい服に縫いつけるのです。名札と階級章を縫い付けながら「私はこの服を着て3日もたたないうちに死ぬだろう」と思いました。当時は、参戦すれば死ぬと思いました。新しい服を着て、3日も経たないうちに死ぬという複雑な心情でした。

ジャムスから出動して、汽車に馬を全部乗せて、馬と一緒に、屋根のない貨車(無がい貨車)があるでしょう、そこで、馬と一緒に座って寝て、翌日に移動して、それからは行軍でした。

23日まで、昼夜を別なく、ずっと行軍しました。当時のことを思い返してみると、ジャムスで、初日は馬と一緒に汽車から降りて、夜泊まって、それから行軍して、中国人集落に入って中国人の家で1日泊まり、また行軍して、日本開拓団といって農業を営んでいる人たちが暮らす「あずま」という集落の1軒に泊まりました。私たちが泊まった所は、渡辺という名字の家で、家のおじいさんは、その人の息子も数日前に召集されて軍隊に行ったと話しました。そこで一泊して、その数日後に韓国人集落、朝鮮人の集落ですね。そこでは、泊まらなかったんです。また、中国人集落で一泊しました。そこまで、3日間泊まりましたか。それ以外は、ずっと行軍しました。夜は歩きながら寝て、目が覚めてみたら、馬の手綱を握って一緒に歩いていくと、馬は、夜になっても眠りません。ひたすら、前の馬を追って歩いて行きます。私はなんとか歩き続けますが、眠くなるので、歩くのが遅くなります。そうなると、その手綱を握っていた私が馬に引っぱられます。馬は前の馬の後を追って行こうとするのに、私がゆっくり歩いたら、馬に引っ張られて倒れます。そうすると、「私が寝てしまったんだ」とパッと気がつきます。一夜で、2~3回ずつ、夜間行軍の途中、居眠りしたことがあります。日本には、歩きながら寝るという歌もありますが、実際、歩きながら寝ます。そうしているうちに、夜が明けて東の空が明るくなります。朝日が昇ると2時間あまり休みます。その間、朝食を取りますが、飯粒は食べられないんです。乾パンを食べて、馬に水を飲ませたり、休ませたりするなど、私たち下っ端兵は、1時間かけて雑務をこなし、残りの1時間で睡眠をとります。24時間の中でそのように1時間くらい、寝て、ずっと行軍を続けました。

そのときはソ連軍の飛行機が、戦闘機、いつも、私たちの 後を追いかけてきました。偵察だったでしょうね。いつも、私たちの後ろに飛んできて、朝になると、機銃掃射をしたりしたんです。

それで、8月15日に戦争が終わりましたが、私たちは、それも知らず、23日まで方正県という集落に行ったときに、中国の旗、蒋介石の国民政府旗を掲げていたのが見えました。幼い子どもたちまでその旗を持っていて、それで戦争が終わったのを知りました。

ソ連軍によって武装解除されて、そのとき、日本の天皇が、何と言いますか、日本語で詔勅(しょうちょく)と言いますが、日本の天皇が声明を出しました。「3か月以内に日本軍は帰国しろ」という談話もありました。それで、「私たちは、3か月以内に帰国できる」と思っていました。ところが、方正県で数日滞在してから、船に乗って満州の松花江(現・中国東北部)を渡り、ソ・満国境の黒竜江に出ました。そして、黒竜江からソ連のハバロフスクに上陸しました、ソ連のハバロフスクに。そこで、2日間野営して、また、汽車に乗って。夜、出発しました。なぜなら、戦争が終わったばかりなので、ソ連人が、昼は汽車を運行しません。駅の隅に突っ込んでおいて、夜だけ走らせます。そのとき、私たちは、汽車がウラジオストクを回って、「日本に行く」とばかり思っていました。ところが、汽車が夜だけ走るのですが、そのとき、分隊長は羅針盤を持っていましたので、夜、不寝番をしている人に「夜、何時に、どちらに向かっているか」を報告するように指示しました。ところが、羅針盤を見たら、南に向かうはずの汽車が南に走らず、北に向かっていました。

この指が不自由になったんです。ここから、こうして、斧(オノ)で切って、曲げられないんです。ほら、ここです。斧で切ったのです。伐木作業中、斧で切りました。これが自由に動かせません。

Q:けがした状況について、詳しく教えてください。

伐木したら、大きな木がこう倒れますね。それから、一緒に木の皮を削りおとします。それは、数人の人が、斧を持ってあつまって作業します。それで、1本の木で、数人が一緒に作業していた途中、他の人の斧が私の手に当たったのです。ここのあたりです。ここの皮膚が破られて、中の骨が出てきて、そうなって、衛生兵が来て、私の指を止血してくれました。そのおかげで血は出ませんでした。それで、部隊の救急室(治療室)に行って手当てを受けました。今だったら、治っていたかもしれません。その当時、ソ連の医療水準は大変劣っていました。ただ、薬を塗って治ればいいことです。しかたなかったです。「おなかが痛い」と言うと、「下痢するか」とソ連の軍医が聞きます。「いいえ」といったら、「なら、大丈夫だから、作業しろ」と行かせます。それほど、医療状態が劣悪でした。

Q:当時、ソ連収容所で生活しながら、ソ連から作業の指示を受けたんですね。指示を受けて、人も死んだりして、ソ連に対する敵がい心を持ったりしなかったですか。

そのときは、敵がい心などはありませんでした。「ただ、当たり前のことだ」と受け入れました。彼らが、作業させるのは、当然のことだと思いました。こんなこともありました。日本人はよく順応します。でも、韓国人はそうではないんです。韓国人は自分の権利をよく主張します。ソ連の法律で労働時間が8時間となっています。

ある日、私たちが決まった労働時間の8時間が、近づいてきました。でも、仕事は少し残っていました。それが全部終わったら帰られるんです。 残っている仕事を、終わらせなくてはならないんです。私もこれさえすれば、完全に仕事は終わるだろうだと思いました。ところが、私たち、韓国人が権利を主張するのです。「決まった8時間が過ぎたので、皆、帰ろう」と。それを、誰に話すかといいますと、ソ連の現場監督がいましたが、彼に話すのではなく、私たちを引率している、日本の分隊長に話します。そうしたら、分隊長としては困ってしまいますよね。それを終えないと、帰られませんが、「決まった労働時間が終わったので、私たちには帰る権利がある。帰ろう」と言うのです。分隊長は、途方に暮れています。そうすると、ソ連人現場監督がそれを見て、言葉は分からないが、雰囲気から察したんです。「帰ってはいけない」と言って、もめごとが起きていました。結局、(ソ連人監督は)「仕事を終えてから帰れ」と指示します。それで、分隊長も「しかたがない。仕事をしてから帰れ」と、「しょうがないんじゃないか。捕虜だから」といって、全部、仕事を終わらせようとします。日本人は、分隊長が指示すれば、黙って働きます。でも、私たちは愚痴をこぼしながら働きます。「私たちは8時間の労働を終えたのに、さらに仕事している」と。そんなこともあります。そこで、私たちは、ソ連に権利と義務を徹底的に要求しました。捕虜だといっても権利を主張するのは別のことです。仮に、それが受け入れられないとしてもです。

『望郷の歌』といって、「タケザワ」という上等兵が歌詞を書きました。曲は日本の流行歌から借りて、歌を作りました。それは、ソ連で多くの人が歌い、日本人も一緒に歌いました。また、集まりなどがあって、みんなが一緒に歌を歌うときは、必ず、それを歌いました。いまでも、その歌を少し覚えていますが。「幾多苦難の道を越え、遠い南の故郷へ、届かぬみちの筆の跡、何て書いてよいものか」。ここまでが1節なのですが、「嵐に耐えて雪に耐え、ああ望郷の船が、いつの日に港へ着くのやら、誰のためにか鐘が鳴る」。このように歌が短いですが、日本人と一緒によく歌いました、ソ連で。今も、そのころが思い浮かんだら、たまに、一人で、声を出さずに、歌ってみたりします。

Q:歌っていただけますか。

「嵐に耐えて雪に耐え、遠い南の故郷へ、届かぬみちの筆の跡、何とか行ってよいものぞ」。それから3節。先ほどの「幾多苦難の道を・・・」が1節なのですが、さらに歌ってみますと、「嵐に耐えて雪に耐え、ああ望郷の迎え舟、いつの日に港へ着くのやら、誰のためにか鐘が鳴る」。

Q:どんなとき、歌いましたか。

複雑な気持ちになったとき、歌いました。座っていると、故郷のことが思い浮かぶのです。その当時、日本人は文章を書くのが好きで、日本人は、昼の作業を終えて、幕舎に帰ってきたら、日記をつけます。その内容は、日記なのに、まるで、故郷の実家に手紙を書くように日記をつけました。ですから、歌もそこから出て、集まっていて心境が複雑になれば、誰かが歌いはじめたら、一緒に歌ったりしました。特別な目的を持って歌っているわけではありません。それから、ソ連にいたとき、ソ連軍の大隊長や中隊長が、私たち部隊員に何かを頼んだり、訓示のあるときは、全員が集まりました。第2中隊と一緒に生活していましたが、その中隊員が全部集まると、ソ連軍大隊長は、訓示したり話をします。それから、彼らは、私たちが歌うのが好きだ、ということを知って、私たちに、全員、歌うことを促します。それで、私たちは皆と一緒に歌いました。

Q:韓国では、たまに、歌いますか。

そうですね。今、忘れてしまいましたが、先ほど歌ったのは、シベリアで苦労したことが思い浮かんだら歌うものです。

Q:その当時、「私は朝鮮の人なのに、どうして、ここシベリア収容所に閉じ込められているのか」と、腹が立ちませんでしたか。

そうですね。腹が立つというより、ただ、運命だから、運命にゆだねるしかなかったです。運命ですね。そこで、苦労したとしても、日本人とケンカするわけにも行かないでしょう。彼らも私と同じく、捕虜として生活しているんだから。同じ捕虜だから、歩調を合わせました。

その人は軍曹で、ソ連に入ってから、私たちの分隊長になりました。ところが、彼は・・・私の属している分隊の中で、半島出身者は、私1人しかいなかったです。彼が、いつも、密かに面倒を見てくれました。私は、最初、分からなかったですが、服が支給されれば、いちばんいいものをくれました。春から夏になると、夏の服を支給しますね。ソ連で支給される服は、大変ぼろぼろになっていました。ソ連の囚人が着ていた服を洗濯して縫った服でした。または、ソ連軍が着ていた服が支給されました。また、冬用の服は更にひどく、つぎはぎだらけの服で、とても汚い服でした。ところが、分隊長は支給された服を持ってきて、そこから選びます。そして、私を呼びます。呼ばれて返事をすると、「君、背が高いだろう」と言いました。実際、背が高かったです。「君、背が高いだろう」と言って、服を投げてくれます。それを受け取ってみてみますと、その中でも、きれいな方の服でした。いつも、そうしてくれました。最初はそれが分からなかったですが、後にハバロフスクで別れるときも、気づかなかったです。それから、家に帰ってじっくり思い出してみたら、面倒を見てくれたことに対して、ソ連で互い別れたとき、感謝の挨拶もできなかったです。「私の面倒見てくださってありがとうございました」という挨拶もできなくて、別れたことがいつも心痛いです。今、会えるなら、膝をついて謝りたいです。その方が、今、生存しているかどうか分かりませんが、それが、今でも、気にかかっています。

自分の部下に、外国人の部下が1人いたので、そんなに、思いやってくれたのかは分かりませんが、とにかく、帰国してから気づきました。分隊長が、全部、私の面倒を見てくれたことを、まるで、親のような感じがしました。

北朝鮮にとって、自分たちは有益だったので、いじめられたりはしませんでした。むしろ、歓迎する雰囲気でした。その中で、私たちは、注意を喚起されました。フンナム(興南)に着いたら、最初は学校に収容されました。そこに各機関長が訪れて挨拶したんです。フンナム道党副委員長という人が来て。「公式主義に従うな」というのをテーマに掲げて「ソ連は共産主義国家の中で、最も発展した国だ。ソ連はすでに社会主義が勝利して、共産主義国家への一歩を踏み出した国である。ソ連は最高に発展した国だが、わが国(北朝鮮)は新民主主義国家だ。建国したばかりで、第一歩を踏み出したところだ。今ここにいる同志の皆さんは、共産主義国家の中で、最も発展したソ連にいて、すべてのことを目にし、学んで、体験した」というのです。これから、私たちが(社会に)出て、祖国の現実を目にすれば、ソ連と雲泥の差があることが分かるでしょう。だから、「ソ連から学んできたことを、今、祖国に来てそのまま、実行に移してはいけない」と。そうすると、支障が生じるのです。つまり、「祖国に歩調をあわせろ。祖国は、今、新民主主義国家なので、同志の皆さんはソ連であらゆることを学んできたが、国の新民主主義の流れにあわせて行動しろ」と言いました。「その一方で、指導的な役割を果たしてほしい」と唱えました。そのとき、私は、とても大きな使命を感じました。

韓国に来たのは、朝鮮戦争(ぼっ発)以後のことで、韓国に来るために家を離れたのではありません。そのころ、私の故郷では国軍が後退しました。北朝鮮の反撃によって後退するときに、私たち家族は、皆、避難するために故郷を離れました。故郷は港町です。そこから、船に乗って韓国に来ました。家を離れるとき、16日後には再び戻れると囁かれました。それを信じて、知り合いに家のことを頼んで、家族だけ船に乗って故郷から出てきました。この避難が、韓国に来るきっかけとなりました。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1925年
ハムギョンナムド ブッチョン(現・北朝鮮)に生まれる
1945年
8月、徴兵され旧満州(現・中国東北部)へ 歩兵第366連隊に配属
 
終戦後、ソ連軍の捕虜となりハバロフスク近郊のワニナの252収容所で強制労働中に大けがを負う
1948年
ソ連で共産思想教育を受けたのち、北朝鮮に送られる 朝鮮戦争の際、韓国へ

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