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タイトル 「筑豊で育ち、満州へ」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 チョ・ヨンスさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 日本(福岡県・筑豊炭田) 満州(奉天)  収録年月日 2009年12月13日

チャプター

[1] チャプター1 通信兵学校へ  07:26
[2] チャプター2 満州の通信兵  03:42
[3] チャプター3 免れたシベリア送り  05:04
[4] チャプター4 奉天での足止め  04:12
[5] チャプター5 日本の戦争に関わったこと  02:31

提供写真

再生テキスト

私は田川郡(福岡県・筑豊)で生まれました。田川で小学校を卒業し、高等科に入って直方に移りました。

Q:なぜ田川に住んでたんですか、お父さんは。

父は私の生まれる前に田川の炭鉱に行きました。炭鉱で働いていたときに私が生まれました。
父が日本に行って最初のころは生活が厳しかったんですが、筑豊の田川郡に、「産業セメント」という会社がありました。そこに就職して長く働いたため、チーム長クラスになって10人弱の部下を率いたんですけど、チーム長になってからは生活にちょっと余裕ができました。その前は、本当に貧しくて食事もろくにできなかったんです。私は生まれてから1年後に、やっと出生届けが出されたんです。家が貧しかったので母の乳の出が悪くて、近所に、乳もらいに行ったりしました。いつ死んでもおかしくない状態で、もらい乳で育てて死ななかったので、生まれてから1年後に出生届けを出したんです。そのため戸籍上の年齢は、実際の年より1つ下です。その後、父がチーム長になってからは生活に余裕ができて、自転車とか服も買ってもらいました。

Q:暮らしっていうか、学校に行くのも日本人と同じようにしてたんですか。

そうです。学校では日本人と同じように勉強しました。先生のうち、他の先生も差別はしませんでしたが、モリヤマという先生がいて、先生は私のことをかわいがってくれました。先生の家に招いてくれました。貧しい時代でしたが、たくあん2切れとお茶を出してくれました。

Q:先生は、朝鮮人だと知っていて、そうしてくれたんですか。

はい。朝鮮人だということは知っています。いじめる子もいたんですけど、モリヤマ先生は私によくしてくれました。
通信兵学校に入る前は韓国人だということで、冷遇されたことがありました。

Q:どのように、どこで、日本で?

日本で通信兵学校に入る前に、日本人から「朝鮮人」、「ニンニクくさい」と言われて打たれたりしました。でも、軍隊に行ってからは、私が韓国人だということを知らないので、差別されませんでした。

Q:なんで通信兵学校に行くと決めたんですか。

私は日本人に冷遇される一方で、徴用、私のいとこが徴用に行ったし、義兄も徴用に行って、私も来年頃、18,9歳になったら徴用に行かなければならないと思っていました。一方では勉強もしたいし、いろいろ悩んでいた、ちょうどそのとき、通信兵を募集する広告がありました。こんなに冷遇されているより、むしろ勉強をして、なんでも試みたほうがいいと思って志願することにしました。

中学校の先生から「よくやった」という手紙をもらいました。私が休みのときに行ってみたら、私を母校に招いて、「生徒の前で話してほしい」と頼まれたこともありました。私が住んでいた植木町(現・直方市)には小学校と中学校がありましたが、少年兵に志願していった人が誰もいなかったんです。

Q:当時。通信学校に行ったら、自動的に日本の戦場に送られる可能性が高いですが、日本の戦争に行くことに抵抗がなかったんですか。

そうですね。入学するときはそんなこと思わなかったんです。戦うということは思わなかったんです。ところが、勉強していく中で、新聞を読み、日曜日ごとに筑豊に行って新聞を読んでいると、「アッツ島で玉砕」したという記事を見て、戦うことになるんだと分かりました。そのときから、戦争について意識しはじめました。つまり、入学当時は戦争のことを全く考えなかったんですが、1年ほどしてから、戦争に行くことになるんだと思いました。

Q:そのときの気持ちはどうでしたか、怖かったり。

複雑でした。私は戦争のためじゃなくて勉強するために入学したのに、ここは軍隊だったんだと痛感して心細くなりました。落胆しましたね。

10期生として入りました。そこで1年間教育を受けて。通常は2年で卒業するんですが、戦線に兵士が足りなくて1年半で卒業しました。それから、私は満州の牡丹江に派遣されました。そこに3か月いましたが、通信兵学校を卒業したので、電信部隊、通信部隊に配属になりました。

昼は様々な通信教育、モールス通信とか、通信機器を屋外に持って行ってアンテナを設置する方法など、様々な通信に関する教育を行っていました。

Q:その教育期間の3か月は、けっこう厳しいものでしたか。

厳しくなかったんです。あんまり苦労しませんでした。私は通信兵学校を卒業したので、いろんな人から優遇されました。
林口に3か月間いました。そこで部隊は解散となり、私たちは林口から南満州に移動しました。昔の奉天。

Q:南満州の奉天に行った。

はい。こちらが南だから、南満州。奉天、今の瀋陽。瀋陽に行きました。ここには南満州の防衛司令部がありました。
そこで、私は無線通信を学んでいたので、モールス通信を新兵に教えていました。

Q:南満州にはどのくらいの期間、駐留してたんですか。

そうですね。44年9月から45年8月19日まで。そこで、私は「朝鮮人だから帰ってもいい」と言われ、旅行証と帰郷証をもらって帰ってきました。

私は8月19日、司令部から出ましたが、5日ほど後、私は部隊に行ってみました。部隊は奉天空港、広い場所にありましたが、5日後訪ねてみますと部隊はもぬけの殻でした。それで、「ちょっとおかしいな」と思いました。当時、私たちは中国人の服を着ていました。そこへちょうど、私の部下だった人が来ました。ワタナベという男が現れたんです。どうしたのかと聞いてみたら、「部隊員は全部シベリアに連れて行かれた」と言いました。それで、「誰がここに残っているのか」と聞いたら、「部隊の警備をするように命令されて、自分たち15人が残っている」と答えました。この人たちは、部隊の毛布や食糧、タバコなどを日本人の家に移送していました。その理由を聞いたら、「部隊が全部シベリアに移送されたので、自分たちもここに残っていればシベリア行きになるでしょう。だから逃げなければと思って、毛布とか食糧、甘味料などを持って日本人の家に隠しているのだ」と言いました。私が「分かった」と言ったら、私は当時、内務班長を務めていましたが、そのワタナベという上等兵が「班長、タバコと毛布を差し上げるので、持って行ってください」と言って、毛布2枚とタバコ2カートン、甘味料、お菓子を数袋くれました。そのとき私は自転車でそこに行ったので、「とても持っては行けない」と断ったら、「自分たちもここにいたら危ないので、奉天市内に移るために馬車に乗ってきました」と言うので、もらった毛布2枚、タバコ2カートンと 自転車を馬車に載せて、彼らと一緒にそこを離れました。馬車の中で聞いた話ですけど、部隊員は全員シベリアに連れて行かれたということでした。また、ある将校が部隊長のところに行って、「自分はもう休みたいので、ここから抜けてもいいか」と頼んだところ、「それはダメだ」と言われ、その人も一緒にシベリアに連れて行かれたそうです。 1人が抜けたら、追従する人間がでてくるので、1人も抜けることは許されず、全員シベリアに行ったそうです。

Q:つまり、部隊にはソ連軍が入ってほとんどの兵士は連れて行って一部の人だけ残したということですか。

はい。一部だけ残しました。ソ連軍が来たかどうか、私はその場にいなかったから知りませんが、とにかく何かの指示があったので、部隊ごとシベリアに行ったと思います。

Q:そもそも部隊は朝鮮の人だけだったのか、あるいは混成だったのか。

私たちの部隊ですか。朝鮮人は私1人だったんじゃないかなと思います。その19日の夜11時に、私が部隊を離れるとき、12人ほどがトラックに乗りました。主に年配の人、45歳以上の人で、若者は私1人だったと思います。つまり、朝鮮人である私1人と軍隊に入ったばかりの年配の人が、家に帰されたんだと思います。

8月19日、部隊を離れて奉天市内に滞在することになりました。誰も知り合いがいないので、行き場もありませんでした。そのとき、知り合いの女性がそこに住んでいるのを思い出して、彼女の家を訪れました。その家の男主人も45歳で軍隊に入って男手がいなかったんです。そこに幸い、男手が現れたので、家に泊まってもいいと言われて、そこにお世話になりました。

Q:なぜ奉天に?

戻ってこられなかったんです。

8月19日に旅行証をもらって奉天駅に行ったら、その日の昼までは列車があったのですが、11時頃ソ連軍が奉天に入ってきました。8月19日です。ソ連軍が入ってきて、旅行者は一切脱出できなくなりました。列車が全くなく、奉天駅の前は避難する日本人でごった返していました。足止めされたんです。列車がないのでどこにも行けなくなって、日本人は大変苦労していました。私もその日本人に混ざっていましたが、私たちは軍服を着ていたので、ホテルに入ることができました。他の民間人はホテルに入れませんでした。しかもそのホテルも近く閉鎖されるかもしれない状況でした。ソ連軍が入っているので、ホテルの運営ができなかったのです。そのような状況の中で、日本の人々は略奪されているのに、私たちは何もしてあげることができませんでした。軍服を着たまま、ホテルで一晩中眠れずに座っていました。中には、眠った人もいたようですけど。翌日ホテルを出て、知り合いの女性の家に行きました。
そこで、2か月間ほど住んでいましたが、中国人がよく来たので、男の私は夜寝ないで見張りをし、女たちは家の中で寝たりしました。当時は、略奪されたり暴行されたりして、日本人は大変苦労しました。

私たちは街の境目に住んでいましたが、2か月後、新市街地に引越しして、そこで約1年2か月間生活しました。その後、奉天から日本人を送還するという話を聞いて、私たちも申し込みました。なぜかというと、私は福岡に両親や兄弟が住んでいましたので、日本に帰りたかったんです。私が朝鮮人だという事実を誰も知らなかったんです。それで、日本人を装って日本に帰ってきました。でも福岡の家に行ったら、両親はすでに韓国の故郷に帰った後でした。その後1年間、私は日本で過ごしました。

満州で行き場がなかったときに、私は日本人に助けられました。そのおかげで、1年間生活することができました。それがありがたくて、日本人に対して悪い感情を持っていません。その後、私は日本で働き、もらった給料から、フクシマというその女性にお礼として2回送金をしました。

Q:日本に翻弄されたという気持ちはありますか。

日本に対して、そんな悪い感情は持っていません。日本軍に入ったのは勉強するためであり、私は戦争をするために入隊したわけではありません。だから入隊したことに関しては、とても後悔しています。今はただそう思うばかりです。

被害者といえば、被害者です。当時は、国全体が戦争に力を注いでいたときだから、そこから逃げることはできず、私も同じように加わるしかなかったんです。でも、あの戦争で私は運良く生き残ったと思います。仲間は皆死んでしまったでしょう。生き残った知り合いは誰もいない。日本に行ってみましたが、生き残った人は誰もいませんでした。私がこうして生きてこられたのは、運がよかったからでしょう。私がこれまでずっと耐え続けてきた見返りなのだと思っています。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1926年
福岡県田川郡(現・田川市)に生まれる
1943年
東京陸軍少年通信兵学校入学(第10期生)
1944年
電信第54連隊に配属 奉天(現・瀋陽)で新兵教育にあたる
1945年
終戦後、1年あまり奉天で過ごす
1946年
福岡へ戻り工場に勤める
1947年
韓国へ帰国し農業、食品店経営など

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