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タイトル 「釈放直後に朝鮮戦争勃発」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 ナ・カングクさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州 朝鮮 シベリア(ハバロフスク)  収録年月日 2010年2月18日

チャプター

[1] チャプター1 捕らえられ関東軍に  06:09
[2] チャプター2 捕虜となりシベリアへ  02:40
[3] チャプター3 極寒のシベリア  05:07
[4] チャプター4 労働証明書  02:10
[5] チャプター5 収容所からの逃亡  03:44
[6] チャプター6 逃亡失敗  07:59
[7] チャプター7 ハバロフスクの政治講習  04:57
[8] チャプター8 2度目の逃亡  06:07
[9] チャプター9 朝鮮への帰国  06:40
[10] チャプター10 妻との別れ  10:05
[11] チャプター11 戦争に翻弄された人生  04:39

再生テキスト

Q:日本から徴兵、学徒動員を逃れて、朝鮮の自分の故郷に帰ってきたんですけど、そこでも、さらに逃亡したんですか。

そこで逃亡したんですよ。逃亡してね。

Q:何で逃亡したんですか。

向こうの、そのときの韓国の臨時政府の重慶に行くつもりでね。私の初恋の、北にいる妻、イ・ヨンエって話したでしょ、この前に。その妻と一緒に重慶に、臨時政府に行くつもりでね。奉天、今の新京ね。そこまで行ったところで、日本の憲兵に捕まえられた。それで、黒竜江の近くの、北孫呉と南孫呉、2つがありますけど、黒竜江の近くの北孫呉に強制に連れて行かれたわけです。それで、行ったところが、そこが関東軍の第2635部隊(関東軍第十八野戦兵器廠第2635部隊)だったんですよ。そこに行って、そこに日本人の村があって、ウエムラさんという中尉がいたんですね。で、私に「資格がある」と言って、「幹部候補生に志願しろ」と言うんですよ。

Q:徴兵になったっていうことですね。

徴兵ではなくて、幹部候補生。そのとき、それが、6月か8月か、よく記憶がないんですけど、「私は、初めから、日本の軍隊に来る考えもなかったし、ここまで、連れてこられたというのは、これは強制連行であって、私が希望してきたんじゃない。また、この戦争はね、日本の戦争であって、韓国人の戦争じゃない。だから、私は、日本軍の幹部候補生になる考えは少しもないから。」というわけで、「命令不服従」という罪名で、営倉(軍律違反などに問われた軍人を収容する施設)に入れられたんですよ。ところが、8月の9日か、10日、9日ですね。私が営倉にいると、飛行機が飛んでくる音がしたんですよ。それで、あと10分ぐらいで、急降下爆撃で、その部隊が爆撃されたんですよ。それで営倉から出てきて、完全武装してね、背嚢(はいのう)水筒、小銃、みんなもらって、北孫呉の近くにね、・・・という関東軍の陣地があったんです。そこに行ったら、塹壕がそこにずっと掘ってあってね。外では見られない。そこが陣地かどうか分からなかったんですよ。ところが、その翌日になって、今度は飛行機じゃなくて、ソ連のタンクがやって来たんですよ。向こうで、いくら小銃を持って撃ったところで見向きもしないで、どんどん奉天、今の新京に向かって進んで行くんですよ。ところが、8月の20日頃だと思うんですがね、ここには、ロシア政府が発行したところは、8月の16日から捕虜になったということになっているのですが、事実は、16日ではなくて20日頃だったと思うんですね。日本軍の伝令がやってきまして、・・・の陣地にやってきたんですよ。それで、天皇の無条件降伏の放送があった、というのが初めて分かったんですよ。それで、その翌日に、みんなロシア(ソ連)軍の方へ降伏したんです。そこで武装解除されて、で、初めは、関東軍の兵営に収容されたんですよ。

9月の中旬ぐらいになって、ソ連の方に行くというわけですね。で、初めて、「我々が、関東軍と一緒にシベリアに連れて行かれる」と、分かったんですよ。そして。

Q:そのときはどんな気持ちだったんですか。

「これで、もうおしまいだ」と思いました。もうシベリアに連れて行かれて、そこで、冬を越したら生き残るか、でなければ、もう凍死するか。捕虜になった後に泣いてもね、もう、どうしようもないんでね、それで、1日に1回、乾パンを渡してくれるわけですよ。その乾パンというのはね、石みたいに硬くて、どうしても、口の中で噛むことができなくて、口の中に入れて約1時間ぐらいしたら、ようやく噛められるようになるぐらいのもんでね。腹は減ってくるし、だから、「もうこれでおしまいだ」と思ったんですよ。

どうして、我々がソ連軍の捕虜になるのか、ジュネーブの国際条約に照らしてみても、これは不条理だ。韓国人が捕虜になるわけがないじゃないか。ところが、後になってみたら、みんな私たち、向こうの方では、ロシアでは、私たちを日本人と思っていたんですよ。だから、韓国人、カレイスキー、彼らはカレイスキーと言ったんですね。カレイスキーがいるとは考えていないんですよ。皆これはヤポンスキーだ、日本人の関東軍だというわけです。だから、この労働証明書にも日本の名前でみんな書かれているんですよ。

ソ連の捕虜になった後には、宮城遥拝とか軍歌とか、そういうものは一切やらなかった。でも、初年兵に対する「いじめ」はやっぱりあった。強制労働から帰ってくるとね「靴下洗え」とか、自分の奴隷みたいに使うわけ。「洗濯をしろ」とか、「何かを持って来い」とか。

Q:殴られたんですか。何って言って殴るんですか。

「命令を聞かない」と言って。初年兵をいじめるとはね、いろんなことが、たくさんあったんですけどね、あれはもう奴隷だな。ロシア、ソ連側では、関東軍の組織をそのまま利用したわけですよ。

冬がやってきて、零下45度まで下がっていくんです。だから、寒いし、また栄養失調、それから風土病といってね、入浴もできないし、洗うこともできない。洗濯もできない。だから、捕虜たちの状況は話しにならないんだ。収容所の中で寝ているときに、捕虜の人からシラミが出てきたら、その人は、もう、1時間たたないうちに死んでしまうから。体温が下がっていくから、シラミが出てくるわけ。だから、そういう風土病にかかって死んでいった人がたくさんいます。捕虜の収容所の近くにあるお墓には、日本人と韓国人があって、1946年の春に、いちいちトラックに詰め込んで運んでいって埋めたんだから。正確な数字は分からないけれど、200か300人ぐらいになるんじゃないかな。私の収容所だけでね。そのブラゴベシチェンスクの。だから他のところも合わせたら、かなりの人が翌年の春に死んだと思っています。

韓国人(朝鮮人)にとってはね、昼は強制労働、また、内務班に帰ってくると古年兵たちの手伝い。だから、二重の労働で、奴隷の生活と同じでね。それで、その翌年の3月か4月頃になって、私たちは向こうのソ連側に、「ここには、ヤポンスキー(日本人)だけじゃなくて、韓国人のカレイスキーも相当いるから、我々をそこから独立させてくれ」と、陳情書を出したわけですよ。それで、そこに向こうの通訳がやってきて、そういう話をしたのが、4月になって韓国人たちが独立したわけです。独立中隊を作ったわけです。そこで、そのブラゴベシチェンスクには、シベリア鉄道の駅の北の方と南の方、2つに収容所があったんですけど、北のほうは、みんな日本人の関東軍、南の方は、日本人と韓国人の混成部隊というのがあったんですよ。その80人が韓国人の独立中隊になったわけですよ。

これがロシア政府が発給した労働証明書。

Q:ああ、労働証明書ですか。1917年生まれ。何って書いてあるんですか。これ読めますか。

これ、労働証明書。未払い賃金が5162ルーブル。労働をした賃金が未払いになってる。それをロシア政府が証明してくれた。1993年。

Q:これ何って書いてあるか読めますか。ロシア語で。

これは名前。いちばん上はナ・カングク。それからこれは1917年8月21の生年月日。

Q:ロシア語で読めますか。

ロシア語はもう忘れた。ええ、滞在期間は1945年の8月16日から1949年の10月20まで。だから満4年2カ月。

Q:普通の人より長かったんですね。

うん、長かった。約1年半ぐらい長かったんです。それは逃亡したからでね。

その翌年には、もうここにいたら、生きて帰るということは、夢にも思えない事だと、不可能だと思ってね、逃げるほか道はない、というわけで、4人が黒竜江に行ったんですよ。

私が率いて黒竜江のその、戦利品ね、それを積み込む強制労働に行ったとき、帰るときはもう日暮れのときだから、監視兵が見ても、船のいちばん後ろの方の捕虜は、よく見えないわけでしょ。そこで、このまえ話したその4人が・・・。

Q:その4人は、みんな韓国の人なんですか。

みんな韓国人です。4人がラーゲリに、その収容所のロシア人たちはラーゲリと言ったんですけど、帰ってくるときは、その黒竜江のアムール川の中頃を通って、船が帰ってくるわけです。そこから飛び込んで、半分だけ泳いだら、中国の黒河(黒竜江省北部)に着くわけですよ。で、そこで6月の末頃だと、記憶ではそうですね、4人が飛び込だわけだ。

Q:逃亡を企てるというのに、恐怖心はなかったんですか。

あったんですよ。もしも、失敗したら死ぬか、でなければ、力が尽きて泳げなかったら、川の中で溺死するか、二つに一つ。生きれば、満州で歩いてでも故郷に帰ることができる、だから、4人が相談したんだね。「とにかく、死ぬ覚悟がなければやめろ、死んでもいいと思ったら、逃亡しよう」というわけで、命を懸けて逃亡したわけです。

Q:何でそこまでして、やろうとしたんですか。

どうせここ(収容所)にいたら、栄養失調で死ぬか、冬の寒さで凍死するか、二つに一つだから。生きて故郷に帰るということは夢にも考えられない、どうせ死ぬなら、ひとつ脱走してみようということでしたね。だから、命を懸けて逃亡したわけだ。初めは6人が逃げようと共謀したわけですが、途中で2人が「私たちはできない」と言ってやめて、結局4人だけが逃亡したわけです。

それを泳いで渡ってきてみたら、そこは八路軍が、それは、ニセの八路軍だったんですけどね、占領していたんですよ。で、4人が見たら、道は良く分からないから、鉄道の線路を通って、もう、草がぼうぼうと生えていてね、背くらいになってるんだから。その線路を通って来た所が、韓国人の同胞たちが住んでいるコウワ村という所だったんですよ。

そこで、村長が見たら、「ああ、これは捕虜でもある」し、持っているお金が日本銀行券、それから満州銀行券、朝鮮銀行券、それに腕時計が相当を持っていまして、それで、八路軍の方に密告したわけですよ。「ソ連から逃亡した捕虜が、4人来ている」と。あれで、それから、約10日くらい後にして、八路軍が、これは正式の八路軍ではなかったんですけどね、3人がやってきて、我々4人を連れてトラックに乗せて行ったところが、黒河にある八路軍の本営ですね。

「朝昼晩3回ちゃんと(食糧を)渡すか。」

Q:それは、中国側が聞いてるんですよね。

はい、中国側で調べるわけですよ。

Q:そこで、取調べを受けて戻されたんですか。

連れ戻されたんですよ。

Q:どういう所に連れ戻されたんですか。

ブラゴベシチェンスク(シベリア)のエルカベージェ。エルカベージェというのが国境警備隊です。そこに連れ戻されて、約1か月くらい、営倉生活しながら取調べを受けたんですよ。

Q:捕まっちゃってロシア軍に、ソ連軍に渡されたときはどんな気持ちでしたか。

あれは、「もう、銃殺される」と思ったんですよ。いちばん初めはね。

私たちがその営倉から連れて出されて出てみたらね、黒河(中国黒竜江省北部)の中国人たちがね、女、子ども、男、いっぱいになってたんですよ。市場のようにね。それで、「ああ、私たちは銃殺だ」と思ったんですね。ところが、その黒竜江の下に行ってみたら、ロシア側の船が来て、ロシア兵が2人いたんですよ。その船に乗せられてブラゴベシチェンスクに引き渡されたんですよ。で、収容所に帰ってみたら、韓国人は1人もいない。

Q:ロシア側の営倉での1か月は、つらい生活ではなかったんですか。

辛かったですよ。食べ物は1日に1回、それも黒パンって言ってね、さき話したカチカチの石みたいなパン。いちばん辛かったのは腹が減ってね、とてもつらかったんですよ。

体に暴力を振るうとか、そういうのはなかったんですよ。だが、そりゃ、ロシア側の拷問の方式かもしれないけど、座らせないんだよ。1日中、24時間立たされて、それも、拷問のひとつで、あれもとてもつらいんですよ。24時間立っているということは、とてもつらかったですね。体に加える暴力というものはなかったです。

私が主張したのは、「戦争捕虜が逃亡するのは当たり前だ、それは義務でもあるし、逃亡するのは当たり前じゃないか」と。「私たちは、あなたたちの法律で人を殺したとか、あるいは、ものを盗んだとかね、そういう犯罪を犯したなら、あなたたちの、ロシアの法律によって私たちを処罰することができるかもしれないけど、逃亡したというだけで私たちを処罰することはできないじゃないか」と。それは、ジュネーブの何です・・・捕虜に関する国際協定があるでしょ。そういうのを話したところで、それで1か月か、2か月過ぎた後にあそこの革命記念日が11月の7日か、そうなんですよ。1917年11月7日、その日は革命記念日になってね、「起訴猶予」という名目でね、シベリア鉄道に乗せられて、4人が連れて行かれたのがミハイロチェスナスコという、原木を伐採してきて、それが製材所に行って、枕木、鉄道の下に敷く枕木を作るところだったんですよ。そこの村の名前が、ミハイロチェスナスコ。ブラゴベシチェンスクの収容所の約3分の1ぐらいの小さいところだったんですよ。木造建ての2階、そこも元はドイツ軍の捕虜の収容所であったらしいです。

Q:逃亡を企てたから、厳しい現場に送られたんですか。

そうですね。いや、もう厳しいですね。原木伐採というのは、ちょっと厳しい労働でした。それから、一つは、アムールから遠い所、もっと奥の方ですよ。ブラゴベシチェンスクよりもアムールからもっと奥の方に入ってるんですよ。ミハイロチェスナスコという所はですね。

Q:それは何でですかね。

それは、逃亡したその年、1946年の11月。

Q:それは何で奥にやられちゃったんでしょうかね。

逃亡したというわけで。

Q:今度は逃亡しないようにと。

そう。アムールが近いところはいけないといって、アムールから遠いところに行かれたのが、ミハイロチェスナスコだったんですよ。

その翌年(昭和22年)の3月か、4月か、春だったんですね。1947年のときになって、ソ連側の戦争捕虜に対する洗脳工作としてね、始めたのが政治講習だったんですよ。それによって、日本の捕虜たちは、半分は反軍闘争をやったし、韓国人の捕虜は民主運動といってね、あれがあったんです。
それで、民主運動の委員長という人が、パク・ドクスンという人が平壌のキリスト教徒であって、私を呼ぶんですよ。「ちょっと来てくれ」と。で、行って見たところ、「ハバロフスクで政治講習があるから行かないか」というわけですね。「そこに行ったら、給食もここよりはちょっと良いじゃないか」と、また、「強制労働にも出ない、約1か月ないし2か月ぐらいいるんだから、行くんだったら自分が推薦する」というわけですよ。そこで、パク・ドクスンの推薦でハバロフスクの政治講習会に行ったわけですよ。それが、1947年の春でした。ロシアのカンボイ、監視兵が私と2人でシベリアの鉄道に乗って、初めて、ハバロフスクに行ったんですよ。行ってみたら、そこはとても大きくて、都市も大きくて、収容所もとても大きかったです。韓国人は、私1人で、後は皆、日本人でした。で、何を教えるかと思ったら、マルクス主義とレーニン主義、それからロシアのボルシェビキ党史、それを勉強されたわけですよ。そのときから、日本の捕虜たちの中に、反軍闘争が起きたし、そのときまでは、関東軍の将校たちは、強制労働に出なかったんです。そのとき、初めて、分かったんですが、戦争捕虜の将校は、強制労働に出ないことになっていたみたいです。ところが、反軍闘争が起きて、日本の将校たちも、自分たちが志望して、強制労働に出て行くようになりました。

Q:共産主義思想がすごく植えつけられたんですか。ナさんにも。

私にも、いくらかは、植え付けられたと思います。自分は、それは、私自身は認めようとはしないけど、少しは向こうの政策通りに、洗脳されていったんじゃないかと思いますね。

その年の秋になって、収穫するときになって、そのときのソ連には、国民たちがやっている集団農場、これが「コルホーズ」といって、それに国家で経営しているのが「ソフホーズ」といって、2つあったんですよ。そこへ、その年の秋に、コルホーズに、収穫に行ったのですが、その収穫というのがトマト収穫をしてね、塩漬けにするわけ。ところが、そこへ派遣されて行ってみたら、そのとき、私はもうロシア語もできたし、また話すこともできたんだから、そのコルホーズという所が、約1日ぐらい歩いたら黒竜江だ、ということが分かったんですよ。それで、第2回目の逃亡を企てたわけです。そのときには、いちばん初めに逃亡した4人じゃなくて、パク・サンギュという人がいたんですけど、この前話したその人と2人で、コルホーズから逃亡したわけです。10月になると、向こうは、もう薄く氷が凍るわけですよ。そのコルホーズからトマト収穫をして、夜になって、カンボイも、みんな眠っているから、こっそり出てきて歩いて、もう少し行ったら黒竜江だという所まで行ったのに、疲れて、疲れて、どうしても歩けなくて、腹も減って、眠くて、眠くてしょうがない。それで、排水溝の中に、鉄筋コンクリートの下に入って寝たわけですね。ところが、コルホーズの運転手がね、自動車の水が切れて、水をくみに出てみたら、そこがポンと空いてる所があって、そこで男2人が眠っているんだから、おかしいと思って入ってきて、そこで、私たち2人は、また、捕まえられてしまった。

Q:1回逃亡して捕まったのに、なんで、2度目もまた逃亡しようと思ったんですか。

私が、さっき話した通りね、「ここにいても、どっちみち死ぬんだから、もう逃げるところまで逃げて逃亡しよう」と。「どっちみち、栄養失調で死ぬか、でなければ寒さで死ぬか、でなければ風土病にかかって死ぬか、どっちみち、死ぬんだから。男だったら思ったことをやってみよう」と思ったわけで、命をかけて逃亡してみようと一緒に行こうというわけで、2度目に、また、逃亡したんですよ。

Q:待っていれば解放されるとか、そういう希望はなかったですか。

それは、ロシア軍が、ソ連の方からいつも口癖のように言ったのか、「スコラダモイ」と言って、スコラはね、スコラは「まもなく」ダモイは「故郷に帰る」「まもなく帰る、お前たちはまもなく故郷に帰る」ということですよ。あれをロシア人が口ぐせのように言っていたんです。「いつかは故郷に帰ることは帰るだろう」と、「でも死んで帰るか、生きて帰るか、それが問題だ」と、私の考えではね。「帰るなら、生きて帰らなければ意味がないじゃないか」と、「死んで帰ったところで、何になるんですか」。それで、また、2度目に逃亡したんですよ。そのときに、私はパク・サンギュに言ったんですけど、「死ぬ覚悟ができていれば一緒に逃げよう、でなければ、お前やめろ、私1人で行くから」。そうしたら、向こうで「死ぬ覚悟で行くから一緒に行こう」と、それで、2度目の逃亡をやったわけです。2回目に捕まえられたときが、ワダユクの赤レンガ造りの強制労働をやられたころだから、ハバロフスクの講習を受けた後ですから、それが47年の秋だったです。そして、また送られたところが、ワダユクからハバロフスクの21分所でした。

1949年の、ここには10月20となってるんですね。10月20日に汽車じゃなくて、貨物列車に乗せられて着いた所が、(地図を指しながら)ここが中国、ここはロシア、ここは北朝鮮、豆満江の所にやってきたんですよ。やってきて、豆満江に、ロシアと北朝鮮の間に木造の橋がありますね、その木造の橋の真ん中に白線が引かれて、向こうの方でやってきたのが北朝鮮の海軍の将校が3人きて、名前を一人一人呼び出されて、68人が北朝鮮に渡ってきたわけです。渡ってきたら、そこが・・・。

Q:68人帰ったんですか。

捕虜の中で68人だけが。みんな韓国人。そこにいたのが私とドン・ハン、それからイ・フニョン、イ・マンウク。というぐらい覚えているが、後はみんな忘れちゃった。で、帰ってきた所が、北朝鮮の奥の方の山村。山の奥の、ホンウィ(現・北朝鮮)という所へ来たんですね。そこで、一晩泊まって、翌日、汽車に乗って着いた所がチョンジン。チョンジン(現・北朝鮮)に着いたわけですね。そこに着いたら、北朝鮮の政治部の将校が出てきてね、「あんたたちは捕虜になって、4年も韓国にいなかったんだから、現在の韓国の政治情勢が、どういうふうになってるのか、全然、知らない。だから、約1週間くらいここで講習をやる」というわけですよ。で、その講習を受けて、収容所じゃなくて、旅館に収容されたんですよ。そして1週間あとに、「集まれ」と言って、出て行ったら、「これからピョンヤンに行く」というわけですよ。で、汽車に乗せられて、その翌日の昼ごろになって、ピョンヤン駅に着いたんですよ。そして、そこから、私たち一人一人に汽車の切符を渡してくれた。それぞれの故郷まで乗って行くことのできる切符だったんです。私はサリウォン(現・北朝鮮)までの切符を渡された。それで「解散だ、自由に汽車に乗って故郷に帰れ」、というわけですよ。それが10月。1949年の10月です。ここには、8月20日だと書いてあるんだけど。帰ってみたら、家には誰もいない。私が住んでいたお家がいないんだ。家族たちが1人もいないんだ。周りに聞いてみたら、「引越した」と。「新しい家に引越した」と言うんですよ。で、親父が、そのとき、日本製粉会社,メリケン粉をつくる日本製粉会社のエンジニアだったんです。村の人たちの案内を受けて、父母兄弟のいる、新しく引越ししたところにやってきたんですよ。それが朝鮮戦争の前の年の10月だった。そこに、私の初恋、一緒に逃げたイ・ヨンエがまだ結婚しないで、私を待っていたんです。それで1月か、12月か、結婚式を挙げたんです。そして、翌年になって朝鮮戦争が起こったわけですね。1950年の6月25日にね。戦争が起こったら、北朝鮮の人民軍の召集令状がきたわけですよ。で、身体検査に行った。身体検査を受けているところに、私と一緒に、はじめに逃亡したソン・テクスがいた。その人も召集令状で身体検査にやってきたわけですよ。

人民軍の召集令状で身体検査に行ったら、1回目は逃亡のときにやっていた、ソン・テクスが来たんですね。2人で話し合ったんだ。「ここで、また、人民軍に使われたら、我らはもうロシアの捕虜にもなったし、日本軍の兵隊にもなったんだから、第1線に連れられて行くのは自然だ、火を見るように明らかだから逃げよう。」というわけで、山の中に逃げ込んだ。山の中に逃げ込んだのが、何月だったかな、暑いときだったから、木の上に眠るところを作ってね、山の中で生活した。そして、朝鮮戦争が起きて、アメリカ軍が、連合軍がですね、入って来るまで山の中にいたんですよ。9月になってアメリカ軍が入って来た。私は、英語がちょっとできたんだから通訳となって、アメリカ軍と一緒に、鴨緑江まで行ったんです。中国の毛沢東の朝鮮戦争の介入で、1951年の1月、フンナム(興南)撤収作戦と共に、南の方にやって来た。そのとき、北にいるイ・ヨンエという私の初恋の妻は、連れてこられなかった。そのときは、もう腹が(大きく)こうなってね。出産の予定日まで約1週間か5日、3日しかなかったんです。雪が降ってね、避難の列車といっても座席があるわけじゃないんだ。列車の上の方に乗っていくのだから。出産のときに死ぬかも知れない。で、そのときは、家にりんご畑があったんですよ。果樹園があって、おじいさんと、おばあさんがいたわけです。「私は帰って来るから、長くて1か月だから、お前はここで、おじいさんと、おばあさんと一緒にいなさい」と言って別れたわけです。で、うちの親父とお袋だけ連れて、南の方にやって来たんです。

Q:奥さんのことは思い出しますか。

ええ、今でも思い出しています。それからずっと後になって、北朝鮮のスパイとして韓国に派遣されて、ここに来て自首した人が、私の小学校の同窓生だったんですよ。で、北にいる私の妻が娘を産んだという話は、聞いたんです。今は名前も分からないし、死んだかどうかも分からないし。生きていたらもう50代。この前、「離散家族の再会」という、北朝鮮とのあれで、私の所にその知らせが来てね、私が赤十字に行って身体検査も受けて全部やったんですよ。「2、3日したら会いに行く」って。で、その所まで行ったが、向こうで出てこない。「そういう人はいない」って。

Q:じゃ、今生きているかどうかも分からない。

だから、死んでいるか、生きているかも分からない。もうダメだな。会いたいけど、会えることはもうできないんじゃないかなと思うんだ。
(ロシアの歌を歌うナさん)

Q:それ、よく歌ったんですか。

これはロシアの民謡ですよ。カチューシャ。今思い出したんですよ。

Q:どういうときに歌うんですか。

まあ、苦しいときとかね、腹の減ったとき、寂しいとき、誰かに会いたいとき。そんなときに歌ったんですよ。自分自身を慰めるわけね。

Q:抑留された時代にも、残された家族や奥さんのことを思い出したんですか。

いつも思い出した。それは、あの人が初恋だったから。

Q:その初恋の人とずっと会えないっていうことは、その後、別れ、子どもまで生まれたのに、会えないというのはどういう気持ちですか。

もうそれはどうしようもない。行くこともできないし、向こうから来ることもできないし。生死も、死んだか生きているか、それさえ分からないんだから。去年か、一昨年か、赤十字社の「離散家族再開」ってときに、知らせがあって、赤十字社に行って身体検査まで受けたんですよ。それから2,3日したら知らせを、「行くから出てこい」って。ところが、向こうの方で、「イ・ヨンエという人は北朝鮮にいない」というわけだ。で、取りやめになった。これから、もう会えることはできないですね。できないだろう。私が生きたところで、これから後2,3年。長くて5年だと思います。だから、永久にもうダメだ。行くこともできないし、連絡もとれないし、手紙もできないし。どうしようもない。

Q:じゃ、娘さんとは一回も会ってないんですね。

会ってない。顔も分からない。名前も分からない。だだ、「生まれた」という知らせは聞いたわけ。その、小学校の同窓生から。

Q:ナさんが連れて来たらずっと会えたですね。

ああ、それが私の一生の失策、ミスだ。ミステイクだったんです。いくら勉強をしたところで、その毛沢東の朝鮮戦争の介入が、世界情勢がどういうの判断を、私がミスした。判断ができなかった。そのときに「これは長くなる、北朝鮮と南朝鮮の38度線は、これはダメだ。」という判断ができていたら、どんなことがあっても、連れてきたと思うんですよ。それが私の一生のミステイクだった。

私はもう、生きているところで3年、5年、私の一生が終わるときが来ている、と思ってるんですけどね。戦争っていうものがね、人間の生活をめちゃくちゃにすることは、骨に染みて分かったんです。人類に、戦争というものは、永久になかったらいいと思んです。日本の帝国主義のために、私の一生はめちゃくちゃにされたと思っています。これは誰に訴えることもできないし。どうしようもない。これは運命と思って諦めるほかない。しょうがない。戦争がなかったら、北にいる妻と別れることもなかったし、私の希望どおりに生活したと思うんだけど、戦争のために、もう、私の一生はめちゃくちゃにされてしまった。悔しいけれどもしょうがない。恨みを言ってみたところでしょうがない。あと、そうですね、よく生きれば後10年・・・5年ぐらいかな。人生長くて80年というんだけど、92歳や。長く生きたわけですね。本当に、戦争というものは永久になかったらいい、と思んです。私が痛切に感じたのは、戦争というものは、永久に人類の敵であるということ。戦争は決してやってはいけないと思うんです。

私の一生は、日本の帝国主義によって、めちゃくちゃにされてたけれども、今でも遅くはない。日本の政府が、本当に、良心的に自分たちの過去に対して深い反省と、人間としての良心を考えてくれたらいいと思うんです。といって、私は、私の一生が日本の太平洋戦争によって、めちゃくちゃにされたといって、今の日本の人たちに対する恨みは一つもありません。私は、そうですね、とにかく日本と韓国は隣の国だから、いつまでも仲良くしてね、世界平和の一つの輪として、ひとつの隣同士、隣国として仲良くしていくのが、いいじゃないかと思います。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1923年
ファンヘド(黄海道)ボンサングン(鳳山郡)に生まれる
1945年
徴兵で第18野戦兵器廠に入隊し旧満州北孫呉へ。8月、ソ連軍により捕虜となりシベリアへ
1949年
北朝鮮へ
1950年
北朝鮮で共産思想教育を受けた後、韓国で2か月間の収容所生活。朝鮮戦争で米軍の通わけ。
 
戦後は日本語教師

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